第128話 四つ目の椅子
三本目の脚が外れたところで、古い机はようやく扉を通った。
赤猫亭の隅で長く使われ、途中で何かの通り道にされ、ガルドの手で傷を残したまま直された机は、見た目よりも横幅があり、脚をつけたまま運ぼうとすると入口の枠へ斜めに引っかかった。アルトとガルムが左右から持ち上げ、ミアが「そっち上、もっと上」と指示を出し、最後にはマルタから「店を壊す気かい」と怒鳴られた末、結局ガルドが脚を一本ずつ外すことになった。
「最初から外せばよかっただろ」
アルトは机の天板を抱えたまま言った。
「通るか確かめた」
「見れば分かる」
「見ただけでは、枠の歪みまでは分からん」
「通らなかったじゃないか」
「だから分かった」
ガルドは外した脚の接合部へ番号を刻んでいく。
一。
二。
三。
最後の一本には四ではなく、小さな三角形を刻んだ。
「何でそこだけ数字じゃない」
「昔、一度折れて交換している」
「同じ場所に戻さないと駄目か」
「戻せるが、少しずれる」
「少しくらい」
「机は、少しずれると揺れる」
ガルドは当然のように言い、木屑を払った。
使う場所が変わっても、同じ机であるためには、同じ脚を同じ位置へ戻す必要があるらしい。
アルトとガルムは天板を店の外へ運び、石段の下へ一度置いた。古い木は軽く見えるが、長年こぼされた水や酒を吸い、何度も削られ、補強材まで入れられているため、二人で持っても腕に重さが残る。
「これを白い場所まで?」
ミナが扉の横から聞く。
「そのつもりだ」
「持ったまま戦闘にはなりませんか」
「ならないようにする」
「なった場合は」
アルトは答えず、ガルムを見る。
「俺が置く」
ガルムが言った。
「安全な場所を作る。それまで机は運ばない」
「置いた後に敵が出たら?」
「机から離す」
「壊れたら」
ガルドが店の中から答えた。
「直す」
「白い場所でも?」
「道具があれば」
「全部持っていく気か」
「必要なものだけだ」
ガルドの足元には、すでに工具袋が三つ並んでいる。
「どれが必要なものだ」
「全部だ」
「言ってることが違うだろ」
「全部必要だからだ」
アルトは反論を諦めた。
石段の上では、ミアが外された机の脚を一本ずつ抱え、長さと重さを確かめている。二本目までは持ち上げられたが、補強材の入った三本目は両腕で抱えても床から少し浮くだけだった。
「これ、重い」
「持たなくていい」
「持てる」
「今、持ててない」
「あと少し」
「落とすなよ」
言った直後、脚がミアの腕から滑った。
アルトが足を引く。
木の脚は石段へ当たる寸前で、レオンの右手に掴まれた。
いつ店へ来たのか、誰も気づかなかった。
「危険です」
レオンは脚を縦に立てる。
「足へ落ちれば骨を傷めます」
「持てた」
ミアが言う。
「落としました」
「レオンが持った」
「それは、あなたが持ったことにはなりません」
「途中までは持った」
レオンは返答に迷い、アルトを見る。
「どう答えるべきでしょうか」
「知らん。朝から難しい問題を持ってくるな」
レオンは机の脚をガルドのところへ運んだ。
店へ入る前に視線が一度だけ動く。
アルトは先に言った。
「外に俺とガルム。中に五人。二階にルナ」
レオンの視線が止まる。
「確認しました」
「今、数えようとしただろ」
「一度だけです」
「聞けばいい」
「ですから、聞きました」
「聞く前に目が動いてた」
「癖は一日では消えません」
「消せとは言ってない」
レオンは少しだけ考え、頷いた。
「では、次は先に聞きます」
昨日の話を覚えている。
一人で二度数えるのではなく、誰かと一度ずつ確認する。
小さな変化ではあるが、救出へ同行するなら、その小さな変化が必要だった。
「今日も同じことを言えるか」
アルトが尋ねる。
「何についてですか」
「椅子を運びたいって話だ」
「はい」
「理由は」
「座る人が必要だからです」
昨日と同じ答えだった。
声の調子にも迷いはない。
「剣より椅子を持つ?」
「剣も持ちます」
「欲張るな」
「椅子だけで危険へ対処できません」
「片手で両方持つ気か」
「椅子は背負えるように加工していただきます」
レオンがガルドを見る。
ガルドは即答しなかった。
椅子。
レオンの背中。
剣を抜く動き。
順に見てから、短く言う。
「できる」
「できるのかよ」
「背板に革帯を二本通す。ただし、抜剣前に降ろせ」
「片手で外せるようにできますか」
「留め具を前に回す」
ガルドはすでに作る前提で話している。
レオンも腰の剣と肩の幅を測るように自分の身体へ手を当てた。
「椅子はどれを持っていく」
アルトが聞く。
赤猫亭には同じ形の椅子が揃っているわけではない。
背の高いもの。
座面の低いもの。
脚の一本だけ色が違うもの。
マルタが店を始めてから壊れるたびに修理し、足りない時には近所から譲り受けてきたため、机以上に統一感がなかった。
「この机と一緒に使われていたものを」
レオンは隅の席へ向かう。
机が置かれていた場所には、床へ四角い跡が残っている。長年、脚が同じ場所を押していた跡。その周囲に三脚の椅子が置かれていた。
一つ目は、アルトがよく座っていた椅子。
二つ目は背板に細い亀裂があり、ガルドが鉄板を当てて直したもの。
三つ目は座面が少し低く、ミアが気に入って使っていたもの。
「三つ?」
レオンが尋ねる。
「普段はな」
アルトが答える。
机の一辺は壁に近く、店で使っていた頃は三方向にしか椅子を置いていなかった。
「二人が戻り、一人が待つ」
ブルーノが紙を持って近づいてくる。
「三脚で足りるように見えます」
レオンはすぐには頷かなかった。
「一人は、立つことになります」
「誰が」
「迎える者です」
アルトは机の跡を見る。
戻ってくる二人。
待っていたレオン。
そこへ机を運び、皿を置き、水を出し、帰る場所を作る者。
「迎える奴は座らなくてもいいだろ」
アルトが言う。
「立ったままでは、帰還先として数えられない可能性があります」
「お前が座れば成立するという予想だ」
「予想です」
「四人座る必要はない」
「必要がないとも分かっていません」
レオンは三脚の椅子を見る。
「帰還処理は、人を場所として数えませんでした」
「ああ」
「なら、私たちは、数えられなかったものを目に見える形で置く必要があります」
「椅子を増やせば解決する?」
「分かりません」
「じゃあ」
「ですが、椅子がなければ、座れません」
単純な話だった。
帰還処理の構造がどうであれ、誰かが座るためには椅子がいる。
ミアが低い椅子へ腰を下ろした。
「四ついる」
「何でだ」
「三つだと、誰か立つから」
「今、レオンが言った」
「分かったから言った」
ミアは机の跡を囲むように指を動かした。
「二人が帰ってくる。レオンが待ってる。あと一人」
「誰だよ」
「水を出す人」
「立って出せる」
「出したあと座る」
「何のために」
「一緒に飲む」
ミアは当然のように言う。
「帰ってきた人だけ飲んで、出した人が見てたら、配信みたいじゃん」
アルトは言葉を失った。
見る者。
見られる者。
席につく者。
外から眺める者。
赤猫亭が作ろうとしている場所は、その区別を残すためのものではない。
神々の視線が戸口から入るだけになるとしても、机の周りにいる者まで、見る側と見られる側へ分かれてしまえば意味がない。
「四つ目を持っていく」
アルトが言った。
ブルーノが紙へ書き込む。
【机 一】
【椅子 四】
「まだ椅子を決めてない」
「数だけです」
「理由は書くなよ」
「なぜです」
「綺麗に分類するな」
ブルーノは筆を止める。
戻る二人。
待っていた一人。
迎える一人。
そう並べれば整って見える。
だが、実際に誰がどこへ座るかは、その時にならなければ分からない。目を覚ました二人が椅子へ座れる状態とも限らず、レオンが立ったまま動けなくなる可能性も、ルナが自分の声を出すために席を必要とする可能性もある。
「四脚ある」
それだけでいい。
ブルーノは理由を書かず、数字だけを残した。
「どれを四つ目にする」
ミナが店内を見回す。
空いている椅子は何脚もあるが、持っていくなら、ただ余っているものでは足りないらしい。
ガルドは机の跡の周囲を歩き、床板を順に踏んだ。
ぎし。
こつ。
ぎい。
音を聞き分けながら、店の入口へ近づいていく。
そこで一脚の椅子を持ち上げた。
レオンが最初に赤猫亭へ来た日に座った椅子だった。
「これだ」
「何で」
アルトが聞く。
「入口に一番近い」
「それが理由か」
「待つ時に使われている」
客が誰かを待つ時。
迎えが来るまで座る時。
店へ入るか迷う者へ、マルタが「まず座りな」と出す時。
入口近くの椅子は、食事をするためだけではなく、誰かを待つ人間が長く使ってきた。
レオンが背板へ触れる。
木は滑らかで、手の当たる上部だけ色が濃くなっている。
「私が座った椅子です」
「ああ」
「昨日も」
「昨日だけじゃない」
マルタが厨房から言った。
「最初に来た時も、あんたはそこへ座ったよ」
「覚えていません」
「ずっと入口を見てた」
レオンの指が止まる。
「誰かが来るたび、立ち上がりかけてたね」
「そうでしたか」
「本人が忘れてても、椅子は覚えてるかもしれないよ」
ガルドのような言い方だった。
レオンは椅子から手を離さず、しばらく背板を見ていた。
「これを持っていきます」
「お前が決めるのか」
「はい」
「途中で壊しても知らんぞ」
「壊した場合は」
「直す」
ガルドが答えた。
「傷を残して?」
レオンが尋ねる。
「必要なら」
「では、お願いします」
ガルドは椅子を作業台へ運ぶ。
背板へ革帯を通す位置を決め、座面の裏側を確認する。古い椅子だが、脚の接合はまだ強く、余計な補強をしなければ一人で背負える重さだった。
「四脚全部を運ぶ人間が必要だ」
ブルーノが紙を見る。
「机の天板はアルトさんとガルムさん。脚はミアさんと私でも分担できます。水桶はガルドさんと――」
「私が持つ」
ルナの声が階段からした。
全員が振り返る。
右手の包帯は薄くなっているが、まだ外れていない。
「水に触るなと言われただろ」
アルトが言う。
「水は入れません」
「声が入ってる」
「私が返さなかった声です」
「だから一人で持つな」
ルナは階段を下り、傷の残った水桶の前へ立つ。
「一人では持ちません」
ガルドがつけた左右の取っ手を見た。
「反対側をお願いします」
「誰に」
「アルトさんに」
「俺は机だ」
「では、交代してください」
「誰と」
ルナは店内を見る。
今度は誰も数えない。
「レオン様と」
レオンが椅子から顔を上げる。
「私が水桶を?」
「はい」
「椅子は」
「白い場所へ近づくまでは、アルトさんに背負っていただきます」
「俺が?」
「机を運びながら?」
ミアが聞く。
「無理じゃん」
「では、途中で交代します」
ルナの提案はまだ雑だった。
ブルーノが紙へ人名と道具を書き始める。
アルトはその紙を取った。
「先に役割を固定するな」
「ですが、運搬計画が」
「誰かが負傷したら全部ずれる」
「予備を作ります」
「予備も固定するな」
ブルーノは困った顔をする。
救助計画には役割が必要だ。
誰が何を持つか決めなければ、白い場所まで運べない。だが、一人に一つの役割を貼りつければ、その人物が動けなくなった時、道具ごと止まる。
「交代の練習をする」
アルトが言った。
「全員が全部を持つのですか」
「持てるものだけだ。机。椅子。桶。皿。鍋。途中で合図したら替わる」
「戦闘訓練みたい」
ミアが言う。
「戦闘より面倒だ」
机は両手が塞がる。
桶は傾けられない。
椅子は背負ったままでは狭い場所を通れない。
皿は割れる。
鍋は中身をこぼす。
どれも武器より扱いにくい。
だからこそ、練習が必要だった。
「今日は通りを一周する」
アルトは外に置いた机の天板を指す。
「机と椅子だけで?」
ミナが聞く。
「最初はな」
「次は桶?」
「ああ」
「鍋は?」
「最後だ」
「芋は?」
ミアが聞く。
「お前には持たせない」
「何で!」
「減るからだ」
「食べない」
「嘘だ」
「一個だけ」
「食ってるじゃないか」
マルタが鍋の蓋を閉めた。
「芋は私が持つよ」
「マルタも行くのか」
「出前に料理する人間がいなくてどうするんだい」
アルトは答えに詰まる。
マルタは最初から行くつもりだったらしい。
「危険だぞ」
「ここへ来る客が、みんな安全だと思ってるのかい」
「そういう話じゃない」
「飯を出すところまでが店の仕事だよ」
マルタは外された机の脚を一つ持ち上げる。
補強のない一番軽いものだった。
「これなら持てる」
「本当に店ごと行く気か」
アルトが言うと、ミアが嬉しそうに顔を上げた。
「引っ越し?」
「違うよ」
マルタが答える。
「出前だよ」
厨房では鍋が煮えている。
店の外には机の天板。
床には四本の脚。
作業台には四つ目の椅子。
傷の残った水桶。
皿を包むための布。
救出作戦の装備としては、どれもおかしいものばかりだった。
だが、剣と魔法だけでは、二十二年間止まった者を帰せなかった。
今度は、場所を運ぶ。
「出前の範囲を超えてるだろ」
アルトが言う。
「帰ってくる客が遠いだけだよ」
マルタは机の脚を肩へ載せた。
「ほら、運ぶなら早くしな。店が開く前に一周して戻るよ」
アルトとガルムが天板を持ち上げる。
レオンは四つ目の椅子を背負うための革帯を、まだ仮留めのまま肩へ通した。
ミアは軽い椅子を一脚。
ミナとブルーノが残りを一脚ずつ。
ルナは傷の残った水桶の片側を持ち、反対側へガルドが立つ。
全員が動き始めたところで、レオンが口を開いた。
「人数を確認します」
アルトは足を止めない。
「一回だけな」
「はい」
レオンが数える。
今度は、店にいる者だけではない。
誰が何を持っているか。
両手が塞がっている者。
剣を使える者。
すぐに荷物を置ける者。
順に見たあと、ブルーノへ尋ねる。
「九人ですか」
ブルーノが名簿ではなく、実際に歩いている者を確認する。
「九人です」
「一致しました」
レオンは数え直さなかった。
赤猫亭の扉を出る。
四つ目の椅子が背中で小さく鳴る。
こと。
誰かが座るまで、まだ空いている音だった。




