第131話 客として見ろ
最初に入ってきたのは、神ではなく、金だった。
扉の下にある僅かな隙間から、薄い神貨が一枚、石床を擦りながら赤猫亭の中へ滑り込む。
銀色に近い光を帯びたそれは、アルトの足元で一度だけ回り、表を上にして止まった。
【救出成功時・予約投げ銭】
【対象指定:最初に目覚めた者】
アルトが拾うより先に、マルタの箒が神貨を払った。
からん。
神貨は来た時と同じ隙間を通り、店の外へ戻っていく。
「注文もしてない客から、先に金を取るんじゃないよ」
「客じゃないだろ」
「なら、なおさらいらないね」
二枚目が入ってきた。
今度は金色。
【レオンの第一声・予測投票】
マルタが掃き出す。
三枚目。
【ルナが『おかえりなさい』を発声する】
箒の柄が止まった。
ルナは傷の残った水桶のそばに立っており、床を滑る神貨へ視線を落としている。表情は変わっていない。だが、右手の指先が水桶の取っ手へ触れ、すぐに離れた。
アルトは神貨を踏んだ。
金属が石床へ押しつけられ、白い光が靴底の周囲から漏れる。
「それは返さなくていい」
低く言ってから、足へ力を込める。
神貨は割れなかった。
代わりに文字だけが消え、何の指定もない金属片へ戻った。
ガルドが屈み、火挟みで拾い上げる。
「熱はない」
「使えるか」
「神貨としては知らん」
「金属としては?」
ガルドは指先で縁を弾いた。
きん。
「薄すぎる」
「じゃあ捨てろ」
「捨てるかは俺が決める」
ガルドは工具袋へ入れた。
扉の外から、低い圧力が押し寄せる。
昨日の支度を終えた時から、神々が作った見えない列は赤猫亭の前を埋めたままだった。通りを歩く人間には何も見えていないらしく、荷車も、朝の買い出しへ向かう者も、いつもどおり店の前を通り過ぎていく。
だが、赤猫亭の側から見ると違った。
石畳の一部だけが沈んでいる。
一人分の足跡ではない。
何百、何千という見えない存在が同じ場所へ立ち、互いの背を押しながら、入口へ近づこうとしている。
入口の鈴が揺れた。
ちりん。
扉は開いていない。
客も入っていない。
それでも鈴だけが、来店を告げ続ける。
ちりん。
ちりん。
音の間隔が短くなる。
「うるさい」
ミアが両耳を押さえた。
「神様、順番守ってない」
「列はできてるらしいぞ」
アルトが言う。
「押してる」
「そうだな」
「それは列じゃない」
ミアは四つ目の椅子を抱えたまま、扉を睨んだ。
「並んでるふり」
ガルムが戸口の横に立つ。
扉の木枠は、昨夜ガルドが応急処置を施したばかりだった。上側の蝶番には新しい留め金が入り、内側には太い横木が渡されている。
それでも、外から圧力がかかるたび、横木の中央が僅かにしなる。
「次は持つか」
アルトが聞く。
「三回は」
ガルドが答えた。
「三回押されたら壊れる?」
「四回目で外れる」
「もっと強くできなかったのか」
「店の壁より強くすると、壁が壊れる」
「じゃあどうする」
「押させるな」
「簡単に言うなよ」
「俺は直す側だ」
扉が押された。
どん。
一回目。
横木から木屑が落ちる。
店内の水差しが震え、小皿同士が触れ合った。
かた。
アルトの視界へ表示が浮かぶ。
【神界観測席:接続待機】
【入場要求:計測不能】
【予測イベントへの参加を受け付けています】
「受け付けるな」
表示を払う。
消えない。
【救出対象への注目度が上昇しています】
【推奨:配信枠の事前確保】
「誰が推奨してる」
ルナが表示を見る。
「帰還処理側です」
「神々じゃないのか」
「神々が集まった結果を、処理側が成功の兆候だと判断しています」
「見られるほど救出しやすくなる?」
「以前の仕組みなら」
「今は」
「見られるほど、二人が救出対象ではなく、配信対象として固定されます」
扉が押された。
どん。
二回目。
上側の蝶番が鳴った。
ガルムが両手を扉へつく。
レオンも横へ並ぶ。
背中には四つ目の椅子が固定され、右手は剣ではなく、扉の木板を押さえている。
「抜かないのか」
アルトが尋ねる。
「斬る相手がいません」
「昨日なら抜いてたかもしれないぞ」
「昨日より少し学びました」
「少しか」
「多く学んだと言うと、過信になります」
レオンは体重を前へかける。
扉の向こうに何人いるかを数えようとはしなかった。
「ブルーノさん」
「何でしょうか」
「店内の人数をお願いします」
ブルーノが紙から顔を上げる。
机の周囲。
厨房。
階段。
入口。
一度だけ全員を見る。
「九人です」
レオンも視線を店内へ巡らせる。
「九人。一致しました」
数え直さない。
扉へ向き直る。
「外は?」
ミアが聞く。
「数えません」
「何で」
「数え切れないからです」
「諦めた?」
「必要がありません」
レオンは扉を押さえたまま言った。
「迎えに行く人数だけ確認できれば、今は足ります」
アルトは外から入る光を見る。
扉の下の白い線は、少しずつ太くなっていた。
神々は、店内へ入ろうとしている。
身体ではない。
視線を。
声を。
投げ銭を。
期待を。
帰還した二人が最初に何を言うかという予測を、本人たちより先に置こうとしている。
「閉じたままでは駄目なのか」
ミナが尋ねる。
彼女は割れ物を入れた木箱の横へ立ち、神々の圧力で蓋が開かないよう、布帯を結び直している。
「扉を開けなければ、見られませんよね」
「白い場所への道も、ここから開く」
ルナが答えた。
「参照入口は赤猫亭側にあります。神々からの接続も、二人への接続も、同じ入口を探しています」
「悪い方だけ閉めるのは?」
「入口は、相手を選びません」
「じゃあ、二人を迎えようとしたら、神様も入ってくる?」
「今のままなら」
ミナの手が止まる。
「それでは、二人はまた見られます」
「だから変える」
アルトが言った。
「何を」
「入口の使い方を」
表示を掴むように意識し、机の上へ落とす。
共有表示が広がる。
【参照入口:赤猫亭側】
【用途:帰還処理/神界観測/神貨送付】
三つの項目が、同じ入口から枝分かれしている。
アルトは【神界観測】へ触れた。
【観測席を開放しますか】
【観測席数:上限なし】
「席は四つしかない」
ミアが言う。
「こっちの席じゃない」
「でも席って書いてる」
「神界側の言い方だ」
「じゃあ、変えて」
「変えられるのか」
アルトがルナを見る。
「表示上の名前だけなら」
「中身は」
「変わりません」
「なら意味ないな」
「意味はあります」
マルタが厨房から言った。
鍋を火から下ろし、布の上へ置く。煮込まれた芋の匂いが店内へ広がったが、彼女は皿へよそわず、扉の前まで歩いてきた。
「名前を変えれば、間違った時に分かる」
「どういうことだ」
「店の前に立ってる場所を、客席と呼ぶから、入っていいと思うんだよ」
マルタは共有表示を覗く。
「戸口でいい」
「神界観測席を?」
「戸口」
「何千人もいるぞ」
「店の中から見れば、戸口は一つだよ」
単純だった。
どれほど多くの神が集まっても、赤猫亭の入口は一つしかない。神々一人ひとりへ専用の観測席を用意するから、無数の角度と無数の視線が、店内のあらゆる場所へ入り込む。
なら、席を与えなければいい。
入口から見えるものだけを見る。
入口まで届いた声だけを聞く。
中へ入らない。
追いかけない。
「変えられるか」
アルトが尋ねる。
ルナは共有表示へ手を近づけた。
「試します」
「失敗したら」
「扉が開きます」
外から三度目の圧力が来た。
どん。
横木が大きくしなった。
留め金の一本が抜けかけ、先端が床へ落ちる。
からん。
「次で外れる!」
ガルドが叫ぶ。
「早くしろ!」
「名称だけでは足りません!」
ルナの指が表示の上を動く。
【神界観測席】
文字が滲む。
消える。
【神界観測入口】
「入口が二つになる!」
ブルーノが言う。
「駄目です! 参照入口と競合します!」
「じゃあ何だ!」
「来店者!」
ミアが叫んだ。
全員がミアを見る。
「神様じゃなくて?」
「見に来たなら来店者」
「まだ店へ入ってないぞ」
「だから入口で待つ」
「中へ入れたら駄目なんだろ」
「入れない客もいる」
「それは客なのか」
「混んでる時、外で待ってる」
マルタが頷いた。
「来店待ちだね」
ルナが文字を変える。
【神界観測席】
滲む。
【来店待ち】
表示全体が大きく揺れた。
扉の外から、声にならない反発が押し寄せる。
店の窓が白く染まった。
水差しの側面に映っていた厨房が消え、代わりに巨大な瞳が一つ現れる。皿の釉薬、匙の丸い背、鍋の蓋、刃物の表面にも、それぞれ別の角度から店内を覗く目が浮かんだ。
神々が戸口を拒み、ほかの入口を探している。
「布を!」
ミナが皿へ布を被せる。
瞳は布の表面へ移った。
ガルドが鍋の蓋を裏返す。
裏側にも目がある。
ブルーノの記録端末が勝手に点灯し、黒い画面の中央に白い瞳が開いた。
「記録端末まで!」
「閉じろ!」
「操作を受け付けません!」
アルトは端末を掴み、床へ伏せた。
今度は床板の木目に、細い瞼の形が浮かぶ。
「きりがない!」
ガルムが唸る。
扉を押さえながら、耳を後ろへ伏せている。敵意のある匂いはない。だが、見ようとする欲だけが、壁や物を通して店内へ入り込んでいる。
「一つずつ隠すな!」
アルトが言った。
「全部入口へ戻す!」
「どうやって!」
「店の中を見るなら、店の入口からだ!」
アルトは共有表示の【来店待ち】へ手を当てた。
その下に新しい項目が開く。
【来店者の観測経路を指定してください】
【推奨:個別最適化】
「いらない」
【推奨:複数視点】
「一つだ」
【死角が発生します】
「客には死角がある」
【重要場面を見逃す可能性があります】
「見逃せ」
アルトは【単一経路】を選んだ。
次の表示。
【観測位置を指定してください】
店内を示す候補が並ぶ。
机の上。
天井。
帰還門付近。
対象者の近傍。
神々が見たい位置。
アルトは全部払った。
「戸口」
【指定位置が見つかりません】
「ここだ」
敷居を靴で踏む。
木の表面には、何十年も客が出入りした跡がある。雨の日の泥。靴底の傷。荷物を引きずった線。足を止め、入るか迷った者が何度も踏み直した擦れ。
ガルドが敷居の左右へ赤紐を結んだ。
机や椅子につけたものと同じ、赤猫亭の印。
「この間だ」
アルトが言う。
「店の外から、ここを通して見ろ」
ルナが表示へ触れる。
【観測位置:赤猫亭・敷居外】
表示が止まった。
皿に浮かんでいた瞳が、僅かに揺れる。
水差し。
鍋。
床板。
記録端末。
店内に現れたすべての目が、一斉に入口へ向いた。
次の瞬間、瞳が物の表面から剥がれた。
白い光の粒となり、店内を横切る。
皿から。
匙から。
水から。
窓から。
床から。
無数の光が扉へ吸い込まれ、敷居の外側へ集まっていく。
扉にかかっていた圧力が変わった。
押し込む力ではない。
全員が同じ狭い場所から覗こうとし、互いに場所を奪い合っているような、左右へ揺れる力。
「まだ多い」
ミアが言う。
「並べ」
アルトが表示へ命じる。
【来店待ちの順序を設定しますか】
「先着順?」
ブルーノが聞く。
「順番を決めたら、最後の神は何も見えません」
「客は待つもんだよ」
マルタが言う。
「食べ終わるまで?」
「店が閉まるまでだって待つことはある」
「救出が終わったら」
「見られなかった、それだけだね」
アルトは【先着順】を選ばなかった。
神々一柱ずつに順番を与えれば、先に並んだ者だけが特別な視点を得る。それは新しいランキングになる。
「一人ずつじゃない」
「では、どうします」
ルナが尋ねる。
「同じ場所から見せる」
「重なります」
「重なれ」
「個別の視界は維持できません」
「同じものを見ろ」
神々ごとに違う角度を渡さない。
誰かの表情へ近づかない。
机の下を覗かない。
ルナの口元だけを切り取らない。
レオンの涙を追わない。
戸口に立つ一人の客と同じ高さ、同じ距離から、見える範囲だけを見る。
【観測経路:単一】
【観測位置:敷居外】
【個別追尾:停止】
三行が表示された。
最後に警告が出る。
【神界観測者の同意が必要です】
「同意しなかったら」
アルトが聞く。
「接続要求が継続します」
ルナが答えた。
「扉を押し続ける?」
「はい」
「面倒だな」
扉の外へ顔を向ける。
白い光の向こうには、姿がない。
だが、聞いている。
アルトが何を言うのか。
どんな名場面を作るのか。
自分たちが見たい形へ折れるのか。
期待している。
「神様」
アルトが呼びかけた。
敷居の外で、光が波打つ。
「二人を迎えに行く」
扉へかかる力が強くなる。
「二十二年待った奴も連れていく」
レオンは何も言わない。
背負った椅子の革帯を握り、次の言葉を待っている。
「見たいのは分かる」
白い光の中で、神貨の鳴る音がした。
大量の金属が、袋の中で触れ合うような音。
救出成功への投げ銭。
感動への値段。
最初の一言への賭け。
「でも、あいつらは、お前らのために目を覚ますんじゃない」
ルナが顔を上げる。
「レオンが泣くところも、ルナが何を言うかも、見どころじゃない」
神貨の音が大きくなる。
反発するように。
「俺たちは、配信を切らない」
ブルーノがアルトを見る。
完全に閉じると予想していたのだろう。
「切らないのですか」
「ああ」
「では、神々に見せる?」
「違う」
アルトは扉を押さえる手へ力を込めた。
「追い出して終わりにはしない。見えないところでやればいいって話でもない」
見られてきた。
利用された。
金を投げられた。
名前をつけられ。
順位をつけられ。
帰ろうとする姿を、物語として消費されてきた。
だからといって、今度はすべてを隠し、誰にも見せずに終わらせれば、境界を引いたのではなく、逃げただけになる。
見ること自体を悪いものにはしない。
誰かが帰るところを見たいと思うことも。
二十二年止まっていた者が助かることを願うことも。
それまで拒めば、アルト自身が神々と同じように、見る者の気持ちを勝手に決めることになる。
「見てもいい」
アルトは言った。
「ただし、見たい場所へ勝手に入るな」
白い光が揺れる。
「声を切り取るな」
神貨の音が止まる。
「泣いた顔へ近づくな」
扉の圧力が僅かに弱まる。
「最初の言葉に値段をつけるな」
共有表示から、予約投げ銭の項目が消えた。
「帰ってきた奴に、勝手な話をつけるな」
予測投票が閉じる。
「店の中には、店の決まりがある」
マルタがアルトの背後で腕を組む。
「騒ぐ客は?」
「帰す」
「人を指さす客は」
「帰す」
「勝手に皿を触る客は」
「帰す」
「金を投げる客は」
「拾わせる」
「自分で?」
「自分で」
ミアが付け加えた。
「椅子を取ったら貸さない」
「それもだ」
「芋は?」
「神にはやらない」
「何で」
「足りなくなる」
マルタがアルトの後頭部を軽く叩いた。
「客なら飯は出すよ」
「神にも?」
「食べるならね」
「食べられるのか」
「知らないよ。食べられないなら、匂いだけ嗅いでな」
アルトは少しだけ息を吐いた。
扉の外へ向き直る。
「聞いたな」
返事はない。
無数の視線だけが、敷居の外へ集められている。
「見たいなら――」
アルトは扉を僅かに開けた。
人一人が入れる幅ではない。
手のひら一枚分。
そこから見えるのは、赤猫亭の入口近くと、机の端、四つ目の椅子の背板だけだった。厨房の奥も、水桶の内側も、ルナの表情も見えない。
見ようと身を乗り出しても、視点は動かない。
戸口に立った客が見える範囲だけ。
「客として見ろ」
白い光が膨らんだ。
扉が押し返される。
ガルムとレオンの足が半歩滑る。
「断られました!」
ブルーノが共有表示を見る。
【一部観測者:条件拒否】
「一部?」
「同意した神もいます!」
表示の数字が高速で変わる。
【条件同意:十二】
【条件拒否:計測不能】
「少なっ」
ミアが言う。
「十二人は客か」
「十二柱です」
ルナが訂正する。
「どっちでもいい」
拒否した神々が再び扉を押す。
今度は先ほどより激しい。
蝶番ではなく、店全体が鳴った。
棚の皿。
天井の梁。
床板。
みし。
みし。
みし。
アルトは共有表示へ手を置く。
「同意しない奴は?」
「観測経路を失います」
「それだけ?」
「現在の接続を切れば」
「切れ」
【条件拒否者との接続を切断しますか】
【切断後、救出配信への再接続はできません】
「いい」
「アルトさん」
ブルーノが声を上げる。
「神々の大半が見られなくなります」
「ああ」
「投げ銭も、注目度も」
「いらない」
「救出に必要な神貨が不足する可能性は」
「飯と椅子で行くって決めただろ」
ブルーノは口を閉じた。
アルトが切断を選ぶ。
白い光の向こうで、何千もの声が同時に上がった。
言葉にはならない。
怒り。
不満。
見せろという要求。
すでに自分たちのものだと信じていた物語を、途中で取り上げられた者たちの騒めき。
それが一瞬だけ赤猫亭へ流れ込み、次の瞬間、途切れた。
窓の白い光が消える。
皿の表面が元の色へ戻る。
水差しには厨房の火が映る。
床板から瞳の形が消えた。
扉を押していた力も失われ、ガルムとレオンの身体が前へ傾く。
「止まった」
ミアが耳から手を離す。
店の外には、朝の通りしかない。
荷車の車輪。
パンを運ぶ者。
水桶を抱えた女。
赤猫亭を不思議そうに見る者はいるが、神々の列は見えない。
入口の鈴も鳴らない。
アルトの視界には、小さな表示だけが残った。
【来店待ち:十二】
「十二柱は?」
レオンが尋ねる。
「戸口にいます」
ルナが答える。
「見えませんが、条件を受け入れました」
「十二人なら、椅子は?」
ミアが聞く。
「出さない」
「ずっと立つ?」
「戸口だからな」
「かわいそう」
「お前、さっき貸さないって言ってただろ」
「客なら違う」
「神のための席はないよ」
マルタが言った。
「帰ってくる二人の席だからね」
ミアは四つ目の椅子を抱き直す。
「じゃあ立ってて」
来店待ちの数字が一つ減った。
【来店待ち:十一】
「帰った?」
「おそらく」
「立つの嫌だったのかな」
「神様にも色々いる」
アルトが言う。
「残りは?」
共有表示が変わる。
【来店待ち:十一】
【観測経路:赤猫亭戸口】
【音声:戸口へ届いたもののみ】
【投げ銭・予測・追尾:停止】
表示はそれ以上増えなかった。
誰が見ているか。
どの神が残ったか。
名前も出ない。
必要なかった。
客は客だ。
神であることを店内へ持ち込まないなら、名前まで確かめる理由はない。
「これで終わりか」
ガルムが扉から手を離す。
「神々の方は」
ルナが言った。
「二人の方は?」
レオンが尋ねる。
全員の視線が、傷の残った水桶へ向く。
蓋は閉じたまま。
中には、返さなかった二人分の残滓がある。
先ほどまで神々の圧力で震えていた桶は、今は静かだった。
レオンが近づこうとする。
途中で止まる。
「触れてもよいでしょうか」
「聞く相手が違う」
アルトが言う。
レオンは水桶へ向き直った。
「触れます」
返事はない。
それでも、先に伝えた。
蓋へ手を置く。
冷たくはない。
何も鳴らない。
「聞こえません」
「神々を切ったから?」
ブルーノが共有表示を確認する。
「帰還処理側の接続は残っています」
「なら」
レオンの手の下で、水桶が一度だけ鳴った。
こつ。
低く。
小さい。
続いて、もう一つ。
かん。
今度は少し硬い音。
二人。
レオンは蓋から手を離さない。
「支度は終わりました」
伝える。
「これから向かいます」
音は返らなかった。
レオンは続きを足そうとしない。
アルトの視界で、神々の来店表示とは別の場所に、新しい文字が浮かぶ。
【参照入口:赤猫亭側】
【外部観測経路:固定】
【帰還処理経路:確保】
最後の一行が、ゆっくり現れた。
【白い場所への移送を開始できます】
アルトは表示を机の上へ落とした。
全員が読む。
マルタは厨房へ戻り、小鍋の蓋を開けた。長く火にかけていた芋は柔らかくなっているが、煮崩れてはいない。
「飯は?」
アルトが聞く。
「多め」
ミアが先に答える。
「水は」
ミナが水差しを持ち上げる。
「入れました」
「赤紐は」
ブルーノが一覧を確認する。
「十一です」
レオンが一度だけ数える。
「十一。一致しました」
「机は」
ガルドが接合部を叩く。
かん。
「持つ」
「椅子は」
ミアが背板を叩く。
こん。
「貸す」
「水桶は」
ルナとガルムが左右の取っ手へ立つ。
「二人で持ちます」
店の中で、それぞれが自分の持つ物へ手をかける。
入口の外には、十一柱の神が残っている。
戸口からしか見えない。
声も、そこへ届かなければ聞けない。
誰かの顔へ近づくことも、物語の続きを先回りすることもできない。
ただ、客として待っている。
マルタが赤猫亭の扉を開いた。
入口の鈴が鳴る。
ちりん。
今度は誰かが押した音ではない。
店の側から開けた音だった。
敷居の外へ、細い白い道が伸びている。
神界へ上がる道ではない。
赤猫亭の前から、通りの奥へ。
その先にあるはずのない白い場所まで、石畳の上を静かに続いていた。
「出前だよ」
マルタが小鍋を持ち上げる。
アルトは傷ついて直った机の片側を持った。
「行くぞ」
誰も歓声を上げなかった。
戸口の客たちも、声を出さない。
十一の視線が、同じ入口から、赤猫亭の一行を見送っていた。




