第117話 同行者の皿
小皿の破片は、真ん中ではなく端を見ているようだった。
そう見えるだけかもしれない。黒い小さな欠片に目があるわけではないし、皿の上で向きを変えたわけでもない。それでも、赤猫亭の机に置かれたものは時々、ただの物ではなくなる。皿は皿のまま、破片は破片のまま、それでも何かをこちらへ向ける。
ミアが深皿を抱えたまま、小皿の右側を指した。
「横」
その一言で、店の空気が少し変わった。
アルトは小皿を見る。
「横?」
「うん。破片、横見てる」
「破片に目はない」
「でも、横」
ミアは譲らない。
こういう時のミアは、変なことを言っているようで、だいたい何かを踏んでいる。芋だったり、皿だったり、さみしさだったりするので、油断できない。
ルナが階段の途中で止まった。
今日も水は机に置いてある。両手は空いている。
「横、ですか」
ミアは頷く。
「正面じゃない」
ブルーノは紙を開きかけて、止めた。
今日は最初から薄く書くつもりで、紙の端に小さく一行だけ書いていた。
【順番を決めすぎない】
マルタが厨房から小鍋を持ってくる。
かん。
軽い音が、机の上に落ちた。
「今日は、どれから見るんだい」
アルトは小皿から目を離さない。
「到達者から見るべきかと思ってた」
「思ってた、って顔じゃないね」
「ああ」
アルトの視界の端に、神界配信UIとは別の薄い照合表示が浮かぶ。昨日から続く、旧待機区画由来の文字列だ。アルトはそれをすぐには机上へ落とさず、自分だけで確認した。
【個別照合:開始前】
【到達者:照合保留】
【同行者:反応上昇】
アルトは表示を指先で払うようにして、机の上へ落とした。
薄い文字が、小皿と水差しの間に浮かぶ。
ブルーノが息を呑む。
「同行者」
マルタが小鍋に手を置いた。
「芋じゃなかったね」
ミアが深皿を抱え直す。
「横の人?」
アルトは頷いた。
「たぶん、今日はそっちだ」
ルナは机に近づいた。
三本の白い筋。
その横に小皿。
小皿の上の破片。
そして、破片は確かにわずかに横を向いているように見えた。
錯覚かもしれない。
だが、今はその錯覚を雑に捨てない。
赤猫亭は、そういう店になっている。
共有表示に次の文字が浮かぶ。
【照合対象:同行者】
【照合方式:食堂式】
【注意:正面固定禁止】
マルタが笑った。
「真正面から見るなってさ」
アルトは浅い皿の横へ立った。
「いつも通りだな」
誰も真正面に立たない。
誰も一人で背負わない。
今日は、横を見る日だった。
◇
朝食は、細長く切った芋が入ったスープだった。
ミアがそれを見て言う。
「芋、横長い」
「たまたま」
マルタが答える。
「ほんと?」
「半分ほんと」
「半分うそ」
「半分仕込み」
ミアは満足した。
「同行芋」
「名前をつけすぎない」
「じゃあ、横芋」
「それもどうだろうね」
アルトはスープを飲んだ。
芋が口の中で横に滑る。
噛む。
少し熱い。
でも食べられる。
ルナは水を一口飲んでから、芋を食べた。
「横にあると、少し安心します」
アルトが見る。
「真正面よりか」
「はい」
ルナはスプーンを置く。
「真正面に立たれると、答えなければいけない気がします」
「横なら」
「一緒に見られます」
ブルーノがそれを紙に書こうとして、止めた。
アルトが見る。
「書いていいぞ」
「濃くなりませんか」
「短く」
ブルーノは書いた。
【横なら、一緒に見られる】
それだけ。
マルタが覗いて頷いた。
「いいね」
ガルドは椅子の脚を確認している。
「横でも滑る時は滑る」
ミアが真剣に頷く。
「じゃあ横でも押さえる」
「そうだ」
ガルムは入口ではなく、今日は真ん中の机の左横に伏せていた。
鈴は見える位置。
机も見える位置。
どちらにも走れる。
アルトが聞く。
「そこか」
「横を見る」
ガルムは短く答えた。
「入口も見る」
「忙しいな」
「忙しい」
マルタが笑った。
「みんな忙しいね」
その笑いが、少しだけ朝の緊張をほどいた。
だが、完全にはほどけない。
今日は照合する。
同行者を。
そして、レオンの言葉がまだ残っている。
誰かと一緒にいた気がしました。
その一文が、アルトの中で何度も響いていた。
◇
食後、配置についた。
昨日と似ているが、少し違う。
小皿は机の真ん中ではなく、浅い皿の横に置く。
深皿はそのさらに横。
水差しは右。
小鍋は厨房側。
木の皿は机の脚の下。
ブルーノは小皿の真正面ではなく、斜め横。
ルナはアルトの横。
アルトは浅い皿の横。
ミアは深皿の横。
今日は、横が多い。
マルタが小鍋を鳴らす。
かん。
アルトの視界に表示が開く。
【照合対象:同行者】
【到達者:照合保留】
【同行者:反応高】
【照合開始:可】
アルトはそれを机上へ共有する。
薄い文字が、皿の間に浮かんだ。
アルトは息を吸った。
「始める」
ルナが頷く。
「はい」
共有表示に文字が出る。
【同行者:定義照合】
【候補語:横にいた者】
ミアが深皿を抱えたまま小さく言う。
「横の人」
共有表示が揺れる。
【補助語:横】
【反応:高】
ブルーノが読む。
「横、反応高」
アルトは小皿を見る。
破片がわずかに震えた。
机ではない。
破片だけが。
小皿の上で、黒い破片が横へ滑りかける。
ミアが即座に深皿を差し出した。
とん。
破片は小皿の縁で止まった。
深皿には落ちない。
だが、深皿があったから止まったようにも見えた。
「受けた?」
ミアが聞く。
「落ちてない」
アルトが答える。
「でも、受ける準備はした」
共有表示が光る。
【受皿反応:有効】
【同行者:保持】
ミアが息を吐く。
「深皿、横にいる」
「そうだな」
横にいる。
それだけで、落ちないものがある。
白い筋が淡く光る。
アルトの視界の端に、新しい断片が開いた。
映像ではない。
音の情報だ。
【再生断片:足音】
店の床が、一度鳴った。
こつ。
誰も歩いていない。
ガルムが顔を上げる。
「足音」
もう一度。
こつ。
今度は、机の横から。
ミアが深皿をぎゅっと抱える。
「誰かいる?」
ガルムが鼻を鳴らす。
「いない」
「じゃあ、音だけ?」
「残り」
床が、三度目に鳴った。
こつ。
アルトはその音を聞いた。
真正面ではない。
横を歩く音。
隣にいる足音。
視界表示に、次の文字が浮かぶ。
【同行者断片:足音】
【位置:右側】
【視認要求:なし】
アルトは文字だけを机上へ落とした。
ブルーノが呟く。
「映像ではなく、足音」
「見るなってことだろ」
アルトは答えた。
「今日は横の音で見る」
マルタが小鍋を置いた。
かん。
「なら、音で合わせな」
床が鳴る。
こつ。
小鍋が鳴る。
かん。
その二つの音が、ずれながらも同じ店の中にある。
白い筋は伸びない。
破片は小皿に残っている。
共有表示の文字が変わった。
【同行者:反応安定】
ルナが息を吐いた。
「横にいた者は、消えていません」
「ああ」
「でも、見えません」
「ああ」
「足音だけが、残っている」
アルトは頷いた。
「それで今は十分だ」
その時、アルトの通信端末が震えた。
レオンだった。
◇
《今日は、足音がしました》
アルトは通信端末を見た。
店の全員が、自然に動きを止めた。
レオンは、こちらの照合を知らない。
だが、同じ言葉が来た。
《どこの》
すぐに返信する。
《自分の部屋です》
少し間。
《自分の足音ではありません》
アルトは奥歯を噛んだ。
《怖いか》
《はい》
既読の後、少し長く止まる。
《でも、後ろではありませんでした》
さらに。
《横でした》
ミアが深皿を抱えたまま、小さく息を吸う。
ルナの手が机に触れる。
ブルーノは紙を開かない。
マルタは小鍋に手を置く。
ガルドは椅子を押さえる。
ガルムが低く唸る。
アルトの視界に、警告のような照合表示が走った。
【外部対象:反応あり】
【照合対象候補:レオン】
【同行方向:横】
【確定不可】
アルトはそれを机上へ共有した。
ブルーノが小さく読む。
「レオン。同行方向、横。確定不可」
確定不可。
だが、出た。
レオン。
同行方向、横。
アルトは返信を打とうとして、止めた。
何を送る。
大丈夫だ、では軽い。
気のせいだ、は違う。
思い出せ、は最悪だ。
アルトは水差しを見た。
《水は》
《飲みました》
《皿は》
《出しています》
《机は》
《手を置いています》
アルトは少しだけ息を吐いた。
最低限はできている。
なら、次。
《横を見なくていい》
送る。
既読。
《足音が横にあっても、見なくていい》
既読。
《水を飲め。皿を置け。足は床につけておけ》
既読。
少し間。
《はい》
さらに。
《横にいた人を、見捨てた気がします》
店の空気が重くなった。
ルナの手が震える。
アルトはすぐに返信しない。
返信してはいけない言葉が、いくつも浮かぶ。
違う。
お前は悪くない。
見捨てていない。
どれも早い。
どれも皿を飛び越える。
マルタが小さく言った。
「皿を通しな」
アルトは頷いた。
《まだ決めるな》
送る。
《それは、責めるための皿じゃない》
続ける。
《横にいたものを、今すぐ名前にするな》
既読。
長い間。
そして返信。
《息が、少し戻りました》
アルトは通信端末を伏せた。
レオンの線が、はっきり近づいた。
だが、まだ確定ではない。
同行者本人か。
同行者の残響を持っているのか。
帰還処理に混ざったのか。
それはまだ分からない。
だが、彼は横にいた足音を聞いた。
そして、自分が誰かを見捨てた気がしている。
その痛みは、同行者の皿に乗せなければいけない。
◇
共有表示は閉じていなかった。
文字が、皿の間で揺れ続けている。
【同行者:反応上昇】
【外部対象:レオン】
【感情語:見捨てた】
【同化傾向:微弱】
白い筋が、机の横へ伸びた。
真正面ではない。
小皿の横。
深皿の方へ。
ミアが深皿を強く抱える。
「こっち来る」
「離すな」
アルトが言う。
白い筋は、深皿の手前で止まった。
だが、皿の縁が白くなりかける。
ミアの目が潤む。
「深皿、白くなる」
マルタが小鍋を鳴らす。
かん。
ガルドが低く言う。
「皿を敵にするな」
ミアは頷く。
「敵じゃない」
「じゃあ、何だ」
「受ける皿」
「なら、受けろ」
ミアは深皿を机に置いた。
両手で押さえる。
「受ける。でも、白くならない」
その声が、店に通った。
共有表示が光る。
【受皿反応:強化】
【同化傾向:停止】
白い筋が止まった。
だが、次の瞬間、小皿の破片が跳ねた。
軽く。
まるで何かに押されたように、皿の縁へ滑る。
ブルーノが反応する。
手を伸ばす。
だが、アルトが叫んだ。
「手じゃない!」
ブルーノは止まる。
ミアが深皿を横へ滑らせる。
とん。
破片が小皿の縁から落ち、深皿の内側に転がった。
からん。
重い音。
ミアの体がびくっと震える。
だが、皿は落とさない。
「受けた!」
ミアが叫ぶ。
ブルーノが目を見開く。
ガルドが椅子を押さえながら笑う。
「今のは、拾うより先だ」
ブルーノは悔しそうではなかった。
大きく頷いた。
「はい!」
アルトの視界に表示が浮かび、すぐ机上へ落ちる。
【同行者破片:受皿保持】
【照合対象:同行者】
【反応:高安定】
深皿の中で、黒い破片が小さく震えている。
ミアの深皿。
さみしいのがこぼれると困るから選んだ皿。
そこに、同行者の破片が乗った。
ルナが声を震わせた。
「同行者は、こぼれそうだった」
アルトは頷く。
「ああ」
「誰かの横にいたのに」
「ああ」
「こぼれそうだった」
ミアが深皿を抱えたまま言う。
「横にいても、さみしい?」
誰もすぐに答えなかった。
マルタが静かに言った。
「あるよ」
白い筋が薄くなる。
共有表示に文字が浮かぶ。
【照合補助語:横にいてもさみしい】
【反応:安定】
ルナの目から涙が落ちた。
だが、声は崩れない。
「横にいたからこそ、置いていかれた時に分かった」
共有表示が揺れる。
【同行者:照合深度上昇】
アルトは皿を押さえる。
「濃くしすぎるな」
「はい」
ブルーノが言う。
「これ以上進むと、レオンさんに引っ張られる可能性があります」
共有表示が変わる。
【外部対象:レオン】
【同期傾向:微弱】
【推奨:分離保持】
分離保持。
アルトは即座に言った。
「切り離すんじゃない。混ぜるな」
ブルーノが頷く。
「はい」
マルタが小鍋を鳴らす。
かん。
「こっちはこっち。あっちはあっち。でも皿は置ける」
ルナが頷いた。
「はい」
アルトは通信端末を取り、レオンへ短く送った。
《今は、自分の皿を見ろ》
既読。
《横にいた誰かの皿まで、持たなくていい》
既読。
しばらくして。
《はい》
さらに。
《でも、空の皿を横に置きました》
アルトは画面を見つめた。
空の皿を横に。
レオンの部屋にも、横の皿ができた。
視界表示が浮かぶ。
【外部対象:レオン】
【自己皿:確認】
【横皿:確認】
【同期傾向:低下】
アルトはそれを共有に回した。
ブルーノが読んで、息を吐く。
アルトも息を吐いた。
よし。
混ざらなかった。
だが、つながった。
赤猫亭の店内で、ミアの深皿が同行者の破片を受けた。
外では、レオンが自分の皿と横の皿を分けた。
それが、今できる最善だった。
◇
昼過ぎ、照合は一時停止された。
アルトの視界に残った整理表示だけを、机上へ共有する。
【同行者:照合一時停止】
【同行者破片:受皿保持】
【外部対象:レオン】
【同期傾向:低下】
【確定:不可】
【関係:近接】
近接。
確定ではない。
だが、近い。
ブルーノが読む。
「レオンさんが同行者本人かどうかは、まだ確定できません」
「ああ」
アルトは頷く。
「でも、近い」
「はい」
「近いまま、置く」
「はい」
ミアは深皿を膝に乗せている。
破片は小皿へ戻していない。
まだ深皿の中。
マルタが言う。
「しばらく、そこだね」
ミアは頷いた。
「深皿、持っとく」
「重いかい」
「重い」
「置く?」
ミアは少し考える。
「横に置く」
深皿を、自分の膝ではなく、机の横へ置いた。
自分が持ち続けない。
でも、遠くにやらない。
横に置く。
【受皿位置:横】
【同行者:安定】
ルナがそれを見て、小さく息を吐いた。
「横に置けるのですね」
アルトは頷いた。
「持ち続けなくていい」
「はい」
「でも、置き去りにもしない」
「はい」
それが、同行者の皿なのだろう。
持ち続けると重すぎる。
遠くに置くと、置いていく。
横に置く。
見える場所に。
手が届く場所に。
でも、自分の体の中には入れない。
ミアが深皿を見る。
「横皿」
「名前をつけすぎるな」
アルトが言う。
「今日だけ」
「今日だけならいい」
マルタが笑った。
◇
午後、赤猫亭は少しだけ開いた。
客は二人。
普通に入り、普通に座り、普通に食べた。
真ん中の机は使わない。
深皿は横に置いたまま。
客の一人が小鍋の音を聞いて言った。
「今日は賑やかですね」
マルタは答えた。
「そうかい」
「音が多い」
その言葉に、ガルムの耳が動いた。
ブルーノも顔を上げた。
音が多い。
白い場所と逆の言葉。
マルタはスープを出しながら言う。
「食堂だからね」
客は笑った。
「それもそうですね」
それだけ。
ただの会話。
でも、今日の赤猫亭には必要だった。
照合が進んでも、店は店でなければいけない。
謎だけの場所になってはいけない。
ルナは客の横に置かれた荷物を見ていた。
誰かの隣にあるもの。
持ってはいない。
でも、置いていないわけでもない。
横にある。
彼女は小さく呟いた。
「横は、置き去りではない」
アルトはそれを聞いた。
表示は出ない。
それでよかった。
これはシステムに載せる言葉ではなく、ルナが自分の中で置いた言葉だった。
◇
夕方、レオンからもう一度、通信端末に連絡が来た。
《横の皿を、まだ置いています》
アルトは通信端末を見る。
《自分の皿は》
《前にあります》
《横の皿は》
《右にあります》
《足音は》
《少し小さくなりました》
アルトは息を吐いた。
《見たか》
《見ていません》
《いい》
少し間。
《でも、横にいる気はします》
アルトは返事を考える。
ルナが近くに立つ。
ミアも深皿を抱えている。
マルタは小鍋を拭きながら聞いている。
アルトは打った。
《横にいるものを、今すぐ自分にするな》
既読。
《でも、消すな》
既読。
《皿に置け》
既読。
しばらくして、返事。
《はい》
さらに。
《少し、楽です》
アルトは通信端末を伏せた。
レオンは、少なくとも今日、呑まれなかった。
同行者の痛みを自分だけの罪にしなかった。
横に皿を置けた。
それだけで、十分だった。
アルトの視界に表示が浮かぶ。
【外部対象:レオン】
【横皿:維持】
【同期傾向:低位安定】
【同行者照合:保持】
アルトはそれを共有表示へ回す。
ブルーノが読む。
「低位安定」
アルトは頷く。
「今日はここまでだ」
ミアが深皿を見る。
「同行者、終わり?」
「終わりじゃない」
アルトは答える。
「でも、今日は皿に乗った」
ミアは深皿を見て、頷いた。
「横に」
「ああ。横に」
◇
夜、深皿の中の破片を小皿へ戻すかどうかで、少し話し合った。
ミアは戻したくなさそうだった。
「戻すと、ひとりになる」
小皿が。
破片が。
どちらのことを言っているのか分からない。
マルタが言う。
「じゃあ、小皿を横に置こうか」
深皿の隣に、小皿を置く。
破片は深皿の中。
小皿は横。
変な配置だ。
だが、悪くない。
アルトの視界に表示が浮かび、机上に共有される。
【同行者破片:受皿保持】
【原皿:横配置】
【状態:安定】
ミアがほっとした。
「よかった」
ガルドが言う。
「皿も同行するのか」
マルタが笑う。
「今日はそういう日だね」
ルナはその二枚の皿を見ている。
「横にあることは、軽いことではありませんね」
アルトは頷いた。
「ああ」
「でも、背負うこととも違います」
「ああ」
「置いていくこととも違う」
「ああ」
ルナは水を飲んだ。
「同行者の皿は、横に置く」
共有表示は反応しない。
だが、赤猫亭の中では、それで十分だった。
アルトは机の白い筋を見る。
三本の筋。
その横に、二枚の皿。
小皿と深皿。
同行者の破片。
そして、遠くのどこかで、レオンも空の皿を横に置いている。
つながっている。
でも、混ざっていない。
それが今日の到達点だった。
◇
店を閉める。
鈴が鳴る。
ちりん。
小鍋が鳴る。
かん。
水差しが置かれる。
こと。
皿を重ねる。
からん。
深皿と小皿は、重ねない。
横に置く。
布で机を拭く。
きゅっ。
白い筋は消えない。
でも、広がらない。
ミアが深皿の横で息を吹く。
ふー。
冷ましすぎない音。
ブルーノは紙に薄く書いた。
【同行者】
【横】
【レオン:近接/確定不可】
【横皿】
【混ぜない】
それだけ。
アルトはそれを見て頷いた。
濃すぎない。
でも、消さない。
ルナは真ん中の机に手を置く。
「今日は、同行者を見ました」
「ああ」
「でも、誰かは決めませんでした」
「ああ」
「レオンさんも、皿を横に置けました」
「ああ」
「なら、少し進めました」
アルトは頷く。
「進んだ」
ミアが小さく言う。
「横に」
マルタが笑った。
「そうだね」
横に進んだ。
前ではなく。
後ろでもなく。
横に。
それは、同行者を見る日には、いちばん正しい進み方だった。
鈴が鳴った。
ちりん。
だが、ミアだけが顔を上げなかった。
アルトが見る。
「今の、聞こえたか」
ミアは深皿を抱えたまま、少し遅れて瞬きをした。
「……今、鳴った?」
ガルムが鈴を見上げる。
「鳴った」
ミアは自分の耳に触れた。
「ちょっとだけ、音がなかった」
店の中が静かになる。
マルタは小鍋から手を離さない。
ルナは机に置いた手を少しだけ強くする。
ブルーノは紙を開かない。
アルトは鈴を見る。
鈴は、普通に揺れている。
普通に鳴った。
だが、ミアには一瞬、届かなかった。
アルトの視界に、淡い表示が浮かぶ。
【次対象候補:聞こえなかった者】
【聴覚反応:微弱】
アルトはそれを共有に回す。
ミアは深皿を抱え直した。
「次、音ないの?」
アルトはすぐ答えなかった。
音がない。
白い場所。
聞こえなかった者。
次は、そこへ近づく。
マルタが小鍋を軽く置いた。
かん。
「今日は、まだ鳴るよ」
ミアはその音を聞いて、ほっとした。
「今のは聞こえた」
「なら、今日はそこまでだ」
アルトが言う。
共有表示は閉じられた。
赤猫亭は閉まった。
明日、また開く。
同行者の破片は、深皿の中にある。
小皿は、その横にある。
誰も置いていかないために。
誰かと混ざりすぎないために。
横に。
そして次は、聞こえなかった者の皿が、少しだけ音のない方を向いていた。




