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第124話 返さなかった理由

 刃先が傷の縁へ食い込むたび、乾いた木屑がガルドの膝へ落ちた。


 昨日、水の中から伸びた白い指が残した五本の痕は、水桶の内側を底近くまで走っており、表面だけを削れば消せそうに見えるものの、実際には木目に逆らって深く裂けている。無理に平らにすれば桶そのものが薄くなり、次に水を入れた時、傷とは別の場所から割れるかもしれなかった。


 ガルドは一番深い痕へ細い刃を差し込み、角度を変えながら二度削ったところで手を止めた。


「消すの?」


 作業台の向かいから、ミアが覗き込む。


「残す」


「削ってるじゃん」


「割れない形にしている」


「傷は?」


「残る」


 ミアは桶の内側を見た。


 五本の痕は、昨日より輪郭が整っていた。消えたのではない。ささくれだけが落とされ、触れても手を切らない傷へ変わっている。


「直したら、なくなるんじゃないの?」


「なくすのと、直すのは違う」


「職人語?」


「普通の言葉だ」


「ガルドが言うと職人語」


 ガルドは返事をせず、木屑を布へ落とした。


 赤猫亭はまだ開店前だったが、厨房ではマルタが火を入れ、ミナが昨夜使った布を煮沸し、ブルーノは真ん中の机で紙と記録端末を交互に見ていた。


 ルナは皿の棚の前に立っている。


 今日は洗っていない。


 昨日のことがあるからではなく、まだ洗う皿が出ていないからだ。それでも彼女は何度か水桶の方を見て、そのたびに視線を皿へ戻していた。


 アルトはブルーノの向かいへ座る。


「見つかったか」


「見つかりました」


 返事は早かった。


 その割に、ブルーノは記録端末を開こうとしない。


「嫌な顔だな」


「良い内容なら、昨日のうちに話しています」


「出せ」


「先に、確認させてください」


 ブルーノは紙を一枚、アルトの前へ滑らせた。


 中央に二つの小さな円があり、それぞれから短い線が伸びている。名前は書かれていないが、何を示しているのかは分かった。


 ナギ。


 同行者。


 二人から残った声の断片。


「第九十二話の後、ルナ様は二人分の呼称残滓を返さないと決めました」


「ああ」


「返せなかったのではなく?」


「返さなかった」


 答えたのはルナだった。


 棚の前から動かないまま、こちらを見ている。


「私が決めました」


 ブルーノは頷いた。


「その点は、記録とも一致しています。処理失敗ではありません。権限不足でも、時間切れでもない。返還処理を途中で止めた記録があり、停止を実行したのはルナ様です」


「今さら、そこを疑ってたのか」


 アルトが聞くと、ブルーノは首を横に振る。


「疑ったのではありません。何を止めたのかを確認していました」


「同じじゃないのか」


「違います」


 ブルーノは記録端末を開いた。


 照合系の表示ではない。過去の処理を読み出すための記録画面で、卓上には共有せず、まず自分だけで内容を確認してから端末をアルトへ向ける。


【残留呼称:二件】


【返還先:照合未完了】


【原音保持率:十八・二】


【意味保持率:七十一・六】


【返還方式:補完整形】


「十八?」


 アルトは画面を見る。


「原音保持率です」


「低いのか」


「本人の声として返せる部分が、二割も残っていません」


 ブルーノは別の項目を開く。


【不足部分を標準音声により補完】


【意味情報を優先】


【感情情報:破棄】


【呼称主体:再設定】


 最後の行を読んだところで、アルトは端末から目を離した。


「再設定って何だ」


「誰の声として返すかを、処理側で決め直します」


「本人じゃなくなるのか」


「音は似せられます。言葉も同じものを作れます。ただし、それを言った時の息遣いや迷い、誰へ向けて言ったのかという部分は戻せません」


「それで、返還扱いになる?」


「神界の処理上は」


 アルトは舌打ちした。


 ルナは棚から白い小皿を二枚取り、机まで運んできた。片方をブルーノの前へ、もう片方を自分の前へ置くと、それぞれの中央へ小さな金属片を一つずつ載せる。


 昨日の白い腕から落ちたものではない。


 もっと古い。


 薄く、黒ずんだ金属片で、片方には細い線が二本、もう片方には一本だけ刻まれている。


「これが二人の残滓です」


「持っていたのか」


「返さなかった日から、私が保管しています」


 アルトは金属片を見た。


 握れば隠れるほど小さい。


 こんなものに、二十二年以上前の声が残っているとは思えない。だが、片方へ指を近づけた瞬間、耳の奥ではなく、指の骨へ直接触れるような細い振動が返ってきた。


 アルトは手を引く。


「鳴ってるな」


「はい」


「聞こえないけど」


「声になる前の部分だけが残っています」


 ルナは二枚の小皿を少し離した。


「昨日、完全な返還記録を探した時、ブルーノさんが補完方式を見つけました。ですから、実際に何が返されるのかを確認できます」


 ブルーノの表情がさらに悪くなる。


「おすすめはしません」


「でも、持ってきた」


「知らないまま正しかったことにする方が、もっと危険だと思いました」


 アルトはルナを見る。


「お前は見たくないんじゃないのか」


「見たくありません」


 ルナは迷わず答えた。


「それでも、私が何を止めたのかは、私だけが知っている形にしない方がいい」


「昨日、物語にされるのが嫌だって言ってたな」


「はい」


「今度は証拠を増やすのか」


「証拠ではありません」


 ルナは小皿の縁へ指を置いた。


「一緒に見てもらうのです」


 マルタが厨房から布を持ってきた。


 厚手のものを二枚。


「皿が割れそうなら、これを下に敷きな」


「何が起きるか分からないぞ」


「だからだよ。分からないからって、机を傷だらけにするんじゃないよ」


 マルタは二枚の小皿の下へ布を敷いた。


 ミアも椅子を持ってくる。


「私も見る」


「遊びじゃないぞ」


「分かってる」


 いつもの軽さはなかった。


 ミナは水差しとコップを用意し、ガルドは修理途中の水桶を床へ置いてから、金属棒を一本持って机の横へ立った。


 昨日のようなものが出てきた場合に備えている。


 誰も大げさとは言わなかった。


 ブルーノが記録端末を操作する。


「完全な返還はしません。復元結果を小皿の上に一度だけ出し、外部へ送らずに停止します」


「止められるのか」


「停止用の処理を先に組んであります」


「昨日の白い手みたいなのは」


「出ないとは言えません」


「使えないな」


「今回は否定できません」


 ガルドが金属棒の握りを確かめる。


「出たら叩く」


「頼む」


 ブルーノが最後の確認欄を開いた。


【残留呼称の試験復元を開始しますか】


【送信先:設定なし】


【出力時間:三秒】


 アルトはルナを見た。


 彼女の右手は机の上にある。


 震えてはいない。


 だが、指先だけが白くなるほど、小皿の縁を押さえている。


「やめてもいいぞ」


「いいえ」


「無理する場面じゃない」


「無理はしています」


 ルナは言った。


「でも、逃げてはいません」


 アルトはそれ以上止めなかった。


「やれ」


 ブルーノが実行欄へ触れた。


 二つの金属片が同時に跳ねた。


 かち。


 皿へ落ちる。


 次の瞬間、薄い白煙が金属片の周囲に生まれ、音もなく人の口元に似た形へ集まり始めた。顔はない。身体もない。ただ、唇から顎にかけての輪郭だけが、小皿の上に浮かんでいる。


 片方は少し細い。


 もう片方は、口角の左側に古い傷のような切れ目があった。


 本人たちのものなのか。


 処理が作った形なのか。


 判断できない。


 二つの口が同時に開く。


『おいていかないで』


 同じ声だった。


 片方だけではない。


 二つとも。


 高さも。


 速さも。


 息を吸う位置も。


 完全に同じだった。


 言葉が終わると、口は閉じた。


 もう一度開く。


『おいていかないで』


 一度目と同じ。


 僅かな揺れもない。


 誰かに必死で呼びかけた声ではなく、文字を正しく読み上げるために作られた音であり、そこにはナギと同行者を分けるものも、門の外にいる少年へ手を伸ばした痕跡も残っていなかった。


 ミアが椅子から立つ。


「違う」


 誰も聞き返さない。


「二人じゃない」


 ミアは二枚の皿を見る。


「同じのが二つあるだけ」


 白い口が三度目の言葉を発しかける。


 ブルーノが停止欄へ触れた。


 消えない。


「止まりません」


「三秒だろ」


「過ぎています!」


 二つの口が開く。


『おいていかないで』


 同じ音。


 同じ間。


 同じ強さ。


 今度は小皿の縁に細い亀裂が入った。


 ぱき。


 アルトは片方の皿へ手を伸ばす。


 ルナが先に金属片を掴んだ。


 白い煙が彼女の指へ絡みつく。


「ルナ!」


「触らないでください!」


 彼女は金属片を握り、机へ押しつける。


 手の甲に白い線が走る。


 凍傷のように皮膚の色が抜けていく。


 ガルドが金属棒で、もう一方の金属片を皿の外へ弾いた。


 かん。


 床へ落ちる前に、ミアが深皿で受ける。


 がん、と重い音が鳴り、深皿の中で白煙が何度も膨らんだ。


「布!」


 マルタが厚布を投げる。


 アルトは受け取り、深皿へ被せた。


 布の下で言葉が続く。


『おいていかないで』


 声は少しも変わらない。


 塞がれたことにも。


 落とされたことにも。


 誰かが触れたことにも反応せず、ただ決められた言葉を、決められた音で繰り返している。


「こっちは押さえた!」


 アルトが叫ぶ。


「ルナ、離せ!」


「まだです!」


 ルナの手の中では、もう一つの金属片が震えている。


 白煙が指の隙間から伸び、彼女の顔を作ろうとしていた。


 白い口。


 ルナの口と同じ形。


『おかえりなさい』


 その声が出た瞬間、ルナの身体が固まった。


 アルトは彼女の手首を掴む。


「開け!」


「駄目です」


「手が凍ってる!」


「今、離せば広がります!」


 ガルドがルナの手の下へ木の楔を滑り込ませる。


「指ではなく、手首を返せ」


「どうする」


「関節の向きに逆らうな。押さえたまま外へ転がせ」


 アルトはルナの手首を下から支え、金属片を押しつけたまま、手のひらを外側へ回した。


 ルナの指が一本ずつ机から離れる。


 白い口が再び開く。


『おかえりなさい』


 空だった。


 優しく聞こえるように整えられている。


 迎える声の形をしている。


 だが、誰が帰ってきたのかを知らない。


 嬉しいのか、安心したのか、遅かったと怒っているのかも分からない。ただ帰還処理の終わりに必要な音として、言葉だけが正しく並んでいた。


 ルナはその声を、何万回も聞いてきた。


 自分の口の形で。


 自分の声に似せられて。


 自分が何も感じていない言葉として。


 アルトは楔を金属片の下へ押し込む。


「ガルド!」


「上げろ」


 二人で金属片を弾く。


 白い口が崩れた。


 金属片は机から飛び、床に置かれた修理途中の水桶へ入る。


 からん。


 ガルドがすぐに蓋代わりの板を載せ、木槌で縁を三度叩いた。


 どん。


 どん。


 どん。


 桶の中から声がする。


『おかえりなさい』


 一度。


『おいていかないで』


 一度。


 それから、止まった。


 店の中には荒い呼吸だけが残った。


 アルトはルナの手を見る。


 指先から手のひらまで白くなっているが、皮膚は硬くなっていない。ミナがすぐに温めた布を当て、指の付け根を一本ずつ確かめていく。


「動かせますか」


 ルナが指を曲げる。


 遅い。


 だが、動く。


「痛みは」


「あります」


「それなら、まだ大丈夫です」


「痛い方がいいのですか」


「今は」


 ミナは布を巻き直した。


「感じなくなったら言ってください」


 深皿を押さえていた布の下も静かになっている。


 アルトが慎重に布を上げると、金属片は皿の中央で黒ずんだまま動かなかった。縁に入った亀裂は一本。深くはない。


 ミアが金属片を見下ろす。


「これ、返すの?」


 ルナは答えなかった。


 ブルーノも。


 アルトは壊れかけた二枚の小皿を見る。


 そこに浮かんだ二つの口は、同じ声で同じ言葉を発した。二人分の声を返す処理だったはずなのに、返ってきたものには、最初から二人という違いがなかった。


「返せないな」


 アルトが言った。


 ルナの肩が小さく揺れる。


「違います」


 声は弱かった。


 それでも、はっきりしていた。


「返せなかったのではありません」


「ああ」


「返さなかったのです」


「ああ」


 ルナは包帯を巻かれた手を、自分の膝へ置いた。


「第九十二話で、私は二人の声を返すことができました。今と同じ補完処理を使えば、言葉の形だけは、それぞれの残滓へ戻せたのです」


「でも止めた」


「はい」


「こうなると知ってたからか」


「すべては知りませんでした」


 ルナは桶の蓋を見る。


 その下には、空にされた三つの言葉が閉じ込められている。


「ただ、返還処理の説明を読んだ時、感情情報を破棄するという一文がありました。誰へ向けた言葉かも、なぜ言ったのかも、言った本人がどれほど怖かったのかも消して、意味だけを整えて返すと書かれていました」


「それで分かった?」


「いいえ」


 ルナは首を横に振る。


「分かったのではありません。思い出したのです」


 白い口。


 帰還者を知らない「おかえりなさい」。


 優しさの形だけを整えた声。


「私は、自分の言葉を何万回も聞いてきました。声は私に似ていて、発音も間違っておらず、聞く側には歓迎の言葉として届く。それでも、私が言ったものではありませんでした」


 ルナは包帯の上から、右手を押さえた。


「空にされた言葉を受け取る側が、どれほど苦しいかを、私は知っています。自分の声でありながら自分のものではない言葉が、正しい言葉として使われ続ける痛みも」


 アルトは何も挟まなかった。


 ルナの説明は長かった。


 だが、言葉だけではなかった。


 机には亀裂の入った皿があり、床には濡れた布が落ち、ルナの手には新しい包帯が巻かれている。桶の蓋の下には、戻せるはずだった声の残骸がある。


「だから返さなかった」


「はい」


「ナギと、もう一人へ」


「はい」


 ルナは一度だけ目を閉じる。


「あの二人に、それをするわけにはいかなかった」


 店の奥で、薪が崩れた。


 ぱち、と火の粉が上がる。


 誰も動かない。


「でも、声は戻らなかった」


 アルトが言う。


「はい」


「二人は二十二年以上、止まったままだ」


「はい」


「お前が返していれば、何かが変わったかもしれない」


「変わったかもしれません」


「後悔してるか」


 ルナはすぐには答えなかった。


 皿を見る。


 包帯を見る。


 修理途中の水桶を見る。


 答えを探しているのではなく、すでにある答えを口にするまで、自分の中で順番を整えているようだった。


「返さなかったことは、間違っていなかったと思います」


「ああ」


「今、見たものが、その証明です」


「ああ」


「でも」


 ルナの唇が一度閉じる。


 開く。


「間違っていなかったことが、いちばん苦しいのです」


 アルトは眉を寄せた。


「正しかったなら、いいんじゃないのか」


「正しかったから、二人を助けられなかったことを、別の選択のせいにできません」


 ルナは静かに続けた。


「間違えていたなら、やり直したいと言えます。知らなかったなら、次は知っていると言えます。怖くてできなかったのなら、次は怖くてもすると決められます」


 長く息を吸う。


「でも、私は知っていて、考えて、自分で止めました。今も同じ場面に戻れば、同じ選択をします」


 アルトは桶の蓋へ手を置いた。


 中は静かだった。


「なら、次にやることは決まってる」


 ルナが顔を上げる。


「何でしょうか」


「返さないまま助ける」


「そんな方法が」


「今から作る」


「簡単に言いますね」


「簡単じゃない」


 アルトは蓋を押さえたまま言う。


「声を空にして返すのが駄目なら、声を返さず、本人たちを迎えに行く。二人が言えなかったことは、目を覚ましてから自分の口で言わせる」


 ブルーノが紙へ筆を置く。


「救出後に、ですか」


「そうだ」


「二人が話せる状態かは分かりません」


「なら、話せるまで待つ」


「目を覚まさない可能性も」


「それでも、こいつを代わりに喋らせるよりはいい」


 アルトは桶の蓋を指で叩いた。


 こつ。


 返事はない。


「空の言葉は返さない。本人を戻す」


 ブルーノがそのまま紙へ書きかける。


 途中で止まった。


「今の言葉を、手順書に入れていいですか」


「そのままは長い」


「では、短くします」


「短くしすぎるなよ」


 ブルーノは少し考え、書いた。


【声の代わりを返さない】


【話す本人を迎えに行く】


 ミアが横から読む。


「本人を持って帰る?」


「言い方」


「同じじゃん」


「荷物みたいに言うな」


「じゃあ、迎えに行く」


「最初からそう書いてある」


「なら合ってる」


 ミアは満足そうに頷いた。


 マルタが厨房から湯を持ってくる。


 ルナの前へ置く。


「手が冷えたなら、中から温めな」


「ありがとうございます」


「今日は皿洗いはなしだよ」


 ルナが包帯を見る。


「宿代は」


「働けない時まで取るほど、うちは高くない」


「ですが」


「治ってから二倍洗いな」


 ルナは少しだけ笑った。


「二倍ですか」


「嫌なら早く治しな」


「はい」


 ミナが包帯の端を確認する。


「今日は水にも触れないでください」


「では、飲むだけにします」


「それは必要です」


 ルナはコップを両手で持とうとして、右手を止める。


 左手だけでは不安定だった。


 ミアが横からコップの底を支えた。


「持てる?」


「はい」


「落とすなよ」


「努力します」


「女神、昨日も皿落としかけた」


「今日は水です」


「もっと大事」


 ルナは左手と、ミアの小さな手で支えられたコップから湯を一口飲んだ。


 熱かったのか、目を少し細める。


 それでも、すぐに飲み込んだ。


 ガルドは修理途中の水桶から蓋を外さず、桶ごと店の隅へ運ぶ。


「どうする」


 アルトが聞く。


「封じたまま補強する」


「使えるようになるか」


「水桶としては使わない」


「じゃあ何にする」


「残った声を運ぶ器だ」


「迎えに行く時、持っていけるか」


「持てる形にする」


 ガルドは五本の傷が残った桶を床へ置く。


 昨日までは、水を入れるための道具だった。


 今日からは、返さなかった声を、本人たちのところまで運ぶための器になる。


 消さない。


 代わりに喋らせない。


 持っていく。


 それだけだった。


 ブルーノが記録端末を閉じ、紙へ最後の一行を加える。


【返還処理:再開しない】


 その下へ、もう一行。


【救出処理へ移行】


 アルトは文字を読む。


「処理って言い方は嫌だな」


「では、何にします」


 少し考える。


 難しい言葉は必要なかった。


「迎えに行く準備」


 ブルーノは線を引き、書き直した。


【迎えに行く準備:開始】


 ミアが覗き込む。


「いつ行くの?」


「まだだ」


「明日?」


「準備が終わってからだ」


「早くして」


「分かってる」


「二十二年待ってる」


「ああ」


 その数字が出ると、ルナの表情が少し沈んだ。


 アルトは見たが、慰める言葉は出さなかった。


 代わりに、ガルドが置いた桶の隣へ椅子を一つ運ぶ。


「何ですか」


 ルナが聞く。


「見張り」


「桶の?」


「中の声が勝手に喋らないように」


「アルトさんが?」


「最初はな」


「私が保管します」


「手が治ってからだ」


「では、交代します」


「交代?」


「一人で持たない方がいいのでしょう」


 アルトは少しだけ考えた。


「ああ」


 ルナは椅子をもう一つ持ってきた。


 包帯を巻いた右手は使わず、左手と腰で押すようにして、桶の反対側へ置く。


 二つの椅子。


 間に、傷の残った水桶。


 返さなかった声。


 アルトは片方に座る。


 ルナも向かいへ座った。


 桶は何も言わない。


 それでよかった。


 二人の代わりに話す必要はない。


 今はただ、本人たちのところへ運ばれる時を待てばいい。


 マルタが鍋の蓋を閉める。


 かん。


 ガルドが刃を工具袋へ戻す。


 こと。


 ミアが亀裂の入った深皿を指で叩く。


 こん。


 桶の中からは、何も返らなかった。


 誰かの声を真似た音ではなく、その沈黙の方が、今はずっと二人に近かった。


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