第135話 二人の耳
ルナの声が消えたあとも、白い場所には「おかえりなさい」の余韻だけが残っていた。
門から流される音声ではない。
誰かに決められた高さでも、優しさを模倣した空っぽの声でもない。
喉が震え、唇が動き、息と一緒に生まれた言葉だった。
その声を最初に受け取ったのは、ナギでもシグレでもなかった。
二人の耳を覆う、白い殻だった。
ぴしり、と細い亀裂が走る。
ナギの右耳。
シグレの左耳。
別々の場所を覆っていた殻が同時に割れ、その隙間から黒い水のようなものが一筋ずつ流れ出した。
「離れて!」
ルナが叫んだ。
アルトは机の手前へ踏み込み、短剣を抜く。
ナギとシグレは、赤猫亭から運んだ机を挟んで向かい合うように横たえられている。二人のそばには椅子が一脚ずつ、机の短辺には水を出すための席、そして長辺の入口側には、まだ誰も座っていない四つ目の椅子が置かれていた。
白い殻から流れ出した二本の黒い筋は、床へ落ちる前に形を変える。
細い針。
耳へ差し込むための針だった。
一本はナギへ。
もう一本はシグレへ向きを変える。
ただし、自分が出てきた耳ではない。
ナギの殻から生まれた針がシグレへ。
シグレの殻から生まれた針がナギへ飛んだ。
「アルトさん、止めないでください!」
短剣を振ろうとしたアルトの腕を、ルナの声が止める。
「耳を狙ってるぞ!」
「声です!」
「針にしか見えない!」
「砕けた呼びが、届く形へ戻ろうとしています!」
黒い針の後ろから、白い手が伸びた。
床の中から現れた五本指が、ナギへ向かう針を掴む。もう一本にも別の手が伸び、二つの声を再び引き離そうとしていた。
「黒い方は通せ! 白い方だけ落とせ!」
アルトが叫ぶ。
レオンの剣が抜かれる。
白い手首だけを狙い、斜めに斬り下ろす。刃が手首を断ち、黒い針は勢いを失わずナギへ向かったが、床から二本目の腕が飛び出し、その軌道へ掌を差し込んだ。
レオンは踏み込む。
剣を返す空間がない。
左肩を白い腕へぶつけて外へ押し出し、空いた右肘を腕の関節へ叩き込む。白い指が針を掴む寸前、ガルムの爪が横から入り、手の甲を四本の筋に裂いた。
「一つ通る!」
ブルーノの声が飛ぶ。
ナギへ向かった黒い針が、右耳へ入った。
身体が跳ねる。
背中が床から浮き、両手の指が強く曲がった。閉じた瞼の奥で眼球が激しく動き、凍りついていた唇から、長い息が漏れる。
「ナギさん!」
ミナが身体を押さえる。
「呼吸はあります! 脈も――」
ナギの口が動いた。
音にならない。
それでも、形は分かった。
おいていかないで。
「聞こえたのか」
レオンがナギを見る。
返事はない。
だが、ナギの顔には、痛みとは別のものが浮かんでいた。
驚き。
そして、二十二年遅れて届いた声を、ようやく誰のものか理解した者の顔。
残る一本がシグレへ迫る。
白い床が大きく盛り上がった。
今度は腕だけではない。
白い人型が三体、机のシグレ側に並んで立ち上がる。顔はなく、胸には同じ文字が刻まれていた。
【呼称衝突】
【分離処理】
【再凍結】
一体目が黒い針へ両手を伸ばす。
二体目はシグレの椅子を蹴り倒し、机から引き離そうとする。
三体目は、空いていた四つ目の椅子を掴んだ。
「椅子を取られる!」
ミアが背板へ飛びつく。
白い人型は、ミアごと椅子を持ち上げた。
床へ届かない足が宙で揺れる。
「重っ……!」
「離せ!」
アルトが走る。
「嫌!」
「お前が持っていかれる!」
「これがないと、レオンが座れない!」
人型は椅子を頭上まで持ち上げ、そのまま白い場所の奥へ投げようと腕を振りかぶる。
マルタが小鍋を机へ置いた。
空いた両手で鉄匙を握り、白い人型の膝裏へ横から叩き込む。
がん。
片脚が折れた。
身体が傾く。
アルトはミアの腰を片腕で抱え、もう片方の手で椅子の座面を掴んだ。人型が椅子を離さないため、ガルドが背板と白い指の間へ木槌の柄を差し込み、梃子のように捻る。
「ミア、手を離せ!」
「椅子も取って!」
「先にお前だ!」
「一緒に取れる!」
「落ちるぞ!」
「アルトが持ってる!」
ガルドが柄へ体重をかける。
白い指が一本ずつ開く。
最後の一本が背板から外れた瞬間、椅子の重さがアルトへ一気に乗り、三人まとめて床へ倒れた。
椅子の脚が白い床を叩く。
どん。
赤猫亭で何度も誰かを支えてきた木の音が、白い場所へ広がった。
ナギとシグレを覆う殻が、もう一段割れる。
「レオン!」
ルナが四つ目の椅子を指した。
「座ってください!」
レオンは白い人型の腕を剣で受けながら振り返る。
「今ですか!」
「今でなければ、届きません!」
「敵が残っています!」
「だから座れ!」
アルトが立ち上がり、椅子を机の入口側へ押し込んだ。
「戦える奴はほかにもいる!」
「ですが――」
「お前が剣を振っても、二人の帰る場所にはならない!」
レオンの剣と白い腕が噛み合う。
相手の力は強く、刃を挟んだまま机から遠ざけようとしている。レオンは腰を落とし、剣を引き戻そうとしたが、後方から新たな人型が現れた。
二体。
三体。
いずれもレオンへ向かっている。
ナギでも。
シグレでも。
机でもない。
椅子へ座ろうとする者を、帰還先になる前に排除しようとしていた。
「レオン、剣を離せ!」
ナギの声がした。
まだ目は閉じている。
身体も動かない。
だが、声だけが出た。
弱く、掠れ、それでも確かにナギの声だった。
「ナギさん?」
「そこに、いるんだろ」
レオンの動きが止まる。
「はい」
「座れ」
「でも」
「待ってたんだろ」
「はい」
「なら、今度は待つ場所になれ」
白い人型がレオンの肩へ手を伸ばす。
ガルムが横から飛び込み、人型の胴へ両腕を回した。身体ごと持ち上げ、後方から来た二体へ投げつける。
三体が絡み合って倒れる。
「早く行け!」
ガルムが叫んだ。
「ここは俺たちが止める!」
レオンは剣を見た。
二十二年間、手放さなかったもの。
誰かを救うため。
誰かを置いてこないため。
後ろに残る者がいないか確かめるために、握り続けてきた剣。
だが、今必要なのは剣を振る者ではない。
帰ってきた二人が見つけられる場所。
入口に残り、三日待った子どもが、大人になった今もそこにいるという証明だった。
「剣を預けます」
レオンが言った。
「受けられる方」
「受ける!」
アルトが答える。
レオンは白い腕から刃を引き抜き、柄をアルトへ向けた。
受け取った瞬間、別の人型が踏み込む。
アルトは慣れない長剣を両手で持ち、刃ではなく柄を敵の胸へ押し当てた。正面から止めきれず、靴底が床を滑ったが、ミナの杖が人型の膝へ入り、ガルドの木槌が反対側から足首を砕く。
「座れ!」
アルトがもう一度叫んだ。
レオンは四つ目の椅子へ腰を下ろした。
背筋は伸びている。
両足は床へついている。
だが、座っただけでは何も起きない。
「机へ手を!」
ブルーノが記録端末を確認する。
「待機者の接触が必要です!」
レオンは両手を机へ置いた。
掌の下には、傷がある。
何度も修理された跡。
水が染みた色。
皿を置いた丸い跡。
赤猫亭で誰かが食べ、話し、待ち、帰ってきた時間が、滑らかではない木の表面に残っている。
レオンの右手が震えた。
「冷たいです」
「入口か」
アルトが尋ねる。
「いいえ」
レオンは机を押さえる。
「三日目の手です」
七歳の自分。
冷たい入口へ座り、戻ると約束した二人を待ち続けた手。
大人になった手の下で、机が一度鳴った。
こつ。
白い場所が揺れる。
アルトの視界に表示が浮かんだ。
【待機者:レオン】
【現在地:赤猫亭持出場所】
【接触物:使用中】
表示が途中で止まる。
白い人型が一斉にレオンへ向いた。
六体。
倒れていたものまで立ち上がる。
腕を武器の形へ変える。
槍。
斧。
長い鉤。
「全員、机へ近づけるな!」
アルトがレオンの剣を構えた。
最初の槍を刃の腹で受ける。
重い衝撃が両手へ伝わり、剣先が床へ落ちかける。レオンのようには流せないため、アルトは槍を外へ払うのを諦め、柄へ身体を寄せて敵との距離を潰した。
膝を腹へ入れる。
白い板が僅かにへこむ。
空いた左手で短剣を抜き、脇の継ぎ目へ突き立てる。
「ガルム、右!」
「二体来てる!」
「一体ずつ止めろ!」
「簡単に言うな!」
ガルムは一体目の斧を両腕で受け止めると、身体を半回転させ、その勢いのまま二体目へ斧ごとぶつけた。
武器同士が衝突する。
白い刃が砕ける。
ガルドは砕けた斧の破片を拾い、机の脚を狙う鉤の内側へ差し込んだ。鉤が閉じる。破片を噛んで動きが止まったところへ、木槌を二度振り下ろす。
一撃目で亀裂。
二撃目で指が外れる。
マルタは鉄匙で机へ伸びる手を叩き、ミアは落ちた赤紐を拾って椅子の脚へ結び直す。ブルーノは机の反対側へ回り、白い手が天板へ乗るたび、記録端末ではなく厚い紙束を丸めて指の間へ差し込んだ。
「それで止まるのか!」
アルトが聞く。
「少しは!」
「少ししか止まってないぞ!」
「紙は武器ではありません!」
「分かってる!」
ミナが横から杖を振る。
紙束を掴んだ白い手首へ打ち込み、ブルーノごと机から引き離した。
「記録を守るより、自分を守ってください!」
「両方守ります!」
「では後ろへ!」
ルナだけが戦列へ入らなかった。
ナギとシグレの間に立ち、二人の耳を覆う白い殻へ両手を添えている。黒い針を通したナギ側は半分以上崩れているが、シグレ側では白い殻が再び閉じようとしていた。
「シグレさん」
ルナが呼ぶ。
「聞いてください」
返事はない。
黒い針は、白い手に掴まれたまま空中で震えている。
声が届かない。
「ナギさん」
今度はナギへ。
「もう一度、言えますか」
ナギの喉が動く。
「……何を」
「二十二年前に言ったことを」
「言ったら、また止まる」
「今度は、止めません」
「でも」
「届かせます」
ナギは閉じた目の奥で、何かを探している。
門。
崩れる処理。
離れた待機区画。
残してきた少年。
シグレの姿が見えなくなり、声だけがどこかへ吸い込まれた瞬間。
ナギの唇が開く。
「おいていかないで」
黒い針が強く震えた。
掴んでいた白い手の指が一本弾ける。
ナギは続けた。
「シグレ」
二本目。
「レオンを、一人にしないでくれ」
白い手が砕けた。
黒い針がシグレの左耳へ飛び込む。
シグレの身体が大きく反る。
喉から息が漏れる。
白い殻へ亀裂が走り、耳だけではなく、頬、首、胸元まで一気に崩れ始めた。
シグレの口が動く。
声が出る。
「……おいていかないで」
ナギの指が震えた。
「聞こえた」
シグレは目を開かない。
それでも、声はナギへ向いている。
「ナギ。レオンを連れて、先に行かないで」
「行ってない」
「聞こえなかった」
「俺もだ」
二つの同じ言葉が、二十二年越しに互いの耳へ届く。
どちらも、自分を置いていくなと頼んでいたのではない。
少年を一人にしないでほしかった。
同じ相手を守ろうとして、別々の場所から叫び、届かないまま衝突していた二つの声。
ナギの目尻から涙が流れる。
シグレの頬にも。
「レオンは?」
シグレが聞く。
「ここにいます」
レオンが答えた。
机へ両手を置いたまま。
白い人型が背後まで迫っている。
それでも立たない。
「大きくなりました」
「見えない」
「目を開けたら見えます」
「待った?」
「三日」
レオンの声は震えなかった。
「三日、待ちました」
机の下から音がした。
こと。
白い床へ沈んでいた脚が、元の高さへ戻る。
アルトの視界に浮かんでいた表示が動いた。
【待機者:レオン】
【接触物:使用中】
【待機者を帰還先候補として登録】
白い人型が一斉に速度を上げる。
「あと少しだ! 絶対に通すな!」
アルトはレオンの剣を横に構え、机の前へ立った。
槍が来る。
刃で受けず、剣を斜めにして穂先を床へ滑らせる。今度はレオンの動きを思い出し、腕だけではなく腰ごと回した。
槍が外れる。
前へ踏み込む。
柄頭を敵の胸へ打ち込み、ひびの入った場所へ短剣を突き立てる。
一体が崩れる。
ガルムが二体目を机から遠ざけ、ガルドが三体目の膝を砕く。ミナはレオンの背後へ回り、長い鉤を杖で受け止め、マルタとミアが机の脚を両側から押さえた。
ブルーノが叫ぶ。
「登録が止まっています!」
「何が足りない!」
「待機者だけでは、場所になりません!」
「机も椅子もある!」
「使用者が一人です!」
マルタが小鍋の蓋を開けた。
まだ温かい湯気が立つ。
「なら、使えばいい」
芋を一つ、小皿へ載せる。
レオンの前へ置いた。
「食べな」
「今ですか」
「今だよ」
「戦闘中です」
「座ってるだろ」
レオンは机の前に置かれた芋を見る。
白い人型。
剣を預けた自分。
目を覚ましかけている二人。
赤猫亭から運ばれた机と椅子。
帰還処理は、それでもここを場所として認めていない。
レオンは芋を手に取った。
一口食べる。
冷めかけている。
塩は薄い。
赤猫亭で何度も食べた味だった。
「水も」
ルナが水差しを持つ。
コップへ注ぐ。
レオンは受け取り、一口飲んだ。
机へ戻す。
こと。
表示が更新される。
【使用記録:食事】
【使用記録:飲水】
【使用者:レオン】
【待機者=使用者】
最後の白い人型が机へ飛びかかった。
ガルムが間に合わない。
アルトも、別の敵へ剣を突き立てたまま動けない。
白い腕がレオンの首へ伸びる。
ナギの手が動いた。
床に横たわったまま、レオンの袖を掴む。
弱い力だった。
引き寄せることも。
守ることもできない。
ただ、そこにいることを確かめる手。
シグレの指も動く。
机の端へ触れる。
三人が同じ机へつながった。
表示が白く染まる。
【待っていた人間を確認】
【待機者を帰還先として登録】
【帰還先:成立】
レオンへ迫っていた白い腕が止まった。
指先から崩れる。
一体。
二体。
白い場所に残っていた人型が、すべて紙片へ変わっていく。
静けさが戻る。
ナギとシグレの間に、二つの黒い破片が浮かんでいた。
名前のない神貨に似た、小さな金属片。
一つはナギの声。
一つはシグレの声。
二つは机の中央までゆっくり進み、互いの縁へ触れた。
きん。
一度だけ鳴る。
金属は形を失い、黒い水へ変わった。
混ざる。
皿の上へ落ちる前に薄い湯気となり、二人の間で消えた。
【呼称衝突:解消】
【凍結処理:解除】
【帰還処理:完了】
共有表示を、誰もすぐには読まなかった。
ナギの手がレオンの袖を掴んでいる。
シグレの指が机へ触れている。
レオンは芋を持ったまま、二人を見ていた。
「帰ってきたんですか」
ミアが小さく聞く。
ルナは答えなかった。
答える必要がなかった。
ナギの胸が大きく持ち上がる。
息を吸う。
シグレも続く。
二十二年間止まっていた二人の呼吸が、同じ机の前で重なった。
ナギの目が、ゆっくり開く。
ぼやけた視線が机を越え、レオンの顔へ届く。
掴んでいた袖へ、僅かに力が入った。
「……三日より、遅くなったな」
レオンは答えようとした。
だが、その前にシグレも目を開けた。
彼女は大人になったレオンを見上げ、最初に剣ではなく、手に持っている芋を見た。
「剣の続きより先に、食べ方を教わったの?」
レオンの目から涙が落ちた。
皿の脇へ。
とん。
白い場所が、その音を初めて消さずに残した。




