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第120話 保留の中

 深皿の底で、白くなった破片の縁だけが光を返していた。


 朝の光そのものは弱く、赤猫亭の窓から差し込む明るさも、机の上へ細い帯を置く程度だった。それでも黒い破片の端に浮いた白さは隠れず、昨日より進んだのか、それとも見る者の不安が濃くしただけなのか、簡単には判断できない。


 ミアは深皿へ顔を近づけている。


 近すぎる。


 アルトが襟の後ろをつまみ、少し引いた。


「息がかかる」


「見るだけ」


「近い」


「白いの、増えた?」


「まだ決められない」


 ミアは不満そうにしながらも、皿から顔を離した。両手は縁を抱えたままで、そこだけは譲る気がないらしい。


 マルタが厨房で火を起こす。


 薪が割れ、乾いた音がした。


 ぱち。


 続いて、小鍋が台へ置かれる。


 かん。


 音は遅れない。


 昨日までと同じ赤猫亭の音だ。


 それなのに、深皿の中にあるものだけが、別の時間へ片足を残しているように見える。


 ブルーノは紙を持っていた。


 今日の一行目には、すでに書かれている。


【破片劣化:継続確認】


 濃い。


 だが、必要な濃さだった。


 アルトは白い筋の残る机へ手を置く。冷たいわけではない。木の感触も、昨日までと変わらない。けれど、触れた瞬間、視界の端に薄い表示が浮かんだ。


【帰還処理保留:未確認】


【保留領域:接続可能】


【警告:再試行停止後】


 アルトは表示を読み終え、少し考える。


 すぐに共有しなかった。


 接続可能。


 警告。


 昨日までは、読むことと照合することが中心だった。今日は違う。保留の中へ触れることになる。そこに何が残っているか分からないまま、帰還処理そのものへ手を伸ばす。


 ルナが階段を下りてきた。


 今日は、水を持っていない。


 先に机へ水差しを置き、コップも隣へ置いた。それから自分の席へ立つ。


「持たないのか」


 アルトが聞く。


「持ったまま入ると、戻る時に落としそうです」


「入るつもりか」


「はい」


 返事は早かった。


 怖くないわけではない。顔を見れば分かる。それでも、もう「聞いていた者」として外から見ているだけではいられないのだろう。


 マルタが鍋の蓋を開ける。


 芋と油の匂いが広がる。


「入る前に食べるよ」


 ミアが深皿を抱えたまま顔を上げる。


「破片も?」


「昨日も言っただろ。食べない」


「今日は違うかと思った」


「何がどう違えば食べるんだい」


 ガルドが椅子を引きながら言う。


「白くなっても食うな」


「分かった」


 ミアは深皿へ言い聞かせるように頷いた。


「食べない」


 破片は何も返さない。


 それでよかった。


 アルトは視界の表示を机上へ落とす。


 皿と水差しの間に、薄い共有表示が浮かんだ。


 ブルーノが読む。


「帰還処理保留、未確認。保留領域、接続可能。再試行停止後の警告あり」


 マルタは鍋をかき混ぜながら言った。


「食べてから危ないことをしな」


「順番が逆になる日は来ないな」


「来させないよ」


 その言葉に、アルトは少しだけ笑った。


 急いでいる。


 だが、急ぐほど、順番を守る必要がある。


 今の赤猫亭は、焦ればすぐに白い場所へ近づく。


---


 芋を挟んだ薄いパンは、持つと少し熱かった。


 中の芋には塩と油が混ぜられていて、噛むと柔らかく崩れる。外側のパンは薄く焼かれ、端だけが少し硬い。


 ミアは両手で持ち上げ、横から眺めた。


「芋、はさまってる」


「見れば分かる」


 アルトが答える。


「出たい?」


「何が」


「芋」


「食べられるまで待ってるだけだ」


 マルタが先に答えた。


 ミアはパンを見たまま、少し真剣になる。


「保留?」


 店内の空気が、ほんの少しだけ変わった。


 ブルーノがパンを持つ手を止める。


 ルナは水へ視線を落とす。


 マルタだけは表情を変えず、自分の分を食べた。


「それは、ただ挟まってる」


「違う?」


「違うよ」


「どう違う?」


「食べれば終わる」


 ミアはパンをかじった。


「救出した」


「食べただけ」


「口で救出」


「言い方」


 ブルーノが小さく笑い、すぐに口を押さえた。


「すみません」


「笑える時は笑っとけ」


 アルトはそう言い、自分のパンを食べる。


 短い会話だったが、必要だった。


 何でも保留へ結びつければ、赤猫亭の中から普通の意味が消えていく。パンに芋が挟まっていることまで帰還処理の比喩にしてしまえば、食べ物は食べ物でいられなくなる。


 今日も、店を事件の部屋へ変えない。


 その上で、保留を見る。


 ルナはパンを食べ終え、水を飲んだ。


「保留されることは、終わっていないことですか」


 アルトは少し考える。


「少なくとも、終わったとは言い切れない」


「ですが、進んでもいない」


「ああ」


「生きていることとも、違うのでしょうか」


 今度は、誰も答えられなかった。


 マルタが皿を片づけながら言う。


「食べられるなら、生きてる」


 ルナが見る。


「食べられなければ」


「食べられる場所を作る」


 マルタは当然のように言った。


 視界の端に、表示が浮かぶ。


【照合語:食べられる場所】


【反応:あり】


 アルトは共有しなかった。


 今の言葉は、まず赤猫亭のものとして残したかった。


 ミアは空になった皿を見て言う。


「芋は食べられた」


「そうだね」


「じゃあ、次は人?」


 マルタはすぐには答えなかった。


 代わりに、皿を重ねる。


 からん。


「まず、いるかどうかを見るんだよ」


 食べられる場所を作る前に。


 その場所を必要としている者が、まだ保留の中にいるのか。


 今日、確かめるのはそこだった。


---


 机の上は、昨日より広く空けられた。


 深皿は右。


 破片を乗せたまま。


 小皿は、その横。


 聞こえなかった者のために置いた空の浅い皿は、少し離れた手前。


 水差しは左。


 小鍋の音が届く位置は厨房側。


 ガルドは机の脚の下へ木の皿を差し込む。


 ブルーノは斜め後ろ。


 紙は椅子の上に置き、両手を空けた。


 ガルムは鈴と机の両方が見える場所。


 ミナは水差しの横。


 ルナはアルトの隣。


 ミアは深皿の横。


 誰も中央へ立たない。


 中央は、保留の中へつながる場所として空けてある。


 アルトが視界表示を開く。


【保留領域:接続準備】


【対象:帰還処理】


【関連:到達者/同行者/聞こえなかった者/残った者】


【注意:分類固定禁止】


 表示を机上へ共有する。


 ミアが文字を追う。


「四つ」


「数えるな」


 アルトが言う。


「でも、書いてる」


「役割が四つあるだけだ」


「人も四人?」


「決めるな」


 ミアは少し考えた。


「四つなのに、三人かもしれない?」


 ブルーノが顔を上げる。


 ルナもミアを見る。


 マルタが小鍋を軽く鳴らした。


 かん。


「今日は、そこまで」


 ミアは頷く。


「そこまで」


 共有表示が薄く揺れた。


【分類固定:回避】


 アルトは息を吐く。


 危ないところだった。


 四つの役割を、四人へ当てはめたくなる。到達者、同行者、聞こえなかった者、残った者。見やすい表に並べれば、理解した気になれる。


 だが、その整い方こそが危険だった。


 人は一つの役だけを持つとは限らない。


 呼んだ者が、呼ばれた者でもある。


 残った者が、聞こえなかった者でもある。


 まだ、それを説明にしてはいけない。


 アルトは浅い皿へ手を置く。


「始める」


 ルナが隣で頷く。


「はい」


 マルタが小鍋へ手を置く。


「戻ってきたら、飯の続きだよ」


 ミアが首を傾げる。


「もう食べた」


「じゃあ、二回目」


「いい日」


「帰ってこられたらね」


 その一言だけが、少し重かった。


 アルトは共有表示へ意識を戻す。


【保留状態:展開】


 白い筋が、机の中央へ伸びた。


 昨日までのような鋭い動きではない。水が染み込むように、ゆっくりと木目の上へ広がり、浅い皿の手前で止まる。


 店の音が、少し遠くなった。


 完全には消えない。


 小鍋も聞こえる。


 鈴も聞こえる。


 外の声もある。


 ただ、すべてが薄い布の向こうへ下がったように感じる。


 ミアが耳へ手を当てる。


「また聞こえない?」


「聞こえるか」


「聞こえる。でも、遠い」


 ガルドが床を軽く踏んだ。


 こつ。


 音はした。


 だが、足が床へ触れてから、少し遅れて届いた。


 ガルドが眉を寄せる。


「床が遅い」


 ブルーノが聞き返す。


「床が、ですか」


「踏んだ後に鳴る」


 もう一度。


 足が落ちる。


 半拍遅れて。


 こつ。


 ミアが目を丸くする。


「床、寝坊」


「笑えん寝坊だ」


 ガルドは足元から目を離さない。


 アルトも机を指で叩いた。


 とん。


 指にはすぐに木の硬さが返る。


 しかし音は遅れて聞こえる。


 とん。


 動きと音が、分かれている。


 アルトの視界に表示が浮かぶ。


【保留領域:展開】


【時間感覚:低下】


【音響遅延:微弱】


【凍結:完全停止ではない】


 表示を共有する。


 ブルーノの顔が変わる。


「完全停止ではない」


 ルナが机へ手を置く。


「止まっているのではなく、遅れ続けている」


【照合語:遅れ続けている】


【反応:高】


 白い筋が一度だけ脈打つ。


 深皿の中の破片が、ごくわずかに動いた。


 ミアが両手で皿を押さえる。


「動いた」


「落とすな」


「落とさない」


 破片は動きを止めた。


 共有表示に次の行が浮かぶ。


【生命反応:判定不能】


 ブルーノが読み上げる。


 声が少し震えた。


「生命反応、判定不能」


 ミアがアルトを見る。


「生きてる?」


「分からない」


「死んでる?」


「それも分からない」


 ミアは深皿へ視線を戻す。


「分からないなら?」


 アルトは答えた。


「生きている方に賭ける」


 マルタが小鍋を置く。


 かん。


 音は遅れて届いた。


 それでも、確かに鳴った。


 共有表示が揺れる。


【照合語:生存可能性】


【反応:あり】


 希望と言うには、まだ早い。


 だが、可能性は出た。


 死者の記録を読んでいるのではないかもしれない。


 止まりきらず、終わりきらず、時間の薄い場所に残されている誰かへ触れているのかもしれない。


---


 白い筋は、少しずつ深皿へ近づいていた。


 ミアは皿を引こうとする。


 アルトが止める。


「急に動かすな」


「白いの来る」


「分かってる」


「守る」


「動きと音がずれてる。急ぐと落とす」


 ミアは唇を噛み、皿を押さえたまま耐える。


 白い筋が皿の縁へ触れる。


 深皿の内側で破片が跳ねた。


 からん。


 音は後から来た。


 ミアの肩がびくっと動く。


「先に動いた」


「ああ」


「音、あと」


「ああ」


 保留の中では、何かが起きてから、それを知らせる音が遅れて届く。


 痛みがあっても、声が遅れる。


 助けを求めても、届く時には何かが終わっている。


 それを二十二年以上、繰り返していたのかもしれない。


 ガルムが鈴の下で吠えた。


 声はすぐに届く。


 鈴は少し遅れて鳴る。


 ちりん。


 ガルムが低く唸る。


「遅い」


 マルタが小鍋を持ち上げた。


「遅れるなら、先に鳴らす」


「できるのか」


 アルトが聞く。


「やってみる」


 白い筋が動く。


 マルタはその動きより少し早く、小鍋を置いた。


 音は遅れる。


 かん。


 ちょうど白い筋が深皿へ触れる瞬間に重なった。


 白い筋が止まる。


 ミアが大きく息を吸う。


「早く鳴らした」


「音は遅いからね」


「マルタ、未来に鳴らした?」


「少し先に置いただけだよ」


 共有表示が変わる。


【食事準備音:遅延補正】


【保留領域:安定】


 ブルーノが読む。


「安定しました」


 マルタは小鍋を押さえたまま言う。


「飯の支度は、遅れない方がいい」


 ガルドが低く答える。


「早すぎても焦げる」


「知ってるよ」


 アルトは机上の白い筋を見る。


 完全には止まっていない。


 だが、暴れてもいない。


「今のうちに見る」


 アルトが言う。


 ブルーノが頷く。


 共有表示が書き換わった。


【帰還処理:開始済】


【到達判定:成立】


【帰還先照合:未成立】


【処理状態:保留】


【凍結理由:帰還先不在】


 店内の音が、さらに遠くなったように感じた。


 ルナの手が震える。


 帰還先不在。


 帰還先、未成立。


 これまで何度も現れた言葉。


 だが、今度は経過が見えた。


 到達した。


 帰還処理は始まった。


 しかし、帰還先が成立しなかった。


 だから、処理が終わらなかった。


 失敗として閉じられたのではない。


 保留のまま、凍結された。


 ブルーノが一行ずつ読み直す。


「帰還処理、開始済。到達判定、成立。帰還先照合、未成立。処理状態、保留」


 アルトは聞く。


「帰還失敗とは出ていないな」


「はい」


「完了とも」


「出ていません」


「つまり」


 ブルーノは共有表示を見たまま、慎重に言った。


「帰還処理は、失敗して終わったのではありません」


「続いてるのか」


「保留されたまま、止められています」


 ミアが深皿を抱える。


「ずっと?」


「たぶん」


「二十二年?」


「可能性があります」


 ミアは破片を見る。


「待ってた?」


 ブルーノは答えられない。


 ルナが代わりに言う。


「待つこともできないまま、止められていたのかもしれません」


 マルタが小鍋を置く。


 かん。


 遅れて届く。


「鍋の中に、食べてない料理が残ったまま、火だけ止められたようなものかい」


 ブルーノが少し考える。


「近いかもしれません」


「腐ってない?」


 ミアが聞く。


 マルタは深皿を見る。


「時間まで止められてたなら、まだ分からない」


「でも今は」


「火が戻り始めた」


 ミアの顔が強張る。


「じゃあ急がないと」


 アルトは頷いた。


「ああ」


 共有表示に、新しい文字が浮かぶ。


【保留中帰還者:存在可能性あり】


【救出可能性:発生】


【必要条件:帰還先形成】


 帰還者。


 残滓ではない。


 記録でもない。


 声の欠片でもない。


 保留中の帰還者。


 その言葉が出た瞬間、アルトの中で何かが切り替わった。


 昨日までは、古い事件を読んでいた。


 白い場所に残された言葉を拾い、誰が何を言ったのかを照合し、帰還処理の失敗を知ろうとしていた。


 違う。


 失敗ではない。


 今も保留されている。


 なら、これは調査ではない。


「救出だ」


 アルトは言った。


 共有表示は反応しない。


 だが、店の全員が聞いた。


 ブルーノは紙を開かなかった。


 ルナは目を閉じた。


 ミアは深皿を抱え直した。


 マルタは小鍋を押さえる。


 ガルドは机の脚へ足を添える。


 ガルムは鈴の下に立つ。


 誰も、その言葉を言い換えなかった。


---


 昼前、通信端末が震えた。


 レオンからの連絡だった。


《今日は、時間が遅い気がします》


 アルトはすぐに画面を見る。


《何が遅い》


《音です》


 少し間。


《コップを置いてから、音が後で来ました》


 ミアが深皿を抱いたまま、顔を上げる。


「同じ」


 ルナは自分の胸へ手を置いた。


 ブルーノは共有表示と通信端末を交互に見る。


 アルトは返信する。


《水は飲んだか》


《飲みました》


《皿は》


《前にあります》


《横の皿は》


《あります》


《音を追うな》


 既読。


《手を先に置け》


 既読。


《音が後から来ても、動いたものを見ろ》


 少し間。


《やってみます》


 店の中では、白い筋がまだ机の中央に残っている。


 音の遅れも続いている。


 レオンは遠くにいる。


 それでも、同じ保留領域に触れている。


 視界の端に表示が浮かぶ。


【外部対象:レオン】


【時間遅延反応:あり】


【同期傾向:中】


【警告:保留領域への巻込】


 アルトは机上へ共有する。


 ブルーノの声が硬くなる。


「巻き込み」


 アルトは通信端末へ視線を戻す。


《何か数えたか》


 既読のまま止まる。


 嫌な間だった。


 やがて返信。


《三つ》


 ルナの指がわずかに動く。


 ミアが空の浅い皿を見る。


 三。


 レオンにとって、その数字は軽くない。


《四つ目を数えるな》


 アルトはすぐ送る。


《皿を見ろ》


 既読。


《前の皿と、横の皿を別に見ろ》


 既読。


 長い間。


《見ています》


 さらに。


《四つ目は来ませんでした》


 アルトは息を吐いた。


 店の中でも、遅れて小鍋の音が届いた。


 かん。


 間に合った。


 何に、とはまだ言えない。


 だが、レオンは四つ目へ引き込まれなかった。


 視界表示が変わる。


【外部対象:レオン】


【巻込:回避】


【自己皿:維持】


【横皿:維持】


 アルトは共有表示へ回した。


 ルナが水を飲む。


 ミアが小さく言う。


「三で止まった」


 ガルドが頷く。


「ああ」


「えらい?」


「偉くするな」


 ミアは少し黙り、もう一度聞く。


「今日は?」


 ガルドは机の脚から目を離さない。


「かなり」


 ミアが驚いた。


「かなり出た」


 マルタが息を吐くように笑った。


「今日は出していい日だよ」


 その短いやり取りが、保留領域に近づきすぎた店を少しだけ戻した。


---


 保留領域を閉じたのは、昼を少し過ぎてからだった。


 アルトが机上の共有表示を払う。


 薄い文字が消える。


 白い筋もゆっくりと元の細さへ戻る。


 音の遅れは、すぐには消えない。


 マルタが小鍋を置く。


 かん。


 今度はほとんど同時に聞こえた。


 ガルドが床を踏む。


 こつ。


 遅れない。


 鈴が風に揺れる。


 ちりん。


 普通の音。


 ガルムが短く言う。


「戻った」


 ミアが深皿の中を見る。


「破片は?」


 白い縁は残っている。


 だが、朝より広がってはいない。


 アルトの視界に整理表示が浮かぶ。


【保留領域:接続終了】


【破片劣化:一時安定】


【救出可能性:維持】


【必要条件:帰還先形成】


【補足:待機者照合】


 最後の一行を見て、アルトは表示を共有した。


 ブルーノが読む。


「待機者照合」


 ルナの顔が変わる。


「帰還者だけでは、足りない」


「待っている側が必要なのか」


 アルトは共有表示を見る。


 返答の代わりに、新しい行が浮かぶ。


【待機者:未照合】


【待機者不在:帰還先形成不可】


 ミアが首を傾げる。


「待ってる人が、帰る場所?」


 共有表示が強く揺れた。


【照合語:待ってる人】


【反応:高】


 店内が静かになる。


 レオン。


 三日。


 数える癖。


 空の横皿。


 誰かと一緒にいた気がする。


 横にいた者を見捨てた気がする。


 誰を呼べばいいか分からない。


 すべてが、同じ方向へ近づき始めている。


 だが、ここで名前を置かない。


 アルトは表示を閉じる。


「まだだ」


 ブルーノが頷く。


「はい」


 ルナは空の浅い皿を見る。


「待っている人間を、場所として数えられなかった」


 アルトはルナを見る。


 共有表示はもうない。


 だが、その言葉は机の上に残る。


「だから帰還先が成立しなかったのかもしれない」


 ブルーノが言う。


 マルタが小鍋へ水を入れる。


「家で言うなら、誰もいない食卓かい」


 ミアは空の皿を見る。


「食卓はある」


「ああ」


「でも、誰もいない」


「ああ」


「帰れない?」


「帰っても、帰ったことにならないのかもしれないね」


 ミアは少し考える。


「じゃあ、待つ人がいる」


 マルタは頷いた。


「いるならね」


 その「いるなら」が、重かった。


---


 午後、赤猫亭は短い時間だけ店を開けた。


 こんな日に休む選択もあったが、救出のために店を事件の部屋へ変えるわけにはいかない。席へ客を座らせ、水を出し、皿を置き、温かいものを食べてもらう。それ自体が、帰還先を考えるための実地になっていた。


 若い男が一人、窓際へ座る。


 芋のスープを注文する。


 マルタが出した皿を前へ置き、男はすぐ一口飲んだ。


「熱っ」


 声が出る。


 すぐに。


 遅れずに。


 ミアが小声で言う。


「保留しなかった」


「何を」


 アルトが聞く。


「熱いって」


 確かにそうだった。


 熱ければ熱いと言える。


 喉が渇けば水を飲める。


 皿が来れば食べられる。


 音がすれば振り向ける。


 返事ができる。


 当たり前の連続が、そのまま帰還先になるのかもしれない。


 ルナも客を見ていた。


 マルタが横を通りながら言う。


「見すぎると、スープが照れるよ」


「スープが」


「たぶんね」


 ミアが真面目に頷く。


「スープ、照れる」


 客が笑った。


「何の話ですか」


 マルタは答える。


「食べれば分かる話だよ」


「分からなかったら?」


「水を飲みな」


 客はまた笑い、水を飲んだ。


 普通の会話。


 普通の反応。


 ここでは、誰かの声が住所を失わない。


 相手が目の前にいる。


 返事の道がある。


 それが、白い場所との違いだった。


---


 夕方、ブルーノが記録をまとめた。


【帰還処理:開始済】


【到達判定:成立】


【帰還先照合:未成立】


【処理状態:保留】


【凍結:完全停止ではない】


【保留中帰還者:存在可能性あり】


【救出可能性:発生】


【必要条件:帰還先形成】


【待機者照合:必要】


 今日は長い。


 それでも、マルタは止めなかった。


「必要な濃さか」


 アルトが聞く。


 ブルーノは頷く。


「救出の手順なので」


「なら書け」


「はい」


 最後に、一行を追加する。


【掘り起こす話ではない】


 そこで止まった。


 ブルーノはアルトを見る。


 先を自分で書いていいのか迷っている。


 アルトは深皿の破片を見る。


 白い縁。


 終わりきらない帰還処理。


 待機者。


 帰還先。


 もう、言葉にしていい。


「書け」


 ブルーノは頷き、続けた。


【迎えに行く話だ】


 その一行を書いた瞬間、アルトの視界に表示が浮かぶ。


【照合語:迎えに行く】


【救出可能性:上昇】


 表示を共有する。


 ルナは文字を見つめた。


「迎え」


「ああ」


「その言葉は、まだ怖いです」


「ああ」


「おかえりなさいに近いから」


「ああ」


「でも、行くことはできます」


 アルトは頷く。


「行く」


 ミアが深皿を抱え直す。


「出前?」


 マルタが少し笑う。


「まだ早いね」


「でも、机持っていく?」


「まだ決めない」


「深皿は?」


「それもまだ」


「磨いとく」


「それはいい」


 ミアは布巾を取り、深皿の外側を拭き始めた。破片の近くへ触れないように、縁だけを丁寧に。


 きゅっ。


 帰還先を作る。


 待っている者を見つける。


 保留中の帰還者を迎えに行く。


 そのために何を持っていくのかは、まだ分からない。


 だが、赤猫亭で使ってきたものが必要になることだけは、誰も疑わなかった。


---


 店じまいの前、視界に最後の整理表示が浮かんだ。


 アルトはそれを机上へ共有する。


【帰還処理:保留中】


【保留中帰還者:存在可能性あり】


【救出可能性:発生】


【必要条件:帰還先形成】


【必要照合:待機者】


【次段階:手帳の再読】


 ブルーノが最後の行を読む。


「手帳の再読」


 アルトは頷く。


 黒鐘門で拾った手帳。


 筆跡。


 途中で切れた言葉。


 まだ読めていないものがある。


 ミアは深皿を拭きながら聞く。


「手帳も持っていく?」


「まず読む」


「食べない?」


「食べない」


 全員の返事が重なった。


 ミアが少しむっとする。


「分かってる」


 マルタが笑う。


「今日は確認が多いね」


「確認はいる」


 ガルドが言う。


 ミアは得意げに頷いた。


「いる」


 皿を重ねる。


 からん。


 深皿と小皿、空の浅い皿は重ねない。


 水差しを伏せる。


 こと。


 小鍋を拭く。


 きゅっ。


 鈴を確かめる。


 ちりん。


 音は遅れない。


 ガルムが入口から戻る。


 ブルーノは紙を閉じる。


 ルナは水を飲む。


 アルトは白い筋の残る机へ手を置いた。


 保留の中には、終わっていない帰還があった。


 失敗した人間の痕跡ではない。


 帰る先が見つからず、時間の途中へ置かれた者。


 なら、必要なのは弔いではない。


 帰還先だ。


 待っている者だ。


 食べられる場所だ。


 灯りを落とす。


 最後にミアが、磨いた深皿を机の横へ置いた。


「出前用」


「まだ早い」


 アルトが言う。


「でも、早い支度は?」


 マルタが答える。


「悪くない」


 ミアは満足した。


 赤猫亭は閉まった。


 明日、また開く。


 掘り起こすためではない。


 迎えに行くために。


 その前に、手帳をもう一度読む。


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