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第122話 二つの、おいていかないで

 翌朝、手帳は昨日と同じ場所にあった。


 真ん中の机の横。


 深皿と小皿、空の浅い皿から少し離れた位置。


 革表紙は軽く閉じられ、頁が傷まない程度の隙間が残っている。


 誰も触れていない。


 少なくとも、触れたとは言わなかった。


 赤猫亭には、触れなくても確かめられるものがある。


 マルタが火を入れる。


 鍋が鳴る。


 かん。


 ミアが芋の袋を覗く。


 布が擦れる。


 ガルドが椅子の脚を床へ置く。


 こと。


 ルナが水を飲む。


 こく。


 いつもの音が揃ってから、アルトは手帳を見た。


「今日、見るの?」


 ミアが聞いた。


「ああ」


「二つのやつ?」


「ああ」


「二つなのに、同じ言葉?」


「たぶんな」


「変」


「そうだな」


 昨日、視界に浮かんだ整理表示。


【次段階:二つの、おいていかないで】


 最終呼称として残っていた言葉は一つだった。


 だが、発信元は一つではない。


 待機区画の奥。


 門の側。


 二つの場所から、同じ呼びが伸びている。


 誰が誰へ向けたのか。


 それを確かめる。


 ブルーノは紙を用意していた。


 記録端末ではない。


 昨日使った紙の裏面。


 まだ何も書かれていない。


「今日は書かないのか」


 アルトが聞く。


「聞いてから書きます」


「珍しいな」


「先に枠を作ると、入るものまで決めてしまいますから」


 ブルーノは紙を伏せた。


「昨日、二人で使った手帳を、到達者用と同行者用に分けかけました」


「分けた方が整理しやすいだろ」


「整理はしやすいです」


「なら」


「人が見えなくなります」


 マルタが小鍋を置く。


 かん。


「分けるのは、後でもできるよ」


「はい」


 ブルーノは頷いた。


 ルナは手帳から離れた席に座っている。


 水は飲んだ。


 コップは前。


 小皿は横。


 両手は机の上に出している。


 昨日から、そうしている。


「始めますか」


 ルナが聞いた。


「怖いか」


「はい」


「昨日より?」


「昨日とは違います」


 ルナは自分の指を見る。


「昨日は、名前が見つかることが怖かった」


「今日は」


「届かなかった言葉が、届いてしまうことが怖いです」


 アルトは返事をしなかった。


 届くなら、いい。


 そう簡単には言えない。


 言葉は、届けば救いになるとは限らない。


 二十二年以上前の声なら、なおさらだった。


 アルトは手を洗った。


 水を飲んだ。


 椅子に座った。


 それから視界の端へ意識を向ける。


 照合表示が浮かぶ。


【最終呼称:おいていかないで】


【発信反応:複数】


【分離照合:実行可能】


【警告:宛先の固定を避けてください】


 アルトは表示を机上へ落とした。


 共有表示の文字を、全員が読む。


 ミアが首を傾げる。


「宛先って、誰に言ったか?」


「そうだ」


「分からないから、見るんじゃないの?」


「先に決めるなってことだ」


「決めると?」


「違う相手へ届くかもしれない」


 ミアは深皿を自分の前へ寄せた。


「じゃあ、皿いっぱい置いとく」


「何でだ」


「どこに来ても受けられる」


 アルトは少し考えた。


「それでいい」


 ミアは満足して、深皿の縁へ両手を置いた。


 アルトは表示へ戻る。


 発信元を二つに分ける。


 名前ではなく、場所で。


【発信反応A:門側】


【発信反応B:旧待機区画側】


 まだ言葉は流れない。


 白い線だけが共有表示の上に伸びた。


 一本は、黒鐘門へ。


 もう一本は、旧待機区画の奥へ。


 ルナが小さく息を吸う。


「二つとも、同じ強さです」


 ブルーノが見る。


「発信時刻は」


【照合不能】


「同時だったのか」


【照合不能】


「順番は」


【照合不能】


 ミアが言う。


「分からないばっかり」


「ああ」


「でも、二つあるのは分かる」


「ああ」


「なら、今日はそれでいい?」


「まだだ」


 アルトは二本の線を見る。


 同じ言葉。


 同じ強さ。


 違う場所。


 門側には、到達者ナギがいた。


 旧待機区画側には、同行者がいた。


 昨日までなら、それぞれが互いを呼んだと考えただろう。


 ナギが同行者へ。


 同行者がナギへ。


 取り残された二人が、同じ言葉を投げ合った。


 それなら、形は綺麗だ。


 綺麗すぎる。


 アルトは表示へ触れない。


「二人が互いに言った、とは決めない」


 ブルーノが頷く。


「はい」


「何で?」


 ミアが聞いた。


「二人とも、別の奴へ言った可能性がある」


「別の?」


「ああ」


 ミアは二本の線を見る。


「四人になる?」


「ならないかもしれない」


「難しい」


「今日は特にな」


 マルタが芋を置く。


「難しいなら、口を動かしながらにしな」


「照合中だぞ」


「腹は止めなくていい」


 アルトは芋を取った。


 ルナも取る。


 ブルーノは紙には触れず、黒パンをちぎった。


 ガルドは共有表示を見ながら、椅子の脚を削っている。


 日常を止めない。


 それは、ここ数日で覚えた方法だった。


 アルトは芋を半分食べてから、照合を進める。


【発信反応A:内容抽出】


 共有表示が一度だけ揺れた。


 音はない。


 文字も出ない。


 代わりに、白い線の先が門側からゆっくり伸びる。


 旧待機区画へではない。


 外へ。


 門の外側。


 さらに遠く。


 ブルーノが息を止めた。


「同行者へ向いていない」


「ああ」


 線は門から外へ伸び続ける。


 黒鐘門の入口。


 石段。


 待機柵。


 その先。


 事件当時の記録は出ない。


 風景も出ない。


 ただ、向きだけが示される。


 門の外。


 誰かが残っていた場所。


 アルトの通信端末が震えた。


 全員がそちらを見る。


 レオンからだった。


《今、入口の匂いがします》


 アルトはすぐに返信しない。


 レオンは赤猫亭にはいない。


 自室で、水と皿を置いて待機している。


 名前は送っていない。


 手帳の内容も伝えていない。


《水は》


《前にあります》


《手は》


《開いています》


 アルトは共有表示を見る。


 門側から伸びた線。


 その先に外部反応が重なる。


【外部対象:レオン】


【方向反応:一致】


【同期傾向:上昇】


 ルナが机の縁を掴みかける。


 途中で気づき、手を開いた。


「ナギさんの呼びが、レオン様へ」


「まだ決めるな」


「はい」


 ルナは頷く。


 決めない。


 だが、方向は一致した。


 門にいた者の声が、門の外にいた少年へ向いていた。


 おいていかないで。


 その言葉を、帰れなかった者が、待っていた者へ向けていた。


 普通なら逆に思える。


 待つ側が、行く者へ言う言葉。


 置いていかないで。


 だが、門に入ったナギも、門の外に残った少年から離れていった。


 置いていく側になった。


 帰還処理が始まった瞬間、ようやくそれに気づいたのかもしれない。


 アルトは通信端末へ打つ。


《何が見える》


 少し間が空く。


《見えません》


 さらに。


《冷たいです》


《どこが》


《背中です》


 入口で三日。


 冷たい石。


 待っていた少年。


 レオンは覚えている。


 名前ではなく。


 数と、温度と、手の感覚で。


 アルトは返信する。


《そこから動くな》


《はい》


《思い出そうとするな》


《はい》


《今ある皿を見ろ》


 既読。


《深い皿があります》


《中は》


《水です》


《それを飲め》


 少し間が空いた。


《飲みました》


 共有表示の揺れが少し弱くなる。


 門側の線は消えない。


 だが、レオンへ食い込むような鋭さがなくなった。


 ミアが言う。


「届いた?」


「まだだ」


「でも、近い」


「ああ」


「じゃあ、置いとかない」


「何を」


「レオン」


 アルトはミアを見る。


 ミアは深皿を押さえたまま、共有表示の外部対象を見ている。


「ここにいないけど、置いとかない」


「どうする」


「水飲ませる」


「もう飲んだ」


「もう一回」


 アルトは通信端末へ打った。


《もう一口飲め》


 既読。


《はい》


 門側の線が、わずかに薄くなった。


 消えたのではない。


 今へ戻っただけだった。


 


 次は、旧待機区画側。


 アルトは一度、共有表示を閉じた。


 ブルーノが顔を上げる。


「続けないんですか」


「一回戻る」


 アルトは残りの芋を食べた。


 水を飲む。


 ガルドが椅子の脚を机へ置く。


 こと。


 マルタが鍋を混ぜる。


 から。


 ルナも水を飲んだ。


 ミアは深皿へ芋を一つ入れた。


「何で入れた」


「空だったから」


「皿は空でもいい」


「今は入ってる方がいい」


 誰も取り出さなかった。


 少し時間を置いてから、アルトは共有表示を開き直す。


【発信反応B:内容抽出】


 旧待機区画側の線が伸びる。


 今度は門へ向かう。


 一瞬、全員がそう思った。


 だが、線は途中で曲がった。


 門の中心を通らない。


 門の外。


 先ほどと同じ方向。


 レオンへ。


 ブルーノが紙へ手を伸ばし、止めた。


「二つとも」


「ああ」


「同じ相手へ向いている」


「ああ」


 ミアが表示を指差す。


「ナギと、もう一人が、レオンに言った?」


「まだ名前は分からない」


「でも、二人とも?」


「方向はな」


 同じ言葉が二方向から、一人の少年へ向いている。


 門にいたナギ。


 旧待機区画にいた同行者。


 二人とも、少年へ。


 おいていかないで。


 だが、それだけではおかしい。


 二人が少年へ助けを求めたのなら、なぜ少年には聞こえなかった。


 なぜ呼びは砕けた。


 なぜ二十二年以上、凍結処理が繰り返された。


 照合表示に新しい行が浮かぶ。


【受信候補:外部対象】


【受信条件:不成立】


【理由:帰還先として未登録】


 誰もすぐに言葉を出さなかった。


 ミアだけが、少し遅れて読む。


「レオン、帰る場所じゃないの?」


 アルトは表示を見る。


 待っている人間。


 入口に残った少年。


 三日間、帰ってくると信じていた者。


 ナギと同行者にとって、その少年は帰る理由だった。


 だが、神界の帰還処理は、彼を場所として扱わなかった。


 世界。


 座標。


 建物。


 門。


 登録された帰還地点。


 それらは照合できる。


 だが、誰かが待っているという事実は、場所の項目に入らない。


「登録できなかったんだ」


 ブルーノが言う。


 声が乾いていた。


「何を」


 ミアが聞く。


「レオン様を」


「人なのに?」


「人だからです」


 ブルーノは共有表示を見つめる。


「帰還処理は、場所を探した。世界を探した。座標を探した。戻す先を探した」


「レオンは?」


「待っていた」


「それ、戻す先じゃないの?」


 ブルーノは答えられない。


 アルトが言う。


「こいつらの仕組みでは、違った」


 ルナの指が震えていた。


 小さく。


 水の横で。


「帰還先、未成立」


 ルナが言う。


「場所がなかったのではありません」


「ああ」


「待っている人が、場所として数えられなかった」


「ああ」


 ルナは目を伏せる。


「それで、あの二人の声は、宛先へ届かなかった」


 おいていかないで。


 門から。


 待機区画から。


 二つの呼びは、少年へ向いていた。


 少年も、二人を待っていた。


 だが、待つことは帰還先として登録されない。


 声は途中で砕けた。


 名前も砕けた。


 命令語も約束も、処理の中で別々に残った。


 誰も悪くない。


 誰も間違っていない。


 それでも、届かなかった。


 ミアが芋の入った深皿を、共有表示の下へ押した。


「じゃあ、ここに入れる」


「何を」


「待ってる人」


「皿にか」


「深いから」


 アルトは否定しかけて、やめた。


 分類が綺麗すぎると、人が固まる。


 ミアの皿くらいでいい。


 待っている人を受ける。


 場所でなくても。


 座標でなくても。


 人を置く。


 それでいい。


 共有表示が再び揺れた。


【外部対象:レオン】


【受信条件:部分成立】


 ブルーノが顔を上げる。


「部分成立」


「何が変わった」


「分かりません」


「今、何をした」


 全員がミアを見る。


 ミアは深皿を押さえている。


「芋、置いた」


「それだけか」


「あと、レオン入れるって決めた」


「皿に?」


「ここに」


 ミアは深皿ではなく、机を叩いた。


 とん。


「赤猫亭に」


 表示が一度だけ明るくなる。


【参照候補:赤猫亭】


【状態:形成途中】


 ルナが息を止めた。


 マルタは鍋を混ぜ続ける。


「食べる場所なら、人くらい待てるよ」


 簡単に言った。


 本当に簡単に。


 ブルーノが紙を開く。


 今度は書いた。


【待っている人間は、帰還先として登録されなかった】


 そこで筆を止める。


 マルタが横から見る。


「それだけかい」


「何を足せば」


「登録されなくても、待ってたんだろ」


 ブルーノは少し考え、下へ書く。


【レオンは三日待った】


 マルタが頷く。


「そっちの方が大事だね」


 


 通信端末が震えた。


 レオンから。


《誰かが呼んだ気がします》


 アルトは画面を見る。


《言葉は》


《分かりません》


《名前は》


《分かりません》


 少し間。


《でも、一人ではありませんでした》


 アルトは共有表示を見る。


 二本の線。


 門側。


 旧待機区画側。


 同じ少年へ。


《二人か》


 既読。


 長い間が空く。


《たぶん》


 さらに。


《二人とも、行かないでと言った気がします》


 アルトの指が止まる。


 おいていかないで。


 その言葉は、助けを求める声ではなかったのかもしれない。


 少年を責める声でもない。


 二人が、帰還処理に引かれながら、残される少年へ伸ばした手。


 自分たちが戻れないことより。


 少年を一人にすることを恐れた声。


 行かないで。


 入口から離れないで。


 待つことをやめないで。


 あるいは。


 自分たちを忘れないで。


 意味はまだ決められない。


 だが、向きは分かった。


 アルトは返信する。


《聞こうとするな》


 既読。


《今は、水と皿を見ろ》


 既読。


《俺たちがそっちへ行く》


 送信してから、アルトは少し黙った。


 まだ行き方は分からない。


 救出の手順も完成していない。


 破片がいつまで保つかも分からない。


 それでも、送った。


 既読。


 長い間。


《待っています》


 その一行を見て、誰もすぐには話さなかった。


 三日待った子どもが。


 二十二年以上経って。


 また、待つと言った。


 今度は一人ではない。


 アルトは通信端末を伏せない。


 机の上へ置く。


 手帳の近く。


 触れない距離。


 だが、同じ机。


 ブルーノが共有表示を見る。


「二つの呼びは分かりました」


「ああ」


「どちらもレオン様へ向いていた」


「ああ」


「でも、なぜ三件の異常がアルトさんへ来たのかは、まだ」


 その瞬間、照合表示に新しい項目が開いた。


【関連処理を確認】


【同一エラー分類:三件】


【旧件一:対象名破損】


【旧件二:ナギ】


【現行件:アルト】


 ルナの顔から、表情が消えた。


 アルトは最後の行を見る。


「俺?」


 表示は続く。


【分類名:帰還先、未成立】


【自動参照:同分類間】


【送信先確定失敗】


【結果:近接対象への誤配送】


 ブルーノが読む。


「誤配送」


 名前のない神貨。


 履歴にない一秒。


 赤猫亭の机を通った反応。


 コメント欄の読了。


 帰還地点の揺れ。


 アルトが選ばれたわけではない。


 ナギに指名されたわけでもない。


 誰かに託されたわけでもない。


 同じ分類だった。


 帰還先、未成立。


 それだけ。


 アルトは表示を見た。


「選ばれたんじゃない」


 ルナが俯く。


「はい」


「同じところに入れられてた」


「はい」


「だから、こっちへ流れてきた」


「はい」


 名前のない神貨は投げ銭ではなかった。


 砕けた呼び方の一部。


 本来の宛先へ届かなかったものが、同じ分類のアルトへ流れ着いた。


 一〇〇神貨という形に変えられて。


 支援のように見せられて。


 処理済みの顔をして。


 アルトは笑いそうになった。


 笑える話ではない。


 だが、あまりにも神界らしかった。


 届かない声を、投げ銭に変える。


 人を待つ気持ちを、成立しない場所として処理する。


 そして、行き先がなければ、同じ分類へ流す。


「最低だな」


 アルトが言った。


 誰も否定しなかった。


 ルナは水を飲もうとして、コップを持てなかった。


 手が震えている。


 アルトは彼女の前へ小皿を寄せる。


「見ろ」


 ルナが顔を上げる。


「皿を」


「はい」


「水はそこにある」


「はい」


「今は飲まなくていい」


 ルナは小皿を見る。


 空だ。


 だが、前にある。


 横にはコップ。


 机の上には深皿。


 中には芋。


 待っている人を入れるために置いた芋。


 ルナの呼吸が少しずつ戻る。


「知ってたのか」


 アルトが聞く。


 何を、とは言わない。


 ルナはすぐに答えなかった。


「全部ではありません」


「自分も同じ分類だってことは」


 ルナの指が止まる。


 共有表示の旧件一。


【対象名破損】


 名前がない。


 だが、三件のうち一つはルナだ。


 昨日、彼女自身が言った。


 私と、ナギさんと、アルトさん。


 同じ分類に三人。


「はい」


 ルナが答えた。


「知っていました」


「いつから」


「ずっと前からです」


「どれくらい前だ」


 ルナは共有表示を見ない。


 空の小皿を見る。


「配信が始まるより前です」


 ブルーノの筆が止まる。


 ミアは深皿を押さえたまま、ルナを見る。


 マルタだけが鍋の火を弱めた。


「今日は、そこまでかい」


 アルトはルナを見る。


 白い髪。


 小さな身体。


 神様の姿。


 皿洗いが下手で。


 芋を食べ。


 床を叩けば返事をする女神。


 同じ分類に入れられた、名前の壊れた旧件。


「いや」


 アルトは言った。


「一つだけ聞く」


 ルナは逃げなかった。


「はい」


「お前は、何件目だ」


 店の音が遠くなる。


 鍋。


 皿。


 椅子。


 鈴。


 全部が少し遠くなる。


 ルナは空の小皿へ手を置いた。


「最初です」


 誰も動かなかった。


「帰還先、未成立と判断された」


 ルナはゆっくり顔を上げる。


「最初の人間です」


 女神ではなく。


 人間。


 その言葉だけが、赤猫亭の真ん中へ落ちた。


 ミアが深皿へもう一つ芋を入れる。


 ごと。


「じゃあ、ルナも入れる」


 ルナがミアを見る。


「どこへですか」


「ここ」


 ミアは机を叩く。


 とん。


「待ってた人のところ」


 ルナの口が少し開く。


 言葉は出ない。


 マルタが鍋からスープを一杯よそう。


 ルナの前へ置く。


「冷める前に食べな」


「私は」


「人間だったんだろ」


 マルタはそれだけ言った。


 ルナはスープを見る。


 湯気が上がっている。


 神界の記録ではない。


 帰還処理でもない。


 ただの温かいスープ。


 ルナは匙を持った。


 今度は震えなかった。


 アルトは共有表示を閉じる。


 三件の分類が消える。


 だが、分かったことは残る。


 ナギと同行者の二つの呼びは、レオンへ向いていた。


 レオンは帰還先として数えられなかった。


 砕けた声は、同じエラー分類のアルトへ流れた。


 そして。


 ルナは最初だった。


 赤猫亭の奥で、鍋が小さく鳴る。


 かん。


 ルナがスープを一口飲む。


 こく。


 ミアが深皿の芋を一つ、ルナの小皿へ移す。


 こと。


「それ、レオンを入れたんじゃなかったのか」


 アルトが聞く。


「ルナも入った」


「皿が狭いだろ」


「深いから大丈夫」


 ルナが芋を見る。


 少しして。


「ありがとうございます」


 小さく言った。


 ミアは頷く。


「食べたら、もっと入れる」


「誰をですか」


「まだ戻ってない人」


 アルトは手帳を見る。


 二人分の筆跡。


 帰――。


 戻ったら、続きを。


 門と待機区画で止まった二人。


 入口で待っていた少年。


 最初に帰還先を失った人間。


 同じ分類に入れられた自分。


 まだ全員は戻っていない。


 だが、入れる皿はある。


 座る机もある。


 赤猫亭は今日も開いている。


 明日も開く。


 次に聞くのは、最初の人間の話だった。

:::


次は第123話「聞いていた神」として、ルナが最初の転移者だった事実と、帰還制度が彼女の失敗後に作られた経緯へ進みます。

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