表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
119/144

第119話 止まった夜

 ルナが数えなかった夜は、赤猫亭に何も起こらなかった。


 鈴は風に揺れて一度だけ鳴り、小鍋は洗われ、水差しは伏せられ、最後の灯りもいつもと同じ時刻に落ちた。白い筋が増えることも、呼称残滓の破片が動くこともなく、聞こえなかった者のために置いた空の皿も、朝まで何も受け取らなかった。


 異常が起きなかった。


 それが、異常だった。


 店を開ける支度が進む中、ルナは真ん中の机から少し離れた場所に立ち、指先を何度も折りかけては戻している。何かを数えようとしているのではない。数えなかったことを、体がまだ理解していないように見えた。


 アルトは水差しを机へ置いた。


 こと。


 音は普通に響く。


「眠れたか」


「はい」


 ルナの返事はすぐだった。


 だが、その後が続かない。


 マルタが薪を組み直しながら言う。


「眠れたなら、いい夜だったんじゃないのかい」


 ルナは小さく首を振った。


「いい夜だったかどうか、分かりません」


 ミアが残った芋の籠を抱えて厨房から出てくる。


「怖い夜?」


「何もなかった夜です」


「じゃあ、普通」


「普通なら、よかったのですが」


 ルナは机の白い筋を見る。


 同行者の破片を収めた深皿。


 その横の小皿。


 聞こえなかった者のための空の皿。


 どれも昨日の場所にある。


「いつもなら、夜の途中で増えていたのです」


 アルトが眉を寄せる。


「何が」


 ルナは自分の指を見る。


「数が」


 ブルーノの手が、腰に下げた紙へ伸びた。


 すぐには開かない。


「何の数でしょうか」


「分かりませんでした」


 ルナは答える。


「失敗した回数なのか、声が途切れた回数なのか、帰還処理がやり直された回数なのか。名前はありませんでした。ただ、夜が深くなると、ひとつ増えることだけは分かっていたのです」


 店の中にある音が、少し遠くなった気がした。


 実際には、小鍋の蓋も、外の荷車も、ミアが芋籠を置いた音も聞こえている。それでも、ルナの言う「ひとつ増える」という言葉だけが、長い間この店の外側で続いていた機械の音のように思えた。


「昨夜は」


 アルトが聞く。


 ルナは頷く。


「増えませんでした」


 ミアが芋籠へ視線を落とす。


「数え忘れた?」


「いいえ」


 ルナは今度こそ、はっきり言った。


「初めて、数えませんでした」


 その瞬間、アルトの視界の端に薄い表示が浮かんだ。


【旧待機区画:再試行なし】


【凍結処理:再実行なし】


【状態:停止】


 アルトは文字を読んだまま、すぐには共有しなかった。


 停止。


 その言葉が、良い意味なのか悪い意味なのか判断できなかったからだ。


 マルタが小鍋を台へ置く。


 かん。


「何か出た顔だね」


「ああ」


 アルトは表示を指先で机の上へ落とした。


 薄い共有表示が、三枚の皿と水差しの間に浮かぶ。


 ブルーノが読む。


「旧待機区画、再試行なし。凍結処理、再実行なし。状態、停止」


 ミアが深皿を抱えた。


「止まった?」


「ああ」


「いいの?」


 誰も答えなかった。


 マルタだけが小鍋を持ち上げ、厨房へ戻りながら言う。


「分からない時に、空腹まで足すんじゃないよ」


 店には、焼いた芋の匂いが広がり始めていた。


---


 残った芋は、薄く切って粥へ混ぜられた。


 一度焼いてから煮たため、表面には香ばしさが残り、中は柔らかく崩れている。ミアは匙ですくった芋を何度も眺め、粥へ沈めては浮かせていた。


「残った芋、まだ食べられる」


「昨日のうちに布をかけたからね」


 マルタが答える。


「残っただけじゃ、だめ?」


「残した後が大事」


「何する?」


「腐らせない」


 ガルドが椅子の脚を確かめながら言った。


「残るなら、腐るな」


 ミアは嫌そうな顔をする。


「また怖い言い方」


「芋の話だ」


「ほんと?」


「今は」


 ルナの匙が止まった。


 アルトはガルドを見る。


 ガルドはそれ以上何も言わず、椅子へ座る。狙って言ったわけではないのだろう。だが、言葉はすでに皿の上へ落ちている。


 残った者。


 腐らせない。


 止まった夜。


 ブルーノが紙を開きかけた。


 マルタが見る。


「まだ芋の話だよ」


「はい」


 ブルーノは紙を閉じた。


 ミアが芋を口へ運ぶ。


「焼いたから、残っても大丈夫?」


「焼いただけじゃ足りない」


「煮たから?」


「見たからだよ」


「見た?」


「置きっぱなしにしなかった」


 ミアは粥を飲み込んだ後、真ん中の机を見る。


「破片も見る」


「ああ」


 アルトが答えた。


「見る」


 食べながら、アルトは昨夜の表示を考えていた。


 凍結処理の再実行がない。


 再試行もない。


 最終呼称を読んだことで、旧待機区画の反応は低下した。あの時は、防衛に成功した結果だと思っていた。白い場所の同化を止め、呼称残滓の破片を保持し、次の照合へ進めるようになった。


 だが、別のものまで止めた可能性がある。


 白い場所の向こうで、何度も繰り返されていた何か。


 止めるべきだったものかもしれない。


 止めてはいけなかったものかもしれない。


 ルナは粥を一口食べ、水を飲んだ後、両手を膝の上へ置いた。


「私は、数を知っています」


 ブルーノが顔を上げる。


「正確に、ですか」


「いいえ」


 ルナは首を振る。


「正確な数字ではありません。数えようとすると、途中で指が足りなくなり、頭の中でまとめると、また崩れていました」


「それでも、どの程度かは」


「三千と、少し」


 匙が皿へ触れた。


 からん。


 ミアが数え始めるように指を広げた。


 アルトが止める。


「数えるな」


「でも、三千」


「今は数にしすぎるな」


 ミアは指を閉じた。


「いっぱい?」


「ああ。いっぱいだ」


 ルナは共有表示ではなく、自分の水を見ている。


「一度の間隔は、三日より少し短かったと思います。正確ではありません。ですが、二日ではなく、三日でもない。その間でした」


 アルトの視界に新しい表示が浮かんだ。


【凍結処理:再試行履歴あり】


【平均周期:約二・七日】


【再試行回数:三千と、少し】


 アルトは表示を机上へ共有する。


 ブルーノの顔から血の気が引いた。


「二・七日」


 小さく呟く。


 紙へ手を伸ばす。


 今度はアルトも止めなかった。


 ブルーノは書く前に、一度深呼吸した。二・七日。三千と、少し。単純な掛け算で済むはずなのに、数字の向こうにあるものを思うと手が動かなくなる。


 マルタが粥をよそい直す。


「計算は食べてからにしな」


「もう食べました」


「じゃあ、水」


 ブルーノは素直に水を飲んだ。


 それから、紙の端へ小さく数字を書いた。


 二・七。


 三千。


 掛ける。


 日数。


 年。


 何度か計算し直す。


 紙の上では、長い時間も数行で終わる。その軽さが、ブルーノには耐え難いらしく、最後の数字を書くまでに何度も手を止めた。


「二十二年から、二十三年ほどです」


 店内の誰も、すぐには言葉を返せなかった。


 ミアが小さく聞く。


「三日じゃないの?」


 ガルドが答える。


「三日が、何度もあった」


「二十二年になるまで?」


「ああ」


「ずっと待った?」


「まだ、決めるな」


 アルトが言った。


 待ったのか。


 凍っていたのか。


 死んでいたのか。


 止まっていたのか。


 まだ何も確定していない。


 それでも、二十二年から二十三年という時間だけは、机の上から消えなかった。


---


 照合表示を再び開いたのは、店内の片づけが終わり、客を入れる前だった。


 深皿、小皿、空の浅い皿を動かさないまま、アルトは視界の端に浮かんだ文字を机上へ共有する。


【事件時期照合:二十二~二十三年前】


【現場系統:黒鐘門】


【旧名:封印】


 ブルーノが読み上げた。


「黒鐘門系統」


 ルナがわずかに息を詰める。


 ガルムが入口から顔を上げた。


 黒鐘門。


 アルトたちが最初に生還した場所。


 手帳を拾った場所。


 帰還を望んだ物語の始点であり、誰かの帰還が止まった場所の系統。


 偶然ではない。


 少なくとも、今出ている表示はそう告げている。


「旧名、封印」


 ブルーノが続ける。


「黒鐘門は、今の呼び方ということでしょうか」


「事件の後で変えられた可能性がある」


 アルトは答える。


「名前を閉じた?」


 ミアが聞く。


 マルタが小鍋を火へかけながら言う。


「名前を閉じれば、見つかりにくくはなる」


「帰る人も?」


 ミアの問いに、誰もすぐには答えなかった。


 ルナが白い筋を見つめる。


「場所の名前を封じたのではなく、その場所へ帰る道を封じたのかもしれません」


 アルトの視界に一行が浮かぶ。


【帰還先:未成立】


 見慣れた言葉だった。


 だが、これまでとは意味が違って見える。


 帰る場所がなかった。


 帰る者がいなかった。


 帰る場所として認識されなかった。


 待っている者を、場所として数えられなかった。


 まだ何も決められない。


 ただ、三千回を超える再試行の中心に、同じ言葉があった。


 ブルーノは紙を開いた。


【二・七日】


【三千と、少し】


【二十二~二十三年前】


【黒鐘門系統】


【帰還先、未成立】


 そこまで書いて、ペンが止まる。


「濃いか」


 アルトが聞く。


「事実だけです」


「ならいい」


 ブルーノは紙を閉じた。


 ミアは空の皿を見る。


「この皿、二十二年待った?」


「皿が待ったわけじゃない」


「じゃあ、誰が」


 アルトは答えられなかった。


 今、答えるべきではない。


 残った者。


 聞こえなかった者。


 レオン。


 すべてが近づいているが、まだ名前を結ぶ段階ではない。


---


 客を入れても、店の静けさは完全には消えなかった。


 それでも赤猫亭は開けた。


 何も起きないから休む、という選択もできたが、何も起きない時ほど普通の音を絶やしてはいけない。マルタがそう言い、アルトも同意した。


 最初に来た客は、いつも窓際へ座る男だった。


「今日は静かだな」


 水を受け取りながら言う。


 マルタが答える。


「静かな日もあるよ」


「客が少ないからか」


「今から増えるかもしれない」


 男は気にせずスープを注文し、窓の外を眺めた。彼にとっては、ただ客の少ない日だ。二十二年前の凍結処理も、最終呼称も、声の住所も知らない。


 その無関係さが、アルトにはありがたかった。


 店が謎だけで満たされれば、赤猫亭は白い場所と変わらなくなる。何でも事件へ結びつけ、誰の言葉も伏線として扱い始めれば、人は客でいられなくなる。


 男はスープを一口飲み、言った。


「少し薄いな」


 マルタが眉を上げる。


「昨日より濃いよ」


「俺の舌が疲れてるのか」


「水を飲みな」


「そうする」


 男は水を飲んだ。


 ミアがそれを見て、小声で言う。


「味、聞こえなかった?」


「耳と味を混ぜるな」


 アルトが答える。


「でも、水飲んだ」


「ああ」


「同じ?」


「少しだけな」


 聞こえなかった。


 感じられなかった。


 届かなかった。


 どれも似ているが、同じではない。


 その違いを乱暴にひとつへまとめないためにも、普通の客が必要だった。


---


 昼前になっても、旧待機区画から新しい反応はなかった。


 視界表示は静かなまま。


 共有表示も閉じたまま。


 ルナは何度か指を折りそうになり、そのたびに水を飲んだ。数が増えないことを、確かめようとしているのだろう。


 アルトが言う。


「数えるな」


「はい」


「増えていないか確認するのも、数えるのと同じだ」


 ルナは手を止めた。


「では、どうすれば」


「別のものを見る」


 ミアがすぐに芋籠を持ち上げる。


「芋?」


「何でもいい」


「じゃあ芋」


 ルナは芋籠を見る。


 残った芋。


 布をかけられ、腐らないように置かれ、次の食事に使われるもの。


「残っているものを見るのですね」


「止まっているものじゃなく」


 アルトは答えた。


「使われているものを見ろ」


 ルナは頷いた。


 共有表示は出ない。


 だが、彼女の指はそれ以上動かなかった。


 その時、通信端末が震えた。


 レオンからだった。


《昨夜は、何も聞こえませんでした》


 アルトは画面を見る。


《声もか》


《はい》


《足音は》


《ありませんでした》


《息は》


 少し間。


《できました》


 アルトは息を吐く。


 レオンにも、止まった夜が来ている。


《水は》


《飲みました》


《皿は》


《前と横にあります》


《何も来ないのが怖いです》


 アルトの指が止まる。


 音があることも怖い。


 音がないことも怖い。


 続くことも怖い。


 止まることも怖い。


 どちらが救いなのか、レオンにも分からない。


《今は、静かなことを答えにするな》


 送る。


 既読。


《何も来ないから終わったとも、助かったとも決めるな》


 既読。


《水を飲んで、皿を置いておけ》


 しばらくして。


《はい》


 さらに。


《今日は、数えなくてもいいですか》


 アルトは通信端末を持つ手に力を入れた。


 ルナが数えなかった夜。


 レオンも、数えていたのか。


《いい》


 送る。


《今日は数えるな》


 既読。


《分かりました》


 アルトは通信端末を伏せた。


 アルトの視界に照合表示が浮かぶ。


【外部対象:レオン】


【再試行停止:影響あり】


【数的反応:低下】


【確定:保留】


 表示を机上へ共有する。


 ブルーノが読む。


「数的反応、低下」


 ルナは俯いた。


「レオンさんも、数えていた」


「たぶんな」


「何を」


「まだ決めるな」


「はい」


 ミアが芋籠を抱えたまま言う。


「今日は、数えない日」


 マルタが答える。


「そうだね」


 ミアは籠の中を見た。


「芋も?」


「芋は数えとくれ。仕込みが困る」


「どっち」


「何でも同じにするなってことだよ」


 ミアは不満そうに芋を数え始めた。


「一、二、三……」


 誰も止めなかった。


 数えてよいものもある。


 数えない方がよいものもある。


 その違いを知ることが、今日の赤猫亭には必要だった。


---


 異変が起きたのは、午後の仕込みが終わり、深皿を洗うためにミアが持ち上げた時だった。


 同行者の破片は、まだ皿の中にある。


 朝までは黒かった。


 今も大部分は黒い。


 だが、縁の一部だけが、薄く白くなっていた。


 ミアの手が止まる。


「アルト」


 声が小さい。


 ふざけていない声だった。


「白い」


 全員が集まる。


 アルトは深皿をのぞき込んだ。


 黒い破片の端に、粉を吹いたような白さがある。


 昨日までにはなかった。


 見間違いかもしれない。


 そう思いたかった。


 だが、ルナが顔を強張らせる。


「増えています」


「分かるのか」


「はい」


 アルトの視界に、照合表示が浮かんだ。


【呼称残滓破片:状態変化】


【劣化:微弱】


【原因候補:再試行停止】


【保持限界:不明】


 アルトは表示を共有する。


 ブルーノが最後の行を読んだ後、言葉を失った。


 保持限界、不明。


 いつまで持つか分からない。


 再試行が続いていた間、何かは苦痛の中で繰り返されていた。しかし、その繰り返しが破片を保っていた可能性がある。ループを止めたことで、呼び方は崩壊から救われたのではなく、別の形で終わりへ向かい始めた。


 ミアが深皿へ息を吹きかける。


「ふー」


 白さは戻らない。


 もう一度吹こうとする。


 マルタが肩へ手を置いた。


「冷ましたって戻らないよ」


「でも、白い」


「ああ」


「深皿、守れてない?」


「守ってる」


 マルタははっきり言う。


「守ってるから、まだここにある」


 ミアは泣きそうな顔で破片を見る。


「じゃあ、どうする?」


 誰もすぐには答えられなかった。


 ガルドが破片を見たまま言う。


「残るなら、腐らせるな」


 朝の言葉が、今度は芋ではなく破片へ向いた。


 アルトは共有表示を見る。


 止まった。


 劣化が始まった。


 保持限界は分からない。


 なら、もう照合をゆっくり続けているだけでは足りない。


 白い場所の歴史を読む話ではない。


 誰が何を言ったのかを確かめるだけの話でもない。


「保留の中を確認する」


 アルトが言う。


 ブルーノが顔を上げる。


「帰還処理の、ですか」


「ああ」


「危険です」


「分かってる」


「凍結処理が止まった今、保留状態を展開すれば、残っているものまで動く可能性があります」


「動かさなくても消える」


 アルトは破片を指す。


 ブルーノは黙った。


 マルタが小鍋を置く。


 かん。


「なら、動く方を選ぶしかないね」


 ルナは自分の胸へ手を置き、息を整える。


「私は、もう数えません」


 アルトを見る。


「代わりに、見ます」


「何を」


「止まっているものが、まだ生きているか」


 共有表示が変わった。


【帰還処理保留:未確認】


【救出可能性:未判定】


【必要条件:保留状態の確認】


【次段階:保留の中】


 救出可能性。


 初めて、その言葉が出た。


 ブルーノの唇がわずかに動く。


「救出」


 アルトも、その文字を見る。


 今までは、古い事件を調べていると思っていた。


 声の残りを拾い、壊れた呼び方を照合し、帰還処理に何が起きたのかを知ろうとしていた。


 だが、保留の中に誰かが残っているなら。


 凍結が完全な死ではないなら。


 これは過去ではない。


 終わった事件でもない。


 今、救わなければならないものがある。


---


 午後の客を断り、赤猫亭は早めに札を裏返した。


 閉店ではない。


 ただ、今日はこれ以上店を広げない。


 机の上には、白くなり始めた破片を乗せた深皿。横に小皿。少し離れて空の浅い皿。水差し。小鍋。木の皿。どれも、次の確認に必要になるかもしれない。


 ブルーノは紙を開く。


 今日は濃く書いた。


【再試行周期:約二・七日】


【再試行回数:三千と、少し】


【事件時期:二十二~二十三年前】


【最終呼称読取後、ループ停止】


【破片劣化:開始】


【保持限界:不明】


【救出可能性:未判定】


 書き終えた後、ブルーノは紙を見つめたまま動かなかった。


 マルタが横から覗く。


「濃いね」


「薄くできませんでした」


「今日はいいよ」


「いいのですか」


「時間がない時の手順は、薄すぎると誰かが困る」


 ブルーノは頷き、最後に一行を加えた。


【次:保留の中】


 ルナは深皿の前に座っている。


 破片を見続けるのではなく、時々水を飲み、ミアの息を聞き、鈴が鳴れば入口を見る。ひとつに集中しすぎないように、自分で視線を散らしている。


「止まったことが、救いだと思いたかったです」


 ルナが言う。


 アルトは隣に立つ。


「ああ」


「何度も繰り返されるより、止まった方がいいと」


「ああ」


「でも、止まったものにも時間はあるのですね」


「あるらしい」


「なら、止まった夜を、終わった夜にしてはいけません」


 アルトは深皿を見る。


 白さは、先ほどから広がっていない。


 だが、戻ってもいない。


「終わらせない」


 約束ではない。


 まだ誰に向けるか分からない。


 ただ、赤猫亭の方針として言った。


 ルナは頷く。


 ミアが深皿の横に座り、破片へ近づきすぎないように息を吹いた。


「ふー」


 音は小さい。


 それでも聞こえる。


 鈴が風で鳴る。


 ちりん。


 小鍋が鳴る。


 かん。


 水差しを置く。


 こと。


 店の音は止まっていない。


 止まったのは、白い場所の夜だけだった。


---


 通信端末がもう一度震えたのは、灯りを落とす少し前だった。


 レオンから短い連絡。


《今夜も、数えなくていいですか》


 アルトはすぐ返す。


《数えるな》


 既読。


《皿は》


《前と横にあります》


《水は》


《あります》


《息は》


 少し間。


《できます》


《なら、今日はそれでいい》


 送った後、アルトはその言い方を少し後悔した。


 何度も使っている。


 だが、レオンからはすぐに返事が来た。


《はい》


 それ以上は送らない。


 通信端末を伏せる。


 机上の共有表示はもう閉じている。


 必要な情報は、紙と皿と全員の中に残っていた。


 赤猫亭は店じまいへ入る。


 皿を重ねる。


 からん。


 深皿と小皿と空の浅い皿は重ねない。


 水差しを伏せる。


 こと。


 小鍋を拭く。


 きゅっ。


 鈴を確認する。


 ちりん。


 破片は深皿の中。


 白い縁は、消えていない。


 マルタが布巾を畳む。


「明日は、早く開けるのかい」


 アルトは首を振る。


「いつも通りだ」


「時間がないんじゃないの?」


「だからだ」


 急ぐからこそ、店を壊さない。


 救出するために、赤猫亭を白い場所へ変えない。


 マルタは少し笑った。


「分かってきたね」


 ミアが深皿を見る。


「明日、迎えに行く?」


「まだだ」


「じゃあ、何する?」


「まだ迎えに行けるかを確かめる」


「迎えに行けなかったら?」


 アルトは答えに詰まった。


 ルナが代わりに言う。


「行ける場所を作ります」


 ミアは少し考え、頷いた。


「じゃあ、机いる」


「ああ」


 アルトは白い筋の残る机を見る。


 机。


 皿。


 水。


 音。


 席。


 今まで積み上げてきたものが、ただ照合のためではなかったと分かり始めている。


 帰る場所を作るため。


 誰かを迎えるため。


 まだ、その言葉を使うには早い。


 だが、もう過去を掘り起こすだけの話ではない。


 灯りが落ちる。


 最後に鈴が小さく鳴った。


 ちりん。


 ルナは指を折らない。


 レオンも、今夜は数えない。


 再試行は止まった。


 止まったことで、残された時間が動き始めた。


 赤猫亭は閉まった。


 明日、また開く。


 白い場所で二十二年以上続いた夜を、終わったことにしないために。


 次は、保留の中を見る。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ