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第114話 守る配置

 白い筋は、朝になっても消えていなかった。


 真ん中の机。


 木目の端。


 昨日、白い場所が一度だけ触れた場所に、細い白さが残っている。


 傷というには浅い。


 汚れというにはきれいすぎる。


 光ではない。


 塗料でもない。


 ただ、そこだけ木が音を失ったように、白い。


 アルトは机の前で足を止めた。


 触れない。


 すぐには。


 昨日、ここへ白い場所が触れた。


 攻撃ではなかった。


 端末はそう出した。


【境界接触:非攻撃】


 だが、安全とも出なかった。


 それが、今もアルトの中に残っている。


 非攻撃。


 安全ではない。


 その間。


 マルタが厨房から出てきた。


 手には布巾。


「見てるね」


「ああ」


「拭く?」


「消えないだろ」


「消えなくても拭くんだよ」


 マルタは机に近づき、白い筋の少し横を拭いた。


 直接は触れない。


 周りから。


 きゅっ。


 きゅっ。


「傷を偉くしない」


「白い傷でもか」


「白い傷でも」


 アルトは頷いた。


 黒い傷も、白い筋も。


 残ったものは、手入れする。


 読取準備は、昨日完了した。


【読取準備:席設定完了】


 だが、読むわけではない。


 今日、読むのか。


 その問いが喉元まで上がってきて、アルトは水差しを見た。


 まだ空だ。


 水もないのに読むな。


 そんな気がした。


 ルナが階段を下りてきた。


 今日のコップは半分より少し多い。


 昨日より重そうだ。


 けれど、こぼれてはいない。


 彼女は机の白い筋を見る。


 足が止まる。


「まだ、あります」


「ああ」


「怖いです」


「逃げたい怖さか」


「いいえ」


 ルナはコップを持ち直す。


「守らないといけない怖さです」


 マルタが布巾を止めた。


 アルトも、白い筋から目を離してルナを見る。


 守らないといけない怖さ。


 昨日までの怖さとは、また違う。


 逃げたい怖さ。


 座れてしまう怖さ。


 席を整えたい怖さ。


 そして今日。


 守らないといけない怖さ。


「何を守る」


 アルトが聞く。


 ルナはすぐには答えなかった。


 机を見る。


 白い筋。


 水差しを置く場所。


 浅い皿の位置。


 木の皿を置いた足元。


「席を」


 まず言った。


「皿を」


 次に。


「水を」


 さらに。


「音を」


 少し間。


「読む前の、ここを」


 アルトは頷いた。


 読む前の、ここ。


 それは、赤猫亭が何話もかけて整えてきた場所だ。


 皿を選び、言葉を冷まし、第一文を置き、第二文を店で言い、席を整えた。


 白い場所が触れたからといって、ここを白い場所の形にしてはいけない。


「今日は、読む前に守る」


 アルトが言うと、端末が小さく震えた。


【読取準備:席設定完了】


【防衛配置:未設定】


 ミアが階段から顔を出した。


「ぼうえい?」


 ブルーノが後ろから来て、端末を見る。


「防衛配置」


 ガルドが壁際から低く言った。


「やっと出たか」


 アルトはガルドを見る。


「分かってたのか」


「昨日、触れた」


 それだけで十分だった。


 触れたなら、次は守る。


 その単純さが、ガルドらしい。


 ◇


 朝食は、少しだけ遅れた。


 先に配置を決めることになったからだ。


 マルタは不満そうだったが、完全には止めなかった。


「朝飯は飛ばさないよ」


「分かってる」


「先に決めるだけだ」


「決めすぎるなよ」


「分かってる」


 ミアが深皿を抱えて、真ん中の机の周りを歩く。


「ここ?」


 皿を置こうとする。


 マルタが止める。


「そこは水」


「じゃあここ?」


「そこは手」


「ここは?」


 ガルドが言う。


「足元」


「ミアの皿、足元?」


「違う。落ちるものを受ける皿だ」


「ミアの深皿は?」


 アルトが浅い皿の手前を指さす。


「ここ」


 机の中央ではない。


 手前。


 すぐ届く。


 だが、白い筋からは少し離れている。


「こぼれたら受ける」


 ミアは真剣に頷いた。


「こぼさない。でも、こぼれたら受ける」


「そうだ」


 ブルーノは紙を持って立っている。


 机には置かない。


 昨日と同じ。


「私は」


「紙を閉じる」


 アルトが言う。


 ブルーノは少しだけ目を瞬かせた。


「記録しないのですか」


「するなら後だ」


 マルタが言う。


「守る時に、紙を見てる暇はないよ」


 ブルーノは紙を閉じた。


 両手で持つ。


「では、見る役に」


「違う」


 ガルドが言った。


「落ちるものを拾う役だ」


 ブルーノは少し固まった。


「私が、ですか」


「お前は何が落ちたか、すぐ見る」


 ガルドは木の皿を足元に置く。


「なら拾え」


 ブルーノはゆっくり頷いた。


「分かりました」


 ミアが言う。


「ブルーノ、拾う係」


「はい」


「書かない係でもある」


「はい」


 ブルーノは真剣に頷いた。


 ガルムは入口にいた。


 昨日までは真ん中の机の近くにいたが、今日は入口へ戻っている。


 鼻を低くする。


「入口か」


 アルトが聞く。


「白い場所は机に触れた」


「ああ」


「だが、来るなら入口も見る」


「来るのか」


「分からん」


 ガルムは短く答えた。


「分からんから守る」


 それは、ガルドと似ていた。


 分からないから置く。


 分からないから守る。


 赤猫亭らしくなってきたのかもしれない。


 マルタは小鍋の位置を決めた。


 机の上ではなく、厨房側の台。


 だが、すぐ鳴らせる場所。


 音を偉くしない。


 でも、使えるように。


 ミナは水差しを右側へ置く。


 手を伸ばせば届く。


 倒れても、浅い皿にはかからない角度。


 ルナは机の左側。


 昨日と同じようで、少し違う。


 白い筋の正面ではない。


 半歩ずれている。


「そこか」


 アルトが聞く。


「はい」


「理由は」


「白い筋だけを見ないためです」


 アルトは頷いた。


 それでいい。


 白い筋を見続けると、白い筋が主役になる。


 今日は守る配置の日だ。


 白い筋を主役にしてはいけない。


 端末が震える。


【防衛配置:仮設定】


【対象:席/机/皿/水/音】


【除外条件:攻撃化】


 ミアが首を傾げる。


「攻撃化?」


 ブルーノが説明しかける。


 止まる。


 アルトが答えた。


「戦いにしすぎないってことだ」


 ガルドが鼻を鳴らす。


「でも守る」


「ああ」


「守るのは戦いじゃない?」


 ミアが聞く。


 マルタが言った。


「掃除と同じだよ」


「掃除?」


「汚れを敵にしすぎると疲れる。でも拭かないと汚れる」


 ミアは真剣に考えた。


「防衛、掃除?」


「半分ね」


 ミアは納得した。


「半分防衛、半分掃除」


 ブルーノは紙に書きかけて、やめた。


 今日は、書かない係だ。


 ◇


 朝食は、防衛配置の後になった。


 豆と芋のスープ。


 黒パン。


 水。


 少しだけ焼き芋。


 焼き芋は、ミア用ではなく全員に一切れずつ出た。


「今日は力がいる」


 マルタが言った。


「戦うのか」


 アルトが聞くと、マルタは首を横に振る。


「支える」


 ルナは焼き芋を一切れ持つ。


 ふーっと吹こうとして、止める。


「冷ましすぎない」


 ミアが言う。


 ルナは少し笑った。


「はい」


 一度だけ息を吹く。


 食べる。


 水を飲む。


「どうだ」


 アルトが聞く。


「手が、少し温かくなりました」


「いい」


 ガルドは黙って食べている。


 いつもより早い。


 マルタが見る。


「急がない」


「分かっている」


「急いでる」


「守る前に腹を入れている」


 ミアが言う。


「ガルド、腹防衛」


「違う」


「でも近い?」


 ガルドは少し黙った。


「少し」


 ミアは満足した。


 ブルーノはスープを飲みながら、机を見ている。


 紙は閉じたまま横に置いてある。


 手元にないと落ち着かないらしい。


 だが、開かない。


「大丈夫か」


 アルトが聞くと、ブルーノは頷いた。


「手が、少し空いています」


「不安か」


「はい」


「でも?」


「拾えます」


 ガルドが短く言った。


「それでいい」


 ブルーノは少しだけ背筋を伸ばした。


 ルナはそのやり取りを見ていた。


 自分だけではない。


 誰か一人が守るのではない。


 配置そのものが守る。


 店が言う。


 店が守る。


 その形が、少しずつできている。


 ◇


 昼前、普通の客は来なかった。


 珍しいことだった。


 鈴は鳴らない。


 通りの音も少ない。


 赤猫亭の中だけが、少し静かだった。


 静かすぎる。


 ミアが入口を見る。


「今日、客こない?」


 マルタが鍋を見ながら言う。


「そういう日もある」


「席、仕事中だから?」


「それは関係ないと思うよ」


 ガルムが低く唸った。


 入口ではない。


 真ん中の机でもない。


 天井を見ている。


 アルトはすぐ反応した。


「どこだ」


「上」


「二階か」


「違う」


 ガルムの毛が少し逆立つ。


「音がないところ」


 店の中の空気が、少し変わった。


 音がないところ。


 白い場所。


 旧待機区画。


 端末が震える。


【旧待機区画:境界接触履歴あり】


【防衛配置:仮設定】


【外部圧:微増】


【接触方向:未定】


 マルタが小鍋に手を置いた。


 まだ鳴らさない。


 アルトは浅い皿の位置を確認する。


 ミアは深皿に両手を添える。


 ブルーノは紙を閉じたまま、足元を見る。


 落ちたものを拾うため。


 ルナは机に手を置かない。


 まだ。


 必要な時に置く。


 ガルドは木の皿を足元へ寄せた。


「来るぞ」


「攻撃か」


 アルトが聞く。


 端末はすぐに答えた。


【強制接近:なし】


【攻撃判定:なし】


【接触予兆:あり】


 攻撃ではない。


 でも、触れる。


 昨日と同じ。


 いや、昨日より分かっている。


 だから、昨日より動ける。


 マルタが言った。


「配置につきな」


 その一言で、全員が動いた。


 派手ではない。


 だが、速かった。


 ミナが水差しを右へ。


 こと。


 アルトが浅い皿の横へ。


 ミアが深皿を手前へ。


 ブルーノが机の下の木の皿を見る。


 ガルドが椅子の脚に足を添える。


 ガルムが入口から机の横へ走る。


 マルタが小鍋を持つ。


 ルナが白い筋の少し横へ手を置く。


 その瞬間、鈴が沈黙した。


 鳴らない。


 揺れもしない。


 ただ、店の入口の音が消えた。


 次に、真ん中の机の白い筋が、薄く光った。


 昨日より細い。


 だが、速い。


 木目の中を走るように、白い線が机の端から中央へ伸びる。


 アルトは皿を押さえた。


「来るな」


 言いかけて、飲み込む。


 命令にするな。


 アルトは言い直した。


「ここは、赤猫亭だ」


 白い筋は止まらない。


 ガルドが椅子の脚を押さえる。


 ぎ、と椅子が鳴る。


 椅子が、ほんの少しだけ後ろへ引かれた。


 誰も触っていない。


 ミアが息を呑む。


「椅子が」


 ガルドが足で脚を押さえた。


「滑るな」


 低い声。


 椅子が止まる。


 マルタが小鍋を置く。


 かん。


 白い筋の速度が少し落ちる。


 ミナが水差しを支える。


 水面が揺れる。


 こぼれない。


 ルナは机に手を置いている。


 昨日より強く。


 だが、押し返してはいない。


「これは、命令ではありません」


 彼女が言った。


 声は震えている。


 でも、通った。


「責めでもありません」


 白い筋が、ほんの少しだけ薄くなる。


 端末が震える。


【境界接触:再発】


【侵入深度:表層】


【接触対象:机/椅子】


【攻撃判定:なし】


【同化傾向:微弱】


 同化。


 アルトの背中に冷たいものが走った。


 攻撃ではない。


 だが、机と椅子を白い場所の形に近づけようとしている。


 それは、壊すことではない。


 しかし、奪うことに近い。


「皿を離すな」


 アルトが言う。


 ミアが深皿を抱える。


「離さない」


 ブルーノが机の下で、木の皿がずれかけたのを見つけた。


 飛び込む。


 手を伸ばす。


 拾うのではない。


 押さえる。


 木の皿の縁に指をかけ、机の脚の下へ戻す。


「戻しました」


「よし」


 ガルドが短く言う。


 ガルムが白い筋の近くで唸る。


 噛まない。


 吠えない。


 匂いを守るように、芋の籠と机の間に立つ。


 マルタが鍋をもう一度置く。


 かん。


 今度は少し強い。


 音が店の中を通る。


 白い筋が止まる。


 だが、消えない。


 端末表示。


【食事準備音:有効】


【防衛配置:反応】


【机状態:保持】


【椅子状態:保持】


【同化傾向:停止】


 ミアが小さく息を吹いた。


 ふー。


 熱いものは何もない。


 それでも吹いた。


 白い筋の端が、少しだけ薄くなる。


 ルナが息を吸う。


「ここに、皿があります」


 第一文とは少し違う。


 でも、皿の存在を示す言葉。


 アルトは一瞬見る。


 熱いか。


 命令か。


 違う。


 今は守るための確認だ。


 ルナは続けない。


 第二文も言わない。


 最終呼称にも触れない。


 ただ、皿があることを保つ。


 端末が震える。


【第一文:保持】


【第二文:保持】


【防衛配置:有効】


 白い筋は、それ以上伸びなかった。


 椅子も動かない。


 水もこぼれない。


 皿も滑らない。


 鈴は、まだ鳴らない。


 その沈黙が、少しだけ怖い。


 マルタが入口を見ずに言った。


「鈴まで白くする気かい」


 誰も答えない。


 答えは端末に出た。


【音響要素:鈴/一時停止】


【食事準備音:維持】


 小鍋の音はある。


 鈴は止まっている。


 入口の音だけが、白い場所に近づいている。


 ガルムが入口へ走った。


 床を蹴る音。


 爪が木を叩く音。


 ガルムは鈴の下で止まり、低く吠えた。


 一声。


 短く。


 店の中に、入口の音ではないが、生き物の音が走った。


 鈴の金具が震える。


 ち。


 まだ鳴らない。


 ガルムがもう一度吠える。


 今度は少し高い。


 ちり。


 音が戻りかける。


 ミアが叫びそうになって、口を押さえた。


 マルタが小鍋を置く。


 かん。


 ガルムが吠える。


 鈴が鳴った。


 ちりん。


 小さな音。


 だが、確かに鳴った。


 端末が強く震える。


【音響要素:鈴/復帰】


【境界接触:後退】


【防衛配置:成立】


【読取準備:維持】


 白い筋が、机の中央から少し戻った。


 完全には消えない。


 昨日の白い筋と重なるように、もう一本、薄い白さが残る。


 椅子は元の位置にある。


 水は残っている。


 皿も、芋も、木の皿も、そこにある。


 誰も倒れていない。


 ルナは机に手を置いたまま、息をしている。


 浅い皿を押さえていたアルトの手に、じっとり汗がにじんでいた。


 戦いではない。


 でも、防いだ。


 ◇


 昼になっても、普通の客は来なかった。


 鈴は戻った。


 だが、誰も入ってこない。


 マルタはそれを不吉とは言わなかった。


「昼飯にするよ」


 その一言で、赤猫亭は動き出した。


 守った後に食べる。


 それも必要だった。


 ミアは深皿を抱えたまま椅子に座ろうとして、止まる。


「ここ、座っていい?」


 真ん中ではない。


 端の席だ。


 マルタが頷く。


「いいよ」


 ミアは座った。


 深皿を膝に置く。


「こぼさなかった」


「えらい」


 マルタが言う。


 ミアは少しだけ笑った。


 ブルーノは手を洗っていた。


 木の皿を押さえた指に、机の埃がついていた。


 水で流す。


「拾えました」


 彼は言った。


 ガルドが短く答える。


「拾ったんじゃない。押さえた」


「はい」


「そっちの方がいい」


 ブルーノは少しだけ嬉しそうだった。


 ガルムは入口の鈴の下で伏せている。


 まだ警戒している。


 ミナが水を入れ替える。


 水面は落ち着いている。


 ルナは真ん中の机の白い筋を見ていた。


「同化傾向」


 小さく言う。


 アルトは隣に立つ。


「ああ」


「攻撃ではない。でも、赤猫亭を白い場所に近づけようとしました」


「ああ」


「なら、守る必要があります」


「そうだな」


「壊すためではなく」


 ルナは息を吸う。


「違うもののまま、そばにいるために」


 アルトは頷いた。


 それは、かなり大事な言葉だった。


 白い場所を敵にしすぎない。


 だが、同化はさせない。


 違うもののまま、そばにいる。


 そのために守る。


 ◇


 午後、端末の表示が整理された。


【防衛配置:成立】


【境界接触履歴:再発】


【同化傾向:停止】


【机状態:保持】


【椅子状態:保持】


【音響要素:鈴/復帰】


【読取準備:維持】


【最終呼称:未読】


 ブルーノが一つずつ読む。


 声は落ち着いている。


 紙はまだ開かない。


「読取準備は、維持されています」


「完了から戻っていないか」


 アルトが聞く。


「はい。席設定は失われていません」


「境界接触は」


「再発」


「同化傾向は」


「停止」


 マルタが小鍋を拭きながら言う。


「なら、今日は止めた日だね」


 ミアがすぐ頷く。


「止めた」


 ガルドが言う。


「倒してはいない」


「ああ」


「止めた」


 その違いを、アルトは聞いた。


 倒してはいない。


 止めた。


 押し返して、消して、勝ったわけではない。


 広がるのを止めた。


 椅子が引かれるのを止めた。


 鈴が消えるのを止めた。


 皿が滑るのを止めた。


 それが、赤猫亭の防衛だった。


 ルナは水を飲んだ。


「私は、読めませんでした」


「今日は読む日じゃない」


 アルトが言う。


「はい」


「でも、守れた」


 ルナは頷いた。


「はい」


 少し間。


「読んだ後も、こうなるかもしれません」


 店の中が静かになる。


 アルトは白い筋を見る。


 そうだ。


 今日は読んでいない。


 それでも接触は来た。


 なら、最終呼称を読んだ後には、もっと大きく揺れるかもしれない。


 だからこそ、防衛配置が必要だった。


 今日のアクションは、予行ではない。


 最初の本番だった。


 マルタが言った。


「じゃあ、次は守りながら読む準備だね」


 ミアが顔をしかめる。


「忙しい」


「忙しいね」


 ガルムが入口で低く喉を鳴らす。


「入口は、俺が見る」


 ガルドが木の皿を持ち上げる。


「脚は見る」


 ミナが水差しを見る。


「水は、私が」


 ブルーノが閉じた紙を胸に抱える。


「落ちたものを、見ます。拾います。記録は後にします」


 ミアは深皿を抱える。


「こぼれたら、受ける」


 マルタは小鍋に手を置く。


「音は、こっち」


 ルナは机に手を置いた。


「言葉は、店で」


 アルトは浅い皿に手を置いた。


「皿は、俺が押さえる」


 端末が光った。


【防衛配置:固定せず維持】


 ミアが首を傾げる。


「固定しない?」


「同じ場所に固めないってことだ」


 アルトが答える。


「でも、維持?」


「ああ」


 マルタが笑う。


「いいね。うち向きだ」


 固定しない。


 でも、維持する。


 それが、これまでやってきたことだった。


 ◇


 夕方、レオンから連絡が来た。


《今日は、音が消えた気がしました》


 アルトは端末を見る。


 指が止まる。


《どこで》


《自分の部屋です》


 少し間。


《椅子に座っていた時です》


 アルトは真ん中の椅子を見る。


《何をした》


《机に手を置きました》


 さらに。


《水を飲みました》


 間。


《コップを置いた音がして、戻りました》


 アルトは息を吐いた。


 レオンの部屋でも、似たことが起きている。


 だが、こちらほど深くはない。


 あるいは、レオン自身の中で起きているだけかもしれない。


 決めつけない。


《立てたか》


《はい》


《ならいい》


 送る。


 少し考える。


《音が消えた時は、何かを叩くな》


 既読。


 さらに送る。


《まず水。次に手。音はその後でいい》


 既読。


 返事は少し遅れた。


《分かりました》


 さらに。


《急いで鳴らさなくていいんですね》


《ああ》


 レオンも学んでいる。


 音を鳴らすのではなく、鳴るのを待つ。


 守るために急がない。


 アルトは端末を伏せた。


 赤猫亭だけではない。


 外でも、小さな防衛が始まっている。


 ◇


 夜、机を拭いた。


 白い筋は二本になっていた。


 昨日の細い白さ。


 今日の同化傾向の跡。


 どちらも消えない。


 だが、机は机のままだ。


 マルタが布巾を絞る。


「傷が増えたね」


「二本」


 ミアが言う。


「数えるな」


 アルトが言うと、ミアは頷いた。


「偉くなる?」


「たぶん」


「じゃあ、二本だけど、二本って言わない」


「もう言った」


「じゃあ、今から言わない」


 マルタが笑った。


 ルナは机の白い筋の横に手を置く。


「今日は、守れました」


「ああ」


「でも、白い場所も、来ました」


「ああ」


「攻撃ではありませんでした」


「ああ」


「でも、同じにしようとしました」


 アルトは頷く。


「そうだな」


「私は、それが怖いです」


「逃げたい怖さか」


「いいえ」


 ルナは首を横に振る。


「違うもののまま、そばにいるための怖さです」


 アルトは、その言葉を聞いた。


 今日のルナの答え。


 守る理由。


 白い場所を敵にしすぎず、しかし赤猫亭を明け渡さない理由。


 違うもののまま、そばにいる。


 それが、最終呼称を読むための条件になるのかもしれない。


 端末が淡く光る。


【読取準備:維持】


【防衛配置:成立】


【同化傾向:停止】


【最終呼称:読取条件一部充足】


 ブルーノが息を呑む。


「読取条件、一部充足」


 ミアが顔を上げる。


「近い?」


 誰もすぐ答えない。


 アルトは端末を見る。


 一部。


 全部ではない。


 だが、確かに近づいた。


 今日、読まなかった。


 それでも、読取条件は進んだ。


 守れたからだ。


 アルトは浅い皿を見る。


「次は、守りながら読む」


 自分で言って、胸の奥が重くなる。


 マルタが答えた。


「読むならね」


「ああ」


「読まされるんじゃない」


「分かってる」


 ルナが水を飲む。


「読みます」


 静かに言った。


 店の中が止まる。


 ルナは続ける。


「でも、ひとりでは読みません」


 アルトは頷いた。


「店で読む」


「はい」


「守りながら」


「はい」


 読む声は、ルナだけのものにはしない。


 見る目は、ブルーノだけのものにはしない。


 皿を押さえる手は、アルトだけでは足りない。


 次に最終呼称へ触れる時、赤猫亭は一つの声ではなく、一つの配置で読む。


 端末は、何も返さなかった。


 それでよかった。


 今の言葉は、端末に拾わせるためのものではない。


 赤猫亭の中で決めるためのものだった。


 ◇


 店を閉める。


 鈴が鳴る。


 ちりん。


 戻った音。


 小鍋が鳴る。


 かん。


 守った音。


 水差しが置かれる。


 こと。


 こぼれなかった音。


 皿を重ねる。


 からん。


 滑らなかった音。


 布で拭く。


 きゅっ。


 傷を偉くしない音。


 ミアが小さく息を吹く。


 ふー。


 冷ましすぎない音。


 白い筋は、机に残っている。


 消えない。


 だが、広がらない。


 アルトは灯りを落とす前に、真ん中の机を見た。


 読むための席。


 守る配置。


 白い場所に同化させないための線。


 最終呼称は、まだ未読。


 だが、読取条件は一部満たされた。


 赤猫亭は閉まった。


 明日、また開く。


 次に読むなら、戦うためではない。


 違うもののまま、そばにいるために。


 皿を押さえ、音を戻し、水をこぼさず、席を守りながら。


 読む。


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