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第137話 おかえりの店

 白い杭が床板を突き破り、レオンの椅子を真下から跳ね上げた。


 座面が傾く。


 レオンは机へ片手をついて身体を支え、もう片方の手でナギの皿を受け止めた。深皿の中で芋と薄い汁が大きく揺れたものの、床へ落ちたのは雫が数滴だけだった。


「椅子から離れて!」


 ルナが叫ぶ。


 レオンは立ち上がろうとした。


 しかし、床下から伸びた白い指が椅子の脚へ巻きつき、その上から両足首を掴んだ。冷たさが靴を通り抜け、骨まで染み込んでくる。


 レオンは剣へ手を伸ばす。


「抜きます!」


「待て!」


 アルトが机を蹴って前へ出た。


 短剣を白い指の根元へ突き込み、床板と刃の隙間を広げる。レオンも腰を浮かせ、足首を内側へ捻った。


 一度では外れない。


 白い指は人間の皮膚へ食い込む代わりに、靴と足を一つの物として固め始めていた。革の表面が白く変わり、椅子の脚から床板へ同じ色が広がっていく。


「椅子を離します!」


 レオンが声を上げる。


「受けられる方!」


「受ける!」


 ガルムが背板を掴んだ。


「足ごと持ち上げろ!」


 アルトが指を切る。


 一本目。


 白い紙片が噴き出す。


 二本目をガルドの木槌が叩き潰し、残った指をガルムが椅子ごと引き抜いた。


 床板が割れる。


 レオンの身体が椅子ごと後ろへ倒れ、ガルムとブルーノが左右から支えた。


 だが、終わらなかった。


 厨房の壁を白い釘が突き破る。


 天井から細い鎖が垂れる。


 裏口の隙間から長い鉤が入り込み、床に置かれていた水桶の取っ手へ絡みついた。


 こん。


 こん。


 こん。


 赤猫亭のあらゆる場所で、帰れない者たちの接続要求が同時に形を持ち始めている。


【未成立の帰還先から接続要求を受信】


【待機対象:二百三十七】


【恒常登録処理を継続します】


 アルトは表示を机上へ落とした。


 共有表示の数字から、白い線が二百三十七本に枝分かれしている。そのすべてが赤猫亭の入口ではなく、レオンの名前へ向かっていた。


「なぜレオンさんに集中するのですか」


 ミナが尋ねる。


 ルナは椅子の脚へ残った白い跡へ触れる。


「待っていた人間として登録されたからです」


「全員をレオン一人のところへ帰す気か?」


「帰すのではありません」


 ルナの指先へ細かな文字が浮かぶ。


【共同帰還先】


【受入人数:制限なし】


【待機者人格:参照不要】


 ルナの顔色が変わった。


「レオン様を、人ではなく場所として固定しようとしています」


 レオンの右手が机へ吸いついた。


 掌の下から白い筋が伸び、腕を這い上がる。皮膚の色が失われ、指の関節が机の木目へ溶け込むように沈み始めた。


「手が外れません」


「剣を!」


 アルトが叫ぶ。


「右手が使えません!」


「左で抜け!」


 レオンは左手で剣を抜いた。


 白い筋を斬ろうとする。


 刃が自分の右手へ近づいたところで止まった。


「手ごと斬る気か!」


「固定されるよりは!」


「勝手に決めるな!」


 アルトはレオンの剣を掴み、刃先を机から逸らした。


「ガルド!」


「机を割る!」


 ガルドは木槌を振り上げた。


「待って!」


 ミアが天板へ覆いかぶさる。


「机を壊したら、帰る場所がなくなる!」


「レオンを外すためだ!」


「ほかの方法!」


「今探している!」


 天井から落ちた白い鎖が、ミアの背後へ迫る。


 マルタの鉄匙が横から入り、鎖を壁へ叩きつけた。


 かん。


 鎖が弾かれる。


 だが、切れない。


 マルタはもう一度、同じ場所を殴った。


「机を壊すのは最後にしな!」


「人間が先だ!」


「店の物を守りながら人間も守るんだよ!」


「注文が多い!」


「店だからね!」


 水桶に絡んだ鉤が取っ手を引いた。


 桶が床を滑る。


 蓋の内側から、小さな音が二度返った。


 こつ。


 かん。


 残滓は帰還処理によって消えたはずなのに、二つの音だけが残っている。


 ルナが振り返る。


「水桶を取らせないでください!」


「受けられる方!」


 ブルーノが叫ぶ。


「受ける!」


 ミナとシグレが同時に答えた。


 シグレは椅子から立ち上がろうとしたものの、足に力が入らず、机へ手をつく。


「あなたは休んでください!」


「帰ってきた途端に、また置いていかれるのは嫌!」


「置いていきません!」


「だったら私も持つ!」


 シグレは机を支えにして水桶まで進む。


 ミナが片側の取っ手。


 シグレがもう片側。


 二人で鉤の力へ逆らう。


 白い鎖がさらに強く引かれ、桶が僅かに浮いた。


「ナギ!」


 シグレが呼ぶ。


「動ける?」


「右腕だけなら!」


 ナギは椅子に座ったまま、落ちていた短い槍を右手で拾う。穂先を鉤と取っ手の隙間へ入れ、槍の柄を机の脚へ当てた。


「ミナ、少し緩めろ!」


「取られます!」


「一度だけだ!」


 ミナが力を弱める。


 鉤が水桶を引き寄せようとして、槍の柄へ深く食い込んだ。


「今!」


 ナギが槍を梃子にする。


 シグレとミナが反対方向へ引く。


 白い鉤が外側へ捻れ、取っ手から抜けた。


 ガルドの木槌が鉤の根元を叩く。


 一撃。


 亀裂。


 二撃目で、白い鉤が床へ落ちた。


「できるじゃない」


 シグレが息を切らす。


「右だけならな」


「左も治す」


「剣の続きより先に?」


「両方よ」


 白い杭が、今度はナギの椅子の下から現れた。


 レオンが左手の剣を振る。


 椅子へ届く直前で杭を斬り、さらに踏み込もうとする。


「戻れ!」


 ナギの声が飛んだ。


 レオンは反射的に足を引いた。


 床から二本目の杭が突き出し、先ほどまで胸があった場所を貫く。


「覚えています」


「一回できたくらいで油断するな!」


「二回目です」


「数えるな!」


 レオンは椅子のそばへ戻り、左手だけで剣を構えた。


 右手はまだ机に固定されている。


 白い筋は肘まで達し、袖の布が硬い板へ変わり始めていた。


「先にレオンを外さないと!」


 ミナが水桶を置き、駆け寄る。


 白い筋へ杖を当て、机と腕の間へ隙間を作ろうとするが、押した分だけ天板の木目がレオンの皮膚へ移っていく。


「力では無理です!」


 ブルーノは共有表示を追う。


「恒常登録の基準を変える必要があります!」


「どう変える!」


「レオン様以外に、帰還先を設定します!」


「誰を使う気だ」


「人ではなく――」


 ブルーノは言葉を止める。


 共有表示には、選択肢が二つしかない。


【待機者を共同帰還先として登録】


【赤猫亭を共同帰還先として登録】


「店か、レオンか」


 アルトが読む。


「どちらかを、二百三十七人分の道具にするつもりか」


「選択しなければ」


【自動選択まで:十】


 数字が減り始めた。


 九。


 八。


 床下から白い杭が連続して伸びる。


 ガルムが一つを蹴り折り、ガルドが別の根元へ木槌を打つ。ミナは机の脚へ巻きついた線を杖で押さえ、マルタは厨房から持ってきた熱湯を壁の白い釘へ浴びせた。


 白い釘が水を吸う。


 表面が柔らかくなる。


 ミアが赤紐を巻きつけ、全身で引き抜いた。


「取れた!」


「次が来るよ!」


 別の釘が天井から落ちる。


 マルタはミアの襟を掴み、後ろへ投げるように退かせた。


 釘が床へ突き刺さる。


 七。


 六。


「選ばないのですか!」


 ブルーノがアルトを見る。


「どっちも選ばない」


「時間がありません!」


「レオンは人間だ。店は店だ」


 アルトは共有表示へ触れる。


「帰還先になったからって、好きに使っていいものじゃない」


【選択肢以外の入力は受け付けていません】


「誰が決めた」


【帰還管理規定】


「その規定で二十二年止めたんだろ」


【選択してください】


「断る」


【無効な応答です】


 五。


 四。


 レオンの右肩まで白い筋が届く。


 首筋へ伸びれば、声も、顔も、記憶も、帰還先という機能へ置き換えられる。


「アルトさん」


 レオンが言った。


「私を選んでください」


「黙ってろ」


「二百三十七人が帰れるのであれば」


「お前は帰ったばかりだ」


「待つことには慣れています」


「慣れたからって、続けていい理由にはならない」


「ですが――」


「二十二年待った二人が、帰ってきた人間をまた置いていくと思うか」


 ナギが椅子から立とうとする。


 足が震える。


 それでも机へ右手をつき、レオンの白くなった腕へ左肩を寄せた。


「思わない」


 動かない左手の代わりに、右手でレオンの袖を掴む。


「今度は俺が待つ」


 シグレも反対側へ立つ。


「一人ずつなら、私も待てる」


「二人とも身体が」


 レオンが言う。


「二十二年寝た」


 ナギが答える。


「時間はある」


「同じ冗談は一度でいい」


 シグレがナギを睨む。


「私は寝ていた分、働く」


「それなら俺も」


「まず歩く練習から」


「厳しくないか」


「二十二年分よ」


 三。


 二。


 マルタが入口の横に掛けていた木札を外した。


 赤猫亭の営業時間と、その日の料理を書くための古い札。表面には何度も文字を消した跡があり、角は油と煙で黒くなっている。


「ブルーノ」


「何でしょう」


「書きな」


「何を」


「受付」


 マルタは木札を机へ置いた。


「帰還先がないなら、帰還先を勝手に決めるんじゃない。まず話を聞くんだよ」


 ブルーノが太い筆を取る。


 墨をつける。


 木札へ大きく書いた。


 ――帰還受付。


 その下に、少し小さく。


 ――一人ずつ。


 一。


 表示が赤く染まる。


【自動登録を開始します】


「ガルド、入口へ!」


 アルトが叫ぶ。


 ガルドは木札を持ち上げる。


「釘がない!」


「壁に刺さってる!」


 ミアが先ほど引き抜いた白い釘を拾う。


 ガルドへ投げる。


 白い釘は、人や物を帰還先へ固定するためのものだった。


 ガルドはその釘を木札へ打ち込む。


 かん。


 木札を赤猫亭の入口へ留める。


 かん。


 二度目で白い釘が扉の木枠へ深く入る。


 マルタが赤紐を持ってくる。


 机。


 椅子。


 水桶。


 皿。


 持ち帰った物へ結ばれていた十一本の赤紐を外し、一本の太い束にまとめる。


「受けられる方!」


 マルタが束を掲げる。


「受ける!」


 レオンが左手を伸ばした。


「右手を外してからだ!」


 アルトが代わりに受け取る。


 赤紐の片側を木札へ結ぶ。


 もう片側を入口の鈴へ。


 最後に、机ではなく、戸口の敷居へ巻きつけた。


「人にも店にも結ばない」


 アルトが言う。


「入口へつなぐ」


 ルナが共有表示を見る。


「帰還先ではありません」


「それでいい」


「帰還処理は完了できません」


「勝手に完了させるな」


 入口の鈴が白い光を帯びる。


 二百三十七本の線が、レオンから離れようとしない。


 アルトは剣を抜いた。


 レオンの剣ではない。


 自分の短剣。


 白い筋がレオンの肩へ達する直前、その根元へ刃を入れる。


「アルトさん!」


「腕は斬らない!」


 刃を机の表面へ沿わせ、木目と皮膚の間を一寸ずつ進める。白い筋は短剣へ絡みつき、刃ごと机へ固定しようとした。


 アルトは柄を両手で握る。


 進まない。


「ガルム!」


「押すぞ!」


 ガルムがアルトの背へ両手を当てる。


 全身の力を込める。


 短剣が少し進む。


「ガルド!」


「刃を折るなよ!」


 ガルドの木槌が短剣の背を叩く。


 かん。


 白い筋へ亀裂。


 もう一度。


 かん。


 レオンの指が机から僅かに浮く。


「ナギ!」


 レオンが呼ぶ。


「どうすればいいですか!」


「何の続きだ!」


「戻る動きです!」


 ナギは白い筋とレオンの姿勢を見る。


 右手が机へ固定され、身体が前へ引かれている。このまま力任せに引けば、肩か肘が壊れる。


「前へ出ろ!」


「逆では?」


「引かれる方へ一度入れ!」


 レオンは机へ身体を寄せた。


 白い筋が緩む。


「肘を落とせ!」


 右肘を下げる。


 肩の力を抜く。


「今度は戻れ!」


 レオンは椅子の背を左手で掴み、腰から後ろへ引いた。


 アルトの短剣が白い筋を断つ。


 ガルムが椅子ごとレオンを引き戻す。


 右手が机から外れた。


 白い筋はレオンを失い、空中で暴れた。二百三十七本の細い線が一本の太い束へ変わり、店内を薙ぎ払う。


「伏せろ!」


 皿が飛ぶ。


 水差しが倒れる。


 ナギとシグレをミナが机の下へ引き込み、ミアは深皿を胸へ抱えたまま床へ伏せる。


 白い束が入口を通り越し、再びレオンへ向かう。


 ルナが前へ出た。


 武器は持っていない。


 両手を広げ、白い線とレオンの間へ立つ。


「順番に」


 声は大きくなかった。


 だが、門から流されたものではない、ルナ自身の声が赤猫亭の壁を震わせた。


「あなたたちを、置いていきません」


 白い束がルナの目の前で止まる。


「ですが、一人の人間を、二百三十七人分の場所にはしません」


 線が左右へ揺れる。


 押し寄せようとする。


 ルナは退かない。


「一人ずつ、来てください」


 入口の木札が光る。


 ――帰還受付。


 ――一人ずつ。


 白い線の一本が、レオンではなく木札へ向いた。


 赤紐へ触れる。


 入口の鈴が鳴る。


 ちりん。


 残る二百三十六本も、次々と向きを変えた。


 人間へ。


 机へ。


 店そのものへ食い込むのではなく、敷居の外側で細く束ねられていく。


【未定義の処理形態を確認】


【帰還先:未成立】


【接続先:赤猫亭・戸口】


【用途を指定してください】


 アルトは表示へ触れた。


「受付だ」


【該当項目なし】


「話を聞く場所」


【該当項目なし】


「帰る先を探すまで、飯を食わせる場所」


【該当項目なし】


「該当するまで増やせ」


 表示が激しく揺れる。


 白い線が再び暴れ始める。


 ガルドが入口の木枠を押さえ、ガルムが扉を両手で支える。赤紐は限界まで張り、細い繊維が一本ずつ切れ始めていた。


「アルト!」


 ブルーノが叫ぶ。


「既存の用語に近づけてください!」


「仮設帰還先では、また店が固定される!」


「帰還処理を完了しない場所です!」


 ルナが表示へ手を伸ばす。


「帰還前待機所」


【待機所は帰還処理管理下に置かれます】


「駄目です!」


 ミナが言う。


「避難所は?」


【避難対象として凍結処理を開始します】


「それも駄目!」


「客だ!」


 ミアが机の下から叫んだ。


「みんな、店に来るんでしょ!」


 アルトが木札を見る。


 料理を食べに来る者。


 誰かを待つ者。


 帰る前に、一度座る者。


「来店受付」


【用途を確認】


【来店者の帰還処理は完了しません】


「それでいい」


【帰還先が成立するまで、待機状態が継続します】


「勝手に凍らせるな」


【待機者の状態を保持しますか】


「本人の時間を止めずに、連絡だけ預かれ」


【前例なし】


「今日からある」


 白い線が一斉に木札へ集まった。


 赤紐が切れる。


 一本。


 さらに一本。


「持て!」


 ガルムが紐を掴む。


 ガルド。


 ミナ。


 ブルーノ。


 マルタ。


 ミア。


 ナギとシグレも机の脚へ手をかける。


 レオンは右手を見た。


 まだ白い痕が残っている。


 剣を握らず、赤紐へ両手を伸ばした。


「受けます」


 全員で引く。


 白い線は外へ向かい、赤猫亭の中へ入ろうとする。


 押し返すのではない。


 戸口で止める。


 入れる時を、店側が決めるために。


 入口の鈴が激しく鳴った。


 ちりん。


 ちりん。


 ちりん。


 二百三十七の音が重なり、一つの長い響きへ変わる。


 ルナが木札へ手を置く。


「お待ちください」


 その一言で、鈴の音が止まった。


 白い線が敷居の外へ落ちる。


【新規用途を登録】


【名称:来店受付】


【同時受入数:一】


【待機対象:二百三十七】


【帰還先の自動登録:停止】


【受付開始:保留】


 レオンの腕から白い痕が消える。


 机を覆っていた木目も元へ戻る。


 厨房の壁へ刺さっていた釘が抜け、天井の鎖が紙片へ変わった。床下の白い杭も力を失い、割れた床板の隙間から、ただの朝の暗がりが見えている。


 赤猫亭は元の広さへ戻った。


 壊れた物は残っている。


 傾いた椅子。


 傷の増えた机。


 床に散った芋。


 割れた皿。


 白い釘が開けた穴。


 それでも、白い場所へ塗り替えられた部分は一つもなかった。


「終わった?」


 ミアが赤紐から手を離す。


「受付は保留です」


 ブルーノが表示を読む。


「まだ誰も入ってきません」


「今日は入れない」


 アルトが言った。


「ナギとシグレが帰ってきたばかりだ」


「二百三十七人、待ってる」


「分かってる」


「また三日?」


 レオンがミアを見る。


 ミアは少しだけ口を閉じた。


「三日は長い」


「はい」


 レオンは入口へ歩く。


 戸口の向こうには、姿の見えない二百三十七人がいる。


 押してこない。


 店の中へ勝手に入ろうともしない。


 木札の前で、自分の順番を待っている。


「聞こえますか」


 レオンが呼びかけた。


 返事はない。


 ただ、遠くで一つだけ、小さく何かを叩く音がした。


 こん。


「今日は迎えに行けません」


 レオンは続ける。


「ですが、ここにいます」


 ナギが椅子から声を上げた。


「俺もいる」


 シグレも。


「私も」


 ルナは木札の横へ立つ。


「一人ずつ、話を聞きます」


 マルタが床の芋を拾い集めながら、入口へ顔を向けた。


「飯は一度に二百三十七人分も作れないよ」


「一人分なら?」


 ミアが聞く。


「明日ならね」


「多め?」


「一人分を多めにするんだよ」


 アルトは共有表示へ触れた。


【受付開始:保留】


 そのままにする。


 今すぐ救うと約束しない。


 全員を救えるとも言わない。


 だが、接続を切り捨てることもしなかった。


「明日からだ」


 扉の向こうへ告げる。


「一人ずつ来い」


 木札が一度揺れた。


 入口の鈴は鳴らない。


 客はまだ入っていないからだ。


 ナギは匙を拾い、冷めた芋をもう一口食べた。


「やっぱり薄いな」


 マルタの鉄匙が飛んできた。


 ナギは右手で受ける。


「危ないだろ!」


「動くじゃないか」


「右だけだ!」


「なら、皿も自分で持ちな」


 シグレが笑う。


 ミナは二人の足を診ながら、明日から歩く練習を始めると告げる。ナギは剣の稽古が先だと主張し、シグレとミナの両方から却下された。


 レオンは四つ目の椅子へ座る。


 今度は誰にも命じられていない。


 ナギとシグレの間ではなく、机の入口側。帰ってきた二人と、これから来る誰かの両方が見える場所だった。


「剣の続きは」


 レオンが尋ねる。


「明日だ」


 ナギが答える。


「逃げませんか」


「足が動かない」


「治ってからです」


「厳しいな」


「確認します」


「何を?」


「本当に戻るかどうかを」


 ナギはしばらくレオンを見た。


「戻る」


 シグレが先に答える。


「この人が追いかけても、私が連れて戻る」


「逆じゃないか?」


「あなたは敵を追う方でしょう」


「昔の話だ」


「二十二年寝ても変わってない」


 レオンは二人の言葉を聞き、机の上へ両手を置いた。


 冷たくない。


 人の体温。


 皿の温かさ。


 水差しから落ちた雫。


 戻ってきた者が使っている机の感触がある。


 ルナが厨房へ入り、マルタと並んで割れた皿を拾い始めた。


「ルナ」


 アルトが呼ぶ。


「はい」


「帰ったな」


 ルナはナギとシグレを見る。


 レオンを見る。


 入口の木札も。


「はい」


 自分の声で答えた。


「帰ってきました」


 赤猫亭の外には、二百三十七人が待っている。


 店の中には、帰ってきた二人がいる。


 その間にある扉へ、ブルーノが新しい札を掛けた。


 ――本日の受付は終了しました。


 その下には、先ほど書いた文字が残っている。


 ――帰還受付。一人ずつ。


 扉の向こうで押し合っていた気配が、静かに止まった。


 待たされているのではない。


 迎えに来る者がいると知って、自分の順番を待っている。


 マルタが入口の灯りを消す。


「閉店だよ」


 扉の外から、今度は一度だけ音が返った。


 こん。


 レオンは席を立たなかった。


「聞こえています」


 誰に向けたものかは、確かめない。


 赤猫亭は帰る場所ではない。


 帰る場所を失った者が、最初の一皿を食べる店になった。


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