第126話 数えていた子ども
「一、二、三、四、五、六」
朝の赤猫亭で、レオンは入口から店内の人数を数えていた。
一度、全員へ視線を巡らせたあと、今度は反対側からもう一度数える。マルタ、ミア、ミナ、ガルド、ブルーノ、アルト。ルナは二階の客間にいるため、今は含めていない。
「六人です」
「見れば分かる」
アルトが言うと、レオンは入口の脇に立ったまま、わずかに眉を寄せた。
「確認しました」
「二回も?」
「一回目で間違える可能性があります」
「二回目は間違えないのか」
「一回目よりは」
レオンはそう答えてから、店の奥へ進んだ。
昨日と同じ入口近くの席には座らない。真ん中の机を選び、全員を見渡せる位置へ椅子を引く。ただし、入口を背にする席ではなく、扉が視界の端に入る向きだった。
アルトは向かいへ座った。
「いつからだ」
「何がですか」
「人数を二度数える癖」
レオンは水差しへ手を伸ばした。
自分でコップに注ぐ。
今日は一滴もこぼさなかった。
「救助隊を任されるようになってからだと思います」
「本当に?」
「記憶にある範囲では」
「昨日の三日間と関係ないのか」
コップを持つ手が止まる。
水面が僅かに揺れ、窓から差し込む朝の光が細かく砕けた。
レオンはすぐには飲まない。
「分かりません」
「なら、今日はそこを見る」
「何のために」
「お前が救出に同行できるか決めるためだ」
レオンの目が上がる。
「私は行きます」
「昨日も聞いた」
「結論は変わりません」
「俺の結論はまだ出てない」
「なぜです」
「昨日、手帳を見ただけで椅子から立てなくなった」
「立てました」
「無理に立とうとした」
「同じです」
「違う」
アルトは机を指で一度叩いた。
「白い場所で同じことになれば、お前だけじゃなく全員が危ない。剣が強いから連れていくんじゃない。戻ってこられる奴を連れていく」
レオンの口元が僅かに硬くなる。
「私は、戻れます」
「昨日まで、自分が三日待っていたことも知らなかった奴の言葉を、そのまま信じろと?」
厳しい言い方だった。
だが、ここを曖昧にすれば、レオンは剣の強さを理由に自分を押し込んでくる。感情を数字や任務へ置き換えることに慣れた男だからこそ、アルトは先に逃げ道を塞いだ。
レオンは水を一口飲んだ。
それから、コップを机へ戻す。
「何を話せばよいのですか」
「覚えていること全部、とは言わない」
「では」
「お前が普段やっていることだ。人数を数える。最後尾に立たない。黒鐘門系統の配信を全部見る。その理由を、自分で分かる範囲まで話せ」
ブルーノの筆が止まった。
少し離れた机で、彼は記録用の紙を用意している。端末ではなく紙だったが、今の言葉を書いてよいか判断できずにいるらしい。
レオンがブルーノを見る。
「記録しますか」
「必要な範囲だけ」
「必要な範囲とは」
「あなたが決めてください」
ブルーノは紙を裏返した。
「話したくない箇所は、書きません」
「記録者として不正確では?」
「全部書くことが、正確とは限りません」
レオンは少し考え、視線を戻した。
「人数を二度数えるのは、欠けている者がいないか確認するためです」
「普通だな」
「普通です」
「でも、他の隊長は毎回二度も数えない」
「他の隊長については知りません」
「お前の話をしてる」
レオンは入口を見る。
扉は閉まっている。
向こうを通る荷車の音と、人の話し声が木板越しに届く。
「隊が出発する前に、一度数えます」
「ああ」
「目的地へ着いた時に、もう一度」
「帰る時は」
「出発前と、到着後に数えます」
「四回か」
「最低でも」
「戦闘中は」
「視界に入るたびに」
「それ、いつからだ」
再び同じ質問。
レオンは今度こそ、記憶の奥を探るように目を伏せた。
「初めて救助任務へ参加した頃には、すでにしていました」
「誰かに教わった?」
「いいえ」
「数えないとどうなる」
「落ち着きません」
「何が起きる気がする」
「一人、足りない気がします」
短い答えだった。
だが、レオンの指は机の縁に触れ、六つある椅子を順に追っている。
「実際に足りないのか」
「足りていてもです」
「誰が足りない」
「分かりません」
「二人じゃないのか」
レオンの指が止まった。
店内には六人。
二階に一人。
全員いる。
それでも、レオンは入口の方を見る。
「二人かもしれません」
「昨日の二人?」
「分かりません」
返事は同じだが、声の調子は違った。何も知らないから答えられないのではなく、知っているものに名前を付けられず、手の中からこぼさないよう慎重に持っている声だった。
「最後尾に立たない理由は」
アルトが質問を変える。
「隊列全体が見えないからです」
「最後尾の方が前を見渡せるだろ」
「後ろが見えません」
「最後尾なのに、後ろを気にするのか」
「はい」
「何がいる」
「分かりません」
「何かが追ってくる?」
「違います」
レオンは首を横に振った。
「誰かが残っている気がします」
アルトは黙った。
最後尾に立てば、自分より後ろには誰もいない。
普通なら、それが最後尾という位置だ。
だが、レオンにとっては違った。
自分が最後になれば、そのさらに後ろに、置いてきた誰かがいるように感じる。だから隊列の中央か、後方から二番目に立ち、必ず一人を自分の後ろへ置く。
「いつも誰かを後ろに置くのか」
「基本的には」
「一番後ろの奴は怖くないのか」
「私が確認します」
「前を向きながら?」
「振り返ります」
「何回」
「必要なだけ」
「それで、戦闘に集中できるのか」
「できています」
レオンは淡々と答えたが、アルトには別の答えが見えた。
できてしまったのだ。
何年も。
数えながら。
振り返りながら。
誰かが残されていないことを確認し続けながら、その行動を剣技と任務の一部に変えてしまった。
「誰かを待たせる側になりたくなかった」
レオンの目が上がる。
アルトは続ける。
「だから全員を数える。誰かが後ろに残っていないか見る。最後尾には立たない」
「推測ですか」
「ああ」
「間違っているかもしれません」
「ああ」
「ですが」
レオンは右手を見る。
昨日、手帳の落書きに描かれた短い剣を、この手でなぞった。
「否定はできません」
マルタが厨房から黒パンを運んできた。
机の中央へ置く。
「食べながらやりな」
「今は聞き取り中だ」
「話すにも腹がいるよ」
レオンは一つ取った。
すぐには食べず、半分に割る。
片方を自分の皿へ。
残りを中央の皿へ戻す。
ミアがそれを取ろうとして、マルタに手の甲を叩かれた。
「今置いたばかりだよ」
「いらない方じゃないの?」
「あとで食べる方かもしれないだろ」
ミアは不満そうに手を引っ込める。
レオンが小さく言った。
「食べて構いません」
「ほんと?」
「はい」
ミアは取った。
「では、なくなりましたね」
レオンは空いた中央の皿を見る。
「何が」
アルトが聞く。
「後で食べる分が」
「自分で渡しただろ」
「はい」
「後悔してる?」
「少し」
「返す?」
ミアが口に入れる前のパンを差し出す。
レオンは一瞬迷い、首を横に振った。
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
ミアは食べた。
レオンは自分の半分をゆっくり口へ運ぶ。
その一連の動きを見ていたアルトは、急いで質問へ戻らなかった。何かを手放し、それがなくなったことを確認し、それでも取り戻さずに済ませる。今のレオンには、そういう小さな動作も必要なのかもしれなかった。
パンを飲み込んだあと、レオンが自分から口を開いた。
「ユラを置きました」
ブルーノが顔を上げる。
店の空気が少し硬くなった。
「黒鐘門で」
「ああ」
「私は全員を数えていたはずです」
「ああ」
「人数も、負傷者も、帰還可能な者も」
「ああ」
「それでも、ユラを置きました」
レオンの声は平坦だった。
平坦にしなければ、口から出せないのだろう。
「昨日、アルトさんは、私が誰かを待たせる側になりたくなかったと言いました」
「推測だ」
「ですが、私は待たせました」
「そうだな」
アルトは否定しなかった。
ここで優しく丸めれば、ユラの件まで子ども時代の傷で許される形になる。それは違う。
「理由があったとは言いません」
レオンは続ける。
「判断だったとも、あの状況では仕方がなかったとも言いません。私は数えたうえで、置いていく方を選びました」
ブルーノが紙へ筆を下ろした。
今度は書く。
言い訳ではなく、レオン自身が数えると決めた言葉だった。
「三日待った子どもだったからって、今のお前の判断が消えるわけじゃない」
アルトが言う。
「はい」
「逆もだ。ユラを置いたからって、七歳のお前が三日待ったことまで消えるわけじゃない」
レオンは返事をしない。
「両方数えろ」
「両方」
「待たされたことも、待たせたこともだ。片方を使って、もう片方を消すな」
レオンは水の入ったコップを見る。
昨日までは、自分の行動を整理するとき、正しいか間違っているか、成功か損失かという分け方しかできなかったのかもしれない。
だが今、机の上には両方ある。
三日待った子ども。
ユラを置いてきた剣聖。
同じ人間だった。
「分かりました」
レオンが言う。
「本当に?」
「努力します」
「それくらいでいい」
アルトは黒パンを一つ取った。
「次。黒鐘門系統の配信を全部見ていた理由」
「任務上の情報収集です」
「それだけなら、記録を読めばいい」
「映像の方が状況を把握できます」
「救助組合には専門の分析官がいる」
「自分で見る必要がありました」
「何を」
レオンは入口ではなく、今度は店の奥へ視線を向けた。
ガルドが修理している水桶。
五本の傷。
その横に置かれた二つの椅子。
「誰かが帰ってくるかもしれないと、思っていたのかもしれません」
声が少し低くなる。
「黒鐘門と名がつく場所で、配信が始まるたびに見ました。到達者の人数。入った時刻。戻った時刻。最後に映った者。救助された者。回収されなかった者」
「全部覚えてる?」
「記録としては」
「何件」
レオンはすぐに答えなかった。
指を使って数えることもしない。
頭の中には、すでに数字が並んでいるのだろう。
「百八十七件です」
ブルーノの筆が止まる。
「黒鐘門系統だけで?」
「正式配信が百四十二件。短時間の緊急接続が三十一件。記録欠損が十四件」
「全部見たのか」
「はい」
「何年かけて」
「見られるようになってから、現在まで」
「理由も分からず?」
「任務に必要だと思っていました」
「違った?」
レオンは水を一口飲む。
「物語ではありません」
「何が」
「昔の事件です」
声は静かだった。
「私は、誰かの英雄譚を追っていたのではありません。失われた到達記録に憧れていたわけでも、黒鐘門の謎を解こうとしていたわけでもない」
レオンは自分の右手を開く。
剣を持たせてもらった手。
「ただ、ずっと見ていました」
それ以上、綺麗な理由を付けなかった。
記憶を失っていても、身体のどこかが入口から離れられなかった。黒鐘門と呼ばれる場所へ誰かが入り、誰かが戻るたび、その映像の端に二人が映るのではないかと、名前のないまま見続けていた。
「黒鐘門は、当時からその名前だったのか」
ブルーノが聞く。
「いいえ」
レオンは答えた。
全員の視線が集まる。
「覚えているのか」
「名称ではありません」
「じゃあ何で違うと分かる」
「黒鐘門という名前を初めて聞いた時、知らない場所だと思いました」
「現場を見ても?」
「知っている気がしました」
「名前だけ違った」
「はい」
ブルーノが記録端末へ手を伸ばす。
「旧名が封鎖された可能性があります」
「調べられるか」
アルトが聞く。
「現在の名称から遡るだけなら。ただし、旧名そのものを表示すると、また呼称照合が動く可能性があります」
「名前は出すな」
「分類だけ確認します」
ブルーノは端末を操作する。
今回は照合表示ではなく、救助組合が保有する地名変更履歴だ。レオンの通信記録や神界の帰還処理とは切り離されている。
しばらくして、ブルーノの表情が険しくなった。
「ありました」
「何が」
「黒鐘門という名称は、二十二年前に登録されています」
「事件のあとか」
「時期は一致します。それ以前の名称は封鎖。封鎖理由は――」
ブルーノが画面を読む。
「重大帰還事故に伴う関連呼称の凍結」
レオンは目を閉じた。
「だから、繋がらなかった」
アルトが言う。
「場所を見ても、名前が違う。二人の名前も砕けている。お前の記憶の中で、どれも結べなかった」
「はい」
「それでも見続けた」
「はい」
「百八十七件」
「はい」
ミアが指を折ろうとして、途中でやめる。
「多すぎる」
「そうですね」
「全部、帰ってきた?」
レオンは首を横に振る。
「全員ではありません」
「何人戻らなかった?」
すぐに数字が返る。
「二十三人です」
「覚えてるんだ」
「はい」
「名前も?」
「全員」
ミアは少し考える。
「昔の二人は?」
レオンは答えられない。
名前の分からない二人。
剣を持たせた者と、短い剣を笑った者。
ほかの二十三人の名前はすべて覚えているのに、一番待っていた二人の名前だけがない。
「名前を覚えていないんです」
レオンが言った。
「三日は覚えているのに」
声が崩れた。
昨日より静かだった。
静かだからこそ、長く押さえ込まれていたものが、ようやく隙間から漏れたのだと分かる。
「入口の冷たさも、剣の重さも覚えています。手の大きさも、声の調子も。丸い方が笑ったことも、もう一人が剣は長さではないと言ったことも」
レオンは額を押さえた。
「なのに、名前だけがありません」
誰もすぐには答えなかった。
慰めとして「仕方がない」と言うのは簡単だが、それでは、彼が二十二年以上抱えてきた空白へ布を被せるだけになる。
ミアが席を立った。
レオンの隣へ行く。
何も言わず、彼の外套の袖を引く。
「何でしょうか」
「三日、えらい」
レオンの目が動く。
「それは」
「待つの、えらい」
「私は四日目に」
「三日待った」
「でも」
「七歳?」
「はい」
「じゃあ、えらい」
ミアはそれだけ言い、元の席へ戻った。
難しい説明も。
大人の事情も。
記憶を失った理由も加えない。
三日待った。
えらい。
子どもへ向ける言葉としては、それで十分だった。
レオンは下を向いた。
肩が一度だけ震える。
次に顔を上げた時、頬には涙が流れていた。
昨日のように一滴ではない。
声も出さず、拭うこともせず、ただ何本も流れている。
「すみません」
「謝るな」
アルトが言う。
「ですが」
「水を飲め」
レオンはコップを持つ。
手が震え、水面が揺れる。
今度はアルトが底を支えた。
「自分で持てます」
「知ってる」
「では」
「今は二人で持つ」
レオンは反論しなかった。
コップを傾ける。
一口。
水を飲み込む。
もう一口。
少しずつ呼吸が戻ってくる。
ブルーノは紙へ一行だけ書いた。
【レオンは三日待った】
昨日も書いた言葉。
だが、今日はその下へ追記する。
【名前を忘れたのではない。名前が結べなかった】
レオンが涙を拭う。
袖ではなく、ミナが差し出した布を使った。
「救出へ同行する条件を聞かせてください」
声はまだ掠れている。
アルトはコップから手を離した。
「今日は決めない」
「なぜです」
「泣いた直後に決めると、何でも約束しそうだからだ」
「私は変わりません」
「明日も同じことを言え」
「分かりました」
「あと、次に店へ入る時は人数を一回だけ数えろ」
レオンの眉が寄る。
「それは必要な確認です」
「一回で足りなかったら、誰かに聞け」
「自分で確認した方が確実です」
「一人で二回数えるより、二人で一回ずつ数えろ」
レオンは返事を止めた。
今までの彼にはなかった考え方なのだろう。
自分が確認する。
自分が覚える。
自分が最後尾を見張る。
全部、一人で行ってきた。
「誰に頼めば」
「その場にいる奴」
「間違えたら」
「二人で間違える」
「危険です」
「一人で全部背負うよりはましだ」
レオンは考え込む。
ミアがすぐに手を上げた。
「私、数える」
「ミアさんは途中で芋を数えます」
「芋も大事」
「やはり私が」
「ほら、一回で戻るな」
アルトが止める。
レオンは口を閉じた。
「では」
ブルーノが言う。
「私が記録します。レオン様が一度数え、私が名簿で確認する。それなら違う方法で二度確認できます」
「名簿に誤りがある場合は」
「あなたの目が補います」
「私が見落とした場合は」
「名簿が補います」
レオンはしばらく考え、ゆっくり頷いた。
「合理的です」
「最初からそう言え」
アルトが言う。
「感情では納得できなかったので」
「今は?」
「合理性で納得しました」
「面倒な奴だな」
「よく言われます」
レオンの目元はまだ赤い。
それでも、口元には僅かな変化があった。
泣いたことをなかったことにはしない。
だが、泣いたまま止まりもしない。
マルタが温め直したスープを置く。
「食べな」
「先ほどパンを」
「泣くと腹が減る」
「そういうものですか」
「うちではね」
レオンは匙を取った。
店にいる人数を、もう一度見ようとして顔を上げる。
途中で止まる。
「六人です」
「今、数えた?」
アルトが聞く。
「一度だけです」
「本当に?」
レオンはブルーノを見る。
ブルーノが店内を確認する。
「六人です。二階にルナ様が一人」
「一致しました」
レオンは少しだけ肩の力を抜いた。
それから、スープを飲む。
入口は視界の端にある。
誰もそこへ残っていない。
最後尾もない。
店の中には、確認する者が二人いる。
昨日までと同じ六人だったが、数え方だけが少し変わっていた。




