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第141話 十秒のただいま

【帰還可能時間:十秒】


 妹の唇が震えた。


「……お兄ちゃん?」


 アルトが答えるより早く、帰還門の上枠から黒い刃が落ちてきた。


 腕も柄もない、門を閉じるためだけの刃だった。日本の曇りガラスと赤猫亭の扉をつなぐ光の縁へ食い込み、左右の世界を中央から切り離そうとしている。


「レオン!」


「止めます!」


 レオンの剣が黒い刃を受けた。


 火花が散る。


 正面から押し返そうとした両腕が震え、靴底が床板を滑った。刃の重さは敵の腕力ではない。十秒後に門を閉じるという処理そのものが、一定の速さで上から降り続けている。


「押し返すな!」


 ナギが叫ぶ。


「横へ逃がせ!」


 レオンは肘を落とした。


 黒い刃の下降に剣を合わせ、切っ先を右へ滑らせる。刃の軌道が僅かに傾き、門の中央から外れた。


 ガルドが工具袋へ手を入れる。


 取り出したのは、壊した神界順位の歯車から回収した薄い金属片だった。二枚を重ね、黒い刃と上枠の隙間へ差し込み、木槌を一度振り下ろす。


 かん。


 金色の欠片が楔となり、黒い刃を斜めの位置で止めた。


 完全には止まらない。


 金属片はゆっくりと潰されている。


【九秒】


「行け!」


 ガルムがアルトの背中を押した。


 右足が境界を越える。


 赤猫亭の木の床とは違う、硬く冷たい床が靴底へ触れた。蛍光灯の白い光が足元へ落ち、妹の顔が曇りガラス越しではなく、はっきり見える。


 三年分、髪が短くなっていた。


 目元も少し変わっている。


 それでも妹だった。


「俺だ」


 アルトは言った。


 声が掠れた。


「アルトだ」


 妹の目から涙がこぼれた。


 足元に落ちたコップが、食卓の脚へ当たって止まる。


【八秒】


 門の両側から黒い鋏が伸びた。


 一方はアルトの背中から赤猫亭へ伸びる光の糸を、もう一方は腰へ結んだ短剣の革帯を狙っている。帰還者だけを日本へ通し、異世界側との関係や持ち物を境界へ残すための切断具だった。


「右を取る!」


 アルトは短剣を抜き、腰へ迫った鋏の支点へ差し込んだ。


 身体の半分を日本へ入れた姿勢では、踏ん張る場所が二つの世界へ分かれている。右足は日本の床。左足は赤猫亭。鋏が閉じる力に押され、腰が境界の中央で捻られた。


 短剣の刃が軋む。


 アルトは押し返さない。


 鋏の閉じる方向へ一度だけ短剣を滑らせ、二枚の刃が重なる直前に柄を下へ落とした。切っ先が支点の内側へ入り、鋏の上下が噛み合わずにずれる。


「ガルド!」


「離せ!」


 アルトが短剣から手を離す。


 ガルドの木槌が支点へ入った。


 黒い鋏が中央から砕ける。


 もう一方はレオンが受けていた。


 光の糸は細い。剣先が触れただけでも、赤猫亭との接続まで切りかねない。


 レオンは鋏の刃を斬らず、根元へ剣を沿わせる。


 半歩前へ。


 刃が閉じる力を利用し、剣先を支点へ送り込む。


 捻る。


 支点だけが割れた。


「戻ります!」


 レオンはすぐに机の前へ下がった。


 倒せる相手を追わない。


 守るべき糸のそばへ戻る。


【七秒】


「アルト!」


 ミアが駆け寄った。


 手に赤紐を持っている。


 白い場所へ運んだ机や椅子へ結ばれていた十一本のうち、何度も切れ、結び直されながら、最後まで残った一本だった。


「手を出して」


「持っていけるか分からないぞ」


「貸すだけ」


「何に使う」


「帰ったって教える時」


 一度だけ残された帰還後通信。


 赤紐そのものが声を運ぶわけではない。それでも、何も持たせず帰す気はないらしい。


「受けられる?」


 アルトは右手を差し出した。


「受ける」


 ミアは傷ついた手首へ赤紐を巻いた。


 締めすぎず、歩いても落ちない結び方だった。


「返してね」


「方法がない」


「考えて」


「今言うことか」


「今しかない」


【六秒】


 黒い刃が金色の楔を押し潰した。


 ぎり、と金属が歪む。


 門の上側が指一本分閉じる。


 ガルムが両腕を上げ、落ちてくる刃を前腕で受け止めた。


 黒い刃が毛皮と皮膚へ食い込む。


「長くは持たん!」


「六秒です!」


 ブルーノが叫んだ。


「長い!」


 ガルムの膝が沈む。


 ガルドは木槌を捨て、門の右枠へ肩を当てた。左枠にはミナが杖を横向きに差し込み、マルタがその背を支える。


 ルナは机上へ残る共有表示を見つめていた。


【帰還対象:アルト】


【関係保持:十件】


【持込物:二件】


 十件。


 赤猫亭に残る十人。


 一人ずつが細い光となり、アルトの背中から店内へつながっている。


 黒い針が一本、ルナとの糸へ伸びた。


 マルタが鉄匙を投げる。


 針の横腹へ当たり、軌道が外れた。


「返しておくれよ!」


「何を!」


「鉄匙だよ!」


「俺より先にそれか!」


「店の物だからね!」


【五秒】


 日本側の廊下に母が現れた。


「どうしたの」


 台所へ顔を出す。


 妹。


 落ちたコップ。


 開いているはずのない境界。


 その向こうにある油灯と木の机。


 獣人。


 剣を持つ男。


 白い髪の女神。


 そして、二つの世界へ片足ずつ置いている息子。


 母の手から薄い上着が落ちた。


「アルト……?」


「ああ」


 アルトは母を見る。


 三年ぶりに名前を呼ばれた。


 帰還処理の表示ではない。


 照合された所有者名でもない。


 母親が、目の前にいる息子へ呼びかけた声だった。


「俺だ」


 母の膝が崩れかける。


 妹が腕を支えた。


 アルトは日本側へもう一歩進もうとした。


 左足が動かなかった。


【四秒】


 黒い鎖が足首へ巻きついていた。


【異世界側への残留部位を確認】


【切離処理を開始します】


「足を置いていく気か!」


 アルトが身を屈める。


 短剣は鋏の支点へ刺さったまま、手元にない。


 鎖を直接掴む。


 冷たさが掌へ食い込み、指の感覚が薄れていく。力任せに引けば、締まった輪が足首へ食い込むだけだった。


「引くな!」


 ナギが椅子から叫んだ。


「一度、前へ入れ!」


「分かってる!」


 アルトは左膝を曲げた。


 鎖が引く方向へ身体を寄せる。


 足首を締めていた輪が僅かに緩んだ。


「レオン!」


「行きます!」


 レオンは上枠の刃をガルムへ任せ、床へ滑り込んだ。


 剣を寝かせ、足首と黒い輪の間へ差し込む。


 指一本ほどの隙間。


 刃を立てれば、アルトの足まで傷つける。


 レオンは剣を横へ捻り、輪を内側から押し広げた。


「戻る足を!」


 アルトは左足を引く。


 靴が黒い輪から抜けた。


 レオンは剣を戻し、すぐに机の前へ退く。


 空になった輪が床を叩いた。


【三秒】


「押せ!」


 アルトが叫んだ。


 赤猫亭側から、ガルムの大きな手が背中へ当たる。


 ガルド。


 ミナ。


 ブルーノも加わる。


 三人がガルムの背を押し、その力がアルトへ届く。


 日本側では、母と妹が両腕を伸ばしていた。


 妹が右手。


 母が左手。


 アルトは二人の手を掴む。


 異世界から押す力。


 日本から引く力。


 身体が境界を越えていく。


 黒い針が、十本の光の糸へ一斉に伸びた。


「糸を守れ!」


 ルナの声が飛ぶ。


 ガルドの木槌。


 ミナの杖。


 マルタの鉄匙。


 ブルーノが丸めた紙束。


 ミアの濡れ布。


 ナギとシグレの槍。


 武器とは呼べない物まで飛び交い、光の糸へ迫る黒い針を一つずつ叩き落とす。


 ガルムは上枠を肩で支えたまま、牙を食いしばる。


 レオンは倒れた針を追わず、次に糸へ届く一本だけを斬った。


【二秒】


 ミアが、小さな芋を投げた。


「持っていけ!」


 芋が境界を越える。


 アルトは反射的に右手で受けた。


 冷たい。


 床へ落ちていたらしく、表面に少し埃がついている。


「洗ってから食べて!」


「先に言え!」


「時間ない!」


 アルトの身体が日本側へ入る。


 赤猫亭に残っているのは、背中から伸びる十本の光と、左足の踵だけ。


 ルナが門の中央へ立つ。


 何かを言おうとする。


 けれど、長い別れを口にする時間はなかった。


 アルトも、一人ずつ名前を呼ばない。


 呼ばなくても、誰がいるか分かっている。


 全員の顔を一度だけ見る。


【一秒】


 ルナが言った。


「いってらっしゃい」


 帰ってくる人間に向けた「おかえりなさい」ではない。


 これから別の場所で生活を始める者へ向けた、ルナ自身の声だった。


 アルトは母と妹の手を握る。


 赤猫亭の全員に向け、短く答えた。


「行ってくる」


 踵が境界を越えた。


 門が閉じる。


 曇りガラスの引き戸が元の位置へ戻り、油灯も、木の机も、白い髪も見えなくなった。


 アルトは日本の台所へ倒れ込んだ。


 母と妹が支えきれず、三人まとめて床へ座り込む。


 しばらく、誰も話さなかった。


 冷蔵庫の低い音。


 蛍光灯の唸り。


 床へ転がったコップ。


 当たり前の生活音が、ひどく遠く感じられた。


 母の手がアルトの頬へ触れる。


 額。


 髪。


 首。


 そこにいることを確かめるように、何度も。


「本物?」


 妹が尋ねた。


「俺も確認してる」


「三年間、どこにいたの」


「長くなる」


「今話して」


「先に」


 アルトは一度、息を吸った。


「ただいま」


 声は小さかった。


 母の手が止まる。


 妹が口元を覆う。


 アルトはもう一度言った。


「ただいま」


 母は答えようとして、何度も息を詰まらせた。


 ようやく声が出る。


「おかえり」


 妹も涙を拭わずに続けた。


「おかえり、お兄ちゃん」


 二人がアルトを抱きしめる。


 鎧も。


 神貨も。


 順位もない。


 手に残っているのは、短い赤紐と、埃のついた小さな芋だけだった。


 食卓には、月に一度洗われていた茶碗が置かれている。


 アルトは母と妹の腕の間から、その茶碗を見た。


 帰ってきた実感は、門を越えた時にはなかった。


 名前を呼ばれた瞬間でもない。


 三年前と同じ場所へ戻ったわけではないのだと分かっている。椅子の位置も、家族の生活も、自分がいなかった時間も、すべて変わっている。


 それでも茶碗は、今の生活の中に置かれていた。


 昔の場所を空けたまま待っていたのではない。


 帰ってきた人間を、これから置き直せるように残されていた。


「何か食べる?」


 母が尋ねた。


「食べる」


「何がいい」


 アルトは右手の芋を見る。


「米」


 妹が泣きながら笑った。


「芋じゃないの?」


「これは土産だ」


「芋が?」


「投げられた」


「誰に」


「子ども」


「女の子?」


「そこを聞くのか」


 母が立ち上がり、炊飯器を開ける。


 保温された米の匂いが広がった。


 妹は隣の部屋から、移動させていた椅子を持ってくる。以前と同じ位置には棚が置かれているため、母の隣、妹の正面へ四脚目の椅子が置かれた。


「ここでいい?」


「ああ」


 アルトはそこへ座る。


 以前の席ではない。


 今の家族が作った席だった。


 母が茶碗へ米をよそう。


 三年ぶりに、白い器が食事へ使われる。


 こと。


 茶碗の底が食卓へ触れた。


 アルトの右手首に結ばれた赤紐が震えた。


 遠い場所で、別の器が鳴る。


 かん。


 赤猫亭に残した、金色の留め具で継ぎ直された皿の音だった。


 アルトは茶碗へ両手を添える。


 赤紐が僅かに温かくなる。


 表示は現れない。


 文字も。


 残り時間もない。


 ただ、器の底を通じて、小さな声が届いた。


『帰った?』


 ミアだった。


 一度だけの通信が始まっている。


「着いた」


 アルトは答えた。


「飯も食べる」


『何を?』


 今度はマルタ。


「米」


『芋は』


「洗ってからだ」


『食べな』


「先に米を食べる」


 向こうで、誰かが笑った。


 母と妹は、アルトが茶碗へ向かって話しているのを不思議そうに見ている。それでも、止めなかった。


「みんな、いるか」


 少しの間。


 紙を動かす音が聞こえる。


『十人です』


 ブルーノの声。


 続いてレオン。


『十人。確認しました』


 ルナ。


 ミナ。


 ミア。


 ガルム。


 ガルド。


 マルタ。


 ブルーノ。


 レオン。


 ナギ。


 シグレ。


 アルトを除いた赤猫亭の全員がいる。


「よかった」


『アルトさん』


 ルナの声が届く。


『帰還先は、成立していますか』


 アルトは母を見る。


 妹。


 食卓。


 以前とは違う場所へ置かれた四脚目の椅子。


 三年ぶりに米が盛られた茶碗。


「ああ」


 アルトは答える。


「成立してる」


 向こう側で、継ぎ直された皿が机へ触れた。


 かん。


『おかえりなさい』


 ルナが言った。


「こっちでも言われた」


『二度言われてもよい言葉です』


「そうだな」


 赤紐の温かさが少しずつ薄くなっていく。


 アルトは茶碗を持ったまま続けた。


「受付は、一人ずつだぞ」


『はい』


 ブルーノ。


「順位で決めるな」


『決めません』


 レオン。


『話を聞いてからです』


「一人で聞くな」


『ブルーノさんと二人で聞きます』


「立ったまま聞くなよ」


 短い間があった。


『座って聞きます』


「ナギとシグレは」


『治療中です』


 ミナが答える。


 奥からナギの声が飛ぶ。


『剣の稽古もする!』


『歩けるようになってからです』


 シグレとミナの声が重なる。


「先に歩け」


『お前まで言うのか!』


 赤猫亭の笑い声が遠くなる。


 通信が終わろうとしている。


『アルト』


 最後に、ミアが呼んだ。


『赤紐、返してね』


「方法がない」


『考えて』


「難しい注文だな」


『アルトなら考える』


 アルトは茶碗の底を指で一度叩いた。


 こと。


「いってきます」


 向こう側で、いくつもの声が重なった。


『いってらっしゃい』


 赤紐の温かさが消えた。


 もう声は届かない。


 アルトはしばらく茶碗へ手を置いていた。


「今の人たち?」


 妹が尋ねる。


「ああ」


「誰?」


 アルトは少し考えた。


「帰る場所を作ってくれた人たちだ」


「もう会えないの?」


「分からない」


「会いたい?」


「ああ」


 迷わず答えた。


 母がアルトの前へ箸を置く。


「まず食べなさい」


「マルタと同じことを言うな」


「誰?」


「店の人」


「女の人?」


 妹がまた聞く。


「それしか聞くことないのか」


「三年間あるから、順番に聞く」


「朝までか」


「明日も」


 母が椅子へ座る。


「明後日も聞く」


 アルトは茶碗を持ち上げた。


 白い米を一口食べる。


 熱い。


 柔らかい。


 赤猫亭の芋とも、硬いパンとも違う。それでも、どちらかを選ばなければならない味ではなかった。


 涙が一滴、茶碗の縁へ落ちた。


「熱かった?」


 母が尋ねる。


「違う」


「じゃあ何」


「うまい」


 母が泣きながら笑う。


 妹はアルトが持ち帰った芋を洗い、小皿へ置いた。


「これ、どうするの」


「塩を入れて煮る」


「薄くならない?」


「たぶんなる」


「料理できないの?」


「食べる方だった」


「三年間、何してたの」


 アルトは茶碗を食卓へ置いた。


「長くなるぞ」


「最初から」


 母も頷いた。


「急がなくていいから」


 生活しながら。


 食事をしながら。


 思い出した順に話せばいい。


 すべてを一晩で理解してもらう必要はない。


 アルトは自分の席へ座り直した。


 右手首には、返し方の分からない赤紐が残っている。


「じゃあ、最初から話す」


 母と妹が待つ。


 アルトは一度、息を吸った。


 神々の話から始めるべきか。


 ダンジョンか。


 投げ銭か。


 少し迷い、最初に浮かんだ光景を選んだ。


「赤猫亭っていう店があるんだ」


 食卓には、四人分の湯気が上がっていた。


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