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第143話 物語にしないでくれ

 救急外来にある十二台の監視カメラが、同時にアルトを向いた。


 赤い作動灯が点く。


 一台ずつではない。


 診察区画の天井。


 処置室の入口。


 自動扉の上。


 廊下の突き当たり。


 どのレンズも人間の操作を待たずに回転し、黒い甲冑が消えた場所と、白い霜をまとって運び込まれた帰還者たちを画角へ収めていく。


「監視室で動かしているのか?」


 年長の警察官が無線機へ手を伸ばした。


「違う」


 アルトは自分の視界を押さえた。


 消えたはずのものが、視界の右端に戻っている。


 小さな赤い点。


 その周囲へ、細い文字が一行ずつ浮かび始めた。


【日本側で複数の観測を確認】


【帰還者の同時出現を確認】


【神界配信を再開します】


「再開するな」


 アルトは表示を掴んだ。


 指先へ触れた感覚がある。


 帰還した直後には消えていた視界UIが、病院の監視設備と、現場に集まった人間の視線を足場にして復活しようとしている。


【現在の観測対象:十三名】


【来店受付経由:一名】


【帰還条件更新に伴う自動解放:十二名】


【関係保持用仮留めとして、貸与形式を複製】


 全国で確認された十三件のうち、赤猫亭で実際に話を聞いてもらったのは拓海だけだった。


 残る十二人は、帰還条件が書き換えられたことで、途中まで進んでいた処理が一斉に解放された者たちだったらしい。


 胸元や手首にある赤紐は、赤猫亭から直接貸された物ではない。


 拓海の安全な帰還を前例として、処理が一時的な関係保持の印を複製したものだった。


「勝手に店の印を使うな」


【帰還者の損傷率を低下させるためです】


「だったら、見世物に戻すな」


 視界UIが激しく揺れる。


 アルトの意思とは無関係に表示が広がり、監視カメラ、看護師の業務用携帯、警察官の装着カメラ、待合室に残された患者のスマートフォンへ同じ映像が映り始めた。


 白い霜。


 赤紐。


 十五年ぶりに母親と再会した七歳の子ども。


 錆びたスプーンを握る女。


 そのすべてに、金色の枠がつく。


【注目対象を抽出】


【第一候補:十五年ぶりの母子再会】


【第二候補:身元不明の女性】


【第三候補:帰還済み配信者アルト】


 母親に抱かれていた拓海の身体が硬くなった。


「拓海?」


 母親が顔を覗き込む。


 子どもの周囲に、四角い金色の線が浮かんでいる。


 撮影画面の枠に似ていた。


 だが平面ではない。細い棒のような線が前後左右から伸び、拓海と母親を一つの箱へ閉じ込めようとしている。


【再会場面を固定します】


【感情変化を記録】


 母親の腕が動かなくなる。


 拓海の顔は胸元へ押しつけられたまま、呼吸だけが浅く続いている。


「この子を放して!」


 母親が身体を捻る。


 金色の枠は二人の姿勢を変えさせない。


 再会の瞬間を、神々が見続けられる形で止めようとしていた。


「カメラを隠せ!」


 アルトが叫んだ。


「撮影を止めてください! 医療機器はそのまま、レンズだけです!」


 看護師が動く。


 裂けたカーテンを引きちぎり、拓海の上へ広げる。若い警察官は上着を脱ぎ、最も近い監視カメラへ被せた。


 映像が一つ消える。


 拓海を囲んでいた枠の右側が薄くなった。


「本当に効いてるぞ!」


「全部隠してください!」


 妹が待合室の椅子に置かれていたスマートフォンを拾った。


 画面には、拓海と母親の姿が映っている。撮影機能を起動した覚えのない端末まで、勝手に配信へ接続されていた。


「電源を切ればいいの?」


「切れる物は切れ! 無理なら伏せろ!」


 妹は画面を下にして椅子へ置く。


 それでも映像は消えない。


 椅子の金属面へ画面の光が反射し、その中に拓海の姿が残っていた。


「反射も使ってる!」


 妹は自分の上着を椅子ごと被せた。


 映像が暗くなる。


 拓海を囲む枠の一辺が消えた。


「金属のトレーを裏返して!」


 アルトの声で、看護師たちが処置台の上にある器具を伏せる。


 自動扉のガラスには毛布。


 医療機器の光沢部分にはタオル。


 警察官の装着カメラは電源を切り、外した機器を金属製の保管箱へ入れる。


 観測できる面が減るたび、金色の枠が細くなっていく。


 だが、完全には消えなかった。


【観測数:九十七】


「病院の外からも見られています!」


 若い警察官が無線を確認する。


「消防の車載カメラ、病院の防犯設備、報道の中継車――情報が漏れたらしく、正面玄関に人が集まり始めています!」


「まだ発表していないぞ!」


「搬送された十三件の一部が、現場から投稿されたようです!」


 救急外来の自動扉の向こうで、光が瞬いた。


 カメラのフラッシュ。


 スマートフォン。


 戻ってきた行方不明者を撮ろうと、人の姿が玄関の外へ増え始めている。


【観測数:百十二】


【神貨投与を受付】


 アルトの視界の上を、見覚えのある数字が流れた。


 一千。


 三千。


 一万。


 金色の文字が積み重なる。


【母子再会への投与額が上昇】


【反応を継続してください】


「反応?」


 拓海の母親の頬を、金色の針が掠めた。


 血は出ない。


 代わりに、流れていた涙が止まらなくなる。母親の意思とは関係なく、目から次々と涙が押し出されていく。


「やめて……」


【感情量が不足しています】


 金色の枠が母親の背中を押す。


 拓海をさらに強く抱きしめさせる。


 子どもの呼吸が詰まった。


「お母……さん」


「拓海!」


「そこから出します!」


 アルトは処置室に置かれていた移動式の遮蔽板を掴んだ。


 放射線検査の際に使用する、重い板だった。車輪の固定を外し、拓海と監視カメラの間へ押し込む。


 重い。


 一人では速度が出ない。


 妹が反対側へ回った。


「こっちを押す!」


「足元を見ろ! 右へ曲げる!」


「分かった!」


 二人で遮蔽板を進める。


 金色の枠から細い刃が伸び、板の上端へ突き刺さった。刃が固定され、遮蔽板の車輪が動かなくなる。


「警棒を貸してください!」


 年長の警察官がアルトへ投げる。


 アルトは受け取り、金色の刃と板の接続部へ振り下ろした。


 一度。


 金属音。


 二度目で刃に亀裂が入る。


 しかし、折れない。


「数字を消せ!」


 アルトは刃へ刻まれた文字に気づいた。


【第一候補】


 文字が固定力になっている。


「布を濡らして!」


 看護師が消毒用の水を含ませたガーゼを投げる。


 アルトは刃の文字へ押し当てた。


 擦る。


 一の文字が滲む。


 金色の刃が暴れ、アルトの肩を壁へ叩きつけた。


「お兄ちゃん!」


「板を離すな!」


 妹が遮蔽板を押さえる。


 若い警察官も加わり、二人で拓海の前へ少しずつ進めていく。


 アルトは文字をもう一度擦った。


【第一候補】


 下半分が消える。


 刃の力が弱まる。


 警棒を亀裂へ入れ、身体ごと捻った。


 金色の刃が折れた。


「押せ!」


 遮蔽板が拓海と外部のレンズの間へ入る。


 母子の姿が、病院内のカメラから消えた。


 金色の枠が崩れる。


 母親の身体が自由になり、拓海を抱えたままベッドへ倒れ込んだ。


「息を!」


 看護師が駆け寄る。


 母親の腕を緩め、拓海の気道を確保する。酸素マスクが当てられ、胸が小さく上下した。


「呼吸があります!」


 アルトは遮蔽板へ手をついたまま、息を吐いた。


 その背後で、錆びたスプーンが鳴った。


 かん。


 ストレッチャーに横たわっていた女の周囲にも、別の金色の枠が現れている。


【第二候補へ移行】


【悲劇性を評価】


 女の胸元にある赤紐が、金色の鉤で持ち上げられた。


 仮留めに使われた赤紐を切り、彼女が誰との関係を保持して戻ったのかを、観測しやすい形へ並べ替えようとしている。


「次を撮り始めた!」


 妹が言った。


「全員を映らない場所へ運ぶ!」


 アルトは周囲を見る。


 救急外来には個室が足りない。


 監視カメラのない場所。


 鏡やガラスが少なく、外からの撮影も届かない場所。


「地下の画像保管室は?」


 アルトが尋ねた。


「現在は倉庫です」


 看護師が答える。


「監視カメラは」


「入口に一台だけです!」


「そこまで道を作ります!」


 年長の警察官が無線へ指示を飛ばす。


「地下までの廊下を封鎖! 撮影機器をすべて下げろ! 病院正面の報道と見物人を敷地外へ!」


「帰還者はどう運びますか!」


「一人ずつだ!」


 警察官はアルトを見た。


「それでいいな」


「はい」


 看護師たちがストレッチャーを動かす。


 最初は拓海。


 母親が隣を歩く。


 次に、錆びたスプーンを握っていた女。


 その後ろに、搬送されたばかりの二人。


 白い霜。


 赤紐。


 見覚えのない服装。


 異なる時代から戻ってきた者たちが、病院の廊下へ並ぶ。


 アルトたちは移動式の遮蔽板とカーテンを組み合わせ、撮影されない通路を作った。


 警察官が前後を守る。


 看護師が患者の状態を確認する。


 妹は回収したスマートフォンを金属箱へ入れ、母は拓海の母親へ水を渡した。


 特別な武器はない。


 点滴台。


 カーテン。


 毛布。


 遮蔽板。


 病院にある物を使い、人間を視線から隠しながら地下へ運ぶ。


 廊下の曲がり角に、最後の監視カメラが残っていた。


 黒い半球型のレンズ。


 こちらを向く。


【第三候補を抽出】


 金色の線が、アルト自身を囲んだ。


【帰還済み配信者】


【神界投与額:計測不能】


【家族との再会場面:未配信】


「俺を使う気か」


 レンズの周囲から金色の腕が伸びる。


 一つはアルトの顎。


 一つは肩。


 残る二つは母と妹へ向かう。


 家族を同じ画面へ並べ、再会の場面を撮り直そうとしている。


 アルトは警棒で一本目を払った。


 二本目が肩へ巻きつく。


 身体が監視カメラの正面へ引かれる。


「先に行って!」


 妹が言った。


「一緒に下がれ!」


「帰ってきたばかりの人が、一人で残らないで!」


 妹は金属箱を床へ置き、母の腕を引く。


 二人とも逃げない。


 アルトの背後へ入る。


 その瞬間、視界UIが大きく開いた。


【主配信者を確認】


【神界配信を完全再開します】


【配信題名を設定してください】


 コメントが流れる。


 帰還した英雄。


 三年ぶりの再会。


 行方不明者の奇跡。


 十三人の物語。


 母親の涙。


 妹の反応。


 次に誰が泣くか。


 神貨の数字が上がっていく。


 アルトは表示を掴んだ。


 壁へ叩きつけるように、視界UIを病院の白い壁へ落とす。


 共有表示が開いた。


 警察官も。


 看護師も。


 母も妹も。


 戻ってきた者たちも、流れていく神々の言葉を目にした。


「こいつらが」


 アルトは言った。


「俺たちを見ていた神様です」


 年長の警察官が共有表示を見る。


「これが配信なのか」


「はい」


「止められるのか」


 表示の中央に選択肢が現れる。


【神界配信を継続】


【最終配信へ移行】


「最終?」


【配信者による終了宣言が必要です】


「言えば終わるのか」


【配信者アルトの物語を完結として登録します】


「完結するのは、配信だけだ」


【意味を識別できません】


「なら、そのまま記録しろ」


 金色の腕が母へ伸びる。


 妹が遮蔽板の裏から点滴台を押し出し、腕の軌道へ差し込んだ。


「早く止めて!」


 アルトは共有表示へ触れた。


【最終配信を開始します】


 病院内のすべての画面に、アルトの姿が映った。


 正面玄関に集まったスマートフォン。


 中継車のカメラ。


 神界の観測。


 どこから見ても、アルトだけが中央にいる。


 神貨が降り始めた。


 金色の粒が天井から落ち、床へ触れる前に数字へ変わる。


 一万。


 五万。


 十万。


 神々は最後の言葉へ値段をつけている。


 アルトは監視カメラを見上げた。


 神々の顔は見えない。


 だが、赤猫亭の戸口で規則を守って見ていた十一柱も、その外側にいる無数の神々も、同じ向こう側にいる。


「俺が帰ったところまで見ただろ」


 コメントが止まる。


「泣いたところも、戦ったところも、飯を食ったところも見た」


【最終発言を継続してください】


「帰ってきた人間には、この先の生活がある」


 拓海。


 十五年後の母親。


 錆びたスプーンを握る女。


 白い霜をまとった者たち。


「誰と暮らすか。どこに座るか。何を話すか。話さないか。本人たちが決めることだ」


 神貨の数字がさらに上がる。


「そこまで、お前たちの見世物にするな」


【配信終了条件を満たしていません】


「最後の言葉が必要なんだろ」


【はい】


 アルトは息を吸った。


 母と妹が後ろにいる。


 赤猫亭は見えない。


 声も届かない。


 それでも、ルナが最後に向けた「いってらっしゃい」を覚えている。


 あれは物語の続きを要求する言葉ではなかった。


 見ていない場所でも生きろという、送り出す声だった。


 アルトは監視カメラへ向けて言った。


「神様、頼むから俺を物語にしないでくれ」


 共有表示に亀裂が走った。


 神貨の数字が止まる。


 金色の粒が空中で砕け、光を失った。


【配信者による終了宣言を確認】


【神界配信を終了します】


【以後の観測には、当事者の許可が必要です】


【配信終了】


 壁の共有表示が消えた。


 視界UIも。


 監視カメラから伸びていた金色の腕も、音を立てずに崩れる。拓海の母親に残っていた涙の強制も止まり、錆びたスプーンを持つ女の赤紐から鉤が外れた。


 スマートフォンの画面が暗くなる。


 病院の監視設備は、本来の廊下だけを映し始めた。


 外に集まっていた人々の端末からも、帰還者の映像が消えていく。


 救急外来へ、機械の音が戻った。


 空調。


 車輪。


 呼吸。


 紙へ書き込む音。


 神々へ見せるためではない、人間が人間を助けるための音だった。


「終わったの?」


 妹が尋ねた。


「配信は」


「神様はもう見ない?」


「許可なくは見られない」


「本当に?」


「少なくとも、表示はそう言ってた」


「信用できる?」


「できない」


 アルトは曲がった点滴台を起こした。


「だから、こっちでも決まりを作る」


 年長の警察官が頷く。


「撮影は禁止。情報公開は本人と家族の同意を得てから。医療と身元確認を優先する」


「取材は?」


 若い警察官が尋ねる。


「今は入れない」


「いつまでですか」


「帰ってきた人が、自分で話すか決めるまでだ」


 年長の警察官は無線機を取った。


「正面玄関へ。施設内の撮影を全面禁止。映像の削除を要請しろ。報道対応は本部に一本化する」


 妹は紙と太いペンを借りた。


 大きく書く。


 ――撮影禁止。


 その下に迷い、もう一行加えた。


 ――まず、本人の話を聞いてください。


 紙を地下へ続く廊下の入口へ貼る。


「字、曲がってるぞ」


 アルトが言った。


「急いで書いたから」


「二行目が長い」


「意味が分かればいいの」


「それもそうだな」


 遮蔽板の向こうから、拓海がアルトを呼んだ。


「お兄ちゃん」


「どうした」


「神様、いなくなった?」


「見えなくなっただけかもしれない」


「また見られる?」


「嫌なら、嫌だと言っていい」


「言ったら止まる?」


 アルトは拓海の手首にある赤紐を見る。


「止まらなかったら、隠す」


「カーテンで?」


「それでも駄目なら、点滴台を使う」


 拓海が少し笑った。


 母親も、今度は自分の意思で涙を拭う。


 地下の画像保管室へ、最初の帰還者が運ばれていく。


 一人目。


 拓海と母親。


 二人目。


 錆びたスプーンを持つ女。


 残る者も、順位ではなく、身体の状態と本人の希望を確認しながら移動する。


 アルトは若い警察官へ尋ねた。


「十三人のうち、ここへ来るのは何人ですか」


「現時点では四人です。ほかは各地の病院で保護されています」


「残りの待機者は」


「二百二十四人、だったな」


 十三人が戻った。


 二百三十七人から十三人を引けば、残るのは二百二十四人。


「自動で全員戻ってくる可能性は?」


 警察官が尋ねる。


「分かりません。ただ、さっきの表示では十二人の自動解放が確認されました」


「赤猫亭の受付とは別か」


「はい。店が一度に十三人を送り出したわけじゃない」


「なら、次がいつ来るかも分からない」


「だから準備します」


「何を」


 アルトは地下の部屋へ運び込まれた椅子を見る。


 折り畳み式。


 病院の備品。


 赤猫亭の椅子とは似てもいない。


 それでも、帰ってきた人間が最初に座る場所にはなる。


「椅子と水」


 アルトが答えた。


「本人の名前を書ける紙。それから、話を聞く人」


「武器は」


「必要になるかもしれない」


「警棒で足りると思うか」


「点滴台よりは使いやすい」


 年長の警察官が、曲がった支柱を見る。


「弁償は誰がする」


「俺ですか」


「君が使った」


「病院を守った」


「病院側と相談だな」


「帰って六時間で借金か」


「働けるのか」


 アルトは黙った。


 身分。


 戸籍。


 三年間の失踪。


 仕事。


 家族への説明。


 片づけることは山ほどある。


 異世界で戦うより、簡単だとは思えなかった。


 けれど、順位はない。


 神貨も。


 神々が続きを待っている表示もない。


 一つずつ決めればいい。


 地下の部屋から、錆びたスプーンを持つ女の声がした。


「赤猫亭の人」


「違うと言っただろ」


「じゃあ、何の人?」


 アルトは部屋へ入る。


 女の前へ椅子を置き、自分も向かいに座った。


 立ったまま質問しない。


 レオンが赤猫亭で守ると言った方法を、日本側でも使う。


「俺も、戻ってきた人です」


「いつ?」


「今日」


「先輩?」


「六時間だけ」


 女は錆びたスプーンを握ったまま、少し考えた。


「頼りない」


「自覚はある」


「帰るところ、ある?」


「ありました」


「私には、分からない」


「なら、最初から聞きます」


 アルトは紙を一枚、自分たちの間へ置いた。


 氏名。


 年齢。


 帰還した場所。


 空欄ばかり。


 急いで埋める必要はない。


「名前を覚えていますか」


 女はすぐに答えなかった。


 スプーンの錆びた柄を、親指でゆっくり撫でている。


「呼ばれていた名前なら」


「それを教えてください」


「物語にする?」


「しません」


「本当に?」


「話したくないことは書かない」


 女はアルトを見る。


 監視カメラには布が掛けられている。


 スマートフォンも。


 神界配信もない。


 ここにいるのは、向かい合って座る二人だけだった。


 女が小さく息を吸う。


「サナ」


 アルトは紙へ書いた。


 大きすぎず。


 小さすぎない文字で。


 ――サナ。


「次は?」


 サナが尋ねた。


「水を飲めますか」


「質問じゃないの?」


「先に飲んでください」


 看護師が置いた紙コップを渡す。


 サナは両手で受け取った。


 水を一口飲む。


 誰にも見せない。


 投げ銭も。


 順位もつかない。


 ただ、水を飲んだ。


 アルトはその間、何も書かなかった。


 日本側の受付は、配信が終わってから、ようやく始まった。

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