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第142話 一人ずつ、こちらへ

 帰ってから六時間後、アルトは救急外来の点滴台で、黒い刃を受け止めていた。


 金属の支柱が大きくしなり、先端についた二つの車輪が床から浮く。


「カーテンを開けろ!」


 看護師は動けずにいた。


 無理もない。


 診察用ベッドの脇に広がった黒い染みから、腕ほどの長さをした刃が三本も生え、そこに寝かされている子どもと、傍らで手を握る女へ次々と振り下ろされていた。


「早く!」


 アルトが点滴台を捻る。


 黒い刃を正面から押し返すのではなく、傾いた支柱へ沿わせて横へ逃がす。刃先が白いカーテンを裂き、隣の診察区画まで一気に開けた。


 視界が広がる。


 右には空のベッド。


 左には医療機器を載せた台。


 背後には母と妹。


 入口には、アルトの帰還確認へ立ち会っていた二人の警察官がいる。


「空のベッドを寄せてください!」


 若い方の警察官が先に動いた。


 車輪の固定を外し、二つの診察区画の間へベッドを押し込む。年長の警察官は腰の警棒へ手をかけたが、黒い刃が床から生えているのを見て、一瞬だけ判断を止めた。


「人間を殴る物じゃありません!」


 アルトが叫ぶ。


「黒い部分だけを狙ってください!」


「君は何を知っている!」


「ついさっきまで、あれに似た物と戦っていました!」


「三年間、ではないのか!」


「こっちでは三年です! 説明はあとで!」


 黒い染みが膨らんだ。


 刃を持つ腕だけではない。


 細い胴体が床から引き上げられ、天井近くまで伸びていく。顔のある場所には磨かれた黒い板が嵌まり、その表面へ、診察用ベッドの子どもと女が映っていた。


 子どもは七歳ほどに見える。


 髪も肌も、霜を被ったように白い。右手には包帯が巻かれ、その隙間から、見覚えのある青白い指が覗いていた。


 神界順位によって赤猫亭の扉へ押し込まれた、あの手だった。


 女は四十代半ば。


 子どもの手を両手で包み、何度も同じ名前を呼んでいる。


「拓海」


 返事はない。


「拓海、お母さんよ。分かる?」


 黒い甲冑の胸へ、白い文字が浮かんだ。


【帰還経過年数:十五年】


【帰還者年齢:七】


【帰還先側経過:十五年】


【関係照合:不一致】


 アルトの視界には、もう表示は浮かばない。


 文字は甲冑の表面へ直接刻まれていた。


「十五年前に行方不明になった子です!」


 若い警察官が声を上げた。


「先ほど、母親の自宅に突然現れたと通報がありました!」


「本人確認は!」


「右手の傷と、行方不明当時の衣服が一致しています!」


「名前は!」


「石井拓海!」


 母親が顔を上げる。


「この子は拓海です!」


 黒い甲冑の文字が書き換わる。


【帰還者側認識:母】


【帰還先側認識:息子】


【経過差異を検出】


【関係の継続を否認】


「否認するな!」


 アルトは点滴台を押し込んだ。


 黒い甲冑の刃が支柱へ食い込み、金属同士が擦れる。甲冑は腕を引かず、身体ごと前へ進み、子どもと母親のつながれた手を狙って刃を滑らせてきた。


 十五年。


 七歳の子どもにとっては、ほとんど経過していない。


 母親は年を重ねた。


 顔も。


 声も。


 手の大きさも違う。


 古い帰還処理は、それを同じ関係だと認めない。


 アルトは背後を振り返った。


 妹と目が合う。


「三秒だけ、これを支えてくれ!」


「どうやって!」


「両手で持て! 刃を押し返さず、今の角度を保つんだ!」


「私にできるの?」


「一人では無理だ。だから頼んでる!」


 妹が駆け寄る。


 恐怖で顔を強張らせながらも、アルトの隣へ入り、点滴台の支柱を両手で掴んだ。


「受けられるか」


「受ける!」


 声は震えている。


 それでも、手を離さない。


「そのままだ!」


 アルトが支柱から右手を離す。


 黒い甲冑の力が妹へ移り、点滴台の車輪が甲高い音を立てた。


「重い!」


「すぐ戻る!」


「本当に三秒だからね!」


 アルトは空いたベッドの横へ回った。


 甲冑の二本目の刃が、子どもの足首へ伸びている。刃先は鎖のように分かれ、細い輪となって右足を締め上げていた。


【帰還対象の一部を再回収】


【不一致部分を破棄】


 アルトは空のベッドから金属製の柵を引き抜いた。


 病人が転落しないための支え。


 武器として作られた物ではない。それでも、短剣も剣もない今、黒い輪へ差し込める硬さと長さがあった。


「お母さん」


 アルトは子どもの母親へ呼びかける。


「手を離さないでください」


「離しません!」


「身体を引かないで。一度だけ、黒い方へ寄せます」


「そんなことをしたら、この子が!」


「戻すためです!」


 母親は迷った。


 子どもの足首へ巻かれた輪がさらに締まり、青白い皮膚へ黒い線が食い込んでいく。


「信じてください」


 アルトが言う。


「俺も、同じやり方で戻りました」


 母親は拓海の手を握り直した。


「分かりました」


 アルトはベッド柵を黒い輪へ差し込む。


「今です。身体を少しだけ、黒い方へ」


 母親が子どもの肩を押す。


 アルトも足を支え、鎖が引く方向へ一度だけ寄せた。


 輪が僅かに緩む。


 金属柵を横へ倒す。


 梃子のように捻る。


 黒い輪が内側から広がった。


「足を抜いて!」


 母親が子どもの身体を引く。


 アルトが踵を押す。


 靴が輪から外れた。


 空になった黒い鎖が、床を強く叩く。


「戻って!」


 妹の声が飛んだ。


 約束した三秒を少し過ぎている。


 アルトは立ち上がり、点滴台へ走った。


「交代!」


「遅い!」


 妹の手から支柱を受ける。


 押し込まれかけていた点滴台を腰で支え、黒い刃を外側へ逸らした。


「でも、持ってただろ」


「三年待った妹に、帰ってきた日に何を持たせてるの!」


「点滴台」


「分かってる!」


 黒い甲冑が残る二本の腕を広げた。


 一方は拓海。


 もう一方は母親。


 二人を別々の診察区画へ押し込もうとしている。


 裂けたカーテンが風もないのに広がり、その間へ白い壁が形を作り始めた。


【帰還者:保護区画へ】


【帰還先候補:再照合へ】


【接触を停止してください】


「止めません!」


 拓海の母親が叫んだ。


 白い壁が二人の腕の間へ入る。


 握った手が引き離されていく。


 年長の警察官が警棒を抜いた。


「黒い奴だけではないんだな!」


「白い壁の根元です!」


 警棒が振り下ろされる。


 一撃目は弾かれた。


 手が痺れたのか、警察官の顔が歪む。


 それでも握り直し、今度は壁の中央ではなく、床から伸びた細い支柱へ打ち込んだ。


 硬い音。


 亀裂が走る。


「もう一度!」


 若い警察官も警棒を抜き、反対側から同じ場所を叩いた。


 白い支柱が折れる。


 壁が傾いた。


「ベッドを間へ入れてください!」


 アルトの声で、看護師二人が空のベッドを押す。


 傾いた壁と拓海の母親の間へ金属の枠を差し込み、完全に閉じるのを止めた。


 車輪が床を滑る。


「固定を!」


 看護師が足元のレバーを踏む。


 四つの車輪が止まる。


 白い壁は、ベッド一台分の幅を残して動かなくなった。


「拓海!」


 母親が壁越しに手を伸ばす。


 拓海の指は動かない。


 アルトは子どもの耳元へ顔を寄せた。


「聞こえるか」


 睫毛が僅かに震える。


「赤猫亭へ行ったか」


 子どもの唇が動いた。


「……お店」


「誰と話した」


「白い……髪の人」


 ルナ。


「ほかには」


「剣の人と……紙の人」


 レオンとブルーノ。


 受付を始めた。


 一人ずつ。


 二人で話を聞くという約束を守っている。


「何を渡された」


 拓海の左手が僅かに開く。


 掌には、短い赤紐が載っていた。


 アルトの手首へ結ばれているものより新しい。途中に結び直した跡はなく、端には小さな木札がついている。


 文字は一つだけ。


 ――貸。


「返すまで、生きろってことだ」


 アルトは言った。


 拓海の唇が、少しだけ緩んだ。


「お母さん」


 子どもが掠れた声を出す。


「ここにいる!」


 母親はベッドの隙間へ腕を入れ、拓海の手を握った。


 黒い甲冑の表面に、新しい文字が浮かぶ。


【音声照合】


【呼称:母】


【応答:息子】


【関係継続を再評価】


 甲冑が激しく揺れた。


 否認の文字が剥がれ落ちる。


 しかし、完全には消えない。


【帰還先側経過:十五年】


【帰還者側経過:三日】


【生活共有記録:不足】


「生活していないから、家族じゃないって言う気か」


 アルトは甲冑へ向き直る。


 黒い刃を点滴台で受けたまま、支柱を一度、自分の身体へ引いた。


 甲冑が前へよろめく。


 押し返すのではなく、力の向きへ入る。


 刃が支柱から外れた。


「そこにあるベッドを、黒い奴の膝裏へ押し込んでくれ!」


 アルトが妹へ叫ぶ。


「このまま真っすぐ?」


「そのままだ!」


 妹が空のベッドを押す。


 年長の警察官も反対側へ回り、金属枠へ肩を当てた。


 ベッドが甲冑の膝裏へぶつかる。


 アルトは甲冑の懐へ踏み込み、右腕を胸板へ、左手を腰へ回した。


 武器はない。


 それでも、白い場所でガルムやレオンが使っていた動きを覚えている。


 相手を腕だけで持ち上げない。


 身体全体で重心の下へ入る。


「もう一度押して!」


 妹と警察官がベッドを押し込む。


 金属の枠が甲冑の膝を後ろから掬った。


 アルトは腰を捻る。


 黒い巨体がベッドへ倒れ込む。


 どん。


 看護師が反射的に車輪の固定を踏んだ。


 ベッドが止まる。


 甲冑の身体だけが勢いを失わず、上半身から向こう側へ転がった。


「今!」


 アルトは床へ落ちていた警棒を拾う。


 胸に刻まれた【生活共有記録:不足】の文字へ、両手で振り下ろした。


 一撃。


 黒い板に亀裂が走る。


 二撃目。


 文字の中央が砕けた。


 甲冑の腕がアルトの首へ伸びる。


 妹が点滴台を横から押し込み、黒い肘を止めた。


「早く!」


「今やってる!」


「さっきの三秒より長い!」


「それはもう終わった!」


 アルトは警棒を逆手へ持ち替え、胸の亀裂へ差し込む。


 内部には、黒い巻物が何重にも詰め込まれている。


【十五年の空白】


【成長差】


【記憶不一致】


【生活不一致】


 どれも事実だった。


 拓海の母親は十五年生きた。


 拓海には三日しか経っていない。


 同じ家族だからといって、空白が消えるわけではない。


「違うことを理由に、切るな」


 アルトは巻物を掴んだ。


 抜けない。


 黒い糸が甲冑の背中から床へ伸び、拓海と母親の間を測り続けている。


「母親を見ろ!」


 アルトが叫んだ。


 拓海の母親は、ベッドの隙間から手を伸ばしている。


 七歳の頃と同じように抱きしめることはできない。


 十五年間、行方不明の子どもを探し続けた手は、以前より骨が浮き、爪の形も変わっている。


 それでも、拓海はその手を握っていた。


「拓海!」


「……お母さん」


「帰ろう」


「どこに」


 母親の顔が崩れた。


 十五年前と同じ家が残っているのか。


 子ども部屋は。


 学校は。


 友達は。


 何一つ以前のままではないかもしれない。


 だから、母親は場所を答えなかった。


「一緒に決めよう」


 拓海の指へ、少しだけ力が戻った。


 黒い糸が止まる。


 甲冑の内部にある巻物が緩んだ。


「今です!」


 若い警察官がアルトの腰を掴む。


「引きます!」


 年長の警察官も加わる。


 二人がアルトを後方へ引き、アルトは黒い巻物を胸から引きずり出した。


 一巻。


 二巻。


 三巻。


 十五年分の不一致が長い束となって床へ落ちる。


 最後に残った細い一枚には、別の文字があった。


【関係継続:本人同士で再定義】


 黒い甲冑が動きを止める。


 刃が崩れる。


 腕。


 胸。


 顔の板。


 すべてが黒い紙片へ変わり、診察用ベッドの周囲へ静かに積もった。


 白い壁も消える。


 カーテンだけが裂けたまま残り、拓海と母親を隔てるものはなくなった。


 母親は子どもの身体を抱きしめた。


 拓海は最初、腕を下ろしたままだった。


 十五年前の母親と。


 今の母親。


 声は同じでも、抱きしめられる感覚は違う。


 それでも、ゆっくり両腕を持ち上げ、母親の背中へ回した。


「ただいま」


 母親の返事は、声にならなかった。


 何度も頷き、子どもの髪へ顔を埋める。


 救急外来に、機械の音が戻った。


 心電図。


 空調。


 遠くを走るストレッチャー。


 裂けたカーテンを見つめていた看護師が、ようやく息を吐く。


「これは……何だったんですか」


 全員がアルトを見る。


 警察官。


 医師。


 看護師。


 母と妹。


 拓海の母親。


 十五年前の行方不明者。


 アルトは床に散った黒い紙片を拾った。


 指で触れると、文字は消え、ただの黒い灰へ変わる。


「帰ったあとに残る、古い処理です」


「説明になっていない」


 年長の警察官が言う。


「最初から話す必要があります」


「どこからだ」


「赤猫亭から」


 母が小さく息を吐いた。


「私たちも、まだそこまで聞いてないわ」


「途中で救急車を呼んだからな」


「呼ぶでしょう、普通は」


 アルトは右手首の赤紐を見る。


 一度だけの通信は終わっている。


 温かさも。


 声もない。


 だが、拓海の左手にも新しい赤紐がある。


 同じ店から貸された印。


 それは通信ではなく、帰ってきた者が一人ではなかったという証拠だった。


「拓海君」


 アルトが呼ぶ。


 子どもが母親の腕の中から顔を上げる。


「店で、何を食べた」


「芋」


「薄かったか」


「うん」


「そうか」


「でも、温かかった」


 アルトは頷いた。


 マルタの芋。


 帰ってきた者へ出される最初の一皿。


「赤紐は返せと言われたか」


「貸すって」


「同じだな」


「お兄ちゃんも?」


 妹がアルトの手首を見る。


「俺も借りてる」


「返しに行くの?」


「方法を考える」


「また消える?」


 妹の声が硬くなった。


「勝手には行かない」


「本当に?」


「ああ」


「一人で決めない?」


 アルトは母と妹を見る。


 こちら側で生きていた二人。


 帰る場所を成立させた家族。


「決めない」


 答えた。


 若い警察官の無線が鳴った。


『本部から各局。長期行方不明者の発見通報が複数入電。現時点で全国十三件――』


 警察官が無線機を取る。


「十三件?」


『いずれも行方不明当時の容姿に近く、本人確認中。複数の現場で、白い霜および赤い紐を確認――』


 救急外来が再び静かになった。


 アルトだけは驚かなかった。


 二百三十七人。


 赤猫亭の入口で順番を待っている者たち。


 受付が始まった。


 一人ずつ。


「君は、これを知っていたのか」


 年長の警察官が尋ねる。


「始まるとは思っていました」


「何人いる」


「少なくとも、あと二百三十六人」


 拓海の赤紐へ結ばれた木札が揺れた。


 ――貸。


 その裏側に、先ほどまでなかった文字が薄く浮かんでいる。


 ――受付済。


 数字はない。


 順位もない。


 ただ、一人の話を聞き、一人を送り出したという印だけだった。


 救急外来の自動扉の向こうで、サイレンが止まった。


 一台ではない。


 二台。


 三台。


 当直の看護師が受話器を取り、次々と入る搬送連絡へ応じる。


「年齢不詳の女性一名。長期低栄養状態」


 紙へ書く。


「男性一名、行方不明届との照合中」


 次の電話。


「小児一名。白い霜と、赤い紐あり」


 アルトは点滴台から手を離した。


 支柱は刃を受けた箇所で曲がり、もう真っすぐには立たない。


「まず、何をすればいい」


 若い警察官が尋ねた。


 アルトは空のベッドを見る。


 椅子。


 水。


 受付用の紙。


 話を聞く人間。


 赤猫亭から運んだ机はない。


 だが、こちらにはこちらの物がある。


「座れる場所を作ってください」


「それから」


「名前を聞く」


「本人確認か」


「その前に」


 アルトは、自動扉の向こうで止まった救急車を見る。


「誰のところへ戻ってきたのかを聞きます」


 扉が開く。


 冷たい朝の空気とともに、二台目のストレッチャーが入ってきた。


 白い霜をまとった女性が横たわっている。


 胸元には赤紐。


 その手には、錆びたスプーンが握られていた。


 女性は目を開け、アルトを見る。


「赤猫亭の人?」


「違う」


 アルトは曲がった点滴台を脇へ置き、空いている椅子を女性のそばへ運んだ。


「でも、話は聞ける」


 女性の指から、スプーンが落ちる。


 金属が病院の床へ触れた。


 かん。


 日本側の受付が、そこで始まった。

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