第125話 二度目の来訪
扉が開くより先に、外で剣の鞘が石段へ当たった。
硬い音だった。
かん、と一度だけ鳴り、そのあと不自然なほど長い間が空いたので、赤猫亭の中にいた全員が、誰が来たのかをほとんど同時に察した。
マルタは鍋の火を弱めた。
ブルーノは広げていた紙を伏せる。
ガルドは修理中の水桶に載せていた木蓋を押さえ、ミナは水差しと空のコップを、何も言われる前に入口近くの席へ置いた。
アルトだけが立ち上がり、扉へ向かう。
取っ手に手をかけたところで、向こうから声がした。
「入ってもよろしいでしょうか」
レオンだった。
いつもの平坦な声に聞こえる。
だが、語尾の前で一度だけ息が引っかかっていた。
「聞くようになったな」
アルトが扉越しに言う。
「最近、勝手に入ると怒られる場所が増えました」
「うちは最初からだ」
「そうでしたか」
「覚えてないのか」
返事がない。
冗談を返さない。
アルトは扉を開けた。
レオンは石段の下に立っていた。
外套は整っている。
剣も腰にある。
髪も乱れていない。
見た目だけなら、いつもの剣聖だった。
ただ、右手が鞘を強く握りすぎている。
指の関節が白くなっていた。
「手を離せ」
アルトが言う。
「何からですか」
「剣だ」
レオンは自分の右手を見た。
そこで初めて気づいたように、ゆっくり指を開く。
鞘には指の跡が残っていた。
「失礼しました」
「俺に謝るな」
「剣に?」
「それも違う」
アルトは店の中を顎で示す。
「入れ」
レオンは敷居の前で止まった。
ほんの一瞬。
だが、アルトには分かった。
彼は店を見たのではない。
足元を見た。
木の敷居。
石段との境目。
入口。
レオンの呼吸が浅くなる。
「水がある」
アルトが言う。
レオンは顔を上げる。
「席も空いてる」
「はい」
「剣は外さなくていい」
「よろしいのですか」
「今、外させる方が面倒そうだ」
レオンは少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
店へ入る。
一歩。
二歩。
三歩目で、右足が止まった。
床板の継ぎ目を見ている。
「どうした」
「いえ」
「何もない床だぞ」
「分かっています」
「なら歩け」
「はい」
レオンは歩いた。
入口近くの席へ座る。
ミナが置いた水差しから、自分で水を注いだ。コップの縁へ口をつけるまでに少し時間がかかったが、それでも一口飲み、さらにもう一口飲んでから、ようやく背筋の硬さを少し緩めた。
「昨夜は眠れたか」
アルトが向かいに座る。
「二時間ほど」
「少ないな」
「普段と大差ありません」
「嘘だな」
「なぜ分かります」
「顔」
「皆さん、最近そればかりですね」
「出てる方が悪い」
レオンはコップを見る。
「夢を見ました」
「何の」
「分かりません」
「見たのに?」
「場所だけです」
レオンは両手でコップを包む。
「暗い入口でした」
店の中から音が消えたわけではない。
鍋の中ではスープが小さく煮え、厨房の奥で火が鳴り、通りでは荷車が石畳を擦っている。
それでも、誰も口を挟まなかった。
「扉はありましたか」
ミナが聞く。
「覚えていません」
「人は」
「見えませんでした」
「声は」
レオンは一度、目を閉じた。
「二人分あった気がします」
アルトはそれ以上聞かなかった。
昨夜、二つの声はレオンへ向いていた。
だが、今ここで無理に思い出させる必要はない。
「手帳を持ってきた」
アルトが言う。
レオンの瞼が開く。
「見せていただけるのですか」
「そのために呼んだ」
「私は、呼ばれましたか」
「通信端末で来いと送っただろ」
「いえ」
レオンは視線を少し落とす。
「もっと前に」
アルトは答えなかった。
答えられない。
呼ばれていた。
門から。
待機区画から。
二十二年以上前に。
だが、その言葉は届かなかった。
「今は、俺が呼んだ」
アルトが言う。
「それでいいだろ」
レオンはしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
「はい」
アルトはブルーノを見る。
ブルーノが伏せていた紙を脇へ寄せ、布に包まれた手帳を持ってくる。
机の上へ置く。
ただし、レオンの正面には置かない。
少し右。
手を伸ばせば届くが、勝手に目へ入らない位置。
「触る前に言ってください」
ブルーノが言う。
「何か起きる可能性が?」
「ありませんとは言えません」
「正直ですね」
「最近は、そうしています」
レオンは手帳を見た。
すぐには触れない。
「これは、どこで」
「最初の黒鐘門だ」
「そうですか」
「覚えてるか」
「記録では」
「記録じゃなくて」
レオンの指がコップの縁をなぞる。
「分かりません」
アルトは頷いた。
「なら、それでいい」
「よいのですか」
「覚えてないことを、覚えてるふりされるよりはな」
レオンは手帳へ手を伸ばした。
右手。
途中で止まる。
左手に替える。
革表紙へ指先が触れる。
何も起きない。
共有表示も出ない。
神界通知もない。
ただ、レオンの肩がわずかに上下した。
「冷たい」
「手帳が?」
「いいえ」
レオンは表紙から手を離さない。
「入口が」
アルトは何も言わなかった。
レオンは手帳を開く。
一頁。
二頁。
地形の記録。
魔物の特徴。
食料の残数。
引き返す条件。
書いた者の癖が分かるほど、文字の太さが違う二つの筆跡。
レオンは読むのではなく、指で辿っていた。
「この文字」
「分かるか」
「いいえ」
指が止まる。
「ですが、急いでいる時の書き方です」
「筆跡を知ってるのか」
「分かりません」
「またか」
「申し訳ありません」
「謝るな」
アルトが言う。
「分からないものを分からないと言うのは、悪くない」
レオンは少しだけ息を吐いた。
手帳をめくる。
終盤へ近づくほど、文字は乱れている。
行間が狭くなり、途中で切れた文が増える。
片方の筆跡は力が強く、紙の裏へ跡が残っていた。
もう片方は細く、同じ字を書いても線が少し右へ流れる。
「二人ですね」
レオンが言う。
「ああ」
「一人は、書く時に親指を紙へ当てています」
「何で分かる」
「紙の端が擦れている」
レオンは手帳を傾ける。
「もう一人は、左手で押さえていた」
「知ってるみたいな言い方だな」
「知っているのでしょうか」
「俺に聞くな」
レオンの目は紙から離れない。
「こういう見方を、昔教わった気がします」
「誰に」
レオンの唇が動く。
声は出ない。
名前がない。
音の形だけが喉で止まった。
アルトは急かさなかった。
ルナも。
ブルーノも。
マルタが静かにスープを一杯よそい、レオンの手が届く位置へ置いた。
「食べな」
レオンは顔を上げる。
「今ですか」
「今だよ」
「手帳を」
「逃げやしない」
「はい」
レオンは手帳を閉じないまま、片手で匙を取った。
スープを一口飲む。
熱い。
眉がわずかに動く。
「熱いですね」
「冷たいよりましだろ」
マルタが言う。
レオンの指が止まった。
匙を持ったまま、視線が入口へ向く。
「三日目は、寒かった」
誰も動かなかった。
レオン自身が、何を言ったのか分かっていない顔をしている。
「三日目?」
アルトが静かに聞く。
「はい」
「何の」
「分かりません」
レオンは額へ手を当てた。
「でも、三日目は寒かった」
呼吸が速くなる。
「一日目は?」
「待っていました」
「二日目は」
「待っていました」
「三日目は」
レオンの指から匙が落ちた。
机へ当たる。
からん。
「待っていました」
声が掠れる。
アルトは手帳を閉じた。
「今日はここまででもいい」
「いいえ」
レオンがすぐに言う。
「まだ見ます」
「無理するな」
「無理ではありません」
「手が震えてるぞ」
レオンは自分の手を見る。
確かに震えている。
それでも、手帳へ伸ばす。
「三日待ったのに、今やめる方が嫌です」
店の空気が固まる。
アルトはレオンを見る。
彼は自分で言った言葉を、今度は理解していた。
「覚えてるのか」
「三日だけです」
「誰を待った」
レオンの喉が動く。
「分かりません」
「入口は」
「冷たかった」
「剣は」
レオンの右手が、腰の鞘へ動く。
「持っていました」
「七歳で?」
「持たされました」
「誰に」
レオンは目を閉じる。
眉間に深い皺が寄る。
「大きな手でした」
「男か」
「たぶん」
「何て言った」
長い沈黙。
レオンは自分の右手を見つめた。
鞘を握っていた手。
今も剣を持つ手。
「戻ったら」
声が出る。
途切れる。
「続きを」
そこで止まった。
アルトは何も足さない。
レオンの口がもう一度動く。
「戻ったら、続きを教える」
ガルドの作業していた刃が止まった。
ブルーノの筆も。
ルナは両手を膝の上へ置き、強く握らないよう指を開いている。
「何の続きを」
アルトが聞く。
「剣です」
レオンは答えた。
今度は迷わなかった。
「剣の続きを、教えると」
手帳の最終頁へ、レオンの指が伸びる。
まだ表側。
途中で切れた記録。
帰――。
戻ったら、続きを。
二つの断片が、同じ机の上にある。
「その人が、手帳を書いたと思うか」
「分かりません」
「でも、声は知っている?」
レオンの目が揺れる。
「調子だけ」
「調子?」
「低くて、急いでいる時ほど静かになる声です」
「名前は」
レオンは首を横に振った。
「ありません」
「覚えてない?」
「名前の場所だけ、崩れています」
その言い方は、記憶というより、壁の一部が欠けているのを見ているようだった。
「顔は」
「見えません」
「手は」
「覚えています」
「声は」
「少し」
「剣は」
レオンは腰の鞘を押さえた。
「覚えています」
人の名前はない。
だが、剣を持たせた手だけは残っている。
戻ったら続きを教えるという約束も。
「裏も見せろ」
ルナが言った。
声は小さい。
だが、はっきりしていた。
ブルーノがルナを見る。
「今ですか」
「今だからです」
ルナはレオンへ視線を向ける。
「ただし、無理に見なくても構いません」
レオンは手帳を見た。
「裏に何が」
「私たちも、最近まで気づきませんでした」
アルトが言う。
「最終頁の裏だ」
レオンは頁をめくる。
最後。
文字が途切れた頁。
その裏側。
紙は少し厚く、長い間閉じられていたせいで、表より色が薄い。
そこに、細い線が残っている。
棒人間が三つ。
二つは大きい。
一つは小さい。
大きい二つのうち、一つは腕を横へ伸ばし、もう一つは頭の上に何か丸いものが描かれている。
小さい一つだけ、手に棒を持っている。
子どもの落書き。
レオンの動きが止まった。
瞬きもしない。
指先が紙の上で浮いている。
触れることもできず、離すこともできない。
「分かるか」
アルトが聞く。
返事はない。
「レオン」
彼の唇が震えた。
「……この棒は」
声が掠れる。
ブルーノが無意識に身を乗り出す。
「棒?」
レオンの目が、初めて紙から離れた。
怒っているようにも見えた。
泣きそうにも見えた。
そのどちらでもない。
子どもが、自分の大事なものを間違って呼ばれた時の顔だった。
「剣です」
はっきり言った。
「これは、棒ではありません」
レオンは小さな人型が持つ線を、今度こそ指でなぞる。
「剣です」
同じ言葉を繰り返す。
声が少し震える。
「初めて持たせてもらった剣です」
アルトは紙を見る。
ただの一本の線。
鍔もない。
刃もない。
子どもの絵だから当たり前だ。
それでも、レオンには剣だった。
「お前が描いたのか」
長い沈黙のあと、レオンが頷いた。
「たぶん」
「覚えてる?」
「手だけ」
「何を」
「紙が固かった」
レオンは指先を見る。
「上手く線が引けなくて、何度も同じ場所をなぞりました」
実際、小さい人型が持つ剣だけ、線が濃い。
他の部分より何度も引き直されている。
「誰に見せた」
「二人に」
「何て言われた」
レオンの目に、初めて水が浮かんだ。
落ちない。
まだ。
「短いと言われました」
「剣が?」
「はい」
「誰に」
「丸い方に」
頭の上に何か描かれた大きな人型。
髪なのか。
帽子なのか。
子どもの絵では分からない。
「もう一人は」
「剣は長さではないと言いました」
「どっちが、続きを教えると言った」
レオンは、小さな人型の横に描かれた大きな人型を見る。
腕を伸ばしている方。
「こちらです」
指が止まる。
「この人が、剣を持たせた」
「名前は」
「分かりません」
「声は」
「少し」
「約束は」
レオンの口がゆっくり動く。
「戻ったら、続きを教える」
「帰ってきたか」
その質問をした瞬間、アルトは少しだけ後悔した。
きつかった。
だが、レオンは逃げなかった。
絵を見たまま答える。
「帰ってきませんでした」
声は平坦だった。
平坦すぎた。
「一日目は、入口で待ちました」
レオンの左手が机の縁を掴む。
「二日目も」
指に力が入る。
「三日目も」
木が小さく鳴る。
ぎし。
「その後は」
続きが出ない。
アルトは聞かなかった。
その後に何があったのか。
誰が七歳の子どもを連れて帰ったのか。
なぜ名前が記録から消えたのか。
なぜ黒鐘門という新しい名がついたのか。
今はまだ、その先へ行く必要はない。
「手を離せ」
アルトが言う。
レオンは机を掴んでいることに気づく。
ゆっくり指を開く。
爪の跡が木に残っていた。
「すみません」
「机は直せる」
ガルドが言った。
「人は?」
レオンが聞く。
ガルドは少し考える。
「時間がかかる」
「直るとは言わないのですね」
「直すものではない時もある」
「では」
「使える形にする」
ガルドは水桶の五本の傷を指で叩いた。
こつ。
「傷を消さずに」
レオンはその音を聞いた。
それから、自分の指先を見る。
「私も、使える形でしょうか」
「剣を持ててるだろ」
アルトが言う。
「でも、待てませんでした」
「三日待った」
「四日目は」
アルトは言葉を止める。
レオンが先に続けた。
「四日目は、いませんでした」
静かな声だった。
責める相手がいない。
自分を責めるにも、七歳の子どもには酷すぎる。
「置いていった」
レオンが言う。
「誰を」
「二人を」
「お前が?」
「三日で離れました」
「七歳だぞ」
「それでも」
「七歳だ」
アルトは強く言った。
「三日待った。十分だ」
「十分ではありません」
「誰が決める」
レオンは答えない。
「帰ってこなかった二人か」
沈黙。
「二人が、お前に何て言ったか、昨日分かった」
レオンの目が動く。
「聞いてもいいか」
「はい」
「おいていかないで、だ」
レオンの呼吸が止まる。
「二人とも、お前に向けていた」
「私に」
「ああ」
「なぜ」
「まだ全部は分からない」
「私が待っていたから?」
「たぶん、それだけじゃない」
アルトは手帳の絵を見る。
大きな二人。
小さな一人。
剣。
「お前を一人にするのが怖かったんだと思う」
レオンの目から、ようやく涙が落ちた。
一滴。
手帳の頁ではなく、机へ。
とん。
「置いていったのは、私です」
「違う」
「でも」
「二人は、お前が置いていったとは言ってない」
「言葉は同じです」
「向きが違う」
アルトは言った。
「二人は、自分たちを置いていくなと言ったんじゃない。お前に、そこから消えないでくれと言ったのかもしれない」
「私は消えました」
「生きるためにだ」
「名前も忘れました」
「忘れたんじゃない」
ルナが言った。
レオンが顔を上げる。
「名前は、呼びの中で砕けました。あなたが手放したのではありません」
「では、なぜ何も」
「何も残っていない人は、その絵を見て剣だとは言えません」
ルナは手帳を見る。
「三日という数も、入口の冷たさも、剣を持たせた手も、約束の声も残っている。それは、名前ほど整った形ではありませんが、なくなったものではありません」
レオンは絵へ視線を戻す。
「戻ったら、続きを教える」
「はい」
「まだ、戻っていないだけです」
ルナの声は静かだった。
「約束は、終わっていません」
レオンの涙がもう一滴落ちる。
今度は止めなかった。
袖で拭きもしない。
「私は」
声が出ない。
レオンは一度、水を飲んだ。
ミナがコップを支える必要はなかった。
自分で持ち、自分で飲み、机へ戻す。
「待っていても、よいのでしょうか」
「今度は一人じゃない」
アルトが言う。
「俺たちも迎えに行く」
「二人を」
「ああ」
「生きていると、まだ」
「時間は止まってる」
「確実ではありません」
ブルーノが言う。
その声には、慎重さがあった。
「ただ、同行者の反応は残っています。到達者ナギの反応も。完全に失われた記録ではありません」
「救出できる可能性がある」
「はい」
「なら」
レオンは手帳を閉じる。
両手で。
丁寧に。
「私も行きます」
「まだ決めてない」
「行きます」
「感情で決めるな」
「感情ではありません」
レオンの声は、少しずつ剣聖のものへ戻っている。
だが、完全には戻っていない。
目元は赤い。
「続きを教わる必要があります」
「それは感情だろ」
「剣士にとっては、技術上の問題です」
アルトはレオンを見る。
少しだけ笑いそうになった。
「無理があるな」
「分かっています」
「認めるのか」
「今は、うまい言い方ができません」
「それでいい」
レオンは手帳を机へ置いた。
「この手帳は、ここに?」
「ああ」
「持ち帰らないのですか」
「今は赤猫亭に置く」
「なぜ」
「戻ってくる場所だからだ」
レオンは店を見回す。
厨房。
鍋。
皿。
水差し。
傷の残った水桶。
入口近くの席。
自分が座っている椅子。
「私も、ここへ来てよいのでしょうか」
マルタが即答した。
「飯代を払うならね」
「神貨で?」
「普通の金だよ」
「持っています」
「なら、食べな」
マルタは冷めかけたスープを下げ、温かいものへ取り替えた。
レオンは新しい皿を見る。
「先ほどのものも、まだ飲めました」
「冷めてた」
「問題ありません」
「うちでは問題だよ」
レオンは何か言い返そうとして、やめた。
「いただきます」
「よし」
匙を取る。
今度は手が震えていない。
ミアが手帳の絵を覗き込む。
「本当に剣?」
「はい」
「短いよ」
レオンの動きが止まる。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「昔も、そう言われました」
「じゃあ短い」
「剣は長さではありません」
「それも言われた?」
「はい」
「じゃあ、合ってる」
ミアは満足して、自分の芋を取った。
レオンはスープを飲む。
一口。
二口。
三口目で、目を伏せる。
「温かいですね」
「当たり前だよ」
マルタが言う。
「ここは店だからね」
入口の外で風が吹いた。
扉が少し揺れる。
レオンは一度だけそちらを見た。
だが、立ち上がらない。
入口へ戻らない。
今は席に座っている。
手帳は机の上にある。
小さな剣を持った子どもの絵も、そこに残っている。
三日待った記憶。
名前のない二人。
終わっていない約束。
どれもまだ、完全には戻らない。
それでも、レオンは温かいスープを最後まで飲んだ。
皿を空にしたあとも、しばらく席を立たなかった。




