第127話 聞く側の席
レオンが選んだのは、入口の見える席でも、全員を見渡せる中央の席でもなかった。
赤猫亭の奥、壁際に置かれた二つの椅子のうち、修理中の水桶に近い方。そこへ腰を下ろすと、入口は他の客の背中に半分隠れ、厨房の様子も見えづらくなるため、これまでの彼なら決して選ばなかった位置だった。
アルトは向かいの椅子を引きながら、店内を一度だけ見回す。
マルタは厨房。
ミアは芋の袋の横。
ミナは薬草棚。
ブルーノは記録用の紙を広げ、ガルドは修理途中の水桶に新しい金具を合わせている。
ルナは二階にいる。
「六人だ」
アルトが言った。
レオンは視線を動かさない。
「はい」
「数えなかったな」
「数えました」
「いつ」
「入った時に、一度だけ」
「二回目は?」
「ブルーノさんに確認します」
ブルーノが顔を上げ、紙を置いた。
「六人です。二階にルナ様が一人います」
「一致しました」
レオンはそれだけ答え、膝の上で両手を組んだ。
昨日までなら、自分の目でもう一度確かめていたはずだった。人から聞いた数字をそのまま受け取ることは、彼にとって確認を放棄するのと同じだったのだろうが、今日は視線を入口にも、店の奥にも走らせなかった。
小さな変化だった。
だが、意識しなければできない変化でもある。
「落ち着かないか」
アルトが聞く。
「落ち着きません」
「正直だな」
「合理的ではあります」
「それは昨日聞いた」
「合理的であっても、落ち着くとは限りません」
レオンは壁際の席から店内を見た。
人の身体が重なり、全員の手元までは見えない。誰かが席を立てば、別の誰かが隠れる。入口を開けた者がいれば、振り返らない限り顔を確認できない。
「なぜ、その席を選んだ」
「見えすぎないためです」
「お前が?」
「はい」
レオンは自分の右手を見る。
剣を握っていない手。
指は開かれている。
「救助隊にいる時、私は見る側でした。人数、負傷、退路、周囲の危険、隊員の顔色。何かが起きる前に見つけることが、自分の役割だと思っていました」
「間違ってはいない」
「ですが、見ているだけでは、聞けないことがあります」
「ユラのことか」
「ユラだけではありません」
レオンの声が僅かに低くなる。
「報告を受けた時、私は事実を聞いていました。何人が戻ったか。どこで負傷したか。誰の判断だったか。何が不足していたか」
「必要だろ」
「必要です」
「なら」
「必要なことだけを聞きました」
レオンは水桶へ目を向けた。
外側には新しい金具が取りつけられ、内側には白い指が残した五本の傷がある。傷を埋めず、裂けた部分だけを整えた桶は、もう水を運ぶ道具には見えなかった。
返さなかった声を運ぶ器。
ガルドはそう言った。
「ユラが何を見たかは聞きました」
レオンが続ける。
「何が起きたかも。何を失ったかも」
「気持ちは?」
「聞きませんでした」
「なぜ」
「必要な報告ではないと思ったからです」
レオンの言葉に、自分を正当化する響きはなかった。ただ、当時の自分がそう判断したという事実を、切り取らずに置いている。
「聞いたら、判断が鈍ると思ったか」
「可能性はあります」
「本音は」
「怖かったのかもしれません」
アルトは黙る。
レオンは入口を見ない。
「自分の判断で置いてきた人間から、待っていたと言われるのが」
壁際の席へ座った理由が、アルトにも分かり始めた。
全員の表情を先に読み、危険や反論の兆しを探すのではなく、誰かの声が届くまで待つ。そのために、レオンは見えすぎない場所を選んだ。
「ユラには、もう話したのか」
「いいえ」
「話せ」
「今すぐですか」
「今すぐ行けとは言ってない」
「では」
「何を話すか決めろ」
レオンはしばらく考える。
「謝罪を」
「それだけか」
「損失記録に旧名流出を加えたことも伝えます」
「報告書の説明をするのか」
「必要です」
「必要なことだけだな」
レオンの指が動きを止める。
アルトは机へ肘をつかず、背もたれへ身体を預けた。
「お前は、ユラが何を言うか聞きたいのか」
「聞くべきだと思います」
「聞きたいかって聞いた」
答えが出るまでに、少し時間がかかった。
厨房から鍋の蓋が触れる音が聞こえ、ガルドの工具が木の縁を擦り、通りを走る子どもの声が扉の向こうを横切っていく。
「怖いです」
レオンが言った。
「でも、聞きたい」
今度は声が揺れなかった。
「私が置いた人が、何を待ち、何を諦め、今、私をどう見ているのか」
「嫌われてるかもしれないぞ」
「はい」
「許されないかもしれない」
「はい」
「話したくないと言われるかもしれない」
「それも、聞きます」
「聞かせてもらえなかったら」
「待ちます」
その言葉に、アルトは少しだけ眉を上げた。
待つ。
三日待った子ども。
二十二年以上、名前のない二人を追い続けた剣聖。
そして今度は、自分が傷つけた相手の言葉を待つ。
「どれくらい」
アルトが聞く。
レオンはすぐには答えず、やがて首を横に振った。
「数は決めません」
「お前が?」
「決めると、終わりを待つことになります」
レオンは膝の上の手を開いた。
「今回は、相手が話せるまで待ちます」
ミアが芋の袋から顔を上げた。
「三日より長くても?」
「はい」
「百日でも?」
「はい」
「百年は?」
「生きていれば」
「死んだら?」
「ミア」
アルトが止めようとしたが、レオンが先に答えた。
「その時は、待たせたまま死んだと伝える方法を考えます」
ミアは少し考え、芋を袋へ戻した。
「じゃあ、先に言えばいいじゃん」
「何をですか」
「待たせるって」
レオンはミアを見る。
「今すぐ話せない。あとで来る。待ってて、って言う」
「相手が待つと言わなければ」
「じゃあ、待たせない」
「どうするのです」
「また聞く」
「何を」
「いつならいいって」
ミアは当たり前のことを説明するように言った。
待つ側がどれほど長く感じるかを、レオンは知っている。だが、彼がこれまで数えていたのは、待った日数や戻らなかった人数であり、待たせる前に相手へ伝えるという発想は、彼の中で任務の外側に置かれていた。
ブルーノが伏せていた紙を表へ返す。
「手順書に入れますか」
「何を」
アルトが聞く。
「今の話です」
紙の上には、これまでに決めた言葉が並んでいる。
【声の代わりを返さない】
【話す本人を迎えに行く】
【迎えに行く準備:開始】
ブルーノはその下へ筆先を置いた。
「待たせる場合は、待たせると伝える」
「長い」
ミアが言う。
「じゃあ、短くします」
ブルーノが少し考える。
【待たせたら、待たせたと言う】
ミアが読む。
「言うの遅くない?」
「待たせる前にも、途中にも、戻った後にも使えます」
「戻った後は?」
「待たせました、と言えます」
レオンが紙を見る。
「それを、私が加えてもよいでしょうか」
「お前が言うのか」
アルトが聞く。
「はい」
ブルーノが筆を渡す。
レオンは紙を自分の前へ引き寄せると、すでに書かれた文章の下へ、同じ内容を自分の字で書き直した。
【待たせたら、待たせたと言う】
ブルーノの字より硬く、線が真っすぐで、最後の一画だけがわずかに強い。
「二回書いた」
ミアが言う。
「確認です」
「また二回」
レオンが筆を止めた。
「これは、消しますか」
「いいんじゃないか」
アルトは二つ並んだ同じ文章を見る。
「一人で二度数えたんじゃない」
ブルーノの一行。
レオンの一行。
二人で確認した言葉だった。
「残します」
ブルーノが言う。
「正式な手順書としては重複ですが」
「綺麗にするな」
「はい」
ブルーノは二つの文章を消さず、紙を乾かすため机の端へ置いた。
マルタが黒パンとスープを運んでくる。
レオンの前にも皿を置く。
「食べな」
「ありがとうございます」
「今日は料金を取るよ」
「承知しています」
「泣いた割引は昨日だけだ」
「そのような割引があったのですか」
「私も泣いたら安くなる?」
ミアが聞く。
「あんたは芋代を払いな」
「厳しい」
店の空気が少しだけ緩んだ。
レオンは匙を取る。
壁際の席からは、厨房にいるマルタの手元が見えない。ブルーノの紙も、身を乗り出さなければ読めない。入口に誰かが立てば、ほかの客の肩に隠れるだろう。
それでも、声は聞こえる。
鍋を置く音。
紙を動かす音。
ミアがパンをちぎる音。
アルトが水を飲む音。
見なくても、そこにいる。
「この席は、どうだ」
アルトが聞く。
「落ち着きません」
「まだ?」
「はい」
レオンはスープを一口飲む。
「ですが、聞こえます」
「何が」
「全員の音が」
入口は見えづらい。
人数も、一目では確認できない。
その代わり、誰かが立ち上がれば椅子が鳴り、歩けば床が軋み、店を出るなら扉が開く。
見張らなくても、人は消えない。
「今まで、聞こえてなかったのか」
「聞いていたつもりでした」
「違った?」
「聞こえたものを、必要な情報に変えていました」
レオンは匙を皿へ置く。
「声を、報告に。痛みを、損失に。待っている時間を、日数に」
「数字の方が扱いやすいからな」
「はい」
「数字が悪いわけじゃない」
「分かっています」
「でも、数字にしたあとも、元の声は残る」
レオンは頷く。
「今度は、聞く側でいたいと思います」
大きな宣言ではなかった。
剣を抜くことも。
立ち上がることも。
誓いの形を取ることもない。
ただ、壁際の見えづらい席へ座り、自分の前にあるスープを冷めないうちに飲みながら、レオンはそう言った。
「ナギと、もう一人の声を?」
ブルーノが聞く。
「それもです」
「ユラさんの声も」
「はい」
「ほかには」
レオンは少し考える。
「救助隊の者たちも」
「今まで聞いてなかった?」
「報告は聞いていました」
「またそれか」
アルトが言う。
レオンは僅かに口元を緩める。
「違いが、少し分かりました」
ガルドが水桶の金具を木槌で叩く。
かん。
木と金属が馴染むまで、間を置いてもう一度。
かん。
傷の残った桶は、昨日より持ち運べる形へ近づいている。上部には二人で持てるよう、左右へ取っ手がつけられていた。
「できたのか」
アルトが聞く。
「まだだ」
「何が足りない」
「底」
ガルドは桶を持ち上げ、裏側を見せる。
「白い場所へ置くなら、直接床へ触れさせない方がいい」
「また何かが通る?」
「分からん」
「じゃあ」
「店の床を一枚、持っていく」
全員がガルドを見る。
「床を剥がすのか」
「使っていない板では意味がない」
ガルドが示したのは、赤猫亭の隅に置かれた古い机だった。
かつて通り道にされ、修理され、少しずつ店の道へ戻されてきた机。
傷つき。
直され。
また皿や水を置かれるようになった場所。
「机を使う」
「どうやって」
「桶を置く台にする」
ミアが目を輝かせる。
「持っていくの?」
「ああ」
「引っ越し?」
「違う」
「じゃあ、出前?」
マルタが厨房から答えた。
「そうだね」
全員がマルタを見る。
「飯を持っていくなら、出前だよ」
「飯だけじゃないぞ」
アルトが言う。
「机と、椅子と、桶も持っていく」
「店ごと出すんじゃないんだ。なら出前で十分だよ」
ガルドは古い机の脚を確認する。
「重いぞ」
「運ぶ人数は」
レオンが反射的に聞いた。
ガルドが答える前に、彼は口を閉じる。
店内を見回そうとした視線も止めた。
「ブルーノさん」
「はい」
「救出に同行できる人数と、運搬に必要な人数を、あとで一緒に確認していただけますか」
「もちろんです」
「私が一度数えます」
「私が名簿と役割を確認します」
「お願いします」
レオンは一人で答えを出さなかった。
アルトはそれを見届け、古い机へ視線を移す。
傷ついて直った机。
返さなかった声を入れた水桶。
誰かが座るための椅子。
食べるための皿。
赤猫亭で使われてきたものを、白い場所へ運ぶ。
考古学は、すでに終わっていた。
これから始まるのは、迎えに行くための準備だった。
「出前なら」
マルタが言う。
「空の皿を持っていくんじゃないよ」
「何を入れる」
「着いてから食べられるものだね」
「芋!」
ミアがすぐに答える。
「お前は自分で食うだろ」
「多めに持つ」
「それを食うって言うんだ」
「半分は残す」
「信用できない」
レオンが二人の会話を聞いている。
口を挟まず。
止めず。
結論へまとめず。
ただ聞いていた。
やがて、自分のスープを最後まで飲み、空になった皿を机へ戻す。
「私にも、運ばせてください」
「何を」
アルトが聞く。
「椅子を」
「なぜ椅子だ」
「座る人が必要だからです」
レオンは空いた隣の席を見る。
「待っているだけでは、帰還先として数えられなかった」
「ああ」
「なら、待っていた者が、今度は迎える席に座ります」
アルトは返事をしなかった。
まだ同行を許可したわけではない。
だが、レオンが持っていくものは、剣ではなく椅子だと言った。
それは、昨日までとは違う答えだった。
「明日も同じことを言え」
「はい」
「その時に決める」
「分かりました」
レオンは椅子から立つ。
店内を数えようとして、また止まった。
「六人です」
ブルーノが先に言う。
「二階に一人」
「ありがとうございます」
レオンは自分では数え直さなかった。
扉へ向かう途中、ガルドが修理している水桶の前で一度足を止める。
蓋には二本の細い線が刻まれている。
二人分。
「聞こえますか」
ブルーノが尋ねる。
「いいえ」
「では」
「今は、それでいいと思います」
レオンは桶へ触れず、赤猫亭を出た。
扉が閉まる。
かたん。
アルトはその音を聞き、店内を見回した。
五人。
二階に一人。
そして、店を出た一人。
数えなくても分かる。
レオンがいなくなったのではなく、自分の足で帰り、また来ると知っているからだった。




