最終話 ただいまの国
アルトが家へ戻れたのは、日が暮れてからだった。
帰還した日の夜ではない。
病院で一晩を過ごし、警察から同じ質問を何度も受け、医師に血を抜かれ、知らない感染症まで疑われ、母と妹が何枚もの書類へ名前を書いたあとの夕方だった。
玄関の鍵が開く。
妹が先に入り、廊下の明かりを点けた。
「靴、そこで脱いで」
「分かってる」
「本当に?」
「この家で育ったんだぞ」
「三年も異世界にいた人に言われても」
「三年は、こっちの時間だ」
「何年でもいいから、土は落として」
アルトは自分の靴を見下ろした。
病院で簡単に拭かれている。それでも縫い目や靴底には赤猫亭の土が残り、黒い甲冑が崩れたあとの灰も少しこびりついていた。
この家の玄関には、ひどく場違いな靴だった。
「捨てる?」
妹が尋ねる。
「置いておいてくれ」
「また履くの?」
「分からない」
「じゃあ、箱に入れる」
「勝手に捨てるなよ」
「捨てないって言ってるでしょ」
妹は用意していた段ボール箱を玄関へ置いた。
アルトは靴を脱ぎ、その中へ入れる。
蓋は閉じなかった。
母が廊下の奥から顔を出した。
「いつまで玄関にいるの?」
「今入る」
「その前に手を洗いなさい」
「病院で洗った」
「外から帰ってきたでしょう」
アルトは答えかけ、口を閉じた。
外から帰ってきた。
母はそれを、特別な出来事として言わなかった。異世界からでも、病院からでもなく、ただ外から帰った人間として扱っている。
「洗ってくる」
「石けんも使ってね」
「分かってる」
「指の間も」
「子どもじゃない」
「三年前から変わってないなら、言う必要があるの」
洗面所へ向かう。
妹も後ろからついてきた。
「見張るのか」
「赤い紐、濡らして大丈夫?」
アルトの右手首には、ミアから借りた赤紐が残っていた。
一度だけ声を運んだあとは、温かくなることも、震えることもない。ただの短い紐へ戻っている。
「分からない」
「外したら?」
「返すまで借りてる」
「どうやって返すの?」
「これから考える」
「まだ考えてない顔」
「帰って二日目だぞ」
「異世界では、もっと早く決めてたんでしょ」
「決めないと死ぬからな」
「今は?」
「今日は手を洗えば死なない」
「なら、ちゃんと洗って」
アルトは赤紐が濡れないよう手首の上まで袖を捲り、水道を開いた。
透明な水が流れる。
桶から汲む必要もない。
濁りを確かめる必要も、薪を使って温める必要もない。蛇口を捻るだけで、望んだ温度の水が途切れず出てくる。
知っていたはずなのに、指先へ触れた瞬間、手が止まった。
「どうしたの?」
「水が出た」
「出るよ」
「すぐに」
「水道だから」
妹は当たり前のように答えた。
アルトは石けんを手に取る。
掌。
手の甲。
指の間。
爪の中。
赤猫亭へ辿り着いた者には、名前を聞く前に水を渡した。
どこから来たのか。
何があったのか。
誰のところへ帰りたいのか。
それを尋ねるより先に、座らせ、飲ませ、手を温めた。
人間が話せる状態へ戻るまで、急かさないために。
アルトは泡のついた手を見つめた。
「まだ洗うの?」
「もう終わる」
「さっきから同じところを洗ってる」
「確認してる」
「何を?」
「手があるか」
妹は笑わなかった。
三年前にはなかった傷。
武器を握り続けて硬くなった皮膚。
病院で巻かれた保護材。
それらを一つずつ見る。
「あるよ」
妹が言った。
「右も左も」
「ああ」
「ちゃんと拭いて」
タオルを渡される。
アルトは手を拭いた。
赤紐は濡れていない。
洗面所を出ると、母が廊下で待っていた。
「座れる?」
「問題ない」
「立ったまま食べないでね」
「そんな食べ方してたか?」
「仕事へ行く前、台所でパンを食べてた」
「時間がなかったんだろ」
「帰ってきてからも」
「覚えてない」
「こっちは覚えてるの」
居間へ入る。
食卓には四脚の椅子が置かれていた。
以前と同じ並びではない。
棚を避けるため、アルトの椅子は母の隣、妹の正面へ移されている。
帰還した日の夜と同じ位置だった。
アルトは背もたれへ手を置いた。
「座っていいのか」
妹が眉を寄せる。
「そのために出してるんだけど」
「確認しただけだ」
「毎回聞くの?」
「しばらくは」
「そのうち勝手に座って」
アルトは椅子を引いた。
床を擦る音がする。
赤猫亭の椅子より軽く、脚についた傷も少ない。
腰を下ろす。
母が透明なコップを置いた。
「水」
「先に?」
「喉が渇いたって言ってたでしょう」
「言ったか?」
「病院を出る時に」
「覚えてない」
「だから置いたの」
アルトはコップを持つ。
一口飲んだ。
冷たい水が喉を通り、胃へ落ちる。
何も起こらない。
照合も。
帰還条件も。
数字も表示されない。
「大丈夫?」
母が尋ねる。
「ああ」
「水を飲んだだけで、そんな顔しないで」
「どんな顔だ」
「泣く直前みたいな顔」
「寝てないからだ」
「なら今日は寝なさい」
「話を聞くんじゃなかったのか」
「途中で寝てもいいから」
「母さんが?」
「あなたが」
妹が食卓へスマートフォンを置いた。
画面には大量の通知が並んでいた。
ニュース。
警察からの連絡。
昔の知人。
知らない番号。
帰還者の噂を見た者からのメッセージまで来ている。
「これ、どうする?」
「今は見ない」
「電源を切る?」
「頼む」
妹はアルトの端末を操作し、画面を伏せた。
続けて自分のものも、母のものも食卓から離れた棚へ置く。
「私のも?」
母が言う。
「今から話すんでしょ」
「写真は撮らないのか」
アルトが尋ねた。
「撮ってほしい?」
「いや」
「じゃあ撮らない」
「帰ってきた記念とか」
「明日でも撮れる」
妹は椅子へ座る。
「今日しか撮れない顔じゃないでしょ」
今日だけの出来事として残さない。
明日も、その先もここにいる人間として扱う。
神界配信が終わった理由を、妹はすべて知っているわけではない。
それでも、アルトが最後に選んだことと同じものを、当たり前のように守っていた。
母が台所から鍋を運んでくる。
蓋を開けた。
湯気が立つ。
醤油と出汁の匂い。その中に、小さく切られた芋がいくつも沈んでいた。
「作ったのか」
「土産だって言ったでしょう」
「一個しかなかったはずだ」
「ほかの芋も足したの」
「種類が違う」
「一緒に煮れば同じよ」
「塩だけで煮るって言ったのに」
「それでは薄いでしょう」
妹が笑う。
「マルタさんに怒られるんじゃない?」
「誰に聞いた」
「病院で、茶碗に向かって話してた」
「そこまで聞こえてたのか」
「全部じゃないけど」
母が鍋から芋をよそう。
白い小鉢へ汁と一緒に入れる。
どれが赤猫亭から持ち帰った一個なのか、もう見分けはつかなかった。こちらの芋も、向こうの芋も、同じ色になり、同じ湯気を立てている。
「分けなくてよかったのか」
「何を?」
「向こうの芋と、こっちの芋」
「もう一緒に煮たから無理」
小鉢がアルトの前へ置かれる。
こと。
赤猫亭の金継ぎの皿とは違う音。
赤紐も震えない。
「食べて」
母が言う。
「熱いぞ」
「冷めるまで待ってもいい」
「どっちなんだ」
「好きにして」
アルトは箸で芋を割った。
息を吹きかけ、口へ運ぶ。
醤油。
出汁。
少し甘い。
赤猫亭では使わなかった味が混ざっていた。
「濃い」
母の眉が動く。
「文句?」
「違う」
「薄い方がよかった?」
「これがいい」
「急に雑ね」
「うまい」
母は何も言わず、自分の椅子へ座った。
妹も芋を食べる。
「普通の煮物だね」
「普通でいいの」
「お兄ちゃんは?」
アルトはもう一口食べた。
「普通が久しぶりだ」
三人で食べる。
母と妹は、すぐには何も尋ねなかった。
異世界のこと。
神々のこと。
ダンジョン。
赤猫亭。
ルナやレオンたち。
聞きたいことは、いくらでもあるはずだった。
それでも、最初の小鉢を食べ終えるまで、二人は黙っている。
箸が器へ触れる音。
水を飲む音。
椅子が僅かに軋む音。
台所の換気扇。
外を走る車。
隣の家で扉が閉まる。
アルトはそれらを一つずつ聞いた。
神々へ聞かせるためではない。
配信の音量を確かめるためでもない。
この家が今、どんな音で生きているのかを知るためだった。
母が箸を置く。
こと。
妹がコップを置く。
こつ。
「いるよ」
妹が言った。
「何が?」
「さっきから探してるんでしょ。人がいる音」
アルトは妹を見る。
母も湯飲みを持ったまま、こちらを見ていた。
「ここにいるわよ」
母が言う。
「二人とも?」
「見れば分かるでしょ」
妹が答える。
アルトは小鉢に残っていた最後の芋を食べた。
「分かった」
「一度で足りる?」
「足りる」
「本当に?」
「ああ」
母が空いた小鉢を重ねようとする。
アルトは先に手を伸ばした。
「洗う」
「明日でいいわよ」
「今やる」
「疲れてるでしょう」
「帰ってきた人間も皿くらい洗う」
「病院から戻ったばかりなのに」
「マルタなら、右手が動くなら洗えと言う」
「その人、店主なんでしょう?」
「そうだ」
「怖い人?」
「普通の店主だ」
妹が尋ねる。
「お母さんとどっちが怖い?」
アルトは小鉢を持って立ち上がった。
「洗い物をする」
「逃げた」
台所へ運ぶ。
水道を出し、洗剤をつけたスポンジで器を洗う。
赤猫亭より簡単に汚れが落ちる。
母が隣で鍋を片づけ、妹が食卓を拭く。
誰もアルトを客として扱わない。
英雄としても。
帰還者としてさえ扱わない。
家にいる人間の一人として、洗い物を任せる。
小鉢をすすぎ、水を切る。
食器かごへ置く。
こと。
その音に重なって、遠い記憶が蘇った。
赤猫亭の戸口。
白い髪。
ルナが最後に見せた、泣きそうなのに泣かなかった顔。
『いってらっしゃい』
戻ってこいとは言わなかった。
忘れるなとも。
向こうから見続けるとも言わなかった。
見えない場所へ送り出し、それでも生きていると信じるための言葉だった。
アルトは流水の中で手を止めた。
「どうしたの?」
母が尋ねる。
「思い出しただけだ」
「誰を?」
「向こうで、送り出してくれた人」
「大事な人?」
アルトはすぐには答えなかった。
ルナ。
マルタ。
ブルーノ。
レオン。
ミア。
ガルド。
ガルム。
赤猫亭に椅子を置き、アルトが帰れるようにした者たち。
「大事な人たちだ」
「また会いたい?」
妹の問いに、アルトは蛇口を止めた。
「会いたい」
初めて、迷わずに答えた。
「じゃあ、会える方法を探す?」
「探す」
「一人で?」
「相談してから」
妹は少し考え、頷いた。
「それならいい」
約束ではない。
必ず会える保証もない。
それでも、会いたいと口にしていい。
届かない声を、届かなかったことにしなくていい。
母が台所の明かりを少し落とした。
「今日はもう寝なさい」
「話は?」
「明日もいるんでしょう」
「ああ」
「なら、明日でいい」
その言葉が、アルトの胸へ静かに落ちた。
明日もいる。
だから、今夜すべてを話す必要はない。
失った三年を一晩で埋めなくていい。
帰ってきた人間と、待っていた人間は、これから同じ時間を過ごしていけばいい。
アルトは右手首の赤紐へ触れた。
結び目を解く。
「外していいの?」
妹が尋ねる。
「濡らしたくない」
「返すんじゃなかったの?」
「返すまで、ここで預かる」
居間の棚へ向かう。
家族の写真。
旅行先で買った小さな置物。
使わなくなった鍵。
三年間動かなかった腕時計。
その隣へ、赤紐を置く。
丸めない。
結び目も崩さない。
ミアが結んだ形のまま、棚板の上へ静かに横たえる。
音は鳴らない。
光も浮かばない。
声も届かない。
ただ、借りた物が家の中へ置かれた。
「なくさないでね」
妹が言った。
「俺に言うのか」
「お兄ちゃんの部屋、昔から汚かったし」
「三年前の話だ」
「三年くらいじゃ変わらないでしょ」
「異世界で毎日片づけてた」
「本当に?」
「店で寝るなら、片づけないとマルタに追い出される」
「やっぱり怖い人じゃない」
「普通だ」
母が台所の明かりを消した。
「ほら。寝る準備をして」
「はい」
「返事だけは素直ね」
アルトは棚から離れる。
赤紐はそのまま残る。
向こうの声が聞こえなくても、赤猫亭で過ごした時間は消えない。
会えなくても、大切だったことまで終わるわけではない。
廊下から妹の声がした。
「電気消すよ!」
「待て。今行く」
アルトは居間を出る。
明かりが消えた。
暗闇の中でも、食卓には四脚の椅子がある。
明日の朝になれば、また誰かが座る。
水を飲み。
食事をし。
続きを急かされることなく、その日の話をする。
その夜、アルトは自分の部屋で眠った。
誰にも見られず。
誰にも値段をつけられず。
遠い場所に残した人たちを忘れずに。
帰ってきた人間として。
そして翌朝。
台所から包丁の音が聞こえた。
廊下を妹が歩く。
母が鍋の蓋を開ける。
アルトは目を覚ました。
帰還処理の表示はない。
神々のコメントもない。
ただ、家族の朝が始まっている。
アルトは部屋の扉を開けた。
「おはよう」
台所から母の声が返る。
「おはよう。ご飯できてるわよ」
妹が食卓から顔を出した。
「遅い」
「まだ七時だろ」
「帰ってきた人は、もっと早く起きるものじゃないの?」
「どこの決まりだ」
「私の」
「却下する」
「神様みたいに勝手」
「一緒にするな」
アルトは居間へ入った。
四つ目の椅子を引く。
今度は、座っていいかとは聞かなかった。
母が味噌汁を置く。
妹が箸を渡す。
アルトは二人を見た。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
「早く食べて。冷めるよ」
朝の食卓へ、三人の声が重なった。
神々の知らないところで。
誰にも配信されないまま。
アルトの新しい一日が、始まった。




