第136話 戻ったら、続きを
机の脚が、白い床を突き破った。
帰還処理の完了を示していた共有表示が消えるより早く、傷の残る天板が大きく傾き、上に置かれていた小皿と水差しがシグレの側へ滑っていく。
「押さえて!」
ミナが水差しを受け止める。
レオンは倒れかけた椅子へ手を伸ばしたが、その足元にも細い亀裂が走り、白い床が何枚もの紙を剥がすように崩れ始めた。
ナギとシグレの帰還処理は終わった。
それは、この場所が二人を保持しておく理由も失ったということだった。
【帰還処理:完了】
【仮設経路を閉鎖します】
【外部持込物を回収します】
「回収って、赤猫亭の物をか!」
アルトが表示を机上へ落とす。
「そのようです!」
ブルーノが共有表示を読む。
「人間は?」
「帰還対象として認識されています。ただし、移動が完了したとは表示されていません!」
「なら、まだ終わってない!」
アルトはレオンの剣を差し出した。
「受けられるか」
「受けます」
レオンが柄を握る。
その背後で床が盛り上がった。
現れたのは、これまでの白い甲冑よりも細身の兵だった。頭部は楔のように尖り、両腕の先には刃が直接ついている。剣を持っているのではない。肩から伸びた腕そのものが、道や物を切断するための長い刃になっていた。
一体目が机へ向く。
二体目は水桶。
三体目は赤紐で結ばれた椅子を狙い、低い姿勢で床を滑った。
「閉鎖用の実働処理です!」
ルナが叫ぶ。
「帰還を妨害しているのではありません! 使い終わった経路を切り離そうとしています!」
「俺たちはまだ使ってる!」
アルトが短剣を抜く。
「それを向こうは認めていません!」
「なら、認めるまで壊す!」
一体目の刃が振り下ろされた。
ガルムが机の手前へ飛び込み、両手で天板を押した。重い机が床を擦りながら半歩下がり、白い刃は前脚のすぐ先へ突き刺さる。
床が裂けた。
刃の左右から亀裂が伸び、帰還路の片側が暗闇へ落ちていく。
「道を切るぞ!」
ガルドが木槌を構える。
「先に腕を落とせ!」
白い兵が刃を引き抜く。
ガルドは正面へ入らず、腕が持ち上がった瞬間に外側へ踏み込み、肘の継ぎ目へ木槌を振り下ろした。
かん。
表面に亀裂が走る。
兵がもう一方の刃を横へ薙ぐ。
ガルドは身を沈めて避け、倒れ込むようにもう一度同じ場所を叩いた。
かん。
白い腕が肘から折れる。
「一つ!」
「後ろに二つ来ています!」
ブルーノが声を上げた。
水桶へ向かった兵の前には、ルナとミナが立っている。二人で取っ手を持ち上げようとしたが、桶の底から白い線が何本も伸び、床へ縫いつけようとしていた。
「水桶を離します!」
ルナが言う。
「受けられる方!」
「受ける!」
マルタが小鍋を机へ置き、桶の片側へ入る。
「私も!」
ミアが反対側の取っ手を掴んだ。
「お前は皿を持て!」
「桶も持てる!」
「持てても運ばれるだろ!」
マルタはミアの襟首を片手で掴み、水桶から引き離した。
「ブルーノ!」
「受けます!」
ブルーノが記録端末を腰袋へ押し込み、空いた取っ手を持つ。
三人で水桶を持ち上げる。
底から伸びた白い線が張り詰める。
一本。
二本。
ガルドの木槌が横から入り、線を床へ叩きつけた。白い線は切れなかったが、僅かに緩み、水桶が指二本分だけ持ち上がる。
「もう一度!」
マルタが声をかける。
三人が腰を落とし、同時に立ち上がった。
白い線が根元から抜ける。
水桶の蓋が大きく鳴った。
かん。
中から、こつ、と小さな音が返る。
二人分の残滓は消えているはずだった。
「今のは?」
ブルーノが桶を見る。
「立ち止まらないでください!」
ルナが言う。
「確認は赤猫亭へ戻ってから!」
椅子を狙った三体目が、床すれすれを走る。
ミアは皿を包んだ布袋を胸へ抱え、椅子の脚へ身体を寄せた。白い刃は人間ではなく、赤紐だけを正確に狙っている。
レオンが間へ入った。
剣を振り下ろす。
兵は腕の刃を立て、真正面から受けた。
硬い衝撃がレオンの肩まで走る。
押し返そうとした瞬間、ナギの声が飛んだ。
「手首で押すな!」
ナギはガルムの背に負われていた。
長い眠りから目覚めたばかりで、自力では数歩も歩けない。それでも、白い兵とレオンの足運びを見つめる目だけは、先ほどまでの朦朧としたものではなくなっている。
「肘を落とせ! 前へ入れ!」
レオンは剣を押す力を抜いた。
白い刃が前へ滑る。
同時に肘を腰まで下げ、相手の腕の内側へ一歩踏み込む。剣を身体へ引きつけながら刃を横へ滑らせると、白い兵の肩口が大きく開いた。
「そこだ!」
斜めに斬り上げる。
白い腕が肩から飛んだ。
レオンはそのまま追いかけようとした。
「戻れ!」
ナギが叫ぶ。
兵は片腕を失っている。
あと一歩踏み込めば倒せる。
だが、レオンは足を止めた。
すぐに椅子の前へ下がる。
次の瞬間、倒れた腕の切り口から細い刃が飛び出し、先ほどまでレオンがいた場所を薙いだ。
さらに、別の白い兵が横から現れ、椅子へ腕を伸ばしている。
レオンは戻した剣でその刃を受けた。
「これが、続きですか」
「まだ入口だ!」
ナギが答える。
「斬って終わりだと思うな!」
レオンは白い刃を外へ流し、敵の膝を横から斬った。
兵が崩れる。
今度は追わない。
すぐに椅子の前へ戻る。
「戻った者までが、剣の動きだ!」
ナギの声に、レオンは短く息を吐いた。
「覚えます」
「忘れるな!」
「それも覚えます」
シグレはミナに肩を借りながら歩いていたが、その会話を聞くと、僅かに眉を寄せた。
「二十二年ぶりに会って、最初に剣を教えるの?」
「本人が聞いた」
「あなたが叫んだの」
「危なかったからだ」
「謝罪の続きは?」
「赤猫亭でやる」
「また先に延ばす」
「今度は一緒に行く!」
シグレは言い返そうとしたが、足元の床が崩れた。
「シグレさん!」
ミナが腕を引く。
白い床の一部が剥がれ、シグレの左脚が暗闇へ落ちた。ミナ一人では身体を支えきれず、二人とも亀裂の方へ引かれていく。
レオンが椅子の前から離れようとする。
「受けられる方!」
叫ぶ。
「俺が受ける!」
アルトが椅子へ走る。
レオンは返事を聞いてから動いた。
床へ剣を置かず、左手だけを伸ばし、シグレの手首を掴む。右手の剣は背後へ向け、近づく白い兵を牽制する。
シグレの身体がさらに沈む。
「レオン、剣を離して!」
「離しません!」
「片手じゃ引けない!」
「一人で引きません!」
「ガルム!」
レオンの声に、ガルムはナギを背負ったまま身体を低くした。
「ナギ、掴まれ!」
「誰に言ってる!」
「俺にだ!」
ナギがガルムの肩へ右腕を回す。
ガルムは空いた左手でレオンの腰帯を掴んだ。
「引くぞ!」
三人の力がつながる。
ミナがシグレの肩を押し上げる。
レオンが手首を引く。
ガルムが二人まとめて後ろへ引いた。
シグレの膝が床へ戻る。
白い亀裂の縁が崩れ、足首を噛むように閉じようとしたため、レオンは剣を逆手へ持ち替え、床との隙間へ差し込んだ。
刃が支えになる。
「今です!」
シグレが足を抜く。
全員が後ろへ倒れ込んだ。
白い床が閉じ、レオンの剣を挟む。
抜けない。
レオンは柄を握った。
シグレも柄へ手を添える。
「二人で」
「受けます」
「受けるじゃなくて、引くの」
「引きます」
二人が同時に力を込める。
刃が白い床から抜けた。
「ありがとう」
シグレが言う。
レオンの手が一瞬止まる。
「こちらこそ」
「私、何かした?」
「戻ってきました」
シグレは目を伏せた。
「まだ赤猫亭には着いてない」
「では、着いてからもう一度言います」
「それなら聞く」
白い場所の奥から、大きな音が響いた。
閉鎖処理の兵が増えている。
五体。
さらに、その背後の床から、刃だけが何十本も突き出した。白い広間は中央から折り畳まれ、遠くに見える赤猫亭の戸口へ向かって、一行を押し流そうとしている。
【経路閉鎖まで残り僅か】
「数は!」
レオンがブルーノへ尋ねる。
「正面に五体! 床の刃は数えません!」
「五体。確認しました」
「一度だけですね」
「はい」
「それで十分です!」
ブルーノは巻物の入った袋を背負い直す。
「隊列を作ります!」
机はアルト、ガルム、ガルド、ブルーノ。
水桶はマルタとルナ。
ミアが皿と水差し。
ミナがシグレ。
ナギはガルムの背。
レオンは椅子を片手に持ち、最後尾へ立った。
「最後に立つのか」
アルトが尋ねる。
「数えるためではありません」
「なら何だ」
「戻るためです」
レオンは剣を構えた。
「全員が先へ進んだら、私も戻ります」
アルトは頷く。
「遅れるなよ」
「はい」
白い兵が一斉に走り出した。
「進め!」
机を持ち上げる。
一行が走る。
正面の五体は横一列に並び、刃の腕を交差させ、道そのものを塞いでいた。中央を突破しようとすれば、机か人間のどちらかが切断される。
「右へ寄せろ!」
アルトの声で机を運ぶ四人が向きを変える。
白い兵も右へ動く。
「戻せ!」
今度は左。
重い机の脚が床へぶつかり、椅子が天板の上で鳴る。白い兵の列がわずかに乱れ、中央の一体と左端の間へ隙間ができた。
「ガルム!」
「ナギ、落ちるなよ!」
ガルムは机から両手を離した。
ナギを背負ったまま前へ走り、中央の兵へ肩をぶつける。白い刃が肩口を掠め、外套と皮膚を浅く裂いたが、勢いは止まらない。
兵が隣へぶつかる。
二体の刃が絡む。
「ガルド!」
「足を止めるな!」
ガルドの木槌が白い膝へ入る。
アルトは机の片側をブルーノへ押しつけ、短剣を抜いて反対側の足首を斬った。
中央の兵が倒れる。
「抜けろ!」
机が隙間を通る。
水桶。
ミア。
ミナとシグレ。
四つ目の椅子。
残る白い兵が左右から襲いかかった。
レオンは一体目の刃を受け流し、肩の継ぎ目を斬る。
追わない。
椅子の横へ戻る。
二体目がミナの背中へ迫る。
レオンは一歩踏み込み、膝を斬る。
倒れた敵の上を越えず、同じ一歩で後ろへ戻る。
三体目の刃が椅子へ伸びる。
剣の腹で外へ逸らし、柄頭を顔の窪みへ叩き込む。
再び戻る。
前へ出る。
斬る。
戻る。
白い兵を追いかけるのではなく、赤猫亭へ運ぶ物と人の周囲を崩さないよう、短い距離を何度も往復する。
「それだ!」
ナギがガルムの背から叫ぶ。
「剣は敵のところで終わらない!」
レオンは最後の兵の腕を切断した。
白い身体がよろめく。
剣を胸へ突き立てれば倒せる。
だが、背後で床が割れる音がした。
振り返る。
シグレが足を止めている。
白い刃が床から伸び、外套の裾を貫いていた。
レオンは敵を残し、シグレへ戻った。
床の刃を一撃で切る。
外套が自由になる。
「進んでください!」
「敵は?」
「戻る場所を守りました!」
シグレはレオンを見る。
泣きそうな顔で、それでも笑った。
「覚えるの、早いね」
「二十二年分、遅れています」
「それはナギに言って」
「聞こえてる!」
ナギが答えた。
残った白い兵が後ろから追う。
レオンは振り返らない。
赤猫亭の戸口が近づいている。
敷居の外には十一柱の神々が残り、決められた位置から動かず、一行を見ていた。
歓声はない。
投げ銭も。
予測表示も。
戸口から見える範囲だけを、客として見守っている。
最初に机が敷居を越えた。
アルトたちが店内へ運び込む。
続いて水桶。
皿。
水差し。
小鍋。
ミナとシグレ。
ガルムの背にいるナギ。
最後にレオンが四つ目の椅子を持って走る。
白い兵が背後へ迫った。
刃が振り下ろされる。
レオンは椅子を先に敷居の内側へ滑らせた。
「受けられる方!」
「受ける!」
アルトが椅子を掴む。
レオンは身体を反転させ、白い刃を剣で受け流す。
敵の懐へ入る。
首の付け根を斬る。
白い兵が崩れる。
その背後に、閉じていく白い場所が見えた。
まだ何体もの兵がいる。
だが、レオンは追わない。
踵を返し、赤猫亭へ戻る。
敷居を越えた瞬間、扉が閉じた。
どん。
入口の鈴が激しく揺れる。
ちりん。
白い光が扉の隙間から漏れ、すぐに消えた。
レオンは剣を構えたまま、しばらく動かなかった。
「全員いるか」
アルトが聞く。
ブルーノが店内を確認する。
「十一人です」
レオンも一度だけ見る。
アルト。
ルナ。
ミナ。
ミア。
ガルム。
ガルド。
マルタ。
ブルーノ。
ナギ。
シグレ。
そして自分。
「十一人。一致しました」
剣を鞘へ戻す。
「戻りました」
「おかえり」
マルタが答えた。
ルナもレオンを見る。
今度の声は、門から流されない。
「おかえりなさい」
レオンは立ったまま、目を閉じた。
「はい」
それ以上は答えられなかった。
ナギとシグレは、赤猫亭の机の前へ座らされた。
マルタが芋を深皿へよそい、水差しから二人分の水を注ぐ。ミナは食事より先に身体を確認しようとしたが、ナギが匙を握ったため、仕方なく一口ずつという条件をつけた。
「薄い」
ナギが芋を食べて言った。
「二十二年ぶりの最初の感想がそれかい」
マルタが鉄匙を持つ。
「悪くない」
「遅いよ」
シグレも一口食べる。
しばらく噛み、飲み込む。
「温かい」
「そりゃよかった」
マルタは二人の前へ水を置いた。
ミアが机の端から尋ねる。
「二十二年、お腹空かなかった?」
「途中から分からなくなった」
シグレが答える。
「今は?」
「空いてる」
「いっぱいある」
「それは私が作ったんだよ」
マルタが言う。
「ミアが作ったのは、芋の皮の山だ」
「手伝った」
「半分食べただろ」
「味見」
ナギが笑った。
笑った拍子に咳き込み、ミナから水を渡される。
レオンは机から少し離れた場所に立っていた。
ナギが空いている椅子を指す。
「座れよ」
「見張ります」
「誰を」
レオンは扉を見る。
白い光は戻ってこない。
「念のために」
「三日も見張った」
「待っていました」
「じゃあ、今度は座れ」
レオンは四つ目の椅子へ腰を下ろした。
机の傷へ手を置く。
ナギがレオンの剣を見る。
「途中までは覚えてたみたいだな」
「身体が覚えていました」
「続きは?」
「教えてください」
「今?」
シグレがナギを見る。
「また剣?」
「約束だからな」
「食べ終わってからにして」
「口で教えるだけだ」
ナギは匙を皿へ置いた。
「斬ったら、戻れ」
レオンは黙って聞く。
「前へ出る時は、戻る足を残す。相手が倒れたか確かめるより、守った相手が立っているか確かめろ。追うのは、それからだ」
「はい」
「剣の続きは、戻る動きだ」
レオンの指が、机の表面をゆっくりなぞった。
「覚えました」
「今度は忘れるな」
「忘れても、もう一度聞きます」
ナギの顔が崩れた。
笑ったのか。
泣いたのか。
本人にも分からないようだった。
「それでいい」
シグレがナギの腕を軽く叩く。
「あなたも忘れないで」
「何を」
「謝罪の続き」
ナギはレオンを見る。
「置いていって、ごめん」
今度は報告ではなかった。
言い訳も。
事情の説明もない。
ただ、二十二年前に残した少年へ向けた言葉だった。
シグレも頭を下げる。
「帰れなくて、ごめんなさい」
レオンは机の下で両手を握った。
すぐに許すとは言わない。
怒っているとも。
何も感じていないとも言わなかった。
「聞きました」
二人を見て、続ける。
「戻ってきたことも、見ています」
ナギは顔を上げた。
「それで十分か」
「今は」
レオンは一度言葉を止めた。
「いいえ。これから確認します」
「何を?」
「剣の続きを、本当に最後まで教えるか」
ナギが笑う。
「厳しいな」
「よく言われます」
「誰に」
「赤猫亭の皆さんに」
「言ってない」
ミアが即座に否定した。
「私も聞いたことないね」
マルタも続く。
レオンは少し考える。
「では、今後言われる予定です」
アルトは笑いかけた。
その時、入口の扉が三度鳴った。
こん。
こん。
こん。
客の拳で叩いた音ではない。
最初の一度は扉。
二度目は厨房の壁。
三度目は地下へ続く床板の下から響いた。
店内の空気が止まる。
アルトの視界へ、新しい表示が浮かんだ。
【帰還先:赤猫亭】
【仮登録を恒常登録へ変更します】
「待て」
表示へ手を伸ばす。
止まらない。
【未成立の帰還先から接続要求を受信】
数字が一つ現れる。
【待機対象:二百三十七】
上の階で、窓が鳴った。
厨房の棚。
裏口。
空の樽。
使われていない皿。
赤猫亭のあらゆる場所から、遠慮がちな音が一度ずつ返ってくる。
帰れない者たちが、帰還先になった店を見つけていた。
レオンは立ち上がらなかった。
机に座ったまま、音を聞いている。
「数えますか」
ブルーノが尋ねた。
「いいえ」
レオンはナギとシグレを見た。
「今は、ここにいる人を確認します」
赤猫亭の外には、帰り方を知らない者たちの列が、もう一つできていた。




