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第138話 アルトの条件

 赤猫亭の入口に掛けた木札へ、金色の杭が突き刺さった。


 ――帰還受付。一人ずつ。


 ブルーノが書いた文字の中央を杭が貫き、古い木の繊維を焦がしながら、表面へ新しい文字を焼きつけていく。


 ――帰還優先順位。


 その下に、大きな数字が現れた。


 【第一位】


「誰が順位をつけろと言った」


 アルトが木札へ手を伸ばす。


 杭に触れる寸前、金色の数字が刃のように横へ開いた。


 アルトは上半身を反らす。


 鼻先を掠めた光が、背後にあった椅子の背板へ深い傷を刻んだ。


「下がって!」


 ミナがナギとシグレの椅子を机ごと奥へ押す。


 二人は帰還直後で、立ち上がるだけでも身体を支えなければならない。ナギは右手で机を掴み、シグレは倒れかけた水差しを抱えたが、厨房の壁、床板、天井の梁から次々と金色の杭が伸び始めると、二人とも顔を上げた。


 杭の先には、それぞれ異なる数字が刻まれている。


 五。


 二十八。


 百四。


 床板を割って現れた一本だけは、数字が何度も変わり続けていた。


 アルトの視界へ表示が浮かぶ。


【帰還受付の設置を確認】


【待機対象:二百三十七】


【神界注目度を参照】


【救出優先順位を算出します】


「参照するな」


 表示を掴み、机上へ落とす。


 共有表示が広がった途端、二百三十七本の細い線が赤猫亭の外から伸び、順位ごとに並べ替えられ始めた。


 白い線は、帰還先を持たない者たちとの接続。


 その表面へ金色の輪が嵌まり、数字の小さいものほど入口へ強く引かれている。


「一位が動いています!」


 ブルーノが叫ぶ。


 木札を貫いた金の杭が、戸口の外へ向かって伸びた。


 何も見えない通りの奥から、一本の白い線が強引に引き寄せられる。入口の鈴が激しく鳴り、閉じていた扉が内側へ膨らんだ。


 ちりん。


 ちりん。


 ちりん。


「開けるな!」


 アルトが叫ぶ。


 ガルムが扉へ両手をつく。


 直後、外から何かがぶつかった。


 どん。


 ガルムの足が床を滑る。


 扉の下の隙間から、青白い指が四本だけ入り込んだ。


 人間の手だった。


 爪は割れ、皮膚には白い霜がこびりついている。腕も、顔も、身体も見えない。順位に引かれ、帰還先が成立していないまま、手だけが赤猫亭へ押し込まれていた。


「生きています!」


 ミナが膝をつく。


 手首へ触れようとするが、扉の外側へ金色の輪が巻きつき、指をさらに強く引き込もうとしている。


【第一位】


【神界関心項目:幼年/長期待機/救出難度・低】


 ミアの顔色が変わった。


「子ども?」


「表示だけで決めるな!」


 アルトは金色の輪へ短剣を振り下ろした。


 刃が弾かれる。


 硬い。


 白い接続線を切れば、手の持ち主とのつながりまで失われる。狙うべきは、外側へ被せられた金色の順位だけだった。


「レオン!」


「抜きます!」


 レオンの剣が鞘から走る。


 片手で扉を押さえるガルムの脇へ入り、狭い隙間から刃先を差し込む。白い線と金の輪の間は指一本分もない。


 レオンは剣を止めた。


「境目が分かりません」


「ブルーノ!」


 アルトが呼ぶ。


 ブルーノは共有表示と扉の隙間を交互に見る。


「金色の輪には切れ目があります! 数字の右下!」


「どちらから見た右ですか!」


「店内側です!」


「了解しました!」


 レオンは刃を寝かせ、金の輪の表面へ沿わせた。


 数字の一。


 その右下に、髪の毛ほど細い継ぎ目がある。


 剣先を入れる。


 輪が回転し、白い線を盾にしようとした。


「止める!」


 ガルドが木槌の柄を隙間へ突っ込む。


 金の輪と扉の木枠の間へ噛ませ、回転を止めた。


「今だ!」


 レオンが剣を引く。


 金属を削るような高い音が響き、金色の輪だけが切断された。


 数字の一が床へ落ちる。


 からん。


 白い線の引く力が消え、青白い手が扉の外へ戻り始めた。


 ミナは手首を掴まない。


 代わりに指先へ布を巻き、凍傷を覆う。


「聞こえますか」


 扉の向こうへ声をかける。


「今は入れません。手を戻します」


 返事はない。


 指が一本ずつ隙間から抜ける。


 最後の小指が消える前に、ミアが床へ伏せたまま言った。


「あとで呼ぶから」


 小指が僅かに動いた。


 それから扉の外へ戻った。


 入口の圧力が一度弱まる。


 だが、共有表示では二番目、三番目、四番目の線へ金色の輪が嵌まり始めていた。


【第一位の接続に失敗】


【第二位を繰り上げます】


「繰り上げるな!」


 アルトが表示へ手を叩きつける。


【帰還成功率を最大化しています】


「本人が帰れる場所もないのに、何が成功だ」


【注目度の高い対象を優先することで、神貨獲得量が増加します】


【神貨獲得量に応じ、帰還経路を拡張できます】


「まだ金で順番を決める気か」


 天井から伸びた【第二位】の杭が、ナギの前にある机を貫こうと落ちてきた。


 シグレが水差しを投げる。


 水の入った陶器が杭へ当たり、砕けた。


 飛び散った水が金色の表面を濡らす。


 杭の光が一瞬だけ鈍った。


「今!」


 ナギが叫ぶ。


 ガルドの木槌が杭の側面へ入る。


 一撃。


 金色の板が曲がる。


 二撃目で数字の二が剥がれ、床へ突き刺さった杭が白い紙へ変わった。


「水差し!」


 ミアが割れた破片を見る。


「帰ったら直す!」


 ガルドが答える。


「帰ってる!」


「落ち着いてから直す!」


 厨房の壁から【第三位】の鉤が伸び、水桶へ結んでいた赤紐を掴んだ。


 別の【第四位】は、四つ目の椅子を持ち上げようと脚へ巻きつく。


 順位は待機者だけでなく、帰還を成立させるために使った道具まで、自分の処理へ取り込もうとしている。


「机と椅子を中央へ!」


 アルトが指示する。


「入口から離したら、受付にならない!」


 ブルーノが言う。


「壊されたら受付も何もない!」


「では入口との接続を残します!」


 ブルーノは床に落ちた赤紐を拾い、机の脚と敷居を結んだ。一本では届かず、椅子、水桶、小鍋につけていた紐を順につなぎ、入口まで長く伸ばしていく。


 ミアが結び目を押さえる。


「これは貸してる印」


「今は道にもなっています!」


「返ってくる?」


「切れなければ!」


 金色の鉤が赤紐へ迫る。


 マルタが鉄匙を振り下ろした。


 鉤と匙がぶつかる。


 甲高い音が厨房へ跳ね返り、マルタの両腕が大きく押し戻された。


「硬いね!」


「熱を使え!」


 ガルドが叫ぶ。


 マルタは厨房へ向き直る。


 火にかけた鍋を持ち上げ、湯気の立つ湯を鉤へ浴びせた。金色の表面は白い甲冑のようには柔らかくならない。


 代わりに、刻まれていた数字が滲んだ。


【第三位】


 文字が崩れ、金色の輪の回転が遅くなる。


「文字を消せば弱くなる!」


 ルナが言った。


「順位そのものが固定力になっています!」


「ミア、布!」


 マルタの声に、ミアは濡れた布を受け取った。


「数字を拭きな!」


「触って大丈夫?」


「私が鉤を止める!」


 マルタが鉄匙を鉤の内側へ差し込む。


 腰を落とし、両腕で押さえる。


 ミアは床を滑り、金の鉤へ飛びついた。


 濡れた布で数字を擦る。


 一度。


 消えない。


 二度。


 三の下側が薄くなる。


「もっと!」


「やってる!」


 鉤が暴れ、ミアの身体が持ち上がる。


 マルタの靴が床を滑る。


「受けられる人!」


 ミアが叫ぶ。


「受ける!」


 ガルムが片腕でミアの腰を掴む。


 もう片方の手で金の鉤を押さえ、三人がかりで動きを止めた。


 ミアは布を握り直す。


「消えろ!」


 数字の三を最後まで拭き取る。


 金色の鉤がただの薄い板へ変わった。


 マルタが鉄匙で叩く。


 板が折れる。


「次!」


 四つ目の椅子へ絡んだ数字は【第四位】から【第十二位】へ変わり、さらに【第八位】へ書き換わっていた。


「順位が動いています!」


 ブルーノが共有表示を見る。


「神々の注目に合わせて更新されています!」


「戸口の神々は何もしていないぞ」


 アルトが言う。


「過去の観測記録まで参照しています! 配信中に集めた視聴数、投げ銭、コメント、予測参加数――全部です!」


 アルトの視界の端へ、見慣れた数字が並び始めた。


 配信順位。


 注目度。


 神貨総額。


 救出成功数。


 アルト自身の名前の横にも、順位が表示される。


【配信者順位:一位】


 金色の輪がアルトの右手首へ巻きついた。


「アルト!」


 ルナが腕を掴む。


 金の輪から細い鎖が伸び、机上の共有表示へ接続される。


【最高順位配信者の権限により、帰還優先順位を確定します】


【配信者アルトが対象を選択してください】


 二百三十七本の線が、アルトの視界へ重なる。


 名前。


 年齢。


 待機期間。


 神界での人気予測。


 救出時に得られる推定神貨。


 泣く可能性。


 戦闘になる可能性。


 再会場面の期待値。


 一人ひとりの人生ではなく、どれだけ神々を楽しませるかという数字だけが並んでいる。


「選びません」


 ルナが表示へ手を伸ばす。


【選択権限がありません】


 彼女の指が弾かれる。


 白い光が腕を走り、ルナは机へ肩から倒れ込んだ。


「ルナ!」


「大丈夫です!」


 身体を起こす。


「アルトさんの配信者順位が、権限の鍵になっています!」


「なら腕を切れば外れるか」


 アルトが短剣を左手へ持ち替える。


「駄目です!」


 ミナが腕を押さえた。


「冗談だ」


「顔が冗談ではありません!」


 金の鎖が強く引かれる。


 アルトの右腕が共有表示へ吸い寄せられ、指先が最上位の待機者名へ近づいていく。触れれば、その人物が第一号として選ばれ、帰還先の成立を無視したまま強制的に引きずり出される。


「ガルド、鎖を壊せ!」


「叩けば腕も持っていかれる!」


 ガルドは木槌を構えたまま、鎖の付け根を探す。


「鎖じゃない! 順位を外せ!」


「どうやって!」


 ブルーノが共有表示を拡大する。


 アルトの名前。


 その横の【一位】。


 数字の下には、これまで受け取った神貨と観測数が何層にも積み重なり、巨大な金色の歯車を作っていた。


 歯車は床下へ続いている。


 赤猫亭の床板が膨らみ、中央から丸い盤面がせり上がった。


 円周には一位から百位までの数字。


 内側には投げ銭額。


 中心にはアルトの名前。


 盤面が回転するたび、入口の外で待つ二百三十七人の順番が書き換えられる。


「止めろ!」


 ガルムが盤面へ両手をかける。


 回転の力に押され、腕が外側へ持っていかれる。爪を立てても金色の表面には浅い傷しか残らない。


「硬すぎる!」


「数字を消せ!」


 ミアが濡れた布を持って走る。


 盤面へ飛び乗り、一位の文字を擦った。


 盤が回る。


 ミアの身体も一緒に運ばれる。


「速い!」


 ガルムが片手を離し、ミアの外套を掴む。


「落ちるな!」


「止めて!」


「止めようとしてる!」


 ガルドは床に落ちていた白い釘を拾った。


 帰還処理が店を固定するために使ったもの。


 金色の盤面と床板の隙間へ先端を入れる。


「全員、離れろ!」


 木槌を振り下ろす。


 かん。


 白い釘が金の歯車へ食い込んだ。


 回転が一瞬だけ止まる。


 すぐに歯が釘を押し潰し、再び動こうとする。


「もう一本!」


 ブルーノが床から拾う。


 ガルドへ投げる。


 歯車の反対側へ打ち込む。


 かん。


 二本の白い釘が、回転する盤面を両側から挟んだ。


「今だ!」


 ミアが一位の文字を拭く。


 表面が薄くなる。


 しかし、その下から別の文字が出てきた。


【累計神貨一位】


 さらに擦る。


【注目度一位】


 その下。


【帰還条件への接近度一位】


「いっぱいある!」


「全部消せ!」


「布が乾く!」


 マルタが水桶の蓋を開け、柄杓で水をすくった。


「受けな!」


 ミアへ投げる。


 水が布だけでなく盤面全体へ広がり、重なっていた数字が一斉に浮かび上がった。


 アルトがこれまで配信によって得たもの。


 神々に見つけられた日。


 最初の投げ銭。


 順位が上がった夜。


 帰還条件へ近づいたという表示。


 助けた人数。


 戦った回数。


 誰かが泣いた場面へつけられた値段。


 すべてが金色の層となり、アルトの名前を歯車の中心へ縫いつけている。


「これを全部壊せば、帰れなくなるかもしれません!」


 ブルーノが言った。


「今までの帰還条件は、順位と神貨によって進んでいました!」


「その条件で帰った奴はいるのか」


「確認できません!」


「なら、条件じゃない」


 金の鎖がアルトの腕をさらに引く。


 指先が待機者の名前へ触れかける。


 アルトは右腕を引かなかった。


 逆に一歩、共有表示へ近づいた。


「何をしているんです!」


 ルナが叫ぶ。


「引かれる方へ入る」


「レオン様の剣術ですか」


「剣は持ってないけどな」


 アルトは肘を落とす。


 肩の力を抜き、金の鎖が縮む方向へ身体を入れることで、手首の輪に僅かな緩みを作った。


「レオン!」


「はい!」


「戻る時は?」


「守る相手を確認します!」


 アルトは入口を見る。


 扉の向こうにいる二百三十七人。


 机のそばにいるナギとシグレ。


 白い線を守るルナ。


 盤面を押さえるガルムとガルド。


 濡れた布で数字を消すミア。


 水桶を持つマルタ。


 記録を読み上げるブルーノ。


 治療の準備をしながら鎖を押さえるミナ。


 剣を抜き、アルトが戻る場所を空けているレオン。


「確認した」


 アルトは右手を強く引いた。


 金の輪が手首を締める。


 皮膚が切れ、血が盤面へ落ちた。


 金色の一位へ、赤い雫が重なる。


「ガルド!」


「打つぞ!」


 木槌が白い釘をさらに深く押し込む。


 歯車が止まった。


「ミア!」


「消す!」


 濡れた布がアルトの名前を覆う。


「ルナ!」


「条件を開きます!」


 ルナが共有表示へ両手を置く。


【帰還条件を変更しますか】


【現在の帰還条件】


【神界順位】


【累計神貨】


【観測達成度】


【物語完結度】


「最後のは何だ」


 アルトが聞く。


「神々が、あなたの物語が終わったと判断した時です」


「俺の終わりを、見ている奴が決めるのか」


「今までは」


「今後は違う」


【新しい帰還条件を入力してください】


 金色の杭が一斉にルナへ向く。


 条件を書き換えさせまいと、壁、床、天井から何十本もの数字の刃が飛び出した。


「守れ!」


 ガルムが盤面を離れ、ルナの前へ立つ。


 二本の杭を両腕で受ける。


 刃が前腕へ食い込み、血が落ちる。


「長くは持たない!」


 レオンは左側へ回る。


 剣で一本目の数字を斬る。


 金の杭は折れず、刃を滑らせてルナへ向かう。


「文字を!」


 ブルーノが叫ぶ。


「根元に順位があります!」


 レオンは踏み込み、杭へ刻まれた【第七位】の七だけを斬った。


 数字が消える。


 杭が白い紙へ変わる。


 二本目。


 【第三十二位】


 三と二の間へ剣先を入れ、数字を横へ割る。


 紙片。


 ガルドは木槌で数字そのものを潰し、マルタは熱湯を浴びせて文字を滲ませる。ミナの杖が杭の向きを変え、ミアが濡れた布を投げつけ、ブルーノは次に現れる順位を読み上げた。


「右上、十四!」


「消した!」


「床、九十六!」


「遠い!」


「私が行く!」


 シグレが椅子から立つ。


「駄目です!」


 ミナが止める。


「槍を渡して!」


 ナギが拾った短槍をシグレへ渡す。


 シグレは椅子へ座ったまま、両手で槍を構えた。


「足は使わない!」


 床から伸びた【第九十六位】の杭へ槍を投げる。


 穂先が六の中央を貫く。


 数字が崩れる。


「当たった」


「昔より上手い」


 ナギが言う。


「寝ていた分、考えたの」


「二十二年?」


「黙って」


 ルナは戦いの中心で表示へ指を置く。


「アルトさん、新しい条件を」


 アルトは二百三十七本の線を見る。


 どの線にも、順位は必要ない。


 神貨も。


 神々の歓声も。


 物語が終わったという判定も。


 帰るために必要なのは、帰った時に誰かが受け止められること。


 家。


 家族。


 仲間。


 名前を呼ぶ人。


 本人が帰りたいと思える場所。


 場所そのものが残っていなくても、戻った者を人間として迎えられる誰かがいること。


「帰還条件」


 アルトが言う。


「帰還先が成立していること」


 表示が揺れる。


【帰還先の定義が不明です】


「本人が帰りたい場所」


【物理座標が必要です】


「場所じゃなくてもいい」


【矛盾しています】


「人でもいい。店でもいい。食卓でも、椅子でも、約束でもいい」


【帰還処理に使用できません】


「使えるようにしろ」


【前例がありません】


「レオンで作った」


 共有表示に、レオンの帰還先成立記録が開く。


 待っていた人間。


 使用中の机。


 四つの椅子。


 食事。


 水。


 声を受け取る二人の耳。


「帰還先は、座標じゃない」


 アルトは言った。


「帰った人間が、そこにいていいと確認できることだ」


 ルナがその言葉を表示へ落とす。


【帰還条件:帰還先の成立】


【帰還先:帰還者の存在を受け入れる人・場所・関係】


 金色の歯車が逆回転を始めた。


 白い釘が弾き飛ばされる。


 ガルドが木槌を捨て、一本を両手で掴んだ。


「抜かせるな!」


 ガルムも反対側へ飛びつく。


 二人が釘を押さえる。


 盤面の下から金色の腕が何本も伸び、数字を守ろうと二人の手首へ巻きついた。


 レオンが斬る。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 敵を追わず、釘の周囲へ戻りながら、伸びる腕だけを切り落としていく。


 アルトの手首に巻かれた金の輪が焼けるように熱くなる。


【条件変更を拒否】


【配信者順位を維持します】


「いらない」


【累計神貨が失われます】


「返せるなら返せ」


【神界からの注目を失います】


「戸口に十一柱いる」


 入口の外で、決まりを守っていた十一の視線が揺れた。


 声は出さない。


 投げ銭もしない。


 順位にも参加しない。


 ただ、同じ場所から見ている。


「見る奴は、順位がなくても見る」


 アルトは金の輪へ左手をかけた。


「帰る奴は、人気がなくても帰る」


 引く。


 輪が皮膚へ食い込む。


 レオンが剣を差し込む。


「切ります!」


「白い線はない。全部金だ!」


「了解しました!」


 レオンは輪の継ぎ目へ刃を入れた。


 アルトが逆方向へ引く。


 剣を捻る。


 金の輪が割れた。


【配信者順位:解除】


 輪が床へ落ちる。


 金色の歯車に亀裂が走った。


 ミアが盤面の中央に残ったアルトの名前を、濡れた布で最後まで拭き取る。


 文字が消えた。


 歯車が割れる。


 百個の数字が金属片となって床へ散り、回転を失った盤面は白い紙の束へ変わった。


 ガルムとガルドが押さえていた釘だけが残る。


 金色の杭。


 鉤。


 鎖。


 刃。


 赤猫亭へ入り込んでいた順位の形が、すべて光を失い、ただの薄い金属片となって床へ落ちた。


 静かになる。


 二百三十七本の白い線は、誰かを押し退けることなく、入口の外へ並んでいる。


【帰還条件を更新しました】


【神界順位の参照:停止】


【神貨総額の参照:停止】


【観測達成度の参照:停止】


【物語完結度の参照:停止】


【新帰還条件:帰還先の成立】


 アルトは右手首を見る。


 切れた皮膚から血が流れている。


 金色の数字はない。


 視界の端に常に浮かんでいた順位も。


 次の順位までに必要な神貨も。


 神々が自分をどれだけ見ているかという数も、すべて消えていた。


「何位?」


 ミアが聞いた。


「分からない」


「一位じゃない?」


「順位がない」


「負けた?」


「たぶん、やめた」


 ミアは少し考える。


「じゃあ勝ち?」


「それも順位みたいだな」


「難しい」


「今は難しいままでいい」


 マルタが床へ散った金属片を箒で集める。


「ガルド。使えるかい」


「薄い」


「捨てる?」


「俺が決める」


 ガルドは前にも同じように答え、金属片を工具袋へ入れ始めた。


「全部持つの?」


「材料は材料だ」


「順位の一って、鍋の取っ手になる?」


 ミアが一位の欠片を拾う。


「曲げればな」


「じゃあ一位の鍋」


「名前をつけるな」


 笑い声が小さく起きた。


 長くは続かない。


 共有表示がまだ消えていなかった。


【新帰還条件に基づき、照合を再開します】


「受付の二百三十七人か」


 ブルーノが尋ねる。


「いいえ」


 ルナが表示を見る。


「条件を変更した者からです」


 アルトの名前が表示された。


【照合対象:アルト】


 店内の空気が止まる。


「俺?」


【帰還先候補を検索します】


【日本側との時間差を照合】


 数字が回る。


 日。


 月。


 年。


 最後に止まった。


【日本側経過時間:三年】


 アルトは表示を見つめた。


 こちらで過ごした時間と、同じではない。


 三年。


 自分が消えてから。


 部屋。


 仕事。


 家族。


 誰かが待っているかもしれないと考えながら、具体的に確かめることだけは避けてきた時間だった。


「帰還先候補を一件確認」


 ルナが読み上げる。


【候補:日本側旧居】


 アルトの視界に、暗い四角形が現れた。


 扉。


 見覚えのある安い金属の取っ手。


 自分が暮らしていた部屋の入口だった。


 アルトが手を伸ばす。


 扉の向こうから生活音は聞こえない。


 冷蔵庫の唸りも。


 隣室のテレビも。


 朝に鳴る目覚ましもない。


 取っ手へ触れる前に、表示が一行追加された。


【居住契約:終了】


 さらに一行。


【現在の帰還先として使用できません】


 暗い扉が、音もなく消えた。


 アルトの帰るはずだった部屋は、もうどこにもなかった。


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