第123話 聞いていた神
ルナは、芋を半分残した。
初めてのことだった。
嫌いなわけではない。
冷めたわけでもない。
小皿の上で割られた芋から、まだ細い湯気が立っている。
ルナはそれを見たまま、匙を持っていた。
「最初の人間です」
さっき口にした言葉が、まだ赤猫亭の真ん中に残っている。
帰還先、未成立。
その判定を受けた最初の人間。
女神になる前のルナ。
ミアが深皿を少しだけ近づけた。
「食べないの?」
「食べます」
「食べてない」
「今からです」
ルナは芋を一口食べた。
噛む。
飲み込む。
いつもより時間がかかった。
マルタは何も言わず、鍋の火を弱めた。
ブルーノは紙に書いた二行を見ている。
【待っている人間は、帰還先として登録されなかった】
【レオンは三日待った】
その下には、まだ何もない。
アルトは共有表示を消したまま、ルナを見た。
「最初って、いつだ」
「記録上の年月は分かりません」
「覚えてないのか」
「数えるものが、ありませんでしたから」
ルナは芋を置いた。
「暦も。配信も。ランキングも。神貨もありませんでした」
ブルーノが顔を上げる。
「神界配信が、なかった?」
「はい」
「帰還ランキングも?」
「ありませんでした」
「では、帰還条件は何で決まっていたんです」
ルナの指が止まる。
「帰還条件という呼び方も、ありませんでした」
店の奥で、薪が弾けた。
ぱち。
アルトはその音を聞いてから言う。
「最初から話せ」
ルナはすぐには答えなかった。
小皿の上の芋。
水の入ったコップ。
空の匙。
それらを順に見ている。
「話すだけでは、足りないと思います」
「何がある」
「私の言葉だけでは、また物語になります」
アルトの眉が動く。
ルナは続けた。
「可哀想な人間がいました。帰れませんでした。神々に救われて女神になりました。そう話せば、綺麗です」
「綺麗じゃないだろ」
「神々には、綺麗です」
ルナは席を立った。
「見せます」
「何を」
「残っているものを」
ルナが向かったのは、厨房だった。
白い扉でもない。
神界でもない。
赤猫亭の厨房。
昨日まで皿を洗っていた水桶の前に立つ。
ミアがついていく。
「皿?」
「皿です」
「真面目な話なのに?」
「真面目な話だからです」
ルナは棚から一枚の皿を取った。
縁の欠けた、白い平皿。
赤猫亭で毎日使われているものだ。
それを水桶へ入れる。
布を濡らす。
皿の表面をゆっくり拭く。
「何してる」
アルトが聞く。
「昨日、私がここで皿を洗った時、見つけました」
「何を」
「私の帰還処理です」
ブルーノが立ち上がった。
「皿に?」
「皿ではありません」
ルナは水桶を指した。
「水に、です」
水面には、厨房の天井が映っている。
梁。
吊るされた鍋。
ルナの白い髪。
ミアの耳。
ただの水だった。
ルナが皿を一度、底まで沈める。
引き上げる。
水が縁から流れ落ちる。
ぽた。
ぽた。
三滴目が落ちた瞬間、水面に文字が浮かんだ。
【使用履歴を確認】
アルトの視界に出たものではない。
水桶の水面に、直接浮かんでいる。
全員が見える。
ブルーノが反射的に記録端末へ手を伸ばし、止めた。
「紙で」
アルトが言う。
「はい」
ブルーノは紙を取った。
ルナがもう一度、皿を水へ入れる。
【使用者:ルナ】
【動作:皿を洗う】
【場所:赤猫亭】
【継続回数:二十三】
ミアが指を折り始める。
「二十三回も洗った?」
「洗い直しを含んでいます」
「下手だったから」
「はい」
ルナは否定しなかった。
マルタが鼻を鳴らす。
「半分はやり直しだったね」
「それも使用です」
ルナが皿を持ち上げる。
今度は布で縁を拭く。
一周。
二周。
三周。
水面の表示が変わる。
【場所判定:成立】
【帰還先候補:赤猫亭】
【処理対象:旧件一】
アルトは水桶へ近づいた。
「これがお前か」
「はい」
「昨日から出ていた?」
「最初は、名前だけでした」
【ルナさん:水を飲む】
以前、場所の文書に浮かんだ一文。
あれが最初だった。
帰還条件でもない。
神託でもない。
ルナが水を飲んだという、ただの記録。
「水を飲んだ」
アルトが言う。
「はい」
「皿を洗った」
「はい」
「芋を食った」
「はい」
「それで帰還先になるのか」
ルナは水面を見た。
「場所は、戻りたいと思うだけでは成立しません」
アルトは顔をしかめる。
また言葉だけの話になる。
そう思った時、ガルドが厨房へ入ってきた。
水桶の横にしゃがむ。
床板を指で叩く。
こつ。
「ここは沈んでいる」
「床が?」
ブルーノが聞く。
「毎日、同じ場所に立っているからだ」
ガルドはルナの足元を指した。
床板の一部だけ、表面が少し白くなっている。
水が落ち、布で拭かれ、また踏まれた跡。
昨日まで誰も気にしていなかった。
「これが使用だ」
ガルドが言う。
「記録じゃない。跡だ」
ルナは自分の足元を見た。
白い跡。
神の光ではない。
水と靴底が作った跡。
「私が、ここに立った跡です」
「女神でも床は減る」
ガルドは立ち上がった。
「使えばな」
マルタが別の皿をルナへ渡す。
「まだ二枚残ってるよ」
「今ですか」
「今だからだよ」
ルナは皿を受け取った。
少しだけ困った顔をする。
それでも、水へ入れた。
洗う。
水を切る。
布で拭く。
棚へ戻す。
こと。
皿が木の棚へ収まった。
水面の文字が揺れる。
【帰還先候補:赤猫亭】
【成立率:上昇】
ブルーノが紙に書き写す。
「帰還処理が、皿洗いで進んでいる」
「そう見えます」
「神界側は把握しているんですか」
ルナは答えなかった。
答える前に、水面が黒く染まった。
墨を一滴落としたように。
中央から黒い筋が広がる。
【閲覧権限:停止】
【旧件一:封鎖対象】
【参照を終了してください】
水桶が揺れた。
誰も触れていない。
縁から水がこぼれる。
ミアの足元へ流れた。
「冷たっ」
アルトはミアの腕を掴み、後ろへ引く。
次の瞬間、水の中から白い指が伸びた。
人間の手ではない。
関節が多い。
細長い指が皿の縁を掴む。
ぱき。
白い皿に亀裂が走った。
「下がれ!」
アルトは水桶を蹴り倒した。
床へ水が広がる。
白い指も一緒に投げ出される。
だが、床へ落ちる前に水へ溶けた。
黒い筋だけが這う。
ルナの足を目指して。
ガルドが工具袋から金属棒を抜く。
床板へ打ち込む。
かん。
黒い筋の進路が止まった。
「木の継ぎ目を通ってる!」
ブルーノが叫ぶ。
「水を切れ!」
マルタが鍋敷きを投げる。
アルトは受け取った。
厚い布を床へ押しつける。
広がった水を吸わせる。
黒い筋が布の中へ入り込む。
布が白く変色した。
凍ったように硬くなる。
「ミア、皿を上げろ!」
「どれ!」
「全部だ!」
ミアが棚から皿を抱える。
三枚。
四枚。
五枚。
腕いっぱいに抱え、厨房の外へ走る。
ミナが入口で受け取った。
ルナは動いていなかった。
水桶の前に立ったまま。
黒い筋を見ている。
「ルナ!」
アルトが肩を掴む。
冷たい。
服の上からでも分かる。
身体の温度が落ちている。
「聞こえるか」
「はい」
「何を見てる」
「同じです」
「何が」
「最初の時と」
床の布が内側から膨らんだ。
アルトはルナを突き飛ばす。
白い指が布を突き破った。
アルトの腕を掴む。
冷気が皮膚へ食い込む。
視界の端に表示が走る。
【帰還処理:中断】
【対象を回収します】
「ふざけるな!」
アルトは白い手首を掴み返した。
固い。
骨でも氷でもない。
だが、形はある。
砕ける。
腰を落とす。
手首を引く。
力を正面から受けない。
白い腕の引く方向を床へ流す。
肘に見える部分を、金属片で叩く。
かん。
亀裂が走った。
もう一度。
かん。
白い腕が折れた。
水へ戻る。
床へ落ちた黒い筋を、ガルドが木槌で叩く。
どん。
床板が震える。
筋が継ぎ目から押し出される。
マルタが灰を撒いた。
薪の灰。
黒い筋が灰を避けて縮む。
「水気を吸うんだよ!」
「先に言え!」
「今分かったんだよ!」
ブルーノが布袋を開く。
小麦粉を床へ撒く。
「食い物を使うな!」
「今は使います!」
白い粉が残った水を吸う。
黒い筋の動きが止まった。
ミアが厨房の外から叫ぶ。
「まだいる!」
倒れた水桶の内側。
底に、黒い文字が貼りついている。
【旧件一:処理済み】
【再開不可】
ルナがそれを見た。
「処理済み」
声が震えていた。
「私は、終わったことにされています」
アルトは金属片を握る。
水桶へ近づく。
「終わってない」
「でも」
「皿が残ってる」
厨房の外では、ミアが皿を抱えている。
一枚も割れていない。
ミナとブルーノも、それぞれ皿を持っている。
マルタの鍋は火にかかったまま。
ガルドの打ち込んだ金属棒が、床板を押さえている。
「床もある」
アルトが言う。
「水も、また汲める」
ルナは倒れた水桶を見る。
水はほとんど流れてしまった。
黒い表示も薄くなっている。
「最初の時は、何も残りませんでした」
ルナが言った。
「何があった」
「白い場所でした」
「ここみたいな店は?」
「ありません」
「皿は」
「ありません」
「水は」
「帰還処理のために用意されたものだけです」
「飯は」
「ありません」
「誰かいたか」
ルナは首を横に振った。
「神々が、見ていました」
床に残った黒い筋が、最後に一度だけ動いた。
ルナの靴先へ向かう。
ミアが厨房へ飛び込んできた。
抱えていた深皿を、黒い筋の上へ伏せる。
ばん。
「捕まえた!」
「それで捕まるのか」
「皿だから!」
深皿の下で何かが暴れる。
かたかたと皿が揺れる。
ミアが上から体重をかける。
「重い!」
アルトも足で皿を押さえた。
ガルドが皿の周囲へ木片を打つ。
三か所。
かん。
かん。
かん。
揺れが止まった。
全員が息を吐く。
マルタが言う。
「その皿、もう飯には使えないね」
「そこかよ」
「大事だよ」
しばらく待った。
深皿を上げる。
下には何もない。
黒い筋も。
文字も。
ただ、床板が濡れている。
ミアが深皿の内側を見る。
「黒くない」
「割れてもいない」
「勝った?」
「皿でな」
アルトはルナを見る。
ルナはまだ水桶の前にいる。
だが、先ほどより身体の色が戻っていた。
マルタが新しい水桶を持ってくる。
「続きやるよ」
ルナが目を見開く。
「今からですか」
「皿が残ってる」
「ですが」
「さっきのは、店の仕事じゃない」
マルタは水を注ぐ。
ざあ。
新しい水。
文字は浮かばない。
黒くもならない。
「店の仕事は、こっちだよ」
ルナは水を見る。
それから、アルトを見る。
「続けていいのでしょうか」
「誰に聞いてる」
「アルトさんに」
「俺は店主じゃない」
マルタが腕を組む。
「私はいいよ」
「では」
「ただし、今度は皿を割るんじゃないよ」
「はい」
ルナは残った皿を一枚受け取った。
水へ沈める。
洗う。
布で拭く。
棚へ戻す。
こと。
何も起きない。
神界表示も出ない。
帰還処理も見えない。
ただ、皿が一枚きれいになった。
ルナはもう一枚を洗う。
こと。
その次。
こと。
最後の皿。
こと。
マルタが確認する。
「よし」
ルナの肩から力が抜けた。
ブルーノが紙を見る。
「記録は、どうします」
「今あったことを書け」
アルトが言う。
「ルナ様が最初の転移者だったことを?」
「それもだ」
「神々が見ていたことを?」
「書け」
「襲撃は」
「書け」
ブルーノは筆を持つ。
「配信とランキングについては」
ルナが答えた。
「私の失敗の後に作られました」
筆が止まる。
「なぜです」
「次の転移者が、私と同じ失敗をしないためだと説明されました」
「実際は?」
ルナは洗い終えた皿を見る。
「見るためです」
「何を」
「帰ろうとする人間を」
赤猫亭が静かになる。
ルナは続けた。
「どこまで進むか。何を倒すか。何を失うか。誰を選ぶか。どの神へ祈るか」
ブルーノの筆先から、墨が一滴落ちた。
「それが、配信になった」
「はい」
「帰還条件は」
「見せるための区切りになりました」
「ランキングは」
「帰れる人間を選ぶためではありません」
ルナはアルトを見た。
「見続ける理由を、神々に与えるためです」
アルトの奥歯が鳴った。
投げ銭。
視聴数。
順位。
神回。
帰還へ近づくほど盛り上がる仕組み。
最初に帰れなかった人間の失敗を土台にして。
次の人間たちが帰ろうとする姿を、見世物にした。
「お前の失敗を使った」
「はい」
「何度も」
「はい」
「お前は、それを聞いていた」
ルナはすぐには答えなかった。
棚に戻した皿へ触れる。
「聞いていました」
声は小さい。
「帰還条件達成」
一枚目の皿。
「帰還処理開始」
二枚目。
「帰還先を照合します」
三枚目。
ルナの指が止まる。
「おかえりなさい」
最後の皿。
「その言葉を、私は何万回も聞きました」
アルトは何も言えなかった。
神々の配信を見ながら。
帰還者が現れるたび。
帰れなかった者が出るたび。
自分の失敗から作られた仕組みが、自分の声に似た挨拶を流す。
ルナはそれを聞き続けた。
見る側の席で。
神として。
最初の人間だったことを隠されたまま。
ミアがルナの袖を引く。
「今日は何回聞いた?」
「今日は?」
「その言葉」
ルナは少し考える。
「聞いていません」
「じゃあ、ゼロ」
「はい」
「初めて?」
ルナが目を伏せる。
「たぶん」
ミアは指を一本立てる。
「じゃあ今日は、聞かなかった一日目」
ルナがミアを見る。
「数えるのですか」
「数えた方がいいんでしょ」
「何を数えたかが大事だ」
アルトが言う。
レオンが数えた三日。
ルナが数え続けた処理音。
そして。
聞かなかった最初の一日。
ブルーノは紙の最後に書く。
【ルナは、今日は聞かなかった】
マルタがその文字を読む。
「それでいい」
「正式記録としては、弱くありませんか」
「弱くていいんだよ」
マルタは洗い終えた皿を一枚取る。
スープをよそう。
ルナの前へ置く。
「食べな」
ルナは皿を見る。
さっき自分で洗った皿。
帰還処理を引きずり出すための道具ではない。
敵を閉じ込めた深皿でもない。
温かいスープを入れる皿。
「はい」
ルナは匙を取った。
一口飲む。
今度は、すぐに飲み込んだ。
アルトは倒れた古い水桶を見る。
内側には、もう文字はない。
だが、皿を掴んだ白い指の跡が残っている。
五本。
爪のような細い傷。
アルトはそれを指でなぞらない。
「捨てるなよ」
ガルドに言う。
「直すのか」
「残す」
「傷を?」
「ああ」
「何のためだ」
アルトは水桶から手を離した。
「綺麗な話にされないためだ」
ルナが顔を上げる。
アルトは彼女を見ない。
神界も見ない。
傷の残った水桶を見る。
「最初の転移者は帰れなかった」
ブルーノの筆が動く。
「帰還先、未成立とされた」
筆が動く。
「その失敗の後で、配信とランキングが作られた」
筆が動く。
「神々は、それを救済と呼んだ」
そこで筆が止まる。
アルトは続けた。
「でも、実際に作られたのは、見るための仕組みだった」
ブルーノは最後まで書いた。
紙の上に、黒い文字が残る。
水では消えない。
神界表示でもない。
人の手で書いた記録。
マルタが鍋を置く。
かん。
ルナがスープを飲む。
こく。
ミアが深皿の傷を指で叩く。
こん。
赤猫亭の音が三つ続く。
神界からの通知は来なかった。
襲撃も戻らなかった。
それでもアルトは分かっていた。
向こうは聞いている。
最初から。
ずっと。
ルナが、最後の芋を食べた。
今度は残さなかった。




