第16話 第二層の主、現る
第二層の奥で、赤い目が増えていた。
一つ。
二つ。
三つ。
いや、もっとだ。
暗闇の中で、いくつもの赤い光が揺れている。
「……なあ」
アルトは、じりじりと後退しながら言った。
「目って、普通二つだよな?」
『普通はな』
『でもここ奈落だから』
『常識捨てろ新人』
「捨てたくねぇよ!!」
地面が震える。
ズン。
ズン。
何か巨大なものが、ゆっくり近づいてくる。
ミナはアルトの背後で杖を握りしめていた。
顔色は悪い。
けれど、逃げ出してはいない。
「ア、アルトさん……」
「下がってろ。たぶん、今度のはマジでヤバい」
「今までも全部マジでヤバかったです……!」
「それはそう!」
『ミナちゃん正論』
『新人、感覚麻痺してきてる』
「麻痺したくてしてねぇ!」
その時。
黒い闇の奥から、巨大な前脚が現れた。
獣の脚。
だが、その爪は剣のように長く、地面を軽く抉っている。
次に、頭。
狼に似ていた。
ただし、普通の狼ではない。
頭が三つあった。
中央の頭は獣。
右の頭は骨。
左の頭は、潰れた人の顔のようにも見えた。
「うわ……」
アルトは、思わず本音を漏らす。
「造形センス終わってる」
『第二層の主』
『奈落三頭獣バルゴラ』
『普通に高ランク案件』
『新人と見習い回復術師で挑む相手じゃない』
「じゃあ出すなよ!!」
巨大な文字が、視界に浮かんだ。
【第二層主】
【奈落三頭獣バルゴラ】
その下に、小さく表示が出る。
【推奨攻略人数:六名以上】
「こっちは二人だぞ!!」
『実質一・五人』
『ミナちゃんは守ろう』
『新人は半人前だしな』
「俺が〇・五扱いかよ!?」
バルゴラが唸った。
三つの頭が、それぞれ違う声で鳴く。
獣の唸り。
骨の軋み。
人の泣き声。
それが重なって、耳の奥を直接撫でてくる。
ミナが小さく震えた。
「……これ、無理です」
その声は、かすれていた。
アルトは振り返らずに言う。
「まあ、無理だな」
「えっ」
「無理だけど、逃げられないんだろ」
視界の端に、無慈悲な通知が出ている。
【特別配信中】
【逃亡行為を検知した場合、神界加護を停止します】
「このブラック仕様、前の会社思い出すからやめろ」
『前職ブラック確定』
『異世界でも労基案件』
『神界に労基はない』
「作れ!!」
だが、笑っていられたのはそこまでだった。
バルゴラが消えた。
「――っ!」
【《危機察知》発動】
背筋が凍る。
アルトはミナを抱えて横へ跳んだ。
直後。
さっきまで二人がいた場所を、巨大な爪が抉り抜いた。
地面が裂ける。
岩が弾ける。
衝撃だけで、アルトの身体が吹き飛んだ。
「ぐっ……!」
背中から地面に叩きつけられる。
肺の空気が抜けた。
「アルトさん!」
ミナが駆け寄ろうとする。
「来るな!」
アルトは叫んだ。
だが、遅い。
バルゴラの左頭が口を開いた。
人の顔をした頭。
そこから、黒い霧が吐き出される。
『呪息だ』
『浴びるな』
『精神に来る』
「情報いつも一秒遅いんだよ!!」
アルトはミナの腕を掴んで走った。
黒い霧が地面を這う。
触れた岩が、ぼろぼろと崩れていく。
ミナが息を呑む。
「私、足が……!」
見ると、ミナの足首に黒い靄が絡んでいた。
動きが鈍い。
「やば――」
バルゴラの中央頭が、こちらを向く。
次が来る。
爪。
避けられない。
「くそっ!」
アルトはミナの前に出た。
両腕を交差する。
【女神ルナ=ミリスがギフトを贈りました】
【《月光障壁》を一時付与】
銀色の壁が生まれる。
爪がぶつかった。
轟音。
障壁が砕けかける。
アルトは歯を食いしばる。
「ルナ!」
『呼んだ!?』
「助かった!」
一瞬。
コメント欄が止まる。
『え』
『今名前呼んだ』
『ルナ様死んだ?』
『尊死?』
『死んでません!!』
「そこは元気だな!」
だが、ルナの障壁でも完全には止まらない。
衝撃が身体を貫く。
アルトの足が地面を滑る。
背後のミナが杖を握りしめた。
「私も……!」
「無理するな!」
「でも!」
ミナは震えていた。
それでも、杖を前に出す。
「私、さっき……見られるのが怖くないって、少し思えたんです」
声が震えている。
それでも言葉は止まらない。
「でも、やっぱり怖いです。怖いですけど……!」
ミナは涙を浮かべながら、アルトの背中を見る。
「今、何もしない方がもっと怖いです!」
その瞬間。
コメント欄が一瞬、静まった。
『ミナちゃん』
『それは強い』
『頑張れ』
ミナの足元に、淡い光の魔法陣が広がる。
「《ライトヒール》!」
アルトの身体に、温かな光が流れ込む。
大きな回復ではない。
傷が完全に塞がるわけでもない。
だが、足に力が戻った。
「十分だ!」
アルトは地面を蹴る。
障壁が砕ける直前。
横へ滑り込むように抜けた。
バルゴラの爪が空を切る。
『うお』
『抜けた』
『ミナちゃんの支援タイミングいいな』
アルトは走りながら叫ぶ。
「ミナ、あいつの動き見えるか!?」
「み、見えません!」
「正直でよろしい!」
『連携とは』
『でも正直なのは大事』
『ミナちゃんかわいい』
バルゴラが再び迫る。
速い。
大きさに見合わない速度。
アルトは避ける。
転がる。
立ち上がる。
また避ける。
攻撃できない。
近づけない。
近づけば死ぬ。
「くそっ……!」
【現在視聴中:4,812柱】
数字が、じわじわ上がっている。
『粘ってる』
『新人、意外と耐える』
『このままじゃジリ貧だな』
その通りだった。
アルトにも分かる。
このままでは負ける。
ただ逃げているだけでは、いつか捕まる。
その時。
黒いコメントが流れた。
【良いですね】
オルフェウス。
【恐怖。献身。焦燥。希望】
【どれも観測に値します】
アルトの奥歯が鳴った。
「……またそれかよ」
【あなたは今、とても良い“物語”です】
「違う」
アルトは即答した。
バルゴラの爪を避け、岩陰へ滑り込む。
ミナが追ってくる。
息が荒い。
もう限界に近い。
けれど、その目はまだ折れていなかった。
アルトは、ちらりとコメント欄を見る。
神々が見ている。
楽しんでいる。
心配している。
期待している。
誰かが叫んでいる。
誰かが笑っている。
誰かが祈っている。
見られている。
腹が立つほどに。
けれど――
使える。
アルトは、ふっと息を吐いた。
「……なあ、神様ども」
コメント欄の流れが少し鈍る。
『ん?』
『新人?』
『どうした』
アルトは顔を上げた。
バルゴラが、こちらへゆっくり近づいてくる。
三つの頭が、餌を見るようにこちらを見ている。
アルトは笑った。
怖い。
怖くてたまらない。
でも、笑った。
「見てんだろ」
コメント欄が止まる。
「だったら最後まで見てろ」
ミナが息を呑む。
アルトは続けた。
「俺は今から、あの化け物を殴る」
『うお』
『言った』
『無茶だろ』
『でも見たい』
アルトはコメント欄を睨む。
「見たいなら、投げろ」
一瞬。
完全な静寂。
次の瞬間。
コメント欄が爆発した。
『!?』
『要求した!?』
『新人、投げ銭要求!?』
『ついに仕組みを使い始めたぞ!!』
アルトは叫ぶ。
「ただ見て笑ってんじゃねぇ!」
拳を握る。
「面白いもんが見たいなら、こっちにも賭けろ!!」
その瞬間。
【戦神グラムが大笑いしています】
【戦神グラムが投げ銭しました】
【50,000神貨】
『グラム様ァァァ!!』
『脳筋神きた!!』
『これは熱い!!』
アルトの右腕が、燃えるように熱くなる。
【《鬼握力》が進化条件を満たしました】
【《剛腕》を一時獲得】
腕が重い。
だが、力が満ちる。
今なら。
一発だけなら。
届く。
さらに。
【女神ルナ=ミリスがギフトを贈りました】
【《月光加速》を一時付与】
足元に銀色の光が宿る。
コメント欄が騒然となる。
『ルナ様も!?』
『大型支援きた』
『新人に賭けたぞ!!』
ルナのコメントが流れる。
『……生きて』
短い。
でも、それだけで十分だった。
アルトは口元を歪める。
「ミナ!」
「は、はい!」
「俺が突っ込む。タイミング合わせて、足を軽くしてくれ」
「そ、そんなことできるか……」
ミナは言いかけて、止まった。
そして、杖を握り直す。
「やります」
その声は震えていた。
でも、逃げてはいなかった。
「今度は、私が支えます」
アルトは笑う。
「頼んだ」
バルゴラが咆哮する。
三つの頭が、一斉にこちらへ向く。
アルトは低く構えた。
心臓がうるさい。
足が震える。
怖い。
死にたくない。
帰りたい。
でも。
今は一人じゃない。
「行くぞ」
アルトが地面を蹴った。
銀色の光が弾ける。
ミナの魔法陣が広がる。
「《フェザー・ステップ》!」
身体が軽くなる。
アルトは、矢のように前へ飛んだ。
『速い!!』
『新人、突っ込んだ!!』
『いけええええ!!』
バルゴラの爪が振り下ろされる。
【《危機察知》発動】
見える。
いや、見えてはいない。
けれど分かる。
どこに死があるのか。
アルトは身体を捻った。
爪が頬を掠める。
血が飛ぶ。
でも止まらない。
中央の頭。
そこへ向けて、アルトは拳を握る。
グラムの剛腕。
ルナの加速。
ミナの支援。
全部乗せた一撃。
「うおおおおおおおおっ!!」
拳が、バルゴラの中央頭に叩き込まれた。
轟音。
空気が爆ぜた。
巨体が、大きく仰け反る。
『入ったぁぁぁ!!』
『中央頭砕けた!?』
『これ、神回だろ……』
だが。
次の瞬間。
右の骨頭が、アルトへ食らいついた。
「――っ!?」
避けられない。
牙が迫る。
ミナが叫ぶ。
「アルトさん!!」
その時。
左の人面頭が、笑った。
泣きながら、笑った。
アルトの背筋に、冷たいものが走る。
【奈落三頭獣バルゴラ】
【深層核、覚醒】
「……は?」
『あ』
『やばい』
『主が本気になるぞ』
『ここからが第二層の本性だ』
バルゴラの中央頭が崩れ落ちる。
だが、その奥から。
もう一つの赤い目が開いた。
大きい。
あまりにも大きい。
第二層の主は、まだ死んでいなかった。
むしろ。
今、目覚めた。
黒いコメントが、静かに流れる。
【素晴らしい】
【ようやく、始まりましたね】
アルトは血の滲む拳を下ろしながら、引きつった笑みを浮かべた。
「……帰ったら、絶対クレーム入れる」
第二層の主が、咆哮した。




