第130話 出前の支度
「置いてくる」
アルトがそう言った瞬間、ミアは四つ目の椅子へ飛びついた。
背板を両腕で抱え、誰にも渡さないという顔で、作業台の前に立ちはだかる。
「駄目」
「何がだ」
「これ、置いてこない」
「白い場所で使うんだから、向こうに置くだろ」
「駄目」
「理由を言え」
「帰ってこない言い方だから」
赤猫亭の中で動いていた手が、いくつか止まった。
ガルドは椅子の革帯を締める途中で指を止め、ブルーノは運搬手順を書いていた紙から顔を上げる。厨房ではマルタが鍋の中身を確認しており、湯気の向こうから、黙って二人のやり取りを見ていた。
前日の仮接続で傷んだ机は、脚を外した状態で店の中央に置かれている。ガルドが接合部を削り直し、石畳の上で生じた僅かな歪みを調整したため、組み上げれば以前より安定するはずだったが、木の表面には革帯が擦れた跡と、白い場所へ引かれた際についた新しい傷が残っていた。
四脚の椅子。
傷を残した水桶。
深皿と小皿。
水差し。
芋を入れる布袋。
小鍋。
それらはすべて、赤猫亭で日常的に使われてきたものだった。
救出用に作られた道具ではない。
だからこそ持っていく。
「置いてくると言っても、捨てるわけじゃない」
アルトが言う。
「同じ」
「違う」
「帰ってこなかったら同じ」
ミアは椅子を抱えたまま離れない。
「机も、皿も、鍋も。置いてきたら、赤猫亭からなくなる」
「必要なら向こうで使う」
「使い終わったら?」
「……回収する」
「最初からそう言って」
「細かいな」
「細かくない」
ミアは椅子の背板へ頬をつけた。
「貸すの」
「貸す?」
「白いところに貸す。帰ってきた人に貸す。置いてこない」
ミアの声は大きくなかったが、店の中によく通った。
「あとで返してもらう」
マルタが鍋を混ぜながら言う。
「その方がいいね」
「マルタまで」
「出前の皿を、客の家に捨ててくる店はないよ」
「向こうは客の家なのか」
「食べる相手がいる場所なら、似たようなものだろ」
「かなり違うと思うが」
「言葉の話をしてるんだよ」
マルタは小鍋の蓋を持ち上げ、煮え方を確かめる。中には、形が崩れにくいよう大きめに切った芋と、少量の塩だけを入れた薄いスープが入っていた。
「置いてくると言うと、戻らなくても仕方ない荷物になる。貸すと言えば、返しに来る理由ができる」
「場所が物を返しに来るのか」
「帰ってきた人が返せばいい」
アルトは四つ目の椅子を見る。
入口近くで、長い間、誰かを待つ客が使ってきた椅子。
レオンが最初に赤猫亭を訪れた時も、そこへ座った。
二十二年以上前に帰ってこなかった二人を迎えるため、今度はその椅子を白い場所へ持っていく。
「分かった」
アルトが言う。
「置いてこない」
ミアの腕から、僅かに力が抜けた。
「貸す」
「ああ」
「全部?」
「全部だ」
「鍋も?」
「鍋も」
「芋は?」
「食われるだろ」
「食べたら返せない」
「芋まで返されたら困る」
ミアは少し考えた。
「じゃあ、芋はあげる」
「そこはいいのか」
「食べ物だから」
基準が分からない。
だが、ミアの中では明確らしい。
ブルーノが運搬手順の上部に書いていた題を消した。
【白い場所への持出品】
横線を引き、その下へ書き直す。
【赤猫亭から貸すもの】
机一。
椅子四。
水桶一。
水差し一。
深皿一。
小皿四。
小鍋一。
布。
匙。
「芋は貸出品から外します」
「分かってる」
「消耗品として記録します」
「飯でいいだろ」
「記録上の分類が必要です」
「綺麗にしすぎるなよ」
「では、飯と書きます」
ブルーノは本当に【飯】と書いた。
その下に、小さく【多め】と加える。
ミアが覗き込んで頷いた。
「よし」
「あなたが確認する項目ではありません」
「大事」
「否定はしません」
ガルドは椅子の革帯を緩めた。
「貸すなら、印をつける」
「名前を書くのか」
アルトが尋ねる。
「店の名前は書かん」
「神々に拾われるから?」
「木に余計な文字を刻みたくない」
理由は職人の方だった。
ガルドは工具袋から、細い赤色の革紐を取り出した。使い込まれて色は薄くなっているが、赤猫亭の厨房で鍋の取っ手を補修した際に使われたものと同じ革だった。
椅子の背板へ一本。
机の脚へ一本ずつ。
水桶の左右の取っ手。
皿を包む布の結び目。
すべてに短い赤紐をつける。
「これがあれば、赤猫亭の物だと分かる?」
ミアが聞く。
「俺たちにはな」
「白いところにも?」
「分からん」
「じゃあ、意味ない?」
「俺たちが分かればいい」
ガルドは紐の端を引き、結び目の強さを確かめる。
「貸した相手が忘れても、貸した側が覚えている」
レオンは四つ目の椅子の前へ立ち、背板につけられた赤紐を指で撫でた。
「返してもらうまで、数えるのですか」
「数えたいなら数えろ」
アルトが言う。
「ただし、一人で全部覚えるな」
「ブルーノさんにも記録を」
「紙に残します」
ブルーノが答える。
「赤紐の本数も?」
「必要ですか」
「途中で外れれば、何かを落とした可能性があります」
「では記録します」
レオンが数える。
机の脚に四本。
椅子に四本。
水桶に二本。
布に一つ。
「十一です」
ブルーノが紙の一覧と照らす。
「十一です。一致しました」
レオンは二度目を数えなかった。
代わりに、四つ目の椅子を背負う。
革帯は前回より幅の広いものへ替えられ、胸元の留め具を一度引けば、椅子だけを背中から落とせる仕組みになっている。ガルドが実際に何度も動かし、片手でも外せることを確認した。
「外します」
レオンが言う。
「誰に言ってる」
アルトが聞く。
「全員に」
「声が小さい」
「椅子を外します」
レオンは少し声を張り、留め具を引いた。
椅子が背中から離れる。
ミナとアルトが左右から受け、床へ置く。
「もう一度」
アルトが言う。
「今ので外れました」
「動きじゃない。伝える方だ」
レオンは再び椅子を背負い、革帯を締めた。
「椅子を外します。受けてください」
「誰が受ける」
「近い方に」
「本番で、近い奴が動けなかったら」
「名前を呼びます」
「誰の」
レオンは周囲を見る。
固定したくない。
だが、曖昧なままでも動けない。
「まず、アルトさん」
「俺が机を持っていたら」
「ミナさん」
「負傷者を見ていたら」
「ガルムさん」
「前を守っていたら」
レオンの眉が寄る。
「全員の状態を確認してから――」
「遅い」
「では、どうすれば」
「誰でもいいから声を出せ」
アルトは椅子の背板を叩く。
「受けられる奴、と言え」
「名前を決めないのですか」
「その場で動ける奴が答える」
「返事が重なったら」
「近い方」
「誰も返さなければ」
「落とす」
レオンの表情が固くなる。
「壊れる可能性があります」
「お前が椅子ごと持っていかれるよりいい」
しばらく沈黙したあと、レオンは頷いた。
「椅子を外します。受けられる方」
「受ける」
今度はガルムが答えた。
レオンが留め具を引く。
ガルムが片手で背板を掴み、床へ置く。
こと。
赤紐が僅かに揺れる。
「もう一回」
レオンは椅子を背負い直す。
声を出す。
今度はミアが返事をした。
「受ける!」
「お前は無理だ」
アルトが止める。
「返事した」
「受けられる奴って言っただろ」
「受けられる」
「じゃあやるぞ」
レオンが留め具を引く。
椅子が傾く。
ミアは両手で背板を掴んだが、重さに負けて一歩下がった。
「重い!」
「言っただろ!」
倒れる前にガルドが座面を支える。
椅子は床へぶつからずに済んだ。
「一人では無理だ」
ガルドが言う。
「二人なら持てる」
ミアは椅子を離さない。
「受けられた」
「半分な」
「半分でも受けた」
ガルドは否定しなかった。
「なら、二人と伝えろ」
レオンは椅子を背負い直す。
「椅子を外します。二人、受けてください」
「受ける」
ミア。
「受ける」
ガルド。
今度は安定した。
椅子が二人の間へ下りる。
「これならいい」
アルトが言う。
「一人で持てる物でも、二人に頼んでよいのでしょうか」
レオンが聞く。
「その方が安全ならな」
「効率は落ちます」
「椅子を落とすよりましだ」
「はい」
レオンは胸元の革帯を締め直す。
頼ることを、合理性へ置き換えて飲み込もうとしている。以前なら、その方法しか受け入れられなかったのだろうが、今は理由が合理性であっても構わなかった。声を出し、誰かが返し、二人で受けるという動きが残ればいい。
赤猫亭の外で、鈴が鳴った。
ちりん。
店の入口に吊られたものではない。
もっと高い場所。
空の奥から響いたような音だった。
ルナの顔が上がる。
「始まりました」
「何が」
「神界側の席が開いています」
アルトは反射的に視界の端を払おうとした。
だが、表示は出ていない。
それでも、店の窓に異変が現れた。
外の通りを映していた硝子の表面に、白い点が一つ灯る。
続いて二つ。
三つ。
点は瞬く間に増え、窓全体を覆っていく。ひとつひとつは針先ほどの光だが、数が増えるにつれて店内が青白く照らされ、厨房の炎まで窓の方へ引かれるように細く傾いた。
ブルーノが記録端末を開く。
神界照合ではない。
赤猫亭周辺の観測圧を確認するための、通常の記録画面。
「視聴者数が上がっています」
「配信してないぞ」
「昨日の仮接続記録が、神界側で広がっています」
「誰が流した」
「こちらからは送っていません」
「じゃあ何で」
「机と四つの椅子が、帰還処理に認識された記録だけが漏れています。映像はありません。音声もありません。ただ――」
ブルーノが画面を見つめたまま、言葉を切る。
「救出が始まるという情報だけが流れています」
窓の光点がさらに増える。
店の天井。
棚に並んだ皿。
磨かれた匙。
水差しの表面。
光を反す場所すべてに、白い点が映り込んでいた。
見ている。
姿はない。
声もない。
それでも、赤猫亭の中にある物の輪郭が、外から押し込まれる視線によって少しずつ硬くなっていく。
ガルドが机の天板へ手を置く。
「木が鳴ってる」
耳を近づけなくても分かった。
みし。
みし。
重い物を載せていないのに、机の内部で繊維が軋んでいる。
水桶の蓋も小さく揺れ始めた。
かた。
かた。
中に入った二人分の残滓が反応しているのではない。
外からの圧力に、木そのものが耐えている音だった。
「見るだけで、こんなになるのか」
アルトが窓を見る。
「見ようとしている数が多すぎます」
ルナが言う。
「神々は、救出の瞬間が始まると思っています」
「まだ準備だ」
「神々にとっては、準備も前座になります」
「ふざけるな」
アルトの視界に、強制的に表示が浮かんだ。
自分で開いていない。
閉じようとしても消えない。
【注目度:急上昇】
【関連分類:失われた帰還者】
【予測イベント:二十二年ぶりの救出】
【神界側観測席:開放】
次の行が高速で更新される。
【観測者:二百七十三】
【観測者:五百八十一】
【観測者:千四百二十】
【観測者:計測処理遅延】
アルトは表示を机上へ落とさなかった。
共有しなくても、ルナには状況が分かっている。
ブルーノも記録端末から数を見ている。
「神界コメントは」
アルトが聞く。
「まだ開いていません」
「投げ銭は」
「受付を止めています」
「ランキングは」
「関連付けを拒否しています」
「それでも見てる?」
「はい」
窓の外を歩いていた男が、赤猫亭の前で不思議そうに足を止めた。彼には光の点が見えていないらしい。ただ、硝子が内側から強く発光しているように見えるのか、目を細めて店内を覗き込んでいる。
アルトは窓の鎧戸を閉めた。
光は消えない。
木板の隙間からではなく、表面そのものに白い点が浮かび上がる。
ガルムが入口へ立つ。
「敵意はない」
「だから厄介なんだ」
「だが、圧はある」
ガルムの耳が後ろへ伏せられている。
「森で大群に囲まれた時に近い。ただし、匂いがない」
ミナが棚から布を取り、皿へ被せる。
白い点は布の上へ移る。
水差しを木箱へ入れて蓋を閉めても、箱の表面に浮かび直した。
「隠せません」
「向こうは物を見てるんじゃない」
ルナが言う。
「救出が起きる場所を、先に確保しようとしています」
「確保?」
「見るための位置を」
アルトは赤猫亭を見回した。
机。
四つの椅子。
水桶。
皿。
鍋。
貸すためにつけた赤紐。
神々は、これらを場所を作る道具として見ていない。
救出劇の小道具として見ている。
どの椅子へ誰が座るか。
誰が最初に目を覚ますか。
レオンが泣くか。
ルナが何を言うか。
アルトがどんな台詞を吐くか。
すでに期待し、意味をつけ、まだ起きてもいない瞬間を物語の形へ押し込もうとしている。
「ブルーノ」
「はい」
「神界側で、何か賭けが始まってないか」
ブルーノの顔が強張った。
「確認します」
数秒。
指が画面を動く。
止まる。
「非公式の予測票が出ています」
「内容は」
「読まない方が」
「言え」
「最初に目覚めるのはどちらか。レオン様が最初に発する言葉。ルナ様が『おかえりなさい』を言うかどうか」
ブルーノの声が低くなる。
「救出成功時の投げ銭予約も始まっています」
ミアが四つ目の椅子を抱き直した。
「貸さない」
「何を」
「神様に」
背板についた赤紐を握る。
「これは、帰ってくる人に貸す。見る人には貸さない」
アルトは窓を覆う光点を見た。
白い点の数はもう数えられない。
それぞれが神の目だと考えれば、店の壁も、天井も、床も、隙間なく見られている。
だが、赤猫亭は観客席ではない。
机の周囲に四つの椅子があるのは、見物する神を座らせるためでもない。
「準備を止めるか」
ガルムが聞く。
「止めたら、向こうは待たされる」
「続ければ、見られる」
「ああ」
「配信を切る?」
ミアが聞く。
「まだ配信してない」
「じゃあ、何を切るの」
アルトは答えなかった。
配信を始めていないのに、神々はもう見ている。
ランキングにも載せていない。
コメント欄も開いていない。
それでも、救出が始まるという気配だけを嗅ぎつけ、赤猫亭の周囲へ席を作ろうとしている。
見られないために全てを閉ざせば、二人を迎えに行く道まで閉じるかもしれない。
なら、別の線を引く必要がある。
見てもいい。
ただし、神々の都合で見ることは許さない。
アルトがそう考えた瞬間、入口の鈴が鳴った。
ちりん。
扉は動いていない。
風もない。
もう一度。
ちりん。
三度目。
ちりん。
マルタが厨房から入口を見る。
「客かい」
ガルムが扉の向こうを確かめる。
「誰もいない」
それでも鈴は鳴った。
アルトの視界表示へ、新しい項目が割り込む。
【参照入口:赤猫亭側】
【神界観測席からの接続要求を受信】
【入場希望数:計測不能】
扉の木枠が、外側から押された。
一度。
どん。
蝶番が鳴る。
二度目。
どん。
厨房の皿が重なったまま震えた。
四つ目の椅子につけられた赤紐が、風もないのに横へ引かれる。
「入れないで」
ミアが言う。
「ああ」
「絶対に」
「ああ」
三度目の衝撃が来る前に、アルトは扉の前へ立った。
ガルムが横につく。
レオンは椅子を背負い直し、ルナは傷の残った水桶の取っ手を握る。ブルーノは紙の一覧を胸元へ抱え、マルタは火にかけていた小鍋の蓋を閉めた。
白い点で埋まった店内で、赤紐だけが元の色を保っている。
「準備は続ける」
アルトが言う。
「はい」
レオンが答える。
「貸した物は全部持って帰る」
「十一です」
ブルーノが言う。
「飯は?」
ミアが聞く。
「多めだ」
マルタが答える。
扉が大きく揺れた。
どん。
外には誰もいない。
だが、敷居の向こう側には、神々が作った見えない列が、赤猫亭の通りを埋め尽くしていた。




