第121話 手帳の再読
棚に置かれた手帳は、閉じているようで、完全には閉じていなかった。
革張りの表紙と、少し波打った紙の間に、指先がようやく入るほどの隙間が残っている。昨夜、ブルーノが確かめた時にはきちんと閉じていたはずだが、風が入った形跡はなく、棚も傾いていない。誰かが触れた様子もなかった。
だからといって、手帳が自分から開いたと考えるのも違う。
物に意思を持たせすぎるな。
これまで何度も、そう注意されてきた。
それでも、赤猫亭に集まった全員の視線は、鍋でも皿でもなく、そのわずかな隙間へ向いていた。
ミアが深皿を抱えたまま、棚の前に立っている。
「口、開いてる」
「口じゃない」
アルトが答える。
「でも、開いてる」
「表紙だ」
「読んでほしい?」
「決めるな」
ミアは少し考え、手帳へ顔を近づけるのをやめた。
「じゃあ、待ってる?」
「それも決めるな」
「難しい」
「今日は特にな」
昨日、保留中の帰還者が存在する可能性が判明した。
帰還処理は失敗して終わったのではなく、帰還先が成立しないまま止められている。救出には、帰還先の形成と、待っていた者の照合が必要になる。
そして、その手がかりは黒鐘門で拾った手帳にある。
これまで何度も読んだ。
だが、読む目的が変わった。
過去を知るためではない。
誰かを迎えに行くために読む。
その違いは、同じ文字を別のものに見せる。
ブルーノは紙を持っていたが、まだ開いていない。手帳を読む前に、自分の記録を置くと、そちらへ意味を引っ張ってしまうと分かっているのだろう。
マルタが厨房から小鍋を持ってきた。
かん。
普段より、少し低い音がした。
「読む前に飯だね」
アルトは棚を見る。
「手帳が開きかけてるぞ」
「飯を食わずに読む理由にはならないよ」
「今すぐ確認した方がいい可能性は」
「空腹で読み違える可能性の方が高い」
マルタは迷いなく言った。
ミアが手帳へ向かって小さく言う。
「待ってて」
「人じゃない」
アルトが言う。
「でも、待たせる」
「そうだな」
「なら、言う」
アルトはもう訂正しなかった。
手帳は人ではない。
だが、読むものを後回しにするなら、後回しにしたことくらいは自覚しておいた方がいい。
ルナが階段を下りてくる。
水は持っていない。
机へ置いてある。
コップも、その横。
彼女は手帳を見た後、白い筋の残る机へ視線を移した。
「怖いです」
アルトが聞く。
「手帳がか」
「読むことが、です」
「昨日よりか」
「昨日とは違います」
ルナは棚へ歩み寄らず、少し離れた位置に立った。
「以前なら、何が起きたか知るために読んでいました」
「ああ」
「今は、誰がまだ戻れていないのかを知るために読む」
「ああ」
「見つけてしまったら、迎えに行かなければならない」
「行く」
アルトはすぐ答えた。
ルナは少しだけ目を伏せる。
「はい」
マルタが小鍋の蓋を開ける。
焼いた芋と油の匂いが店へ広がった。
「覚悟の話は、食べながらにしな」
アルトは手帳から目を離した。
何を読むにしても、赤猫亭の順番は変わらない。
手を洗う。
水を置く。
食べる。
それから読む。
---
焼いた芋は、表面だけ少し焦げていた。
中は柔らかく、割ると薄い湯気が立つ。
ミアは芋と、棚の手帳を見比べた。
「黒い」
「焼き目」
マルタが答える。
「破片みたい」
深皿の中にある呼称残滓の破片は、今日も白い縁を残している。劣化は一時的に安定したままだが、いつまで持つか分からない。
マルタは芋をミアの皿へ置いた。
「これは食べる黒」
ミアが頷く。
「破片は食べない黒」
「そう」
「手帳は?」
「食べない茶色」
ブルーノが吹き出した。
すぐに口元を押さえる。
「申し訳ありません」
「謝るほどじゃない」
アルトが言う。
「でも、食べない茶色は記録しないでください」
「書きません」
ブルーノは真面目に答えた。
ルナも、ほんの少しだけ笑った。
重い話を始める前に、店の中へ笑いがひとつ残る。それだけで、手帳が事件そのものになるのを防げる気がした。
アルトは芋を割る。
焼けた皮には苦みがあり、中身は甘い。焦げているから壊れているわけではない。黒いから危険とも限らない。当たり前の区別を、食べ物は簡単に見せてくれる。
ブルーノは芋を食べながら、何度も棚へ視線を向けていた。
「気になるなら見ろ」
アルトが言う。
「見ると、先に意味を作りそうです」
「まだ読んでないのにか」
「はい」
ブルーノは自分の癖を隠さなかった。
「表紙の浮き方や、開きかけた頁の位置から、何かを推測したくなります」
マルタが言う。
「焼く前の芋を見て、味を決めるようなものだね」
「近いです」
「なら、今日はちゃんと食べてから読め」
「はい」
ミアが自分の芋を持ち上げる。
「焼きすぎると?」
「炭になる」
「読みすぎると?」
ブルーノが少し考えた。
「人を文字だけにしてしまいます」
店内の空気が、静かに沈んだ。
人を文字だけにする。
それは、今まで何度も避けてきたことだった。
到達者。
同行者。
残った者。
聞こえなかった者。
役割は必要だが、人間を役割だけにしてはいけない。
マルタが小鍋をかき混ぜる。
「じゃあ、炭にしない程度に読みな」
「はい」
ブルーノは頷いた。
今日の役目は、濃く読むことではない。
必要なだけ、正しく読むことだった。
---
食後、ブルーノは手を洗った。
水の音がする。
さら。
布で拭く。
きゅっ。
それから棚の前へ立つ。
アルトが手帳を取ると思っていたのか、少し戸惑った顔をした。
「私が持つのですか」
「記録者だろ」
「はい」
「でも、今日は記録する前に読む」
ブルーノは両手を差し出した。
手帳は小さい。
革の表紙は長く使われて柔らかくなっているが、角の部分だけは硬い。黒鐘門で拾った時の傷も、泥を拭き取った跡も残っている。何度も開かれた背は少し歪み、頁の端には湿気と熱の両方を受けたような波があった。
持った瞬間、ブルーノの肩がわずかに下がる。
「重いか」
アルトが聞く。
「重さ自体は、ありません」
「じゃあ何だ」
「使われた物の重さです」
ミアが首を傾げる。
「重くないのに重い?」
「はい」
「難しい」
「私も、うまく言えません」
ガルドが机の脚へ木の皿を差し込む。
「落とすな」
「はい」
ミアは深皿を手帳の近くへ持ってきた。
「紙、落ちたら受ける」
「破片とは違う」
アルトが言う。
「でも、落ちる」
「落ちる前に止めろ」
ガルドが続ける。
ミアは深皿を机の横へ置いた。
「受ける準備だけ」
それならいい。
ルナは水差しの近く。
マルタは小鍋。
ミナは水。
ガルムは、棚と入口の両方が見える位置へ移動している。
誰も手帳を囲まない。
中央へ追い込まない。
食卓の一部として置く。
ブルーノが手帳を机へ下ろした。
とん。
アルトの視界の端に、薄い照合表示が浮かぶ。
【手帳:再読開始】
【照合対象:到達者】
【関連:筆跡二人分】
【注意:断定過多禁止】
アルトは表示を机上へ落とした。
薄い文字が、手帳と水差しの間に浮かぶ。
ミアが最後の行を読む。
「言い切りすぎるな」
「そういうことだ」
アルトが答える。
「今日は、たぶん多め?」
「たぶん」
ブルーノが言う。
マルタが笑った。
「たぶん定食だね」
「料理ではありません」
「分かってるよ」
短い笑いの後、ブルーノは手帳を開いた。
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最初の頁には、黒鐘門周辺の簡単な地図がある。
線は荒い。
だが、迷わないために必要なものだけは書かれている。
次の頁には通過した場所、物資、怪我の有無、休息時間。日記ではない。感想もほとんどない。生きて帰るための記録だ。
頁をめくる。
さり。
紙の擦れる音に、ミアが小さく言った。
「聞こえる」
昨日までの流れがある。
誰も笑わない。
聞こえることは、今も確かめていい。
中ほどまで進んだところで、ブルーノの指が止まった。
「ここです」
アルトは横から頁を見る。
同じ見開きに、二つの筆跡がある。
一つは硬い。
線が短く、文字の間隔も狭い。必要なことだけを置き、余計な形を残さない筆跡。
もう一つは、少し丸い。
行の終わりがわずかに上がり、文字と文字の間に、考えるための余白を取る癖がある。
以前も見たはずだった。
だが、同じ人物が筆記具を変えたのか、急いで書いたため字が変わったのだろうと、深く考えなかった。
今回は違う。
帰還処理には、到達者と同行者がいた。
筆跡二人分。
表示は、それを最初から示している。
ブルーノが、紙へ手を伸ばさずに言った。
「別人です」
「断定していいのか」
「筆順と、文字の省略の仕方が違います」
ブルーノは二つの文字を指す。
「硬い方は、同じ文字を何度書いても、最後の払いを省いています。丸い方は、急いだ箇所でも必ず残している」
アルトは頁を見る。
確かに違う。
似せようとしても残る癖。
同じ筆記具を使っても消えない人の形。
視界表示が変わる。
【筆跡照合:二名】
【筆跡一:到達者】
【筆跡二:同行者】
アルトは共有表示へ回した。
ブルーノが頷く。
「二人で使った手帳です」
ミアが聞く。
「一人ずつ書いた?」
「たぶん」
「今日は、たぶん多め」
「はい」
ルナは頁を見つめている。
「到達者と同行者が、同じ手帳へ書いた」
「ああ」
「なら、二人とも、ここまで来た」
「ああ」
その確認だけで、手帳の重さが変わった。
誰か一人の記録ではない。
二人で進み、二人で書き、どこかで役割が分かれた。
硬い文字と丸い文字が、同じ頁に残っている。
アルトの視界に次の表示が浮かぶ。
【呼称残滓:反応低】
【記録残滓:反応高】
共有する。
ブルーノが読む。
「到達者は、呼び方の破片より、記録に強く残っているようです」
マルタが小鍋に手を置く。
「話すより書く方が得意な人もいる」
ミアがブルーノを見る。
「ブルーノ?」
「なぜ私を見るのですか」
「書くの得意」
「そうですが」
「しゃべるのは?」
「今は関係ありません」
ブルーノが少し困った顔をしたため、店の緊張がわずかにゆるんだ。
人は声だけを残すわけではない。
歩き方。
皿の置き方。
書き癖。
約束。
手で持った重さ。
それぞれ違う形で残る。
到達者は、文字の中に強く残っていた。
---
さらに頁を進めると、端が熱で変色した箇所が現れた。
燃えたわけではない。
紙の縁だけが茶色く硬くなり、触れれば細かく欠けそうになっている。
ミアが深皿を近づける。
「落ちそう」
「近づけすぎるな」
アルトが言う。
「受けるだけ」
「紙が落ちる前に、ブルーノが止める」
ガルドが言う。
ブルーノは慎重に頁の下へ指を入れ、力をかけずに開く。
そこに、途中で切れた文字があった。
【帰――】
帰。
その後はない。
焼けて消えたのか。
最初から書かなかったのか。
書こうとしたところで手を止めたのか。
何も分からない。
たった一文字なのに、後ろへいくつもの言葉を引き連れてくる。
帰る。
帰れ。
帰って。
帰るな。
帰還。
帰ってこい。
帰ってくるな。
どれにもなれる。
だから、どれにも決めてはいけない。
ルナが水差しへ触れる。
こと。
小さな音。
アルトは「帰」の文字を見た。
視界に照合表示が浮かぶ。
【断片語:帰】
【候補:帰還/帰れ/帰るな/帰って】
【照合不能】
アルトは机上へ共有する。
ミアが眉を寄せた。
「いっぱいある」
「ああ」
「どれ?」
「まだ決めない」
ブルーノは文字を凝視しすぎないよう、少し視線を外した。
「この筆跡は、硬い方です」
「到達者か」
「はい」
到達者が書いた。
帰――。
帰還条件に関する記録かもしれない。
同行者へ向けた命令かもしれない。
待っている誰かへ残した言葉かもしれない。
自分へ言い聞かせたのかもしれない。
どれも強い。
物語として、強すぎる。
だから危ない。
マルタが小鍋を軽く置く。
かん。
「決めるには、芋が足りないね」
ミアが顔を上げる。
「芋があったら決まる?」
「決まらない」
「じゃあ、なんで」
「腹が減ってる時よりは、ましってこと」
アルトは呼吸を整える。
マルタの言い方は軽い。
だが、正しい。
意味を急いで埋めるな。
空白があるなら、空白のまま持つ。
視界表示に新しい行が加わる。
【断定保留:推奨】
【補足:未完の命令語】
ブルーノが読む。
「未完の命令語」
ルナは「帰」の文字を見たまま言った。
「命令になる前に、止まった」
共有表示が一度だけ揺れる。
【反応:あり】
「声になる前の息と同じか」
アルトが聞く。
「はい」
ルナは喉へ手を当てる。
「何かを言おうとした。でも、誰へ向けるか、どの形で言うかが定まる前に止まった」
「帰れ、だったかもしれない」
「はい」
「帰るな、だったかもしれない」
「はい」
「帰って、かもしれない」
「はい」
ミアが言う。
「たぶん多い」
ルナは、ほんの少し笑った。
「今日は、多いですね」
だが、その目には涙が浮かんでいた。
未完の命令語。
言葉になりきれなかったものが、二十二年以上、手帳の中で止まっている。
保留の中にいる者と同じように。
---
名前が出たのは、その直後だった。
アルトの視界が、白く強く明滅する。
神界配信のコメント欄ではない。
旧待機区画の照合表示が、これまでより明瞭な文字を開く。
【到達者:照合進行】
【筆跡一:登録名照合】
【登録名:ナギ】
アルトはすぐに共有表示へ落とした。
机の上に名前が浮かぶ。
ナギ。
ルナが水差しを倒しかけた。
アルトとミナが両側から支える。
水面が大きく揺れる。
こぼれない。
「ナギ」
ルナがその名前を口にした。
知っているような声。
だが、彼女はすぐに首を振る。
「知りません」
名前を見つめる。
「この人を、私は知りません」
「でも、何かあるか」
「同じ失敗の音がします」
視界表示が続く。
【ナギ:転移者】
【到達判定:成立】
【帰還処理:開始済】
【帰還先照合:未成立】
ブルーノが一行ずつ読み上げる。
「ナギ。転移者。到達判定、成立。帰還処理、開始済。帰還先照合、未成立」
ミアがアルトを見る。
「アルトと同じ?」
アルトは机上の名前を見る。
「ああ」
ナギは転移者だった。
この世界の人間ではない。
アルトと同じように、どこか別の場所から来た。
第七層へ到達した。
帰還条件を満たした。
帰還処理も始まった。
だが、帰還先が成立しなかった。
そして今も、保留の中にいる可能性がある。
ルナの指が震えている。
マルタが小鍋を鳴らす。
かん。
「水」
アルトが言う。
ルナは頷き、コップを手に取った。
一口飲む。
喉が動く。
もう一口。
少しずつ、店へ戻る。
「私は」
ルナが言う。
「最初の一人だと思っていました」
アルトは黙って聞く。
「帰還先が成立しないまま、帰れなかった者は、私だけだと」
視界表示が変わる。
【エラー分類:帰還先、未成立】
【関連旧件:ルナ】
【関連旧件:ナギ】
【関連現行:アルト】
アルトは表示を共有した。
三つの名前が、同じ分類の下へ並ぶ。
ルナ。
ナギ。
アルト。
選ばれたように見えていた。
引き寄せられたように感じていた。
だが、本当は同じエラー分類に入れられていただけなのかもしれない。
同じ失敗。
同じ未成立。
同じ箱。
ミアが表示を見て言う。
「三人、同じ皿?」
「皿じゃない」
アルトが答える。
「箱?」
「分類だ」
「雑に入れた?」
アルトは少し黙った。
「ああ。たぶん、雑だ」
マルタが小皿を重ねながら言う。
「雑に重ねると、いい皿も欠ける」
「雑はだめ」
ミアは強く言った。
「ああ」
アルトも頷く。
分類自体に悪意はないかもしれない。
だが、人を同じエラーとして扱い、違う事情も、待っている者も、声の宛先もまとめて処理した結果、二十二年以上の保留が生まれた。
それは、十分に残酷だった。
---
硬い筆跡の下には、もう一つの筆跡があった。
丸い方。
行の端が少し上がる癖のある文字。
【戻ったら、続きを】
そこで止まっている。
焼けてはいない。
文字が消えたわけでもない。
ただ、続きが書かれていない。
ブルーノが読む。
「戻ったら、続きを」
ミアがすぐに聞く。
「何の続きを?」
「分からない」
アルトが答える。
「剣?」
ミアが言う。
全員の視線が、一瞬だけミアへ向いた。
「なんで剣だ」
「棒が剣かもしれないから」
「まだ棒は出てない」
アルトが言う。
ミアは首を傾げた。
「そうだっけ」
「そうだ」
今は、まだ。
だが、その言葉が妙に残った。
戻ったら、続きを。
教える。
話す。
見せる。
戦う。
何の続きかは分からない。
ただ、誰かとの約束であることだけは分かる。
視界表示が浮かぶ。
【筆跡二:約束文】
【同行者:反応高】
【未完:約束】
アルトは机上へ共有する。
ルナが文字を見る。
「帰る言葉と、戻った後の約束が、同じ頁にある」
ブルーノが頷く。
「筆跡一は、帰――」
「筆跡二は、戻ったら続きを」
「はい」
硬い文字は、帰る前で止まった。
丸い文字は、戻った後を約束して止まった。
二つとも未完。
二つとも、今も手帳に残っている。
ミアが深皿を抱える。
「約束、待ってる?」
マルタが答える。
「約束は、人が待つものだよ」
「じゃあ、人がいる」
「いるかもしれない」
ガルムが棚の方を見たまま言う。
「続きがある」
アルトはガルムを見る。
「分かるのか」
「約束は、途中」
それ以上は言わない。
視界表示が変わる。
【到達者:ナギ】
【同行者:未照合】
【関係:帰還処理内で重複】
ブルーノが読む。
「同行者の登録名は、まだ出ません」
「今日はナギまでか」
アルトが言う。
マルタが小鍋を置く。
かん。
「一度に全部読むと、また焦げる」
ミアが「戻ったら、続きを」の文字を見る。
「続きは、戻ったら?」
ガルドが何気なく答えた。
「そう書いてある」
ミアはガルドを見る。
「今、うまいこと言った?」
「言ってない」
「言った」
「読んだだけだ」
マルタが笑う。
「今日は、言ったことにしとこうか」
ガルドは嫌そうな顔をした。
「不本意だ」
重くなりすぎた店内へ、小さな笑いが戻る。
だが、手帳の文字は消えない。
帰――。
戻ったら、続きを。
一つは命令になれなかった言葉。
一つは果たされなかった約束。
それぞれ別の筆跡で、同じ頁に残っている。
---
手帳を閉じる前に、ブルーノは記録を取った。
今日は濃く書く。
ただし、決めつけない。
【筆跡二人分】
【筆跡一:到達者】
【筆跡二:同行者】
【到達者登録名:ナギ】
【ナギ:転移者】
【到達判定:成立】
【帰――】
【未完の命令語】
【戻ったら、続きを】
【未完の約束】
マルタが紙を覗く。
「人が文字だけになってないかい」
ブルーノは紙と手帳を見比べる。
少し考え、最後に一行を足した。
【二人で使った手帳】
マルタが頷く。
「それならいい」
到達者と同行者。
役割だけではない。
二人で進み、同じ手帳を使い、別々の筆跡を残した人間。
それを忘れないための一行だった。
アルトは共有表示を閉じた。
ナギの名前が机の上から消える。
だが、もう誰の中からも消えない。
ルナは水を飲む。
「ナギさんは、帰ろうとしていた」
「ああ」
「帰還処理も始まっていた」
「ああ」
「でも、帰還先が成立しなかった」
「ああ」
「そして、誰かへ何かを言おうとしていた」
「たぶんな」
ルナは未完の文字を見る。
「帰れ、と言おうとしたのかもしれない」
「ああ」
「帰るな、だったかもしれない」
「ああ」
「帰って、だったかもしれない」
「ああ」
アルトは答え続けた。
今はどれも切らない。
どれも残す。
言葉の空白を、都合よく埋めない。
---
通信端末が震えたのは、手帳を閉じようとした時だった。
レオンからの連絡。
《今日は、手が変です》
アルトは画面を見る。
《痛いのか》
《痛くはありません》
少し間。
《何かを握っていた気がします》
全員の視線が、手帳へ戻る。
丸い筆跡。
戻ったら、続きを。
まだ何を教える約束だったかは分からない。
アルトはすぐに名前を送らない。
ナギ。
同行者。
手帳。
何も投げない。
《水は飲んだか》
《はい》
《皿は》
《前と横にあります》
《手を開けるか》
既読。
《開けます》
《開いたまま、皿の横に置け》
少し間。
《置きました》
《握っていたものを、思い出そうとするな》
既読。
さらに。
《続きを、という言葉が浮かびます》
ルナが机へ手を置いた。
ミアは深皿の縁を押さえる。
ブルーノは紙を閉じる。
アルトは返信する。
《追うな》
既読。
《今は、続きを思い出すより、手を開いておけ》
既読。
長い間が空く。
《はい》
アルトの視界に照合表示が浮かぶ。
【外部対象:レオン】
【約束文反応:あり】
【同期傾向:中】
【警告:未完約束への接続】
アルトは机上へ共有する。
ブルーノが読む。
「未完約束への接続」
「近い」
アルトが言う。
「はい」
「でも、まだ名前は送らない」
「はい」
レオンの中に、約束の残りがある。
何かを握っていた手。
続きを、という言葉。
それが誰のものか。
誰と交わしたものか。
まだ確定しない。
ただ、レオンの三日間と、手帳の未完約束が近づいていることは分かった。
アルトは通信端末へもう一度打つ。
《今日は、手を閉じるな》
既読。
《無理に声を向けなくていい》
既読。
《水と皿を見ろ》
少しして。
《分かりました》
アルトは通信端末を伏せた。
手帳の頁にも、レオンの手にも、続きを待つものがある。
だが、まだ結ばない。
---
手帳は棚へ戻さなかった。
真ん中の机の横へ置く。
深皿と小皿、空の浅い皿の近く。
重ねない。
開きっぱなしにもしない。
革表紙を軽く閉じ、頁が傷まない程度に隙間を残す。
ミアが手帳を見た。
「疲れた?」
「人じゃない」
アルトが答える。
マルタは布巾を畳みながら言う。
「使った物は休ませる」
ミアが満足そうに頷く。
「じゃあ休む」
ブルーノは記録紙を閉じた。
ルナはナギの名前が消えた机上を見つめている。
「同じ分類に、三人」
「ああ」
「私と、ナギさんと、アルトさん」
「ああ」
「でも、同じ人ではありません」
「当たり前だ」
「同じ失敗でも、帰る場所はそれぞれ違う」
アルトは少し黙った。
「ああ」
その通りだった。
帰還先、未成立。
同じ表示。
だが、誰を待っていたか。
誰が待っていたか。
どこへ帰ろうとしたか。
何を続ける約束だったか。
全部違う。
同じ分類に入れたからといって、同じ救い方をしていいわけではない。
視界の端に、最後の整理表示が浮かぶ。
アルトは机上へ共有した。
【到達者:ナギ】
【ナギ:転移者】
【同行者:未照合】
【未完命令語:保持】
【未完約束文:保持】
【次段階:二つの、おいていかないで】
ミアが最後の行を読む。
「二つ?」
誰もすぐには答えなかった。
最終呼称は一つだった。
おいていかないで。
だが、その中には発信側と受信側が重なり、到達者と同行者、残った者と聞こえなかった者の痛みが混ざっていた。
なら、呼びは一つではなかったのかもしれない。
同じ言葉を、別の場所から、別の相手へ向けていたのかもしれない。
マルタが小鍋を拭く。
きゅっ。
「今日は、そこまで」
アルトは共有表示を閉じる。
「ああ」
店じまいの音が続く。
皿を重ねる。
からん。
深皿、小皿、空の浅い皿は重ねない。
水差しを伏せる。
こと。
小鍋を置く。
かん。
鈴を確かめる。
ちりん。
手帳は机の横。
破片の近く。
だが、触れない距離。
ミアが灯りを落とす前に、手帳へ小さく言った。
「おやすみ、食べない茶色」
アルトは訂正しなかった。
赤猫亭は閉まった。
明日、また開く。
手帳には、二人分の筆跡がある。
帰――。
戻ったら、続きを。
二つの未完が、同じ見開きで止まっている。
その向こうから、同じ言葉が二方向へ伸びている。
おいていかないで。
次に見るのは、その二つだった。




