第140話 帰ったあとの話
ナギが、アルトより先に【保留】へ触れた。
机上の共有表示から二つの選択肢が消え、帰還門の形成処理が停止する。
「勝手に押すな」
「だから止めた」
「俺の帰還だぞ」
「帰ったことのある人間が、止めてるんだ」
ナギは椅子へ深く腰を預けた。右手には匙を持っているが、皿の芋はもうほとんど残っていない。動かない左腕は腹の上へ置かれ、ミナが巻いた布で身体に固定されていた。
「帰還先は見つかった。家族もいる。だからこそ、今すぐ扉を開けるな」
「理由は?」
「お前は、向こうで三年間いなかった人間だ」
シグレが水を一口飲み、ナギの言葉を引き継ぐ。
「扉を越えたら、何事もなかったように食卓へ座れるわけじゃない。家族へ何を話すのか。警察や病院に聞かれた時、どこまで答えるのか。こちらへ戻れなかった場合、この店と二百三十七人を誰に任せるのか。帰る前に決めておかないと、残した側も、帰った側も困る」
「全部決めてから帰ったのか」
アルトがナギへ尋ねる。
「何一つ決めてなかった」
「説得力がないな」
「だから二十二年止まった」
ナギは笑わなかった。
「失敗した人間の話は、成功した人間の話より聞いておけ」
扉の外には、二百三十七本の接続が静かに並んでいる。
神界順位はなくなった。
投げ銭額も、注目度も、誰から救うべきかを決める材料には使われない。赤猫亭の入口には、ブルーノが書いた木札が掛けられている。
――帰還受付。一人ずつ。
受付は保留されたままだ。
「私が記録を引き継ぎます」
ブルーノが紙束を机へ置いた。
「帰還条件、照合結果、白い場所で確認した処理、待機対象との接続状態。すべて整理します」
「一人で抱えるなよ」
「分担表も作ります」
「そういう意味じゃない」
「分かっています」
ブルーノは紙の一枚目へ、受付に必要な役割を書き始めた。
接続確認。
本人確認。
帰還先照合。
持出物の準備。
護衛。
食事。
「受付に来た人の話は、私が聞きます」
レオンが言った。
「一人で?」
「最初はブルーノさんと二人で」
「数えるのは」
「一度だけにします」
「ならいい」
レオンは机の入口側に座っている。
剣は腰へ戻され、両手は天板の上に置かれていた。ナギとシグレが戻った今も、立って見張るのではなく、相手の話を聞ける位置に座っている。
「神界側は私が対応します」
ルナが入口を見る。
「十一柱は規則を守っています。受付を始める時も、戸口以外からは見せません」
「増えたら?」
「同じです」
「投げ銭を投げてきたら」
「マルタさんに掃き返してもらいます」
「自分で返しな」
マルタは割れた皿を布へ包みながら答えた。
「店の仕事は増えてるんだよ。神様の金まで拾ってられない」
「私が返します」
「拾わせな」
「神々に?」
「投げた本人に」
ルナは少し考え、頷いた。
「規則へ加えます」
「赤猫亭を受付だけの店にはしないでください」
ミナが言った。
「帰ってきた人の身体を診る場所は必要です。でも、マルタさんたちの生活や、今までの客を押し出してはいけません」
「一日一人」
マルタが即座に決めた。
「多い?」
ミアが尋ねる。
「やってみてから減らす」
「増やさないの?」
「先に減らす方を考えるんだよ」
「どうして?」
「人は予定どおりに帰ってこないからさ」
ナギとシグレが同時に視線を逸らした。
「聞いてるかい」
「聞いてる」
「私も」
「二十二年遅れた客は、しばらく皿洗いだね」
「左腕が動かない」
「右がある」
「足も動かない」
「座って洗いな」
「シグレも?」
「私は治療を受ける」
「逃げるな」
「あなたより治りが早いだけ」
二人のやり取りを聞きながら、アルトは机上の表示へ触れた。
【帰還門形成:保留】
「受付は任せられる」
「完全には無理です」
ブルーノが筆を止める。
「あなたが始めたことです。判断を聞きたい場面も出ます」
「向こうから答えられないかもしれない」
「その場合はこちらで決めます」
「それでいいのか」
「決められるように、記録を残してください」
アルトはブルーノを見る。
帰還照合も。
神界の表示も。
白い場所で見たものも、アルトの視界にしか浮かばないことが多かった。これまで共有表示へ落としてきたが、判断の理由まで全員へ伝えられていたわけではない。
「今から書くのか」
「口で話してください。私が書きます」
「長くなるぞ」
「紙はあります」
「飯が冷めるよ」
マルタが言った。
「先に食べな。帰る話は、空腹のままするものじゃない」
アルトは椅子へ座った。
深皿へ芋がよそわれる。
薄い塩味。
何度も食べた赤猫亭の味だった。
食べながら、アルトは話した。
自分が帰還条件だと思って追っていたもの。
神貨。
順位。
観測数。
それらが帰還者を助けるためではなく、神々が見やすい順へ並べ替える仕組みだったこと。
帰還先は、昔の家や場所がそのまま残っていることではない。帰ってきた人間を、今の生活へ置き直せる人や関係があること。
待機者を一人の人間へ集中させないこと。
照合で分からないものを、成功率や注目度だけで処理しないこと。
話している間、ブルーノの筆は止まらなかった。
レオンも聞いている。
ルナは必要な箇所だけ補足し、ミナはナギとシグレの身体を確認しながら耳を傾ける。ガルドは壊れた椅子の脚を削り、ガルムは入口近くの床板を新しい木材で塞いでいた。
誰か一人が、すべてを止めてアルトの話だけを聞いているわけではない。
食事をする。
修理をする。
治療をする。
その中へ、アルトが帰るための準備も混ざっている。
日本の家族も、同じように生活しながら茶碗を洗っていた。
「終わりです」
ブルーノが最後の文字を書く。
「本当に?」
「今のところは」
「追加が出たら」
「こちらで書き足します」
紙束の最後へ、ブルーノは太い線を一本引いた。
「引継ぎ完了です」
アルトは共有表示を開く。
【帰還門形成:保留】
【形成する】
今度は、誰も止めなかった。
「開けるぞ」
ミアが椅子から降りる。
「いつ帰ってくる?」
「分からない」
「明日?」
「無理だと思う」
「三日?」
レオンの右手が僅かに動いた。
ミアはすぐに言い直す。
「三日じゃなくてもいい。でも、帰るかどうかは教えて」
「帰れないかもしれない」
「それも教えて」
「どうやって」
「考えて」
「難しい注文だな」
「アルトなら考える」
アルトは【形成する】へ触れた。
共有表示が消える。
赤猫亭の中央に何も起こらない。
一秒。
二秒。
机の上に置かれたアルトの皿だけが震えた。
こと。
縁に細い亀裂が走る。
「離れろ!」
アルトが椅子を蹴って立ち上がった。
皿の亀裂から、黒い鎖が飛び出した。
アルトの胸へ向かう。
レオンの剣が横から入り、鎖を天井へ弾く。黒い鎖は梁へ巻きつくと、それを足場にするように身を引き、裂けた皿の中から人の上半身を引きずり出した。
黒い甲冑。
顔の部分には、磨かれた板が嵌め込まれている。
そこへ映っているのは、赤猫亭ではない。
日本の実家。
食卓。
月に一度洗われる茶碗。
黒い甲冑は皿から完全に抜け出すと、両腕に長い鋏を形成した。
【帰還門形成前処理】
【帰還対象以外との関係を切断します】
「また勝手な処理か!」
アルトが短剣を抜く。
黒い甲冑が鋏を開いた。
狙っているのは人間ではない。
アルトと赤猫亭をつないでいるもの。
机の傷。
使っていた椅子。
皿。
水差し。
入口に掛けた札。
視線が一つずつ移っていく。
「帰還対象を単独化しようとしています!」
ルナが叫ぶ。
「異世界側の関係を残したままでは、帰還門を形成できないと判断しています!」
「なら形成しなくていい!」
アルトが言う。
【形成処理は開始されています】
【中断できません】
黒い甲冑が動いた。
右の鋏が机へ向かう。
ガルムが天板を持ち上げ、刃の軌道から外す。しかし、甲冑は踏み込まず、左腕の鋏を伸ばして椅子の赤紐を切った。
ぱん。
一本目。
切れた赤紐が床へ落ちる。
アルトの胸から、熱が一つ消えた。
椅子を使った記憶そのものは残っている。
だが、帰還照合から赤猫亭との接続だけが外されていく。
「紐を守れ!」
ミアが床へ落ちた赤紐を拾う。
「結び直せる?」
「切らせるな!」
ガルドが黒い甲冑の膝へ木槌を振る。
甲冑は鋏を閉じ、木槌の柄を挟んだ。
金属が食い込む。
ガルドは柄を手放さず、身体を甲冑の内側へ入れた。頭突きで胸板を揺らし、鋏の支点へ膝をぶつける。
「レオン、右腕!」
「行きます!」
レオンは甲冑の右へ回る。
鋏の刃を正面から受けず、開く動きに合わせて剣を内側へ滑らせた。支点へ切っ先を差し込む。
捻る。
黒い鋏が開いたまま止まる。
ガルドは木槌を引き抜き、肩の継ぎ目へ叩き込んだ。
一撃。
黒い板がへこむ。
二撃目で右腕が落ちた。
「一つ!」
ブルーノが声を上げる。
「後ろから二体出ます!」
割れた皿の中から、新たな黒い腕が二本伸びている。
一体目は細い剣。
二体目は鎖。
床へ落ちた皿の破片一つ一つが入口となり、別々の甲冑をこちらへ通そうとしていた。
「皿を集めろ!」
マルタが布を広げる。
「素手で触るなよ!」
「何で!」
ミアが尋ねる。
「切れる!」
「普通の理由!」
ミアは厚い布を両手へ巻き、皿の破片を拾う。
マルタが布の中央へ集め、破片同士が離れないよう強く包んだ。
しかし、包みの内側で黒い剣が突き出す。
布が裂ける。
「ガルム!」
「受ける!」
ガルムが包みごと両腕で抱え込む。
内部から剣と鎖が暴れ、何度も胸や腕へ突き刺さろうとする。厚い毛皮と外套が裂け、血が滲んだ。
「早く閉じろ!」
「閉じ方が分かりません!」
ブルーノが共有表示を探す。
表示はない。
帰還門形成処理はアルトの視界からも消え、皿の破片を通じて直接進んでいる。
「割れた物が入口なら」
ガルドが黒い腕を避けながら言う。
「直せば閉じる!」
「今すぐ皿を直すのか!」
「形だけでいい!」
「ガルド、金属!」
マルタが叫ぶ。
「順位の欠片があるだろ!」
ガルドは工具袋を開いた。
神界順位を壊した時に拾った薄い金属片。
一位。
三位。
数字の残骸。
彼は最も細いものを取り出し、木槌の平らな面で叩いて伸ばした。
「熱!」
マルタが厨房の火へ金属を差し込む。
赤くなるまで待つ時間はない。
表面が熱を持ったところで引き上げ、皿を包んだ布の上へ置く。
「ミア、破片を合わせろ!」
「熱い!」
「布越しだ!」
ミアは包みを開き、割れた皿の形を思い出しながら破片を並べる。
大きいもの。
縁。
底。
黒い腕が隙間から伸びるたび、レオンが剣で押し戻し、ガルドが熱した金属片を接合部へ当て、木槌で打ち込んでいく。
かん。
金属が留め具になる。
かん。
二つの破片がつながる。
完全には直らない。
隙間も。
欠けも残っている。
それでも、皿としての形が戻るたび、出ていた黒い腕が短くなった。
「あと一つ!」
ミアが最後の破片を探す。
「ない!」
「机の下!」
ブルーノが指す。
小さな欠片が、黒い鎖に巻かれて机の奥へ引きずられている。
アルトが床へ滑り込む。
鎖が短剣へ巻きつく。
引かれる。
皿の欠片が遠ざかる。
「アルト!」
ミナが足首を掴む。
「一人で行かないでください!」
「欠片を取るだけだ!」
「それを一人でやらないでください!」
ミナの後ろへルナが入り、腰を支える。
さらにブルーノ。
三人でアルトを引く。
黒い鎖は机の下から、割れた皿の奥へアルトを引き込もうとする。
「レオン!」
「受けられる方!」
レオンが自分の剣を差し出した。
「受ける!」
ナギが右手で柄を掴んだ。
「重い!」
「座ったままで構いません!」
レオンは剣を預け、両手を空ける。
机の反対側から床へ入り、黒い鎖を掴んだ。
「アルトさん、緩めます!」
「どうやって!」
「前へ入ります!」
鎖に引かれる方向へ、レオンが一度身体を寄せる。
黒い鎖が僅かにたるむ。
「今です!」
アルトは短剣を外へ捻り、鎖の輪から刃を抜いた。
自由になった手で、最後の破片を掴む。
「取った!」
「戻ります!」
二人が同時に後ろへ下がる。
ミナ、ルナ、ブルーノが引く。
鎖が再び張るが、ガルドの木槌が机の脚の外側から打ち込まれ、黒い輪を床へ叩きつけた。
レオンが片足で鎖を押さえる。
「切ります!」
ナギから剣を受け取る。
黒い鎖の一節へ刃を振り下ろした。
一度では切れない。
二度目。
火花。
三度目で鎖が砕ける。
アルトは皿の破片をミアへ投げた。
「最後!」
ミアが受ける。
欠けた場所へ嵌める。
ガルドが熱した金属片を当てる。
「離れろ!」
木槌が振り下ろされた。
かん。
最後の留め具が入る。
割れた皿が、一枚の形へ戻った。
黒い甲冑の胸に、同じ亀裂が走る。
一体目。
二体目。
皿の中から出かけていたものまで、すべて動きを止めた。
「今だ!」
ガルムが包みから黒い腕を引きずり出す。
レオンの剣。
アルトの短剣。
ガルドの木槌。
三方向から同時に胸の亀裂へ入る。
黒い甲冑が砕けた。
破片は白い紙にも、金属にもならない。
細い糸へ変わる。
アルトの使っていた皿。
椅子。
机。
入口。
ルナ。
ミナ。
ミア。
ガルム。
ガルド。
マルタ。
ブルーノ。
レオン。
ナギ。
シグレ。
それぞれへ向かっていた糸が、切断されずに床へ落ちる。
【帰還前処理:失敗】
【関係切断:未完了】
【帰還門を形成できません】
「できない?」
ミアが皿を見る。
「つながってたら帰れないの?」
ルナが、金属で継ぎ合わされた皿へ触れる。
「今の帰還処理では、こちら側との関係をすべて切った人しか通せません」
「そんな奴いるのか」
アルトが尋ねる。
「以前の処理では、帰還者の記録、感情、関係を削ることで成立させていました」
「ルナの声みたいに?」
「はい」
帰るために。
こちらで得たものを捨てる。
出会った人間を忘れる。
過ごした時間を、帰還先へ持ち込まない。
元の世界から見れば、三年間いなかった人間が戻る。
だが本人の中では、こちらのすべてが失われている。
それでは帰還ではない。
移動した形をした、別の消失だった。
アルトは継ぎ合わされた皿を手に取る。
金色の留め具が、ひどく不格好に表面へ残っている。
「これで飯は食えるか」
マルタが皿を受け取る。
裏返す。
指で接合部をなぞる。
「汁物は漏れるね」
「芋なら?」
「落とさなきゃ食べられる」
「なら使える」
「洗いにくいよ」
「それでもだ」
アルトは視界に戻った表示を見る。
【帰還門を形成できません】
「条件を変える」
「再びですか」
ブルーノが尋ねる。
「ああ」
「今度は何を」
「切らなくていい門にする」
【該当する帰還形式がありません】
「また増やせ」
【異世界側との関係を保持した場合、帰還者の存在情報が複数世界へ残留します】
「それでいい」
【存在の重複が発生します】
「俺は二人になるのか」
「いいえ」
ルナが表示を読む。
「身体は日本へ帰ります。ただし、こちら側からアルトさんを覚えている者がいる限り、存在情報の一部が赤猫亭側にも残ります」
「通信できる?」
「分かりません」
「戻ってこられる?」
「保証できません」
「忘れられない?」
「はい」
アルトは全員を見る。
「それで困る奴いるか」
「います」
ブルーノが答えた。
「記録が増えます」
「それだけか」
「今のところは」
「俺は困る」
ガルドが言う。
「何で」
「借りた物を返せない」
「何か貸したか」
「短剣を直した」
「代金は払った」
「足りない」
「いくらだ」
「帰ってから決める」
「帰ったら払えないだろ」
「だから困る」
ミアが手を上げる。
「私も困る」
「何が」
「帰ったか分からない」
「門を越えたら帰ったことになる」
「向こうでご飯食べたか分からない」
「食べるよ」
「本当に?」
「たぶん」
「じゃあ困る」
「どうしろっていうんだ」
「教えて」
アルトは表示を見る。
「通信方法も追加できるか」
【帰還後通信:該当形式なし】
「連絡一回でいい」
【異世界間通信には神貨が必要です】
「順位と神貨は切っただろ」
【代替エネルギーがありません】
レオンが、自分の剣へ結ばれていた赤紐を見る。
「音は届きませんか」
「音?」
「白い場所で、机や水桶の音が道をつなぎました」
レオンは机を指先で叩く。
こつ。
「日本側にも、アルトさんが使っていた器があります」
兄の茶碗。
月に一度、妹が洗う。
「同じ日に、同じ物を鳴らせば」
ルナが表示へ触れる。
「物の使用記録を通じて、一度だけなら接続できる可能性があります」
「一度だけ?」
「帰還後に試さなければ分かりません」
「十分だ」
アルトは新しい条件を入力する。
【帰還形式:関係保持型】
【異世界側の存在情報:保持】
【帰還後通信:一回】
【通信条件:両世界の使用物が同時に鳴ること】
【帰還門形成を再試行します】
赤猫亭の入口が暗くなる。
扉の木目が消え、代わりに日本の実家の曇りガラスが浮かんだ。
黒い甲冑は出てこない。
鋏も。
鎖も。
アルトと赤猫亭をつないでいる糸は、切断されず、細い光となって背後へ伸びている。
門が半分まで開く。
【帰還先本人確認が必要です】
「俺はここにいる」
【帰還先側からの確認が必要です】
「家族が俺を見る必要がある?」
「はい」
ルナが答える。
「向こう側の誰かが、帰ってきた人間としてアルトさんを確認しなければ、門は完成しません」
曇りガラスの向こうは暗い。
母と妹は、すでに台所の灯りを消している。
食卓には、乾かすために置かれた茶碗だけが残っていた。
「夜が明けるまで待つか」
アルトが言う。
その時、日本側で足音がした。
廊下。
台所へ近づいてくる。
門の内側で、黒い影が動く。
妹だった。
寝る前に水を飲みに来たのか、片手に空のコップを持っている。暗い台所へ入り、壁のスイッチを押した。
蛍光灯が点く。
妹は食卓に置かれた茶碗を見る。
次に、曇りガラスの引き戸へ顔を向けた。
赤猫亭側の光が、ガラスの向こうへ人影を作っている。
「お母さん?」
妹が近づく。
アルトは動けなかった。
三年分、髪が短くなった妹。
少し大人びた顔。
こちらを見ている。
曇りガラス越しに、姿までは分からないはずだった。
妹が引き戸へ手をかける。
「誰?」
戸が開く。
日本の蛍光灯と、赤猫亭の油灯が一つの境界で重なった。
妹の手からコップが落ちる。
床へ当たる。
からん。
割れない。
転がったコップは、食卓の脚へぶつかって止まった。
妹は目を見開き、赤猫亭の中に立つアルトを見た。
顔。
髪。
三年前と同じ服ではない。
傷も。
巻かれた手首も。
腰の短剣もある。
それでも、名前だけは迷わなかった。
「……お兄ちゃん?」
【帰還先本人確認:完了】
【帰還門:成立】
門が完全に開いた。
日本の空気が赤猫亭へ流れ込む。
妹の背後で、母親の足音が近づいていた。
共有表示に、最後の数字が現れる。
【帰還可能時間:十秒】




