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第121話 手帳の再読

 棚に置かれた手帳は、閉じているようで、完全には閉じていなかった。


 革張りの表紙と、少し波打った紙の間に、指先がようやく入るほどの隙間が残っている。昨夜、ブルーノが確かめた時にはきちんと閉じていたはずだが、風が入った形跡はなく、棚も傾いていない。誰かが触れた様子もなかった。


 だからといって、手帳が自分から開いたと考えるのも違う。


 物に意思を持たせすぎるな。


 これまで何度も、そう注意されてきた。


 それでも、赤猫亭に集まった全員の視線は、鍋でも皿でもなく、そのわずかな隙間へ向いていた。


 ミアが深皿を抱えたまま、棚の前に立っている。


「口、開いてる」


「口じゃない」


 アルトが答える。


「でも、開いてる」


「表紙だ」


「読んでほしい?」


「決めるな」


 ミアは少し考え、手帳へ顔を近づけるのをやめた。


「じゃあ、待ってる?」


「それも決めるな」


「難しい」


「今日は特にな」


 昨日、保留中の帰還者が存在する可能性が判明した。


 帰還処理は失敗して終わったのではなく、帰還先が成立しないまま止められている。救出には、帰還先の形成と、待っていた者の照合が必要になる。


 そして、その手がかりは黒鐘門で拾った手帳にある。


 これまで何度も読んだ。


 だが、読む目的が変わった。


 過去を知るためではない。


 誰かを迎えに行くために読む。


 その違いは、同じ文字を別のものに見せる。


 ブルーノは紙を持っていたが、まだ開いていない。手帳を読む前に、自分の記録を置くと、そちらへ意味を引っ張ってしまうと分かっているのだろう。


 マルタが厨房から小鍋を持ってきた。


 かん。


 普段より、少し低い音がした。


「読む前に飯だね」


 アルトは棚を見る。


「手帳が開きかけてるぞ」


「飯を食わずに読む理由にはならないよ」


「今すぐ確認した方がいい可能性は」


「空腹で読み違える可能性の方が高い」


 マルタは迷いなく言った。


 ミアが手帳へ向かって小さく言う。


「待ってて」


「人じゃない」


 アルトが言う。


「でも、待たせる」


「そうだな」


「なら、言う」


 アルトはもう訂正しなかった。


 手帳は人ではない。


 だが、読むものを後回しにするなら、後回しにしたことくらいは自覚しておいた方がいい。


 ルナが階段を下りてくる。


 水は持っていない。


 机へ置いてある。


 コップも、その横。


 彼女は手帳を見た後、白い筋の残る机へ視線を移した。


「怖いです」


 アルトが聞く。


「手帳がか」


「読むことが、です」


「昨日よりか」


「昨日とは違います」


 ルナは棚へ歩み寄らず、少し離れた位置に立った。


「以前なら、何が起きたか知るために読んでいました」


「ああ」


「今は、誰がまだ戻れていないのかを知るために読む」


「ああ」


「見つけてしまったら、迎えに行かなければならない」


「行く」


 アルトはすぐ答えた。


 ルナは少しだけ目を伏せる。


「はい」


 マルタが小鍋の蓋を開ける。


 焼いた芋と油の匂いが店へ広がった。


「覚悟の話は、食べながらにしな」


 アルトは手帳から目を離した。


 何を読むにしても、赤猫亭の順番は変わらない。


 手を洗う。


 水を置く。


 食べる。


 それから読む。


---


 焼いた芋は、表面だけ少し焦げていた。


 中は柔らかく、割ると薄い湯気が立つ。


 ミアは芋と、棚の手帳を見比べた。


「黒い」


「焼き目」


 マルタが答える。


「破片みたい」


 深皿の中にある呼称残滓の破片は、今日も白い縁を残している。劣化は一時的に安定したままだが、いつまで持つか分からない。


 マルタは芋をミアの皿へ置いた。


「これは食べる黒」


 ミアが頷く。


「破片は食べない黒」


「そう」


「手帳は?」


「食べない茶色」


 ブルーノが吹き出した。


 すぐに口元を押さえる。


「申し訳ありません」


「謝るほどじゃない」


 アルトが言う。


「でも、食べない茶色は記録しないでください」


「書きません」


 ブルーノは真面目に答えた。


 ルナも、ほんの少しだけ笑った。


 重い話を始める前に、店の中へ笑いがひとつ残る。それだけで、手帳が事件そのものになるのを防げる気がした。


 アルトは芋を割る。


 焼けた皮には苦みがあり、中身は甘い。焦げているから壊れているわけではない。黒いから危険とも限らない。当たり前の区別を、食べ物は簡単に見せてくれる。


 ブルーノは芋を食べながら、何度も棚へ視線を向けていた。


「気になるなら見ろ」


 アルトが言う。


「見ると、先に意味を作りそうです」


「まだ読んでないのにか」


「はい」


 ブルーノは自分の癖を隠さなかった。


「表紙の浮き方や、開きかけた頁の位置から、何かを推測したくなります」


 マルタが言う。


「焼く前の芋を見て、味を決めるようなものだね」


「近いです」


「なら、今日はちゃんと食べてから読め」


「はい」


 ミアが自分の芋を持ち上げる。


「焼きすぎると?」


「炭になる」


「読みすぎると?」


 ブルーノが少し考えた。


「人を文字だけにしてしまいます」


 店内の空気が、静かに沈んだ。


 人を文字だけにする。


 それは、今まで何度も避けてきたことだった。


 到達者。


 同行者。


 残った者。


 聞こえなかった者。


 役割は必要だが、人間を役割だけにしてはいけない。


 マルタが小鍋をかき混ぜる。


「じゃあ、炭にしない程度に読みな」


「はい」


 ブルーノは頷いた。


 今日の役目は、濃く読むことではない。


 必要なだけ、正しく読むことだった。


---


 食後、ブルーノは手を洗った。


 水の音がする。


 さら。


 布で拭く。


 きゅっ。


 それから棚の前へ立つ。


 アルトが手帳を取ると思っていたのか、少し戸惑った顔をした。


「私が持つのですか」


「記録者だろ」


「はい」


「でも、今日は記録する前に読む」


 ブルーノは両手を差し出した。


 手帳は小さい。


 革の表紙は長く使われて柔らかくなっているが、角の部分だけは硬い。黒鐘門で拾った時の傷も、泥を拭き取った跡も残っている。何度も開かれた背は少し歪み、頁の端には湿気と熱の両方を受けたような波があった。


 持った瞬間、ブルーノの肩がわずかに下がる。


「重いか」


 アルトが聞く。


「重さ自体は、ありません」


「じゃあ何だ」


「使われた物の重さです」


 ミアが首を傾げる。


「重くないのに重い?」


「はい」


「難しい」


「私も、うまく言えません」


 ガルドが机の脚へ木の皿を差し込む。


「落とすな」


「はい」


 ミアは深皿を手帳の近くへ持ってきた。


「紙、落ちたら受ける」


「破片とは違う」


 アルトが言う。


「でも、落ちる」


「落ちる前に止めろ」


 ガルドが続ける。


 ミアは深皿を机の横へ置いた。


「受ける準備だけ」


 それならいい。


 ルナは水差しの近く。


 マルタは小鍋。


 ミナは水。


 ガルムは、棚と入口の両方が見える位置へ移動している。


 誰も手帳を囲まない。


 中央へ追い込まない。


 食卓の一部として置く。


 ブルーノが手帳を机へ下ろした。


 とん。


 アルトの視界の端に、薄い照合表示が浮かぶ。


【手帳:再読開始】


【照合対象:到達者】


【関連:筆跡二人分】


【注意:断定過多禁止】


 アルトは表示を机上へ落とした。


 薄い文字が、手帳と水差しの間に浮かぶ。


 ミアが最後の行を読む。


「言い切りすぎるな」


「そういうことだ」


 アルトが答える。


「今日は、たぶん多め?」


「たぶん」


 ブルーノが言う。


 マルタが笑った。


「たぶん定食だね」


「料理ではありません」


「分かってるよ」


 短い笑いの後、ブルーノは手帳を開いた。


---


 最初の頁には、黒鐘門周辺の簡単な地図がある。


 線は荒い。


 だが、迷わないために必要なものだけは書かれている。


 次の頁には通過した場所、物資、怪我の有無、休息時間。日記ではない。感想もほとんどない。生きて帰るための記録だ。


 頁をめくる。


 さり。


 紙の擦れる音に、ミアが小さく言った。


「聞こえる」


 昨日までの流れがある。


 誰も笑わない。


 聞こえることは、今も確かめていい。


 中ほどまで進んだところで、ブルーノの指が止まった。


「ここです」


 アルトは横から頁を見る。


 同じ見開きに、二つの筆跡がある。


 一つは硬い。


 線が短く、文字の間隔も狭い。必要なことだけを置き、余計な形を残さない筆跡。


 もう一つは、少し丸い。


 行の終わりがわずかに上がり、文字と文字の間に、考えるための余白を取る癖がある。


 以前も見たはずだった。


 だが、同じ人物が筆記具を変えたのか、急いで書いたため字が変わったのだろうと、深く考えなかった。


 今回は違う。


 帰還処理には、到達者と同行者がいた。


 筆跡二人分。


 表示は、それを最初から示している。


 ブルーノが、紙へ手を伸ばさずに言った。


「別人です」


「断定していいのか」


「筆順と、文字の省略の仕方が違います」


 ブルーノは二つの文字を指す。


「硬い方は、同じ文字を何度書いても、最後の払いを省いています。丸い方は、急いだ箇所でも必ず残している」


 アルトは頁を見る。


 確かに違う。


 似せようとしても残る癖。


 同じ筆記具を使っても消えない人の形。


 視界表示が変わる。


【筆跡照合:二名】


【筆跡一:到達者】


【筆跡二:同行者】


 アルトは共有表示へ回した。


 ブルーノが頷く。


「二人で使った手帳です」


 ミアが聞く。


「一人ずつ書いた?」


「たぶん」


「今日は、たぶん多め」


「はい」


 ルナは頁を見つめている。


「到達者と同行者が、同じ手帳へ書いた」


「ああ」


「なら、二人とも、ここまで来た」


「ああ」


 その確認だけで、手帳の重さが変わった。


 誰か一人の記録ではない。


 二人で進み、二人で書き、どこかで役割が分かれた。


 硬い文字と丸い文字が、同じ頁に残っている。


 アルトの視界に次の表示が浮かぶ。


【呼称残滓:反応低】


【記録残滓:反応高】


 共有する。


 ブルーノが読む。


「到達者は、呼び方の破片より、記録に強く残っているようです」


 マルタが小鍋に手を置く。


「話すより書く方が得意な人もいる」


 ミアがブルーノを見る。


「ブルーノ?」


「なぜ私を見るのですか」


「書くの得意」


「そうですが」


「しゃべるのは?」


「今は関係ありません」


 ブルーノが少し困った顔をしたため、店の緊張がわずかにゆるんだ。


 人は声だけを残すわけではない。


 歩き方。


 皿の置き方。


 書き癖。


 約束。


 手で持った重さ。


 それぞれ違う形で残る。


 到達者は、文字の中に強く残っていた。


---


 さらに頁を進めると、端が熱で変色した箇所が現れた。


 燃えたわけではない。


 紙の縁だけが茶色く硬くなり、触れれば細かく欠けそうになっている。


 ミアが深皿を近づける。


「落ちそう」


「近づけすぎるな」


 アルトが言う。


「受けるだけ」


「紙が落ちる前に、ブルーノが止める」


 ガルドが言う。


 ブルーノは慎重に頁の下へ指を入れ、力をかけずに開く。


 そこに、途中で切れた文字があった。


【帰――】


 帰。


 その後はない。


 焼けて消えたのか。


 最初から書かなかったのか。


 書こうとしたところで手を止めたのか。


 何も分からない。


 たった一文字なのに、後ろへいくつもの言葉を引き連れてくる。


 帰る。


 帰れ。


 帰って。


 帰るな。


 帰還。


 帰ってこい。


 帰ってくるな。


 どれにもなれる。


 だから、どれにも決めてはいけない。


 ルナが水差しへ触れる。


 こと。


 小さな音。


 アルトは「帰」の文字を見た。


 視界に照合表示が浮かぶ。


【断片語:帰】


【候補:帰還/帰れ/帰るな/帰って】


【照合不能】


 アルトは机上へ共有する。


 ミアが眉を寄せた。


「いっぱいある」


「ああ」


「どれ?」


「まだ決めない」


 ブルーノは文字を凝視しすぎないよう、少し視線を外した。


「この筆跡は、硬い方です」


「到達者か」


「はい」


 到達者が書いた。


 帰――。


 帰還条件に関する記録かもしれない。


 同行者へ向けた命令かもしれない。


 待っている誰かへ残した言葉かもしれない。


 自分へ言い聞かせたのかもしれない。


 どれも強い。


 物語として、強すぎる。


 だから危ない。


 マルタが小鍋を軽く置く。


 かん。


「決めるには、芋が足りないね」


 ミアが顔を上げる。


「芋があったら決まる?」


「決まらない」


「じゃあ、なんで」


「腹が減ってる時よりは、ましってこと」


 アルトは呼吸を整える。


 マルタの言い方は軽い。


 だが、正しい。


 意味を急いで埋めるな。


 空白があるなら、空白のまま持つ。


 視界表示に新しい行が加わる。


【断定保留:推奨】


【補足:未完の命令語】


 ブルーノが読む。


「未完の命令語」


 ルナは「帰」の文字を見たまま言った。


「命令になる前に、止まった」


 共有表示が一度だけ揺れる。


【反応:あり】


「声になる前の息と同じか」


 アルトが聞く。


「はい」


 ルナは喉へ手を当てる。


「何かを言おうとした。でも、誰へ向けるか、どの形で言うかが定まる前に止まった」


「帰れ、だったかもしれない」


「はい」


「帰るな、だったかもしれない」


「はい」


「帰って、かもしれない」


「はい」


 ミアが言う。


「たぶん多い」


 ルナは、ほんの少し笑った。


「今日は、多いですね」


 だが、その目には涙が浮かんでいた。


 未完の命令語。


 言葉になりきれなかったものが、二十二年以上、手帳の中で止まっている。


 保留の中にいる者と同じように。


---


 名前が出たのは、その直後だった。


 アルトの視界が、白く強く明滅する。


 神界配信のコメント欄ではない。


 旧待機区画の照合表示が、これまでより明瞭な文字を開く。


【到達者:照合進行】


【筆跡一:登録名照合】


【登録名:ナギ】


 アルトはすぐに共有表示へ落とした。


 机の上に名前が浮かぶ。


 ナギ。


 ルナが水差しを倒しかけた。


 アルトとミナが両側から支える。


 水面が大きく揺れる。


 こぼれない。


「ナギ」


 ルナがその名前を口にした。


 知っているような声。


 だが、彼女はすぐに首を振る。


「知りません」


 名前を見つめる。


「この人を、私は知りません」


「でも、何かあるか」


「同じ失敗の音がします」


 視界表示が続く。


【ナギ:転移者】


【到達判定:成立】


【帰還処理:開始済】


【帰還先照合:未成立】


 ブルーノが一行ずつ読み上げる。


「ナギ。転移者。到達判定、成立。帰還処理、開始済。帰還先照合、未成立」


 ミアがアルトを見る。


「アルトと同じ?」


 アルトは机上の名前を見る。


「ああ」


 ナギは転移者だった。


 この世界の人間ではない。


 アルトと同じように、どこか別の場所から来た。


 第七層へ到達した。


 帰還条件を満たした。


 帰還処理も始まった。


 だが、帰還先が成立しなかった。


 そして今も、保留の中にいる可能性がある。


 ルナの指が震えている。


 マルタが小鍋を鳴らす。


 かん。


「水」


 アルトが言う。


 ルナは頷き、コップを手に取った。


 一口飲む。


 喉が動く。


 もう一口。


 少しずつ、店へ戻る。


「私は」


 ルナが言う。


「最初の一人だと思っていました」


 アルトは黙って聞く。


「帰還先が成立しないまま、帰れなかった者は、私だけだと」


 視界表示が変わる。


【エラー分類:帰還先、未成立】


【関連旧件:ルナ】


【関連旧件:ナギ】


【関連現行:アルト】


 アルトは表示を共有した。


 三つの名前が、同じ分類の下へ並ぶ。


 ルナ。


 ナギ。


 アルト。


 選ばれたように見えていた。


 引き寄せられたように感じていた。


 だが、本当は同じエラー分類に入れられていただけなのかもしれない。


 同じ失敗。


 同じ未成立。


 同じ箱。


 ミアが表示を見て言う。


「三人、同じ皿?」


「皿じゃない」


 アルトが答える。


「箱?」


「分類だ」


「雑に入れた?」


 アルトは少し黙った。


「ああ。たぶん、雑だ」


 マルタが小皿を重ねながら言う。


「雑に重ねると、いい皿も欠ける」


「雑はだめ」


 ミアは強く言った。


「ああ」


 アルトも頷く。


 分類自体に悪意はないかもしれない。


 だが、人を同じエラーとして扱い、違う事情も、待っている者も、声の宛先もまとめて処理した結果、二十二年以上の保留が生まれた。


 それは、十分に残酷だった。


---


 硬い筆跡の下には、もう一つの筆跡があった。


 丸い方。


 行の端が少し上がる癖のある文字。


【戻ったら、続きを】


 そこで止まっている。


 焼けてはいない。


 文字が消えたわけでもない。


 ただ、続きが書かれていない。


 ブルーノが読む。


「戻ったら、続きを」


 ミアがすぐに聞く。


「何の続きを?」


「分からない」


 アルトが答える。


「剣?」


 ミアが言う。


 全員の視線が、一瞬だけミアへ向いた。


「なんで剣だ」


「棒が剣かもしれないから」


「まだ棒は出てない」


 アルトが言う。


 ミアは首を傾げた。


「そうだっけ」


「そうだ」


 今は、まだ。


 だが、その言葉が妙に残った。


 戻ったら、続きを。


 教える。


 話す。


 見せる。


 戦う。


 何の続きかは分からない。


 ただ、誰かとの約束であることだけは分かる。


 視界表示が浮かぶ。


【筆跡二:約束文】


【同行者:反応高】


【未完:約束】


 アルトは机上へ共有する。


 ルナが文字を見る。


「帰る言葉と、戻った後の約束が、同じ頁にある」


 ブルーノが頷く。


「筆跡一は、帰――」


「筆跡二は、戻ったら続きを」


「はい」


 硬い文字は、帰る前で止まった。


 丸い文字は、戻った後を約束して止まった。


 二つとも未完。


 二つとも、今も手帳に残っている。


 ミアが深皿を抱える。


「約束、待ってる?」


 マルタが答える。


「約束は、人が待つものだよ」


「じゃあ、人がいる」


「いるかもしれない」


 ガルムが棚の方を見たまま言う。


「続きがある」


 アルトはガルムを見る。


「分かるのか」


「約束は、途中」


 それ以上は言わない。


 視界表示が変わる。


【到達者:ナギ】


【同行者:未照合】


【関係:帰還処理内で重複】


 ブルーノが読む。


「同行者の登録名は、まだ出ません」


「今日はナギまでか」


 アルトが言う。


 マルタが小鍋を置く。


 かん。


「一度に全部読むと、また焦げる」


 ミアが「戻ったら、続きを」の文字を見る。


「続きは、戻ったら?」


 ガルドが何気なく答えた。


「そう書いてある」


 ミアはガルドを見る。


「今、うまいこと言った?」


「言ってない」


「言った」


「読んだだけだ」


 マルタが笑う。


「今日は、言ったことにしとこうか」


 ガルドは嫌そうな顔をした。


「不本意だ」


 重くなりすぎた店内へ、小さな笑いが戻る。


 だが、手帳の文字は消えない。


 帰――。


 戻ったら、続きを。


 一つは命令になれなかった言葉。


 一つは果たされなかった約束。


 それぞれ別の筆跡で、同じ頁に残っている。


---


 手帳を閉じる前に、ブルーノは記録を取った。


 今日は濃く書く。


 ただし、決めつけない。


【筆跡二人分】


【筆跡一:到達者】


【筆跡二:同行者】


【到達者登録名:ナギ】


【ナギ:転移者】


【到達判定:成立】


【帰――】


【未完の命令語】


【戻ったら、続きを】


【未完の約束】


 マルタが紙を覗く。


「人が文字だけになってないかい」


 ブルーノは紙と手帳を見比べる。


 少し考え、最後に一行を足した。


【二人で使った手帳】


 マルタが頷く。


「それならいい」


 到達者と同行者。


 役割だけではない。


 二人で進み、同じ手帳を使い、別々の筆跡を残した人間。


 それを忘れないための一行だった。


 アルトは共有表示を閉じた。


 ナギの名前が机の上から消える。


 だが、もう誰の中からも消えない。


 ルナは水を飲む。


「ナギさんは、帰ろうとしていた」


「ああ」


「帰還処理も始まっていた」


「ああ」


「でも、帰還先が成立しなかった」


「ああ」


「そして、誰かへ何かを言おうとしていた」


「たぶんな」


 ルナは未完の文字を見る。


「帰れ、と言おうとしたのかもしれない」


「ああ」


「帰るな、だったかもしれない」


「ああ」


「帰って、だったかもしれない」


「ああ」


 アルトは答え続けた。


 今はどれも切らない。


 どれも残す。


 言葉の空白を、都合よく埋めない。


---


 通信端末が震えたのは、手帳を閉じようとした時だった。


 レオンからの連絡。


《今日は、手が変です》


 アルトは画面を見る。


《痛いのか》


《痛くはありません》


 少し間。


《何かを握っていた気がします》


 全員の視線が、手帳へ戻る。


 丸い筆跡。


 戻ったら、続きを。


 まだ何を教える約束だったかは分からない。


 アルトはすぐに名前を送らない。


 ナギ。


 同行者。


 手帳。


 何も投げない。


《水は飲んだか》


《はい》


《皿は》


《前と横にあります》


《手を開けるか》


 既読。


《開けます》


《開いたまま、皿の横に置け》


 少し間。


《置きました》


《握っていたものを、思い出そうとするな》


 既読。


 さらに。


《続きを、という言葉が浮かびます》


 ルナが机へ手を置いた。


 ミアは深皿の縁を押さえる。


 ブルーノは紙を閉じる。


 アルトは返信する。


《追うな》


 既読。


《今は、続きを思い出すより、手を開いておけ》


 既読。


 長い間が空く。


《はい》


 アルトの視界に照合表示が浮かぶ。


【外部対象:レオン】


【約束文反応:あり】


【同期傾向:中】


【警告:未完約束への接続】


 アルトは机上へ共有する。


 ブルーノが読む。


「未完約束への接続」


「近い」


 アルトが言う。


「はい」


「でも、まだ名前は送らない」


「はい」


 レオンの中に、約束の残りがある。


 何かを握っていた手。


 続きを、という言葉。


 それが誰のものか。


 誰と交わしたものか。


 まだ確定しない。


 ただ、レオンの三日間と、手帳の未完約束が近づいていることは分かった。


 アルトは通信端末へもう一度打つ。


《今日は、手を閉じるな》


 既読。


《無理に声を向けなくていい》


 既読。


《水と皿を見ろ》


 少しして。


《分かりました》


 アルトは通信端末を伏せた。


 手帳の頁にも、レオンの手にも、続きを待つものがある。


 だが、まだ結ばない。


---


 手帳は棚へ戻さなかった。


 真ん中の机の横へ置く。


 深皿と小皿、空の浅い皿の近く。


 重ねない。


 開きっぱなしにもしない。


 革表紙を軽く閉じ、頁が傷まない程度に隙間を残す。


 ミアが手帳を見た。


「疲れた?」


「人じゃない」


 アルトが答える。


 マルタは布巾を畳みながら言う。


「使った物は休ませる」


 ミアが満足そうに頷く。


「じゃあ休む」


 ブルーノは記録紙を閉じた。


 ルナはナギの名前が消えた机上を見つめている。


「同じ分類に、三人」


「ああ」


「私と、ナギさんと、アルトさん」


「ああ」


「でも、同じ人ではありません」


「当たり前だ」


「同じ失敗でも、帰る場所はそれぞれ違う」


 アルトは少し黙った。


「ああ」


 その通りだった。


 帰還先、未成立。


 同じ表示。


 だが、誰を待っていたか。


 誰が待っていたか。


 どこへ帰ろうとしたか。


 何を続ける約束だったか。


 全部違う。


 同じ分類に入れたからといって、同じ救い方をしていいわけではない。


 視界の端に、最後の整理表示が浮かぶ。


 アルトは机上へ共有した。


【到達者:ナギ】


【ナギ:転移者】


【同行者:未照合】


【未完命令語:保持】


【未完約束文:保持】


【次段階:二つの、おいていかないで】


 ミアが最後の行を読む。


「二つ?」


 誰もすぐには答えなかった。


 最終呼称は一つだった。


 おいていかないで。


 だが、その中には発信側と受信側が重なり、到達者と同行者、残った者と聞こえなかった者の痛みが混ざっていた。


 なら、呼びは一つではなかったのかもしれない。


 同じ言葉を、別の場所から、別の相手へ向けていたのかもしれない。


 マルタが小鍋を拭く。


 きゅっ。


「今日は、そこまで」


 アルトは共有表示を閉じる。


「ああ」


 店じまいの音が続く。


 皿を重ねる。


 からん。


 深皿、小皿、空の浅い皿は重ねない。


 水差しを伏せる。


 こと。


 小鍋を置く。


 かん。


 鈴を確かめる。


 ちりん。


 手帳は机の横。


 破片の近く。


 だが、触れない距離。


 ミアが灯りを落とす前に、手帳へ小さく言った。


「おやすみ、食べない茶色」


 アルトは訂正しなかった。


 赤猫亭は閉まった。


 明日、また開く。


 手帳には、二人分の筆跡がある。


 帰――。


 戻ったら、続きを。


 二つの未完が、同じ見開きで止まっている。


 その向こうから、同じ言葉が二方向へ伸びている。


 おいていかないで。


 次に見るのは、その二つだった。


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