第133話 三日目の子ども
少年の喉を狙い、白い天井から細長い杭が落ちてきた。
レオンが踏み込むより早く、床に横たわっていた男が身体を投げ出す。
「レオン、伏せろ!」
掠れた叫びと同時に、男の肩が少年を椅子ごと押し倒した。白い杭は二人のすぐ脇へ突き刺さり、硬い床を深く割ると、根元から細い枝を何本も伸ばして、倒れた男の腕と足へ絡みついた。
「ナギ!」
もう一人、目を開けた女が起き上がろうとする。
だが、上半身を少し持ち上げただけで、胸元を覆っていた白い粉が板のように固まり、彼女を床へ押し戻した。両手首にも白い輪が現れ、腕を広げた姿勢で固定される。
「シグレ、動くな!」
「動かなきゃ、この子が!」
「俺がいる!」
「二十二年遅い!」
男――ナギは、白い枝に締め上げられながらも少年の前へ身体を入れた。
少年は倒れた椅子の陰で短い剣を抱え、床へ座り込んでいる。驚いてはいたが、泣いていない。助けに飛び込んだナギを見つめ、それから少し離れた場所に立つ大人のレオンへ目を向けた。
「同じ顔が二つある」
少年が言った。
次の杭が落ちる。
「レオン!」
アルトの声に、大人のレオンが剣を抜いた。
頭上から迫る杭へ正面から刃を当てず、斜め下から切っ先を滑らせる。白い先端が横へ逸れ、床へ突き刺さる寸前、ガルムが両腕で柄を掴んだ。
「折るぞ!」
「待ってください!」
ルナが制止する。
しかし、ガルムはすでに杭を引き倒していた。白い棒が大きくしなり、床との接続部分へ亀裂が走る。ガルドが木槌を振り下ろし、同じ場所へ二度打ち込んだ。
かん。
かん。
三度目で杭が折れる。
床へ落ちた白い棒は液体のように崩れ、ナギを縛っていた枝の一部も力を失った。
「折って正解だったじゃないか」
アルトが言う。
「一本だけならです!」
ルナは広間を見回した。
白い床の四隅が盛り上がっている。
東西南北に一本ずつ。
先ほどのものより太い杭が床を突き破って伸び、先端から何十本もの白い線を放った。線はナギとシグレだけではなく、少年の椅子、傷のある机、水桶、四脚の椅子へも絡みつき、赤紐の結び目を探すように表面を這っていく。
「四本すべてが固定杭です!」
「何を固定してる!」
「人と場所を分けています!」
ルナは床へ膝をつき、白い線へ触れた。
指先へ文字が浮かぶ。
【到達者】
【同行者】
【待機者】
【外部持込物】
「人は人、物は物、待つ者は待つ者として、別々の処理位置へ戻そうとしています。このままでは、机を置いても同じ場所として認識されません!」
「なら四本壊す!」
アルトが叫ぶ。
「壊す順番があります!」
「先に言え!」
「北、東、南、西です! 間違えると、拘束が一人へ集中します!」
広間の北がどちらか分からない。
壁も窓も、空の色さえない。
「北は!」
ブルーノが記録端末を開く。
表示が一度回転したあと、机を基準に方角を固定した。
「ナギさんの頭側が北です!」
「全員、聞いたな!」
アルトが短剣を抜く。
「ガルムとガルドは北! レオンは東! 俺は南へ行く! ミナとルナは二人を診ろ! ブルーノは順番を叫べ! ミアとマルタは机を守れ!」
「西は誰が壊すんだい」
マルタが小鍋を抱えたまま尋ねた。
「北を壊した組が回る!」
「時間がかかるね」
「何かあるのか」
「鉄匙ならあるよ」
マルタは小鍋をミアへ渡し、大きな鉄匙を肩へ担いだ。
「西は私がやる」
「一人で杭を?」
「店の物を勝手に縛った分は、私が返す」
「戦えるのか」
「鍋底の焦げは、これで落としてる」
「杭と焦げは違うぞ!」
「叩けば分かるよ」
白い線が机の脚へ巻きついた。
赤紐の一本が引かれ、結び目がほどけかける。
「来る!」
ミアが机の脚を抱える。
床から白い甲冑が立ち上がった。
先ほどの道で襲ってきたものと同じ形だが、今度の個体は槍を持っていない。代わりに両手の指が細長く伸び、糸を切るための鋏のように開閉している。
一体。
二体。
机の周囲だけで六体。
さらに、ナギとシグレのそばにも四体ずつ現れた。
「杭だけじゃないぞ!」
アルトが叫ぶ。
「人間を先に止めます!」
ブルーノの声が返る。
「白い甲冑は赤紐を切る個体と、拘束対象を戻す個体に分かれています!」
「見れば分かる!」
「分かったことを共有しています!」
「そのまま続けろ!」
レオンは東の杭へ走る。
途中、少年の前へ白い甲冑が一体割り込んだ。
細長い指を短い剣へ伸ばす。
少年は剣を抜こうとしたが、鞘の先が椅子の脚へ引っかかり、抜けない。
「その剣に触るな!」
レオンが甲冑へ体当たりした。
白い身体が横へずれる。
剣を大きく振れば少年まで巻き込む距離だったため、レオンは敵の肘を左手で押さえ、刃の根元を脇の継ぎ目へ差し込む。捻り上げると片腕が外れたが、甲冑は残った手でレオンの顔を掴もうとした。
少年が短い剣を鞘ごと振る。
こつん。
白い指へ当たった。
威力はない。
それでも甲冑の注意が一瞬だけ少年へ移る。
レオンは敵の腰を蹴り、広間の中央へ押し出すと、首の付け根へ剣を振り下ろした。
白い板が割れる。
内部の巻物が露出する。
「少年、下がってください!」
「少年じゃない」
「では、何と」
「レオン」
大人のレオンの動きが止まりかける。
すぐに剣を返し、巻物を切断した。
「レオンは私です」
「ぼくもだよ」
「分かっています」
「分かってない顔」
「今は戦ってください!」
「ぼく、剣の続き知らない」
「私も知りません!」
少年は少し驚き、それから短い剣を握り直した。
「じゃあ、一緒だ」
白い線が椅子の脚へ絡み、少年ごと北側へ引いた。
「椅子を離してください!」
「嫌だ!」
「なぜ!」
「ここで待つって言われた!」
少年は座面へ片腕を回す。
「三日、待った。だから、ここにいないと駄目!」
「もう待たなくていい!」
「まだ二人が帰ってない!」
大人のレオンは答えられなかった。
二人は目の前にいる。
だが、まだ拘束されている。
迎えに来たとは言えても、帰ってきたとは言えない。
白い線が強く引かれる。
少年の身体が椅子ごと床を滑った。
「椅子を外します! 受けられる方!」
レオンが叫ぶ。
「受ける!」
ガルムの声が遠くから返る。
「こっちは北だ! 持ってこい!」
「少年ごとです!」
「二人で運べ!」
レオンは椅子の背板を掴む。
少年も座面へしがみつく。
二人で白い線に逆らいながら北へ進み始めた。
その頃、アルトは南の杭を守る二体の甲冑と向き合っていた。
一体は両腕を広げて杭の前へ立ち、もう一体は白い線を手繰り寄せ、机を南側へ引こうとしている。短剣一本では太い杭を折り切れず、先に甲冑を排除する必要があった。
アルトは正面の個体へ走ると見せ、三歩目で急に腰を落とした。
甲冑の腕が頭上を通る。
白い板の下を滑り込み、背後へ抜ける。
すぐに振り向かず、杭へ絡んでいる線を一本だけ短剣で切った。
その瞬間、シグレの身体が大きく跳ねた。
「切るな!」
ナギの叫び。
白い線一本がシグレの右手首へ集まり、輪を締め上げている。皮膚が白く変わり、指先から血の色が失われていく。
「普通に切ったら駄目なのか!」
「固定杭を先に!」
ルナがシグレの手を押さえる。
「線だけ切ると、残った線へ荷重が移ります!」
「それも先に言え!」
「今、分かりました!」
甲冑が背後からアルトへ腕を振り下ろす。
アルトは横へ転がり、白い拳を避けた。拳は床を砕き、細かい破片を撒き散らす。
起き上がる前に、もう一体が足首を掴む。
引かれる。
アルトは短剣を床へ突き立てたが、白い表面へ浅い傷しか入らず、身体は南の杭へ向かって滑り続ける。
「アルト!」
ミアが机の陰から飛び出そうとする。
「来るな!」
アルトは片脚を掴まれたまま身体を捻り、自由な足で甲冑の手首を蹴った。
一度。
外れない。
二度。
白い指に亀裂が走る。
三度目で指が一本折れた。
掴む力が僅かに弱くなったところで、アルトは上半身を起こし、短剣を甲冑の手の甲へ突き立てる。刃を横へ引くと、二本目、三本目の指が外れ、ようやく足が抜けた。
「ガルム!」
北側からガルドの声が響く。
「上へ持ち上げろ!」
ガルムは北の杭へ両腕を回し、腰を落とした。
杭は人の胴より太く、床の奥深くまで続いている。単純に引くだけでは動かないため、ガルドが根元へ楔を三本打ち込み、木槌で順に叩いて隙間を作っていた。
かん。
右。
かん。
左。
かん。
手前。
「今だ!」
ガルムの脚へ筋肉が浮かぶ。
背中が大きく盛り上がり、両足の下で白い床が砕けた。
杭が僅かに浮く。
「まだだ!」
ガルドが楔をさらに奥へ叩き込む。
北の杭から伸びていた線が激しく揺れ、ナギの両腕を締める枝が緩んだ。
ナギは右腕を引き抜く。
手の甲は白く凍り、指も思うように曲がらない。
それでも、少年の椅子へ伸びている線を掴んだ。
「レオン!」
少年が顔を上げる。
「そのまま椅子を持ってろ!」
「戻ったら、続きを教える?」
ナギの動きが止まる。
痛みで歪んでいた顔が、別の形へ崩れた。
「覚えてたのか」
「ずっと」
「ごめんな」
「まだ帰ってない」
「ああ」
「だから、まだ教えてもらってない」
「ああ」
ナギは線を自分の腕へ巻きつける。
「帰るぞ」
白い線が少年を引く。
ナギが引き返す。
「今度は、絶対に」
ガルムが杭を持ち上げた。
「抜けるぞ!」
「全員、伏せろ!」
ガルドが楔を最後まで叩き込む。
北の杭が根元から外れた。
白い光が広間を走る。
ナギ、シグレ、少年を縛っていた線の四分の一が同時に消え、赤猫亭から持ってきた机が床へ重く沈んだ。
【北固定:解除】
共有表示が机の上に浮かぶ。
「次、東!」
ブルーノが叫ぶ。
レオンは少年の椅子をガルムへ預けた。
「二人で受けてください!」
「受ける!」
ガルム。
「俺も持つ!」
ナギが答える。
「腕が動いていません!」
「片方は動く!」
「無理を」
「二十二年寝た。もう十分休んだ!」
ナギは自由になった右腕で椅子の座面を持つ。
左腕はまだ白い枝に捕まっていたが、北の固定が外れたことで立膝までは起こせている。
ガルムとナギが椅子を支える。
少年は座ったまま、二人の顔を交互に見た。
「大きくなった?」
ナギが少年に聞く。
「向こうにいる」
少年がレオンを指す。
「そうか」
ナギは大人のレオンを見る。
「本当に大きくなったな」
「あとで話します」
レオンは視線を逸らした。
「今は東を壊します」
「剣の続きは」
「あとで教えてください」
「覚えてたのか」
「忘れさせられていただけです」
レオンは東の杭へ向かって走った。
東側には白い甲冑が五体並んでいる。
盾二体。
鋏の指を持つ個体が三体。
レオンは剣を両手で構え、足を止めない。最初の盾へ正面から踏み込むと、盾の中央ではなく縁へ刃を当て、身体を横へ流しながら円を描くように剣を滑らせた。
盾が外へ開く。
露出した脇へ肩を入れる。
敵の身体が隣の盾へぶつかり、二体の姿勢が同時に崩れた。
そこへガルムが追いつく。
少年の椅子はナギへ預けている。
空いた両腕で二体の盾をまとめて抱え、後方の鋏三体へ押し込んだ。
「まとめたぞ!」
レオンが跳ぶ。
盾の上へ片足を置き、さらに高く踏み切る。
五体の頭上を越えながら身体を捻り、東の杭へ剣を振り下ろした。
刃が白い表面へ食い込む。
半分。
止まる。
「抜けません!」
「そのまま持て!」
ガルドが走り込む。
杭へ刺さった剣の背を、木槌で叩く。
かん。
刃が深く入る。
二撃目。
かん。
白い杭に縦の亀裂が走った。
甲冑がレオンの背後へ迫る。
アルトが一体の脚へ飛びつき、足首を抱えて引き倒した。別の一体はガルムが盾ごと押さえ、三体目の鋏がレオンの首へ伸びる。
ミアの投げた小皿が鋏の指へ当たった。
ぱりん。
皿は割れた。
敵の手も僅かに逸れる。
「皿!」
マルタが怒鳴る。
「レオンの首より安い!」
「当たり前だよ!」
マルタ自身も西の杭へ鉄匙を叩きつけながら叫び返した。
レオンは首を引き、鋏を避ける。
剣を杭へ残したまま、敵の腕を両手で掴む。肘を伸ばさせ、杭の亀裂へ鋏の指を差し込むと、身体ごと捻って敵の腕を梃子にした。
「ガルドさん!」
「離せ!」
レオンが飛び退く。
ガルドの木槌が、亀裂へ入った白い腕ごと杭を叩いた。
東の杭が割れる。
内部から大量の白い紙片が噴き出し、盾と鋏を持った五体の甲冑が一斉に崩れた。
【東固定:解除】
「次、南!」
ブルーノの声。
アルトは南の杭の前にいる。
甲冑二体を倒したが、杭にはまだ触れられていない。
「手を貸せ!」
レオンとガルムが向かう。
その時、シグレの身体が床から浮いた。
「シグレ!」
ナギが手を伸ばす。
北と東の固定を失った白い線が、残る南と西へ集中し、シグレを二本の杭の間へ吊り上げていた。
両腕が左右へ引かれる。
胸元の白い板がさらに硬くなり、呼吸をするたび骨の軋む音が聞こえる。
「息ができない!」
ミナはシグレの身体へ飛びつき、胸元の板と服の間へ杖の先を差し込んだ。
「ルナ様、板を止めてください!」
「触れると私も固定対象になります!」
「もう全員、対象です!」
ルナは迷わなかった。
シグレの胸へ両手を当てる。
白い板に文字が浮かぶ。
【同行者】
【代替帰還不可】
【待機者への接続を遮断】
「シグレさんは、レオン様とナギさんの間を切るために残されています!」
「聞こえてる!」
シグレが苦しげに叫ぶ。
「本人の前で説明するな!」
「状況共有です!」
「あとにしなさい!」
ミナが杖をさらに押し込む。
白い板が僅かに浮く。
シグレが一度、大きく息を吸った。
「南を壊して!」
「分かってる!」
アルトたちは南の杭へ集まる。
今度は引き抜く時間がない。
ガルムが杭へ背中をつけ、両腕を回す。
レオンが前から剣を水平に構え、ガルドが刃の背へ木槌を当てる。
「折る方向は!」
ガルドが尋ねる。
ルナがシグレの線を見る。
「西へ!」
「マルタがいるぞ!」
「退いて!」
アルトが叫ぶ。
西の杭を叩いていたマルタは、鉄匙を一度だけ深く打ち込み、そのまま手を離した。
「匙を置いていくな!」
「あとで取るよ!」
マルタは小鍋のところまで走る。
「やれ!」
ガルムが杭を西へ押す。
レオンの剣が白い表面を削る。
ガルドの木槌。
アルトの短剣。
三つの刃と力が同じ亀裂へ集中する。
南の杭が傾いた。
シグレを吊っていた線が緩む。
「もう一度!」
ガルムが吠える。
レオンは剣を引き、先ほどより下へ差し込む。
アルトは短剣の柄を両手で握り、全体重をかけた。
ガルドの木槌が振り下ろされる。
どん。
南の杭が根元から折れた。
【南固定:解除】
シグレの身体が落ちる。
ミナとルナが受け止めたが、三人まとめて床へ倒れた。シグレは激しく咳き込み、胸を押さえながらも、自分の足で立とうとする。
「寝ていてください!」
「二十二年寝た!」
「同じことを言わないでください!」
「ナギも言った?」
「言いました!」
「なら私も起きる!」
シグレはミナの肩を借りて膝を立てた。
残る西の杭から、すべての線が伸びている。
ナギ。
シグレ。
少年。
机。
椅子。
水桶。
赤紐。
九人の足元にまで新しい白い輪が現れ、広間全体を西へ引き始めた。
「最後!」
ブルーノが叫ぶ。
「全員で壊します!」
西の杭は、ほかの三本より太くなっていた。
失われた固定機能を一つに集め、表面には何層もの白い板が重なっている。その前には、これまで倒した甲冑の残骸が集まり、人の形を作り始めていた。
腕が四本。
脚が四本。
盾と槍、鋏、白い杭の破片をすべて取り込み、広間の天井へ届くほど巨大な身体へ変わる。
「大きすぎる」
ミアが机の下から見上げた。
「芯はどこです!」
ブルーノが巻物を広げる。
「胸、腹、頭に一つずつ! 三本とも壊さないと止まりません!」
「杭は!」
「巨体の後ろです!」
「先にこいつか!」
巨体が四本の腕を振り上げる。
一つは机。
一つは水桶。
一つはナギと少年。
最後の一つはシグレを狙っている。
「分かれろ!」
アルトの声で全員が動いた。
ガルムが机の前。
ガルドとブルーノが水桶。
レオンがナギと少年。
アルトとミナがシグレ。
ルナは中央で白い線を読み、マルタとミアは小鍋と皿を抱えたまま、机の下へ入った。
巨体の拳が落ちる。
ガルムは机を背にして両腕を交差させ、正面から受けた。
床が陥没する。
膝が沈む。
それでも机へは触れさせない。
「重いぞ!」
「見れば分かる!」
ガルドは水桶をブルーノへ渡す。
「一人で持てるか!」
「短時間なら!」
「落とすな!」
「先に伝えてください!」
「今、伝えた!」
ガルドは木槌を両手で握り、巨体の足首へ走る。
白い足が踏み下ろされる。
横へ飛び、避ける。
着地と同時に足首の外側へ木槌を打つ。
一撃では傷もつかない。
「硬い!」
「三本の芯を先に!」
ルナが叫ぶ。
巨体の胸元に三つの薄い光が見えた。
頭。
胸。
腹。
同時に壊す必要がある。
「レオン、頭!」
アルトが指示する。
「ガルム、胸! 俺が腹へ行く!」
「一人で届くのか!」
「登る!」
アルトは巨体の脚へ短剣を突き立てた。
白い板の隙間を足場にし、膝、腰へと駆け上がる。巨体が身体を揺らすたびに手を離されそうになるが、短剣を次の隙間へ打ち込み、自分の身体を固定しながら腹の光へ近づいていく。
ガルムは胸へ届かない。
巨体の盾を踏み台にする。
「レオン!」
「行きます!」
レオンが走る。
ガルムは両手を組み、腰を落とした。
レオンがその手へ足を載せる。
ガルムが全力で押し上げると、レオンの身体は巨体の肩を越え、頭の高さまで跳ね上がった。
空中で剣を逆手へ持ち替える。
頭の光へ突き立てる。
白い板が閉じ、刃を挟んだ。
「抜けません!」
「そのまま押せ!」
レオンは柄へ両手を重ねる。
落下する体重まで乗せ、刃を一寸ずつ進める。
ガルムは巨体の胸へ爪を突き立てた。
光の位置。
板を剥がす。
内部の巻物が見える。
だが、胸の芯は三本の太い白い線に守られている。
「切れ!」
「手が塞がってる!」
シグレが落ちていた槍を拾った。
「使える?」
ナギが尋ねる。
「二十二年前よりまし」
「俺より先に戦うな」
「寝すぎた人が言わないで」
シグレは槍を構え、走る。
足元はまだ覚束ない。
それでも巨体の腕を避け、床へ刺さった鉄匙を踏み台にして跳び、ガルムの肩へ片足を載せた。
「借りる!」
「早くしろ!」
槍を胸の隙間へ突き入れる。
一本目の線を断つ。
二本目。
三本目だけが硬い。
ナギが少年の椅子から手を離した。
「受けられる奴!」
「受ける!」
マルタが答える。
「私も!」
ミアが加わる。
二人が椅子を支える。
ナギは動かない左腕を身体へ縛るように白い線を巻き、右手で床の槍を拾った。
「シグレ、下がれ!」
「あと一本!」
「二人でやる!」
ナギの槍が、シグレの槍の上へ重なる。
二本で同じ線を挟む。
反対方向へ捻る。
白い線が切れた。
胸の巻物が露出する。
「ガルム!」
シグレが叫ぶ。
「潰せ!」
ガルムは両手を胸の穴へ入れ、巻物を掴んだ。
左右へ引き裂く。
白い紙が大量に舞った。
胸の光が消える。
同時に、レオンの剣が頭の芯を貫いた。
「二つ!」
ブルーノが叫ぶ。
「腹だけです!」
アルトは巨体の腹へ辿り着いていた。
短剣を光へ突き立てる。
浅い。
巨体が四本の腕を自分の腹へ向けた。
アルトごと叩き潰すつもりだ。
「間に合わない!」
ミナが叫ぶ。
最初の拳が迫る。
アルトは短剣を手放さない。
「机を鳴らせ!」
何をするのか分からないまま、マルタが鉄匙を机の天板へ叩きつけた。
かん。
ミアが小皿を置く。
こと。
水桶を持つブルーノが、蓋を指で叩く。
こつ。
赤猫亭の音が広間に響いた。
巨体の動きが一瞬だけ止まる。
帰還処理の兵器でありながら、場所として認識され始めた赤猫亭の音を無視できない。
「今だ!」
アルトは短剣をさらに押し込む。
刃が芯へ届く。
手応え。
捻る。
腹の光が砕けた。
三つ目。
巨体の四本の腕が力を失い、アルトの周囲を通り過ぎて床へ落ちた。
身体全体に亀裂が走る。
アルトは白い板を蹴り、飛び降りた。
ミナとガルドが下で受ける。
三人まとめて床へ転がる。
巨体が崩れた。
頭。
胸。
腹。
四本の腕と四本の脚が、無数の紙片へ変わって広間を覆う。
その後ろに、西の杭が立っている。
「終わってない!」
ルナが叫ぶ。
西の杭から伸びた線が一斉に縮む。
ナギ。
シグレ。
少年。
三人が杭へ引かれた。
「全員で!」
アルトが立ち上がる。
ガルムが杭へ抱きつく。
ガルドが根元へ木槌。
レオンが剣。
ナギとシグレも拾った槍を差し込む。
アルトが短剣。
ミナが杖。
ブルーノは水桶を床へ置き、巻物の記録を杭の表面へ押しつけた。
「これは、お前たちの命令だ!」
白い文字が杭へ逆流する。
【外部持込物】
【待機者】
【到達者】
【同行者】
分類の文字が乱れ、重なる。
マルタは机を杭のそばまで押した。
「座るところはこっちだよ!」
四脚の椅子を机の周囲へ置く。
ミアが深皿を中央。
小鍋。
水差し。
匙。
赤紐のついた物を、一つの場所へ集める。
「飯を出すよ!」
マルタが小鍋の蓋を開けた。
温かい湯気が白い広間へ立ち上る。
芋と塩。
赤猫亭の匂い。
西の杭が大きく揺れた。
「今!」
全員が力を込める。
杭が傾く。
白い線が三人を引く。
少年の椅子が床を滑る。
レオンは剣から片手を離し、少年へ伸ばした。
「手を!」
少年も手を伸ばす。
指先が触れる。
冷たい。
小さな手。
「もう待たなくていい!」
「二人は?」
「ここにいる!」
「帰った?」
「これから一緒に帰る!」
少年はナギとシグレを見る。
二人とも杭へ武器を差し込み、こちらへ向かって力を込めている。
ナギが叫ぶ。
「レオン!」
どちらを呼んだのか分からない。
少年も。
大人も。
同時に顔を上げる。
「帰るぞ!」
少年の指が、大人のレオンの手を握った。
その瞬間、二人の身体の間に白い線が走る。
少年の輪郭が揺れた。
消えるのではない。
大人のレオンの腕へ、胸へ、顔へ、重なる。
入口の冷たさ。
一日目。
二日目。
三日目。
短い剣。
戻ったら続きを教えるという声。
待っても帰ってこなかった二人。
それらが一度に流れ込み、レオンは剣を持ったまま膝をついた。
「レオン!」
アルトが叫ぶ。
「離すな!」
レオンは歯を食いしばる。
少年の手を握る。
「三日、待ちました」
声が二重に響く。
子どもの声。
大人の声。
「待ちました」
少年の身体が光へ変わり、レオンへ流れ込む。
「でも、もう一人ではありません」
レオンは立ち上がった。
剣を両手で握る。
少年の短い剣が、大人の剣へ重なる。
刃の輪郭が一瞬だけ短くなり、次の瞬間、白い杭の奥まで届く鋭い光へ変わった。
「全員、離れてください!」
レオンが叫ぶ。
アルトたちは武器を引く。
ガルムも杭から離れる。
レオンが剣を振り下ろした。
西の杭が縦に割れる。
光が広間を二つに分けるほど大きく走り、床の奥へ埋まっていた根まで一気に断ち切った。
【西固定:解除】
四本の杭がすべて消える。
ナギとシグレを縛っていた白い枝が砕けた。
机や椅子へ絡んでいた線も。
赤紐を引いていた力も。
レオンの足元にあった白い輪も消える。
静寂が訪れた。
少年の椅子は空になっている。
短い剣もない。
レオンは、自分の右手を見る。
大人の手。
だが、掌には、三日間冷たい床へ座り続けた感覚が残っていた。
「戻ったのですか」
ルナが尋ねる。
レオンは少し考える。
「分かりません」
「また?」
ミアが言う。
「ですが」
レオンはナギを見る。
次にシグレ。
「待っていたことを、覚えています」
ナギは片膝をついたまま笑った。
涙が頬を流れている。
「遅くなった」
「はい」
「怒ってるか」
「剣の続きを教わってから決めます」
「怖いな」
シグレがナギの後頭部を叩いた。
「まず謝りなさい」
「今、謝った」
「遅くなったは報告」
「じゃあ」
ナギはレオンへ頭を下げた。
「置いていって、ごめん」
レオンはすぐに答えなかった。
ナギの謝罪を報告へ変えず、損失にも、記録にも置き換えず、そのまま聞いている。
「はい」
しばらくして、返す。
「聞きました」
シグレもレオンを見る。
「私も、ごめんなさい」
「聞きました」
「許す?」
「今は分かりません」
「それでいい」
シグレは小さく笑った。
立とうとして、足に力が入らず倒れかける。
ミナが支えた。
「二十二年ぶりに起きた直後です。座ってください」
「椅子がある」
シグレが机を見る。
「四つも」
「貸してる」
ミアが言った。
「赤猫亭から」
「返すの?」
「帰ったら」
ナギとシグレが、机の周囲へ置かれた椅子を見る。
一脚はナギ。
一脚はシグレ。
一脚はレオン。
残る一脚。
「誰の席?」
ナギが尋ねる。
「水を出す人」
ミアが答えた。
「一緒に飲む人でもある」
マルタが補う。
ルナが水差しを持つ。
「私が」
「待ってください」
ブルーノの声が硬くなった。
彼は共有表示を見ている。
四本の杭を壊してから、表示はしばらく白いままだった。今、ようやく文字が浮かび始めている。
【固定解除:完了】
【到達者:ナギ】
【同行者:シグレ】
【待機者:レオン】
【待機記録:統合済み】
「成功じゃないの?」
ミアが聞く。
「まだ続きがあります」
次の行。
【解放対象:三】
アルトが眉を寄せる。
「三人で合ってる」
「はい」
さらに文字が現れる。
【帰還先候補:赤猫亭】
【受入席:四】
【帰還可能数――】
表示が一度止まった。
数字だけが何度も書き換わる。
三。
二。
三。
一。
最後に残ったのは。
【帰還可能数:二】
誰も声を出さなかった。
机の周囲には四脚の椅子がある。
ナギ。
シグレ。
レオン。
ルナ。
全員が座れる。
それでも、帰還処理は三人のうち二人しか返せないと告げている。
「古い処理枠です」
ルナが表示を見つめる。
「最初から、到達者と同行者の二人分しかありません」
「レオンは今ここにいる」
アルトが言う。
「待機記録を統合したことで、現在のレオン様も解放対象へ含まれました」
「意味が分からない」
「この場所では」
ルナがレオンを見る。
「今のレオン様も、まだ帰っていない者として扱われています」
レオンは空になった少年の椅子へ目を向けた。
「では、私が残ります」
「駄目」
ナギとシグレが同時に言った。
二人の声が白い広間へ重なる。
共有表示の最後に、新しい行が現れた。
【超過対象を一名選択してください】
その直後、四つ目の椅子だけが、白い床へ沈み始めた。




