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第139話 三年の部屋

 消えたはずの扉が、枠だけを残してアルトへ倒れてきた。


「下がれ!」


 ガルムが横から肩を入れる。


 安い合板で作られた日本の玄関扉ではない。部屋を囲んでいた壁、天井、床の境目が一つの四角い枠へ圧縮され、赤猫亭の机を押し潰そうとしていた。


 ガルムの両腕が枠を受け止める。


 どん、と重い衝撃が床板を伝い、棚の皿が一斉に鳴った。


「重いぞ!」


「部屋一つ分です!」


 ルナが机上の共有表示へ両手を伸ばす。


【旧居との照合を終了】


【無効な帰還先を破棄します】


【関連生活記録を閉鎖】


「関連記録まで消すな!」


 アルトは倒れかけた机の端を掴んだ。


 共有表示の中では、かつて住んでいた部屋が白く塗り潰されていく。玄関。狭い台所。畳んだまま積んでいた仕事着。睡眠時間を少しでも増やすため、敷きっぱなしにしていた布団。


 どれも現在の部屋ではない。


 アルトが消えたあと、契約は終わり、荷物は運び出され、鍵も交換された。


 それでも、そこに住んでいた記録までなかったことにはできない。


 四角い枠の内側から、白い刃が伸びた。


 巻き尺に似た細長い帯だったが、表面には数字ではなく、アルトが部屋を使った日付が並んでいる。帯は激しくしなり、共有表示と机をつなぐ光の縁へ刃先を向けた。


「切断具です!」


 ブルーノが表示を読む。


「旧居から先の照合経路まで閉じようとしています!」


「レオン!」


「抜きます!」


 長剣が白い帯を迎え撃った。


 正面から斬れば、帯の内側に残る生活記録まで傷つける。レオンは刃を寝かせ、横薙ぎに来た帯の下へ滑り込ませると、切断具の先だけを上へ跳ね上げた。


 白い刃が天井へ刺さる。


 床から二本目。


 机の下から伸び、アルトの足首へ巻きつこうとする。


 ミアが椅子の上から飛び降り、赤紐を白い帯へ投げた。


「引いて!」


「誰が受ける!」


「みんな!」


 赤紐の輪が帯の先端へ引っかかる。


 ミアが両手で引いたものの、身体ごと机の下へ持っていかれた。マルタが外套の背を掴み、ブルーノが赤紐の途中へ手をかける。


「受けます!」


「私も!」


 ミナも加わった。


 三人と一人で赤紐を引く。


 白い帯は床下へ戻ろうと暴れ、机の脚へ何度もぶつかった。木の表面へ白い傷がつくたび、旧居の記録から一つずつ物が消えていく。


 空き缶。


 目覚まし時計。


 壁に掛けていた仕事用の鞄。


 アルトは共有表示へ腕を入れ、最後に残った玄関の取っ手を掴んだ。


 冷たい。


 こちらへ来る直前、コンビニの駐車場で缶コーヒーを飲んでいた夜にも、この取っ手へ触れて部屋を出ていた。


 帰宅した記憶ではない。


 出ていった時の記憶だった。


「これを残して、次を探せ!」


 アルトが叫ぶ。


「旧居の取っ手は、現在地へつながっていません!」


 ルナが答える。


「場所じゃなくても、俺が使った物だ!」


「照合の起点にはできます!」


 ルナが共有表示の縁を掴み、白く消えかけた部屋から取っ手だけを引き出す。


 実物ではない。


 だが、金属の形と、長年触れた手の跡は残っている。


 その瞬間、旧居を囲んでいた枠がさらに狭まった。


 ガルムの膝が折れる。


「長くは持たん!」


「ガルド、止められるか!」


「枠だけならな!」


 ガルドは工具袋から鉄製の楔を二本抜き、四角い枠と赤猫亭の床板の隙間へ打ち込んだ。


 かん。


 右側。


 かん。


 左側。


 枠の動きが僅かに止まる。


 しかし、白い切断具がさらに三本、共有表示の奥から伸びてきた。


 一つはアルトが握る取っ手。


 一つはルナの手。


 最後の一つは、共有表示そのものを狙っている。


「右を止めます!」


 レオンが一歩踏み込む。


 最初の帯を剣で受け流し、戻る足で二本目の前へ入る。刃先だけを斬り落とすと、すぐにアルトの側へ戻った。


 白い帯の切断面から、新しい刃が伸びる。


「再生します!」


「根元はどこだ!」


 ブルーノは共有表示の文字を追う。


「旧居の契約終了記録です! 閉鎖処理が記録から刃を作っています!」


「契約が終わったのは事実だ!」


 アルトが言う。


「消すんじゃなく、次へつなげ!」


「次の候補が必要です!」


 表示の中へ検索項目が現れる。


【旧勤務先】


【最終活動地点】


【親族登録住所】


 旧勤務先へ触れる。


【雇用関係:終了】


【帰還者の受入記録:なし】


 コンビニの駐車場。


【最終活動地点:使用中】


【帰還者との関係:なし】


 残る一つ。


 アルトの指が止まった。


【親族登録住所】


 勤務先へ提出した緊急連絡先。


 ほとんど使わなかった番号。


 忙しいという言葉だけを残し、電話を早く切ることが増えていた相手。


「開きますか」


 ルナが尋ねた。


 白い刃が取っ手へ迫る。


 迷っている時間はなかった。


「開けてくれ」


 ルナが項目へ触れた。


 共有表示の奥に、二つ目の扉が現れる。


 アルトが育った家の玄関ではない。


 もっと奥。


 台所と居間の間にある、曇りガラスの引き戸だった。


 白い切断具が向きを変える。


 旧居の閉鎖をやめ、新しく開いた照合先へ殺到した。


「通すな!」


 アルトは玄関の取っ手を手放し、最初の帯へ短剣を突き立てた。


 白い刃を床へ縫い止める。


 レオンが二本目。


 ガルドが木槌で三本目を机の脚へ叩きつけ、ガルムは旧居の枠を支えながら、足で四本目を踏みつけた。


 それでも一本が抜けた。


 曇りガラスの引き戸へ一直線に走る。


 ミアが皿を投げようとする。


「皿は投げるな!」


 マルタが止める。


「じゃあ何を!」


「これ!」


 マルタは濡れた布巾を丸め、白い刃へ投げつけた。


 布巾が帯の先端へ巻きつく。


 刃の勢いは止まらない。


 だが、一瞬だけ向きが下がった。


 ミナの杖がそこへ入る。


 白い帯を下から跳ね上げ、ブルーノが赤紐を巻きつける。


「受けられる方!」


「受ける!」


 ナギが椅子に座ったまま右手を伸ばした。


 赤紐の端を掴む。


 シグレも反対側へ手を重ねる。


「足は使わないで」


「分かってる」


「左腕も」


「右だけだ」


「私も右を使ってる」


「では私が中央を持ちます!」


 ブルーノが二人の間へ入り、三人で赤紐を引いた。


 白い帯が曇りガラスの手前で止まる。


「アルト!」


 ルナが呼ぶ。


「開けます!」


 曇りガラスの引き戸が横へ動いた。


 赤猫亭へ、日本の夜が流れ込む。


 音ではない。


 最初に届いたのは、蛍光灯の白い明かりだった。


 赤猫亭の油灯より明るく、冷たい。それでも、白い場所の光とは違う。生活の中で何度も点けられ、誰かが消し忘れ、別の誰かに注意されてきた光だった。


 次に、水の音。


 食器が触れ合う音。


 テレビから聞こえる天気予報。


 画面の向こうには、四人で使っていた食卓があった。


 アルトの記憶よりも、表面の傷が増えている。


 椅子は三脚。


 一脚だけ別の部屋へ移されたのか、壁際に小さな棚が置かれていた。


 食卓にいるのは二人だった。


 母親。


 妹。


 母の髪には白いものが増えている。


 妹は、アルトの記憶より髪が短く、着ている服も変わっていた。三年という時間は、大きな傷のようには見えず、目元や手つき、食器を片づける順番に少しずつ積み重なっていた。


 アルトは声を出さなかった。


 向こうへは聞こえない。


 分かっていても、息をする音まで届きそうな気がした。


 母が二人分の皿を重ねる。


 妹は冷蔵庫へ残り物を入れ、壁のカレンダーを見た。


「あ」


 短い声。


「何?」


 母が尋ねる。


「今日だった」


「何が」


 妹は答えず、食器棚の上段を開けた。


 奥から布に包まれた茶碗を取り出す。


 白い器。


 縁に一本、青い線。


 高価なものではない。


 高校を卒業した頃から使い続け、家を出る時には持っていかなかった茶碗だった。


 小さな欠けが一つある。


 アルトは、その欠けを親指で何度も触ったことを覚えていた。


「先月、洗ったでしょう」


 母が言った。


「月が変わったから」


「使ってないのに」


「使ってないから埃がつくんでしょ」


 妹は流し台へ茶碗を置く。


 水を出す。


 食器用の柔らかな布で、内側からゆっくり洗い始めた。


 アルトの視界へ表示が浮かぶ。


 共有表示には落としていない。


 最初は、アルトだけに見えていた。


【個人所有物を確認】


【所有者:アルト】


【現使用者:親族】


【使用目的:保管状態の維持】


【使用周期:約一月】


 文字の最後が滲む。


【状態:使用中】


「アルトさん」


 ルナが小さく呼んだ。


 アルトは答えない。


 白い切断具が赤紐を引きちぎろうとしている。


 ナギとシグレの椅子が床を滑り、ブルーノの手の皮が擦れて血が滲む。ガルドの楔も一本が曲がり、旧居の枠は再び閉じ始めていた。


 それでも、誰も照合を閉じろとは言わなかった。


「もう少しです!」


 ブルーノが叫ぶ。


「生活記録が食卓へつながっています!」


 妹は茶碗を洗い終えると、布巾で水滴を拭いた。


 すぐに棚へ戻さない。


 食卓の空いている場所へ置く。


 こと。


 陶器と木が触れ合う。


 アルトの胸の奥で、何かが同じ音を立てた。


「置いておくの?」


 母が聞いた。


「乾くまで」


「明日の朝、邪魔になるわよ」


「じゃあ、お母さんが戻して」


「あなたが出したんでしょう」


「来月はお母さんの番」


「そんな決まり、いつできたの」


「今」


 母は茶碗を見た。


 叱るでも、笑うでもない。


 手を伸ばし、食卓の中央から少し端へ寄せる。誰かがぶつけて落とさない場所。けれど、忘れてしまうほど遠くもない場所だった。


「来月までに帰ってきたら、本人に洗わせる」


「三年分?」


「一回でいいわよ」


「甘い」


「帰ってきてから怒りなさい」


 母はそう言い、重ねた皿を流し台へ運んだ。


 アルトは右手を握った。


 金色の順位に傷つけられた手首には、まだ布が巻かれている。その手で茶碗へ触れることはできない。


 今は。


 けれど、茶碗は捨てられていなかった。


 使われてもいない。


 食事を盛られたわけでもない。


 それでも月に一度、洗われていた。


 戻ってくるか分からない人間のために、家族の生活の中で、一度だけ手に取られていた。


 白い切断具が激しく暴れた。


 赤紐が一本切れる。


 ぱん。


 照合窓が大きく揺れ、母と妹の姿が崩れかける。


「閉じます!」


 ルナが言う。


「まだだ!」


「経路が保ちません!」


「登録だけ!」


 アルトは共有表示へ両手を置く。


「食卓を登録しろ!」


【帰還先としての物理占有を確認できません】


「茶碗がある!」


【帰還者本人は使用していません】


「家族が使ってる!」


【食事用途ではありません】


「帰ってきた人間が食べれば、食事になる!」


【将来の使用は参照できません】


「なら今あるものを見ろ!」


 白い帯がアルトの背後から襲いかかる。


 レオンが間へ入った。


 長剣を白い刃へ合わせ、受け流す。二本目が足元から伸びると、踏み込まずに刃先だけを落とし、すぐにアルトの背後へ戻った。


「続けてください!」


 ガルムの腕が震える。


 旧居の枠は肩の高さまで閉じ、巨大な万力のように一行を挟み込もうとしている。


 ガルドが曲がった楔を抜く。


「アルト、取っ手を寄越せ!」


 旧居から残した金属の取っ手を受け取る。


 ガルドはそれを枠の中央へ差し込み、木槌を振り下ろした。


 かん。


 取っ手が旧居の枠へ噛み込む。


 閉じる力が、一瞬だけ止まった。


「部屋はなくなっても、扉を開けた人間は同じだ!」


 ガルドが叫ぶ。


「今のうちに決めろ!」


 アルトは食卓を見る。


 母。


 妹。


 茶碗。


 そこに自分が座る場所が、以前と同じ形で残っているわけではない。


 椅子は足りない。


 部屋も。


 仕事も。


 三年前の生活も、何一つ戻らない。


 だから、帰還先にならないのか。


 レオンを思い出す。


 待っていた少年は大人になっていた。


 ナギとシグレが戻った場所も、二十二年前と同じ入口ではなかった。赤猫亭から机を運び、椅子を置き、水を注ぎ、食事を出して、ようやく帰る場所になった。


 元のまま残っている必要はない。


 戻ってきた者を、そこに置き直せるものがあればいい。


「帰還先は、空いた席じゃない」


 アルトが言った。


「席を作り直せる関係だ」


 ルナが共有表示へ言葉を落とす。


【照合条件を再評価】


【帰還者の存在を受け入れる人:二名】


【帰還者の所有物:使用中】


【生活関係:継続】


【食卓:使用中】


 白い切断具が一斉に止まった。


 母と妹の姿が、揺れの向こうで静止する。


 最後の文字が現れる。


【帰還先候補:実家の食卓】


【状態:成立】


 赤猫亭の中から、力が抜けた。


 四角い旧居の枠が砕ける。


 壁でも刃でもなく、薄い紙片となって床へ落ちていく。白い切断具も、閉鎖する対象を失い、順番にほどけて消えた。


 ガルムが両腕を下ろす。


 ナギとシグレは赤紐を離し、椅子の背へ身体を預けた。ブルーノは擦れた手のひらを見てから、記録端末ではなく紙の記録へ一行だけ書き込む。


 ――旧居、なし。


 少し間を空ける。


 ――食卓、あり。


 照合窓の向こうで、妹が茶碗を棚へ戻そうとしていた。


 母が止める。


「まだ乾いてない」


「拭いたよ」


「底が濡れてる」


 妹は茶碗の底へ指を当てる。


 本当に少しだけ濡れていたらしい。


 仕方なさそうに食卓へ戻す。


「朝まで置いとく」


「落とさないでよ」


「誰が」


「お母さん」


「あなたでしょう」


 二人は台所の灯りを消した。


 居間の明かりだけが残り、食卓に置かれた茶碗の縁へ細い光が当たっている。


 照合窓が閉じる。


 日本の夜が細くなり、最後に茶碗だけを映して消えた。


 赤猫亭へ静けさが戻る。


「家族?」


 ミアが尋ねた。


「ああ」


「待ってた?」


 アルトはすぐには答えなかった。


 待っていた、と簡単に言えば、三年間のすべてを一つの言葉へまとめることになる。


 母も妹も、毎日泣いていたわけではない。


 笑った日も。


 仕事へ行った日も。


 アルトのことを考えなかった時間もある。


 それでも、一月に一度、茶碗を洗った。


「生活してた」


「待ってないの?」


「待つだけじゃなくて、生活してた」


「それで帰れる?」


「帰ってから聞く」


 ミアは頷いた。


「怒られるね」


「たぶんな」


「三年分?」


「一回で済むらしい」


「甘い」


 照合を終えたはずの共有表示が、机の上に残っている。


【帰還先:成立】


【帰還門を形成できます】


 その下に、選択肢が二つ現れた。


【形成する】


【保留】


 アルトの指は動かなかった。


 帰りたかった。


 そのためにダンジョンへ潜り、神々に見られ、投げ銭を受け取り、順位を上げてきた。


 帰還先が消えていることを恐れながら、それでも帰る条件だけを追い続けた。


 条件はそろった。


 扉を作れる。


 今すぐではなくても、アルトが選べば開く。


「押さないのか」


 声をかけたのはナギだった。


「急かすなよ」


「逆だ」


 ナギは椅子へ深く座り直した。


 動かない左腕を右手で支え、共有表示ではなくアルトの顔を見る。


「すぐに押すな」


「帰還者が言うことか」


「だから言ってる」


 ナギは、隣に座るシグレへ一度目を向けた。


「帰ったあとの話を、先にしておく」


 アルトの指先の下で、二つの選択肢が静かに光っていた。


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