第134話 三人分の帰り道
沈みかけた四つ目の椅子を、レオンが背板ごと引き上げた。
白い床は泥のように柔らかくなっているのに、椅子の脚を呑み込む力だけは異様に強く、両腕で抱えても一寸ずつ沈んでいく。レオンが腰を落とし、足を開いて踏ん張ると、ナギも動く右腕で座面を掴み、シグレはミナの肩を借りながら反対側の脚へ手を伸ばした。
「私が残ります」
レオンが言った。
「聞こえなかったの?」
シグレは息を切らしながら、椅子を引いた。
「駄目だって言った」
「帰還枠は二つです」
「だから何」
「ナギさんとシグレさんが使ってください」
「お前を迎えに戻った私たちが、お前を置いて帰るの?」
「私はすでに外で生きています」
「今のお前は、ここにいる!」
シグレの怒声に合わせ、床の奥から白い腕が伸びた。
椅子の脚を掴む。
一本。
続いて二本目。
人間の腕より細く、関節が三つある指が、赤紐の結び目へ爪を差し込んだ。
「触るな!」
ナギが白い手首を蹴る。
力の入らない左腕を庇いながらの一撃では折れなかったが、指が赤紐から僅かに離れた。
レオンの剣が走る。
白い腕を床ぎりぎりで切断する。
切り口から血は出ず、細かく刻まれた文字が紙片となって噴き出した。
【超過対象】
【帰還枠外】
【切離対象】
アルトは共有表示を払った。
「勝手に一人選ぶな」
表示は消えない。
【超過対象を選択してください】
【未選択の場合、自動処理を開始します】
白い床に二本の溝が現れた。
ナギとシグレの身体の下から、遠くに見える赤猫亭の戸口へ向かって、真っ直ぐ伸びている。幅は椅子一脚分ほどしかなく、表面には薄い水が流れ、入口の光を揺らしながら二人を運ぶ準備を始めていた。
レオンの足元には何もない。
代わりに、四つ目の椅子の下だけが黒く染まっている。
「二本しかない」
ブルーノが膝をつき、溝へ指を入れた。
「見れば分かる!」
アルトが言う。
「深さを確認しています!」
「どうだ!」
「底があります。表示ではなく、実物です!」
ブルーノの指先は白く濡れていた。
溝の深さは手のひらほど。側面は硬く磨かれ、水は赤猫亭側へ流れている。
「二本の水路みたいだね」
マルタが小鍋を机へ置く。
「三本目を掘ればいい」
「床は普通の木じゃないぞ」
「だから、職人がいるんだろ」
全員がガルドを見る。
ガルドは返事をせず、二本の溝へ木槌の柄を入れ、底と側面を順に叩いた。
こつ。
かん。
こん。
音が違う。
溝の底。
側壁。
何もない床。
ガルドは床へ耳を近づけ、三本目を作るならどこが最も薄いか探っていく。その背後で、白い床の亀裂から新しい甲冑が立ち上がった。
先ほどまでの兵とは形が違う。
頭一つ分高く、両肩から四本の腕が伸びている。上の二本には幅広の斧、下の二本には先端が湾曲した鉤。胸の中央には二つの円が刻まれ、その片方にナギ、もう片方にシグレの名が浮かんでいた。
レオンの名はない。
「帰還枠の護衛です!」
ルナが叫ぶ。
「三人目を入れないために、溝と椅子を破壊します!」
「椅子を守れ!」
アルトが短剣を抜く。
白い巨兵は机を迂回せず、正面から突進した。
上段の斧が振り下ろされる。
ガルムが前へ出た。
両腕を交差させ、斧の柄を受け止める。刃そのものを受ければ腕ごと切断されるため、振り下ろされる途中の柄へ身体をぶつけ、軌道を机の外側へずらした。
白い刃が床へ食い込む。
広間が揺れた。
「重い!」
「見れば分かる!」
ガルムが牙を剥く。
「押し返すぞ!」
レオンが横から踏み込んだ。
上の腕を斬ろうとしたが、下段の鉤が剣の鍔へ引っかかり、刃ごと外側へ持っていかれる。もう一本の鉤が、背後にある四つ目の椅子を狙って伸びた。
ナギが短い槍を投げる。
穂先ではない。
柄の中央が鉤へ当たり、椅子から僅かに逸らした。
「レオン、手首で止めるな!」
ナギが叫ぶ。
「肘を落とせ!」
レオンは反射的に従った。
引かれていた剣の柄を胸元へ戻し、肘を腰まで落とす。鉤の力を正面から受けず、腕の内側へ沿わせるように剣を滑らせると、白い鉤が鍔から外れた。
「そのまま踏み込め!」
レオンは一歩前へ出る。
敵との距離が消える。
剣を振り回す空間はない。
柄頭を甲冑の胸へ叩き込み、刻まれた二つの円の間へ亀裂を入れた。
「これが、続きですか」
「入口だけだ!」
ナギは落ちた槍を拾おうとして、左腕の痛みに顔を歪めた。
「帰ってから全部教える!」
「今度こそ?」
「絶対にだ!」
「約束を増やすな!」
シグレがナギを叱りながら、自分は別の白い兵から奪った槍を構えた。
「先に帰り道を作って!」
「分かってる!」
ガルドは戦闘を見ていなかった。
床だけを見ている。
木槌の柄を当て、二本の溝の間を一歩ずつ移動し、硬さの違いを探る。
「ここだ」
机の中央から、赤猫亭側へ向かう線。
二本の溝のちょうど間。
ただし、床を叩くだけでは傷一つ入らない。
「杭の破片を持ってこい!」
ブルーノが背負っていた袋を下ろす。
中には、壊した固定杭の白い芯と、巨兵の内部から抜いた巻物が入っている。
「これですか!」
「長い方を三本!」
「二本しかありません!」
「なら、甲冑から取れ!」
ガルドは一本目の白い芯を床へ置き、木槌で打ち込んだ。
かん。
芯は床を割らず、半分まで沈む。
二本目をその横へ並べる。
かん。
二本の白い芯の間に、細い亀裂が走った。
「あと一本だ!」
「今、作る!」
アルトは巨兵の下段の腕へ飛びついた。
鉤のついた腕が持ち上がる。
身体ごと宙へ運ばれる前に、アルトは短剣を肘の継ぎ目へ突き入れ、両手で柄を捻った。
白い板が開く。
内部に細長い芯が見える。
「ガルム!」
「そっちへ回せ!」
ガルムが上段の斧を肩で押し返す。
レオンは反対側から巨兵の膝を斬り、姿勢を崩した。
巨体が片側へ傾く。
アルトは開いた肘へ足をかけ、芯を掴んだ。
抜けない。
内部で何本もの白い糸が絡み、腕の奥へ固定されている。
「マルタ!」
「何だい!」
「湯!」
マルタは意味を聞かなかった。
小鍋の蓋を外し、アルトへ向けて中身を投げる。
「芋は避けろ!」
「無理を言うな!」
熱いスープが巨兵の肘へ浴びせられた。
湯気が立つ。
白い板が水分を吸い、紙のように柔らかくなった。内部の糸も膨らみ、互いの隙間が広がる。
アルトは芯を両手で掴み直した。
「抜けろ!」
力任せに引く。
芯が半分出る。
巨兵が四本の腕を暴れさせ、アルトを振り落とそうとする。
上段の斧が机へ向いた。
「机を動かす!」
ミアが叫ぶ。
「受けられる人!」
「受ける!」
ブルーノ。
「私も!」
ルナ。
二人が天板の左側へ入る。
ミアは右側。
三人で机を持ち上げようとするが、傷つき、補強された天板は重い。
「足を使って!」
ミナが加わる。
「腰を落としてください!」
四人が同時に持ち上げる。
机が床から離れた。
斧が落ちる。
ぎりぎりで机を横へずらす。
白い刃が、先ほどまで机の脚があった場所を深く抉った。
天板に載せた皿が滑る。
ミアが顎で受けた。
「痛っ!」
「手を離すな!」
ブルーノが叫ぶ。
「分かってる!」
ミアは皿を胸と天板の間へ挟み、机を運び続ける。
椅子。
水差し。
赤紐。
どれも落とさない。
巨兵の下段の鉤が、今度は傷の残った水桶へ向かった。
ルナが机から手を離そうとする。
「離さないで!」
ミナが止めた。
「水桶が!」
「誰かに頼んでください!」
ルナは一瞬だけ迷い、声を上げた。
「水桶を守ってください!」
「受ける!」
マルタが答えた。
鉄匙を握り、鉤と水桶の間へ入る。
白い先端が横から迫る。
マルタは匙を大きく振らず、両手で柄を持ち、鉤の内側へ差し込んだ。
金属同士が噛み合う。
体重差で押される。
靴底が床を滑る。
「重いね!」
「離れて!」
「鍋より少し重いだけだよ!」
「どんな鍋を使ってるんですか!」
マルタは匙の柄を腹へ当て、腰を落とす。
鉤の先が水桶へ届く寸前で止まった。
ガルドが横から駆け込み、白い鉤の根元へ木槌を打ち込む。
一撃。
亀裂。
二撃。
鉤が折れる。
「助かったよ」
「持っていろ」
ガルドは折れた鉤を拾い、作業場所へ戻る。
「芯は?」
「今抜ける!」
アルトが巨兵の肘から白い芯を引き抜いた。
その瞬間、腕一本が力を失い、斧を持ったまま床へ落ちる。
アルトは芯をガルドへ投げた。
「三本目!」
ガルドが受ける。
床へ置く。
かん。
三本の芯が並び、白い床へ一本の長い亀裂が生まれた。
「掘るぞ!」
「何で掘る!」
「こいつだ!」
ガルドは折れた鉤を亀裂へ差し込んだ。
足で踏む。
梃子のように持ち上げると、床の表面が細長く剥がれた。
その下には、乾いた白い砂と、古い紙片が何層にも詰まっている。
「ブルーノ、掻き出せ!」
「手でですか!」
「巻物を持ってきた罰だ!」
「記録資料です!」
ブルーノは文句を言いながら、両手で白い砂を掻き出した。
指先が切れ、血が滲む。
だが、その血が溝の底へ落ちると、白い砂が薄い茶色へ変わった。
「止めるな!」
ガルドが言う。
「掘れ!」
「血を流せという意味ではありませんよね!」
「手を止めるなという意味だ!」
ミアが机を置き、ブルーノの隣へ入った。
小さな両手で砂を掻き出す。
「私もやる」
「手が切れます!」
「布を巻く」
自分の袖を裂こうとする前に、ミナが細い包帯を投げた。
「これを使ってください!」
ミアは手のひらへ巻く。
ブルーノにも渡す。
二人で掘る。
浅い亀裂が、少しずつ溝へ変わっていく。
巨兵が再び動いた。
残る三本の腕を大きく広げ、今度は人間ではなく、作りかけの三本目の水路を踏み潰そうとしている。
「来ます!」
レオンが叫ぶ。
「ナギさん、右を!」
「左腕は使えない!」
「では右だけで!」
「分かってる!」
レオンとナギが並ぶ。
大人になった弟子。
二十二年前の師。
体格も、持つ武器も違う。
それでも、足を開く幅と、剣先を置く高さはよく似ていた。
巨兵の斧が横薙ぎに来る。
「受けるな!」
ナギが言う。
「潜れ!」
二人は同時に姿勢を低くした。
斧が頭上を通過する。
レオンは右。
ナギは左。
巨兵の両脚へ、それぞれ外側から刃を入れる。
レオンの剣は深く切り込み、ナギの槍は継ぎ目を正確に突いた。
白い巨体の膝が落ちる。
「肘!」
ナギが叫ぶ。
「落としています!」
「まだ高い!」
「これ以上は地面です!」
「それでいい!」
レオンはさらに腰を沈め、剣を下から跳ね上げる。
刃が巨兵の腹板の隙間へ入り、胸に刻まれた二つの円まで亀裂が走った。
ナギが槍の石突きを同じ亀裂へ打ち込む。
「続きは!」
レオンが叫ぶ。
「今、教えてる!」
二人で反対方向へ武器を捻る。
巨兵の胸が左右へ開いた。
内部には、二つの太い巻物が入っている。
ナギ。
シグレ。
二人分の帰還許可。
その間には、空の差込口が一つあった。
「三本目を入れる場所がある!」
レオンが叫ぶ。
「枠は最初から三つあったのか!」
アルトが巨兵の背中へ取りつきながら聞く。
ルナが差込口を見る。
「空だったのではありません!」
「じゃあ何だ!」
「抜かれています!」
巨兵の下段の腕がレオンを掴もうとする。
シグレの槍が横から入り、白い指を弾いた。
「話は倒してから!」
「正しい!」
アルトは巨兵の背中に短剣を突き立てた。
ガルムが正面から胸板を掴む。
「裂くぞ!」
「巻物を傷つけるな!」
ブルーノが叫ぶ。
「細かい注文が多い!」
ガルムは二本の巻物を避け、胸板だけを左右へ押し広げた。
レオンが空の差込口へ剣を入れる。
奥に何かが引っかかっている。
「取れません!」
「剣を回せ!」
ナギが指示する。
「刃を立てるな、寝かせろ!」
レオンは剣を水平に倒し、差込口の奥を探った。
硬い輪へ当たる。
少し持ち上げる。
白い鎖が一本、引きずり出された。
鎖の先は巨兵の背中を貫き、白い広間のさらに奥へ伸びている。
「これが三人目の枠です!」
ルナが言った。
「誰かが外へ引き抜き、別の場所へ繋いでいます!」
「切れば戻る?」
「分かりません!」
「なら引く!」
アルトが鎖を掴む。
冷たさが掌を刺す。
レオン。
ナギ。
ガルムも加わる。
「引くぞ!」
四人で鎖を引いた。
白い広間の奥から抵抗が返る。
一人や二人ではない。
何十本もの腕が向こう側で握っているような重さだった。
巨兵も最後の力を振り絞り、四本の脚で床へ踏ん張る。
「机を繋げ!」
ガルドが叫ぶ。
「赤紐を鎖へ結べ!」
ミアが机の脚から赤紐を外す。
「貸してる印がなくなる!」
「一本だけだ! 帰ったら結び直す!」
ブルーノが赤紐を鎖へ巻き、机の補強金具へ結ぶ。
細い。
これほど強い力へ耐えられるようには見えない。
ガルドは残る赤紐も外した。
椅子から。
水桶から。
皿を包む布から。
十一本すべてを一本ずつ束ね、太い縄へ変える。
「全部使うの?」
ミアが聞く。
「全部持って帰るためだ」
赤い束が鎖へ結ばれる。
机。
椅子。
水桶。
皿。
鍋。
赤猫亭から貸したものが、一つの縄で三人目の枠へ繋がった。
「全員、持て!」
ガルドの声で、残った者たちも机へ集まる。
ミア。
マルタ。
ミナ。
ブルーノ。
ルナ。
シグレ。
それぞれが天板、脚、赤紐へ手をかける。
「引く!」
アルトが叫ぶ。
全員の身体が後ろへ傾く。
足が滑る。
白い床へ靴の跡が残る。
鎖は動かない。
「もう一度!」
机が軋む。
傷が広がる。
椅子の脚が床を擦る。
水桶の蓋が鳴る。
かん。
こつ。
二人分の音。
さらに、レオンの胸の奥から小さな音が返った。
こん。
三つ。
「今だ!」
全員が力を込めた。
白い鎖が一節だけ動く。
もう一節。
広間の奥で何かが切れる。
巨兵の背中から鎖が抜け始めた。
一尺。
二尺。
最後に、鎖の先端へ巻きついていた白い筒が引きずり出される。
レオンの名が書かれた帰還枠。
ブルーノが掴み、巨兵の胸にある空の差込口へ押し込んだ。
「入れます!」
「向きは!」
ガルドが叫ぶ。
「分かりません!」
「文字を上にしろ!」
「どちらが上です!」
「名前が読める方だ!」
ブルーノは筒を半回転させる。
レオンの名が正しい向きになる。
押す。
途中で止まる。
ミアが横から両手を添えた。
「一緒に!」
二人で押し込む。
こと。
白い筒が差込口へ収まった。
巨兵の胸に、三つ目の円が浮かぶ。
レオン。
ナギ。
シグレ。
【帰還枠:三】
白い巨兵が動きを止めた。
四本の腕が落ちる。
鎧が内側から崩れ、細かな紙片となって床へ積もっていく。
ガルムが机の前へ倒れ込む。
ナギも膝をついた。
レオンは剣を床へ突き立て、息を整えている。
「三本目」
ブルーノが共有表示を見る。
【帰還可能数:三】
数字は変わらない。
三。
「できた」
ミアが言った。
「三人、帰れる?」
「はい」
ルナが答える。
声は震えていた。
「今度こそ、三人とも」
四つ目の椅子が床から浮かび上がる。
沈んでいた脚が戻り、傷ついた座面も元の高さへ戻った。
レオンが背板へ手を置く。
「帰ります」
ナギとシグレを見る。
「三人で」
ナギは笑った。
「ああ」
シグレは目元を拭う。
「今度は置いていかない」
白い床に、三本目の溝が開いた。
二本の間を走り、赤猫亭の戸口へ向かって伸びていく。
三本の帰り道。
水が流れる。
芋と薪の匂いが、遠くから届く。
その瞬間、ルナの足首へ白い鎖が巻きついた。
「ルナ!」
アルトが腕を掴む。
鎖は白い床を突き破って現れ、彼女を広間の奥へ引きずっていく。
ルナは倒れ、指先で床を掻いた。
共有表示が赤く染まる。
【帰還枠:三】
【解放対象:四】
最後の一行が浮かぶ。
【未処理旧件一:ルナ】
三人分の帰り道の奥で、閉じていた巨大な白い扉が開いた。
その向こうには、椅子に縛られた人間の少女がいた。
白い髪。
細い身体。
ルナと同じ顔。
少女は目を開き、鎖に引かれる女神を見つめた。
「やっと、戻ってきた」




