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第118話 聞こえなかった者の皿

 ミアは、鈴の下に立っていた。


 昨夜と同じ場所で、昨夜と同じように深皿を胸へ抱え、鈴がもう一度鳴るのを待っている。入口の扉は閉じたまま、外では荷車の車輪が石畳を擦り、遠くで誰かが桶を置いた。店の中でもマルタが薪を動かし、ガルドが椅子を引き、ミナが水差しを洗っている。


 音はある。


 いくつもある。


 それでもミアは、鈴だけを見ていた。


「鳴らしていい?」


 鈴紐へ手を伸ばしかける。


 マルタが厨房から声を飛ばした。


「わざと鳴らすと、音が偉くなるよ」


 ミアの手が止まる。


「音、偉くなる?」


「聞こえなかった方が悪い、みたいな顔をし始める」


 ミアは鈴から半歩離れた。


「それは、やだ」


 ガルムが入口の脇で鼻を鳴らす。


「鳴る時に、聞く」


「鳴らなかったら?」


「別の音を聞く」


 ミアは店内を見回した。


 小鍋。


 水差し。


 椅子。


 床。


 布巾。


 深皿。


「いっぱいある」


「ある」


 ガルムはそれだけ答え、顎を前足へ戻した。


 真ん中の机には、深皿と小皿が横に並んでいる。同行者の破片は、昨夜から深皿の中に残したままだ。小皿はその横。二つを重ねず、離しすぎず、どちらも見える位置へ置いてある。


 アルトは白い筋の前に立ち、視界の端に残る照合表示を確認した。


【同行者照合:一時保持】


【次対象候補:聞こえなかった者】


【聴覚反応:微弱】


 昨日の最後に現れた文字だ。


 聞こえなかった者。


 それだけを読めば、耳の話に思える。だが、これまで白い場所で起きたことは、いつも言葉の意味を少しずらしてきた。座ることは休むことではなく、帰還処理を受け入れることだった。返すことは答えることではなく、誰かの声を奪うことになりかけた。


 聞こえなかった、も同じかもしれない。


 音がなかったのではない。


 届く場所が、失われていたのかもしれない。


 ルナが階段を下りてきた。


 今日は水を半分だけ注いだコップを持っている。机へ置いて両手を空けるのではなく、胸の前で持ったままだった。


 アルトが見る。


「置かないのか」


 ルナはコップの水面を見つめた。


「今置くと、聞こえなかったものを置き去りにする気がしました」


「持ち続けると、重くなるぞ」


「はい」


 ルナは少し考え、深皿の横ではなく、自分の横にコップを置いた。


 こと。


 音がした。


「ここなら」


「ああ」


 正面ではなく、横。


 昨日の照合が、今日にも残っている。


 マルタが小鍋を台へ置いた。


 かん。


 ミアがすぐ顔を上げる。


「聞こえた」


「なら飯にするよ」


「鈴は?」


「腹が減ってる時に耳の検査をすると、何でも悪く聞こえる」


「そうなの?」


「今決めた」


 ブルーノが苦笑した。


「根拠はないのですね」


「赤猫亭の根拠は、だいたい鍋の中だよ」


 ミアは納得したように深皿を抱え直した。


「じゃあ食べる」


 鈴はまだ鳴らない。


 だが、店はもう十分に音を持っていた。


---


 芋と卵のスープは、見た目より熱かった。


 ミアは一口すすってすぐに眉を寄せ、深皿へ息を吹きかけた。


「ふー」


 湯気が逃げる。


 もう一度。


「ふー」


 マルタが横目で見る。


「冷ましすぎるなよ」


「今日は音のため」


「息の音かい」


「うん」


 アルトはスプーンを止めた。


 息の音。


 声になる前の音。


 言葉へ向かう前に、誰でも出せるもの。


 ルナもミアを見る。


「声が出なくても、息は出ます」


 ブルーノが紙へ手を伸ばしかけ、止めた。


 アルトが見る。


「書け」


「いいのですか」


「一行だけ」


 ブルーノは紙を開き、短く記した。


【声の前に、息がある】


 マルタが覗く。


「濃くない」


「はい」


 ミアは自分のスープを見ながら、また息を吹く。


「ふー」


 今度は、さっきより小さい。


 それでも聞こえる。


 ガルドは椅子の脚を確認した後、黙ってスープを食べていた。やがて、ミアの深皿へ目を向ける。


「今日は膝に置くのか」


 ミアは頷く。


「聞こえなかったら、落とすかもしれないから」


「何を」


「分からない」


「分からんなら、先に机へ置け」


 ミアは少し考え、深皿を膝から机へ移した。


 とん。


「落とす前に置いた」


「それでいい」


 深皿は、同行者の破片を受けた皿だ。


 今日は、聞こえなかった者の何かも受けるかもしれない。だから抱え込まず、机に置く。持つのではなく、使える位置へ置く。


 ルナはスープを一口飲んだ。


「今日の怖さは」


 アルトが聞く前に、自分から言った。


「鳴っているのに、届かないことです」


 ミアが顔を上げる。


「ミアだけ聞こえないの?」


「ミアさんだけとは限りません」


「みんな?」


「声を出した人にも、届いたか分からないことがあります」


 ミアは考え込んだ。


「届かなかったら、もう一回言う?」


「言える時は」


「言えない時は?」


 ルナは答えに詰まった。


 マルタが小鍋をかき混ぜながら言う。


「息をしな」


 ミアはすぐ息を吐く。


「ふー」


「今すぐじゃない」


「練習」


 店に小さな笑いが生まれた。


 聞こえない話をしているのに、音は消えていない。


 それが、今はありがたかった。


---


 食後、机の上を整えた。


 同行者の破片を入れた深皿は、そのまま横へ置く。小皿も隣に残す。浅い皿を中央へ、水差しを右へ、小鍋の音が届く位置を厨房側に確保する。


 ガルドは椅子を一脚だけ引いた。


 誰かを座らせるためではなく、床の音を確かめるための椅子だ。


 ガルムは鈴の下。


 ミナは水差しの横。


 ブルーノは机の斜め後ろ。


 ルナはアルトの横。


 ミアは深皿の横。


 昨日よりさらに、横へ広がった配置になった。


 アルトの視界に照合表示が浮かぶ。


【個別照合:準備】


【対象候補:聞こえなかった者】


【推奨:音響確認】


 アルトは表示を机上へ落とした。


 薄い文字が皿と水差しの間に浮かぶ。


 ミアが読んだ。


「音を確かめる?」


「まずはな」


 マルタが小鍋を持ち上げる。


「大きく鳴らす必要は?」


 共有表示が一度だけ揺れた。


【注意:音量増加禁止】


 マルタが眉を上げる。


「怒鳴るなってことだね」


 ルナが頷く。


「聞こえない人に、大きな声をぶつけても、届くとは限りません」


「じゃあ、普通に鳴らすよ」


 小鍋が置かれる。


 かん。


「聞こえた?」


 ミアが頷く。


「聞こえた」


 ガルドが椅子を少し引く。


 ぎ。


「聞こえた?」


「聞こえた。嫌な音」


「正常だ」


 ミナが水差しを置く。


 こと。


「聞こえましたか」


「聞こえた」


 ミアが深皿の縁を指で軽く叩く。


 こん。


「自分のも聞こえた」


 ガルムが鈴を見上げ、前足で扉の下を軽く押した。


 ちりん。


 ミアの顔が動く。


「今は聞こえた」


 共有表示に文字が加わる。


【聴覚反応:正常】


【対象候補:聞こえなかった者】


【補足:耳ではない】


 ブルーノが読む。


「耳ではない」


 マルタが小鍋へ手を置く。


「やっぱりね」


 アルトは皿の向こうに浮かぶ文字を見る。


 耳ではない。


 なら、何が聞こえなかったのか。


 声か。


 名前か。


 呼び方か。


 返事か。


 ルナが、自分の横に置いたコップを見る。


「届く場所がなかった」


 共有表示が揺れた。


【照合語:届く場所】


【反応:あり】


 アルトはルナを見る。


「続けろ」


「声は出ていた。音もあった。でも、誰へ向ければいいか分からなかった」


 白い筋が淡く光る。


「あるいは、向けた先が閉じていた」


【照合対象:聞こえなかった者】


【照合方式:食堂式】


【注意:音量増加禁止】


 対象が確定した。


 アルトは浅い皿へ手を置く。


「始める」


 ルナが頷く。


「はい」


---


 最初に提示されたのは、小鍋の音だった。


 かん。


【食事準備音:提示】


【反応:低】


 次は水。


 こと。


【水音:提示】


【反応:低】


 椅子。


 ぎ。


【床椅子音:提示】


【反応:微弱】


 聞こえていないわけではない。


 だが、照合の中心へ届かない。


 音はある。


 対象が求めているものではない。


 アルトは共有表示を見る。


「何が足りない」


 答えは出ない。


 マルタがもう一度小鍋を置こうとする。


 アルトは止めた。


「大きくするな」


「分かってる」


 ミアが深皿を見ている。


 同行者の破片は、動かない。


 だが、深皿の縁に息が当たるたび、黒い表面がごく薄く揺れているように見えた。


「ミア」


「うん」


「さっきのをやれ」


「ふー?」


「ああ」


 ミアは深皿へ顔を近づけ、息を吹いた。


「ふー」


 湯気はない。


 それでも音はした。


 声ではない。


 言葉でもない。


 呼吸だけの音。


 共有表示が強く揺れる。


【呼気音:提示】


【反応:中】


【反応対象:呼気】


【補足候補:声の前】


 ブルーノが息を呑む。


「呼気に反応しています」


 ルナは自分の喉へ手を当てた。


「声になる前」


 アルトは頷く。


「まだ誰にも向いていない音か」


 その瞬間、赤猫亭から音が消えた。


 急に、ではない。


 一枚ずつ布をかけるように、小鍋の余韻がなくなり、外の車輪音が遠のき、水差しの中で揺れた水も音を失い、最後に鈴のかすかな震えまで消えていった。


 見える。


 動いている。


 だが聞こえない。


 ミアが口を開く。


 何かを言っている。


 声がない。


 ルナがアルトを呼ぶ。


 唇が動く。


 届かない。


 ガルムが吠える。


 喉も胸も動いているのに、音だけがない。


 マルタが小鍋を台へ強く置いた。


 金属が木へ当たった。


 何も聞こえない。


 共有表示だけが、音のない机の上で浮かんでいる。


【音響遮断:発生】


【聴覚経路:不通】


【聞こえなかった者:反応上昇】


 アルトは皿を押さえる。


 声を出しても意味がない。


 命令も届かない。


 名前を呼んでも届かない。


 口を動かすな。


 まず自分の体を見る。


 アルトは胸へ手を当てた。


 息を吸う。


 吐く。


 音は聞こえない。


 だが、胸の動きは分かる。


 ルナもアルトの動きを見て、自分の胸へ手を置いた。


 ミアは深皿を机へ置き、両手を胸へ当てる。


 ブルーノも。


 ミナも。


 ガルドも。


 マルタは小鍋から手を離し、自分の腹へ手を置いた。


 ガルムは鼻から長く息を吐いた。


 声ではなく、呼吸。


 名前ではなく、生きている動き。


 音のない店の中で、全員がそれぞれの息を置いた。


 ミアの吐いた息が、深皿の中の破片へ触れる。


 白い筋が一度だけ脈打つ。


 ルナの息が水面を揺らす。


 アルトの呼吸で浅い皿の縁に薄い曇りが生まれる。


 音はない。


 だが、届いている。


 共有表示に新しい行が浮かぶ。


【呼気反応:有効】


【声以前経路:接続】


【返答要求:なし】


 返事を求めない。


 名前を求めない。


 まず、生きていることだけを置く。


 アルトは深く息を吐いた。


 それに合わせるように、全員がもう一度息を吐く。


 ふ、と。


 音はまだ聞こえない。


 だが、鈴が揺れた。


 ちりん。


 小さな一音だけが、音のない場所へ穴を開けた。


 ミアが顔を上げる。


 今度は聞こえた。


 ガルムがもう一度鼻から息を吐く。


 ちりん。


 鈴が鳴る。


 マルタが小鍋を置く。


 かん。


 音が戻る。


 水差しが鳴る。


 こと。


 椅子が軋む。


 ぎ。


 外の荷車が石畳を擦る。


 赤猫亭へ、音が一つずつ帰ってきた。


【音響遮断:解除】


【聞こえなかった者:照合進行】


【補足:声ではなく、息が届いた】


 ルナは机へ手をついた。


 息が少し乱れている。


「聞こえなかったのではなく」


 声は戻っている。


 だが、彼女は一語ずつ確かめるように言った。


「返す場所が、なかった」


 共有表示が変わる。


【断片:呼ばれていた者は、声を聞けなかった】


【断片:息は届いていた】


【断片:返事の経路が、閉じていた】


 ミアが眉を寄せる。


「声は聞こえない。でも、息は分かる?」


「そうかもしれない」


 アルトが答える。


「なんで?」


「声には、向ける相手がいるからだ」


「息は?」


「なくても出る」


 ミアは少し考え、自分の胸へ手を置いた。


「ひとりでも?」


「ああ」


「じゃあ、声の行く場所がなかった?」


 共有表示が強く光った。


【補助語:声の住所】


【反応:高】


 ブルーノが思わず紙を開いた。


 だが、書く前にアルトを見る。


「一行」


 ブルーノは頷いた。


【声の住所がなかった】


 それだけを書いた。


 マルタが小鍋に手を置く。


「住所がなきゃ、届けようがないね」


 ルナは白い筋を見つめる。


「名前が砕けたから」


 共有表示が揺れる。


「誰へ向けた声なのか、結べなくなった」


【聞こえなかった者:照合一時保持】


【要素:息/声の住所/返事の経路】


【関係性:重複】


 アルトは表示を見つめた。


 聞こえなかった者。


 耳が悪かったわけではない。


 声が存在しなかったわけでもない。


 呼ばれていた。


 だが、呼び方が砕け、宛先が消え、返事の道が閉じた。


 だから聞こえない。


 だから返せない。


 だから、息だけが残った。


---


 照合を止めた後、マルタはスープを温め直した。


 小鍋が鳴る。


 かん。


 今度は全員に聞こえる。


 ミアはすぐ顔を上げた。


「聞こえた」


「毎回言わなくていい」


「確認」


 ガルドが椅子へ座る。


「確認はいる」


 ミアが少し得意そうになる。


「また言った」


「濃くするな」


「薄くする」


 ブルーノが紙を開いた。


 今日の記録は、昨日より少しだけ多い。


【耳ではない】


【聞こえない】


【返せない】


【声の住所】


【息は届く】


【返事の経路】


 マルタが覗く。


「今日は必要な分だね」


「はい」


 ルナはスープを食べながら、途中で何度も呼吸を確かめていた。声を出す必要はない。ただ息を吸い、吐き、スプーンを持ち、温かいものを口へ運ぶ。その普通の動作が、少し前まで音を失っていた店を現実へ戻していく。


「私は、聞いていた側でした」


 ルナが言う。


 アルトは水を飲む。


「ああ」


「声があったことも、呼ばれていたことも、知っていたつもりでした」


「ああ」


「でも、聞こえなかった者のことは、聞こえていませんでした」


 アルトはルナを見る。


 彼女は自分を責める声では話していない。


 ただ、気づいたことを皿へ置いている。


「聞いていたのに、聞こえていなかった」


 ミアがスープを冷ましながら言う。


「それ、ある?」


 マルタが答える。


「あるよ」


「耳で聞いても?」


「聞く場所が違うとね」


「難しい」


「難しいから、飯を食べる」


 ミアは納得してスープをすすった。


 ルナは小さく笑った。


「はい」


 アルトは深皿の中の破片を見る。


 同行者。


 聞こえなかった者。


 役割は分けて見ている。


 だが、痛みは近い。


 近いからこそ、混ぜない。


 誰か一人へ全部を背負わせない。


---


 昼を少し過ぎた頃、通信端末が震えた。


 レオンからだった。


《今日は、声が出ませんでした》


 アルトはすぐ通信端末を取る。


《今も出ないのか》


《今は出ます》


《痛みは》


《ありません》


 少し間が空く。


《足音は横にありました》


 アルトは深皿を見る。


 同行者の破片。


 横の足音。


《それから、呼ぼうとしました》


《誰を》


 返信はなかなか来なかった。


 店の全員が、何も言わずに待つ。


 マルタは小鍋を拭く。


 ブルーノは紙を閉じる。


 ミアは深皿の横へ手を置く。


 ルナは自分の胸に手を当て、ゆっくり息をする。


 通信端末が震えた。


《誰を呼べばいいか、分からなくなりました》


 さらに。


《声の出し方は分かるのに》


《声の向け先が分かりませんでした》


 アルトの視界に照合表示が浮かぶ。


【外部対象:レオン】


【聴覚/発声反応:あり】


【照合対象候補:聞こえなかった者】


【確定不可】


 アルトは表示を机上へ落とした。


 ブルーノが読み、息を止める。


「聞こえなかった者」


「まだ確定じゃない」


 アルトは通信端末へ視線を戻す。


 レオンへ名前を投げない。


 説明もしない。


 今できることだけを送る。


《無理に呼ぶな》


 既読。


《息を吐け》


 既読。


《水を飲め》


 既読。


《自分の皿を前に置け》


 既読。


《横の皿は横のままでいい》


 既読。


 少しして。


《息は、できました》


 店の中で、ミアが小さく息を吐いた。


「ふー」


 誰も止めない。


《水も飲みました》


 さらに。


《声は、まだ誰にも向けていません》


 アルトは返信する。


《それでいい》


 送ってから、少し考える。


 この言葉を使いすぎるな。


 だが、今は必要だった。


《向け先を思い出そうとするな》


 既読。


《声がなくても、息ができるなら今日はそこまでだ》


 既読。


 長い間。


《はい》


 アルトは通信端末を伏せた。


 共有表示には、レオンの近接反応が残っている。


【外部対象:レオン】


【声の住所:未照合】


【返事の経路:不明】


【確定:保留】


 ルナが言う。


「近い」


「ああ」


「でも、まだ本人とは決めない」


「ああ」


「皿を置く」


「ああ」


 ミアが深皿の横へ、空の浅い皿を一枚置いた。


「声の皿」


 アルトは眉を寄せる。


「名前をつけすぎるな」


「今日だけ」


「今日だけだ」


 空の皿。


 声の住所を探すための皿。


 まだ何も乗せない。


 誰の名前も置かない。


 ただ、空けておく。


---


 午後、客が三人来た。


 一人はよく話し、一人はほとんど話さず、もう一人は注文だけして窓の外を見ていた。


 話す客が笑う。


 話さない客が頷く。


 窓を見る客がスープを飲む。


 三人とも、食べている。


 声の量は違う。


 それでも、席はある。


 水もある。


 皿もある。


 注文が少なくても、声が小さくても、客であることに変わりはない。


 ミアはその三人を見比べ、マルタへ小声で聞いた。


「しゃべらない人も、お客?」


「もちろん」


「返事なくても?」


「食べてるからね」


「食べなかったら?」


「座ってても客だよ」


 ミアは空の浅い皿を見る。


「声なくても、席ある」


 共有表示は出ない。


 だが、ルナがその言葉を聞いて、少しだけ目を閉じた。


 赤猫亭の言葉としては、それで十分だった。


---


 夕方、音の確認をもう一度行った。


 小鍋。


 かん。


 水差し。


 こと。


 椅子。


 ぎ。


 鈴。


 ちりん。


 ミアは全部に頷いた。


「聞こえる」


 マルタが布巾を置く。


 きゅっ。


「これは?」


「聞こえた」


 ガルムが鼻を鳴らす。


「これは」


「聞こえた」


 ミアは自分でも息を吐く。


「ふー」


 全員に聞こえる。


 アルトの視界に整理表示が浮かんだ。


【聞こえなかった者:照合一時保持】


【要素:息/声の住所/返事の経路】


【外部対象:レオン/近接】


【確定:保留】


【次対象候補:残った者】


 アルトは表示を机上へ共有する。


 ブルーノが最後の行を読む。


「次対象候補、残った者」


 ミアが空の皿を見る。


「残ったら、待つ?」


 誰もすぐに答えない。


 残る。


 待つ。


 同じように見える。


 だが、残されたのか。


 自分で残ったのか。


 誰かを待つために残ったのか。


 帰れずに残ったのか。


 意味は違う。


 マルタが残った芋を籠へ入れる。


「芋は、明日の朝に使うよ」


 ミアがそちらを見る。


「残った芋?」


「そう」


「待ってる?」


「腐らないように置いてる」


 ガルドが短く言う。


「残るなら、腐らせるな」


 ミアが眉を寄せる。


「芋も、人も?」


 ガルドは答えなかった。


 マルタが芋籠へ布をかける。


「明日の話だよ」


 今は、聞こえなかった者の皿まで。


 残った者は、まだ皿へ乗せない。


 その境目を守るため、アルトは共有表示を閉じた。


---


 店じまいの音が、一つずつ重なる。


 鈴。


 ちりん。


 小鍋。


 かん。


 水差し。


 こと。


 皿。


 からん。


 布巾。


 きゅっ。


 ミアの息。


 ふー。


 どれも聞こえる。


 同行者の破片は深皿の中。


 小皿はその横。


 空の浅い皿は、さらに少し離れた場所へ置いた。


 声の住所を探す皿。


 まだ何も乗っていない。


 ブルーノは紙に今日の分だけを書く。


【耳ではない】


【息は届く】


【声の住所】


【返事の経路】


【レオン:近接/確定不可】


【次:残った者】


 マルタが見る。


「今日はそこまで」


「はい」


 ルナは空の皿を見つめる。


「聞こえなかった者にも、息はありました」


「ああ」


 アルトは答える。


「声がなくても」


「ああ」


「返せなくても」


「ああ」


「生きている音はあった」


「ああ」


 ルナは自分の胸へ手を置き、静かに息を吐いた。


 ミアも真似をする。


「ふー」


 今度は誰も意味を足さなかった。


 ただの息。


 それでよかった。


 灯りが落ちる。


 赤猫亭は閉まった。


 空の皿は、浅い皿の横に残した。


 声が戻った時、どこへ置けばいいか分からなくならないように。


 誰かが呼んだ時、返事の道が閉じたままにならないように。


 最後にミアが、鈴を振り返る。


「今日は、全部聞こえた」


 アルトは頷いた。


「ああ」


 だが、聞こえたから終わりではない。


 聞こえなかった者は、耳を失ったのではなかった。


 声の住所を失い、返事の道を閉ざされていた。


 そして、同じ道のどこかに、二十二年以上残り続けた者がいる。


 それを確かめるのは、次の皿だった。


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