第113話 読むための席
席は、朝から少しだけ引かれていた。
真ん中の席。
昨日まで何度も見てきた席。
誰かが座り、誰かが食べ、誰も座らない時にはただの席に戻っていた場所。
その椅子が、今日は少しだけ引かれている。
座れと言うほどではない。
空いていると知らせるほどでもない。
だが、完全にはしまわれていない。
アルトは階段を下りて、その椅子の角度を見た。
「誰がやった」
厨房からマルタの声が返る。
「私だよ」
「朝からか」
「朝から」
「理由は」
「読むための席なんだろ」
アルトは椅子を見る。
読むための席。
昨日、端末はそう言っていた。
【読取準備:席設定待ち】
最終呼称は、まだ未読。
第一文は保持。
第二文も保持。
呼称残滓は薄くなり、照合準備は進んでいる。
そして次に必要なのは、席。
誰かを座らせる席ではない。
読むための席。
読んだ後、誰かが倒れないための席。
言葉が落ちないための席。
皿が滑らないための席。
アルトは椅子に近づいた。
触れようとして、止める。
まだ触らない。
勝手に整えると、また席が偉くなる。
マルタが布巾を持って出てきた。
「触っていいよ」
「いいのか」
「席だからね。触らないと拭けない」
そう言って、マルタは椅子の背を拭いた。
きゅっ。
普通の音。
それだけで、少し緊張が緩んだ。
「読取準備って言われると、急に偉そうになるね」
「ああ」
「だから、まず拭く」
「掃除か」
「掃除」
マルタは机も拭いた。
水の跡。
昨日のスープの小さな跡。
木目に入り込んだ古い傷。
それらを消しきるのではなく、今日の客が座れるくらいに整える。
「読むための席でも、掃除は同じだよ」
ミアが階段から降りてきた。
まだ片手で目をこすっている。
「席、読むの?」
「違う」
アルトが答える。
「席で読む」
「誰が?」
アルトはすぐ答えられなかった。
マルタも黙る。
ミアは眠そうなまま、真ん中の席を見た。
「まだ誰のでもない?」
「ああ」
「でも読む?」
「ああ」
ミアは考える。
「じゃあ、読む人が座るんじゃない?」
「そうとも限らない」
「じゃあ、誰の席?」
アルトは椅子を見た。
答えはまだない。
だが、言ってはいけない答えは分かる。
呼ばれていた者の席。
それは違う。
まだ誰か分からない。
勝手に座らせることになる。
ルナの席。
それも違う。
彼女だけに背負わせることになる。
アルトの席。
違う。
命令に寄る。
赤猫亭の席。
少し近い。
でも、それだけではまだ広すぎる。
マルタが言った。
「読んだ後、手をつけられる席だよ」
アルトは顔を上げた。
「手をつける?」
「水でも、皿でも、肩でも、机でもいい。読んだ後に、どこかへ手を置ける場所」
ミアが自分の深皿を抱える。
「倒れない席?」
「そう」
「滑らない席?」
「そう」
ガルドの声が壁際からした。
「脚も見る」
いつの間に降りてきたのか、ガルドが椅子の脚を見ていた。
しゃがむ。
椅子の脚を軽く揺らす。
ぎ。
少しだけ鳴った。
「少しがたつく」
マルタが眉を上げる。
「昨日までは普通だったよ」
「普通でも、読む時には気になる」
ガルドは木の楔を取り出した。
「入れる」
「勝手に直すな」
アルトが言う。
「倒れてから直すよりいい」
その言い方に、誰も反論しなかった。
ガルドは椅子の脚に小さな楔を入れる。
とん。
軽く叩く。
もう一度、椅子を揺らす。
音はしない。
「滑らん」
短く言った。
ミアは深く頷いた。
「ガルド席」
「違う」
「ガルドが直した席」
「それも違う」
「じゃあ、滑らない席」
ガルドは少しだけ黙り、頷いた。
「それでいい」
アルトは椅子を見る。
真ん中の席。
でも、今日はただの真ん中ではない。
滑らない席。
手をつけられる席。
読んだ後に倒れないための席。
それなら、少し見えてきた。
◇
朝食の前に、端末を確認した。
ブルーノは紙を持っていたが、今日は折ったままにしている。
端末の表示は変わっていない。
【第一文:保持】
【第二文:保持】
【呼称残滓:薄化】
【照合準備:進行】
【最終呼称:未読】
【読取準備:席設定待ち】
ミアが椅子を指さす。
「席、できた?」
ブルーノは端末と椅子を見比べる。
「まだ判定は出ていません」
「なんで?」
「端末が見ている席と、私たちが考えている席が一致しているか、まだ分かりません」
マルタが言う。
「端末に合わせるな」
ブルーノは頷いた。
「はい。こちらの席として整えます」
ルナは半分の水を持って降りてきた。
椅子を見る。
足を止める。
「少し、引かれています」
「ああ」
「座れと言っているほどではありません」
「ああ」
「でも、座れます」
「ああ」
ルナは水を飲んだ。
「怖いです」
アルトは彼女を見る。
「逃げたい怖さか」
「いいえ」
ルナは首を横に振る。
「座れてしまう怖さです」
店の中が少し静かになる。
座れてしまう。
それは、分かる。
席ができる。
皿ができる。
言葉ができる。
準備が整っていく。
すると、いつか本当に読む時が来る。
準備が足りない怖さとは違う。
準備ができてしまう怖さ。
マルタは水差しを机に置いた。
こと。
「じゃあ、今日は座る練習じゃなくて、手を置く練習だね」
ルナが顔を上げる。
「手を」
「座る前に、机に手を置けるか」
マルタは真ん中の席の机を叩く。
とん。
「読んだ後、どこにも触れられないと、人は倒れるよ」
ミアが真剣な顔になる。
「手、大事」
「大事」
ルナは椅子に近づいた。
座らない。
机の端に、指先だけ触れる。
すぐ離す。
水はこぼれない。
端末は震えない。
それでよかった。
何も判定されない小さな練習が、今は必要だった。
◇
朝食は、豆と芋のスープだった。
昨日と似ている。
ただし今日は、椅子の話をしながら食べた。
「読む時に座るのは誰か」
ブルーノが言う。
ペンは持っていない。
「それを決める必要があります」
「決めすぎると、席が偉くなる」
アルトが言う。
「はい」
「でも決めなさすぎると、誰も支えられない」
マルタがスープをよそう。
「そうだね」
ルナはスープを少し飲んでから言った。
「読む者が座るのではなく、読む者が手を置ける席ではどうでしょうか」
ブルーノが顔を上げる。
「座席ではなく、支点として」
マルタが見る。
「硬い」
ブルーノは少し考える。
「支える場所として」
「近いね」
ミアが言う。
「手置き席」
「それは少し違う」
アルトが言う。
「でも、近い」
ミアは得意げになる。
「近いならいい」
ガルドはスープを飲みながら短く言った。
「椅子より机だ」
アルトが見る。
「何が」
「座ると固定する。手を置くなら机だ」
マルタが頷いた。
「それはあるね」
真ん中の席、という言い方だと椅子に目が行く。
だが読む時に必要なのは、座ることではなく、手をつけることかもしれない。
机。
水を置く場所。
皿を置く場所。
手を置く場所。
言葉を落とさない場所。
「席というより、机か」
アルトが言うと、端末が小さく震えた。
全員の視線が向く。
【読取準備:席設定待ち】
【補足候補:机】
ミアが目を丸くする。
「机、来た」
ブルーノが端末を見る。
「端末側も、椅子だけではないと認識した可能性があります」
マルタが言う。
「なら、机も拭きな」
「掃除か」
「掃除」
また掃除だった。
だが、今回は笑わなかった。
机を整える。
それは、席を整えることと同じだった。
◇
食後、真ん中の机を整えた。
まず、全部どける。
水差し。
古い傷のある小皿。
布巾。
端末。
紙。
何もない机にする。
すると、逆に緊張した。
何もない机は、白い場所に少し似てしまう。
ルナがすぐに気づいた。
「空にしすぎると、少し怖いです」
「そうだな」
アルトは頷く。
マルタが芋の籠から小さな布を取った。
机の端に置く。
「全部なくすと、店じゃなくなる」
ミアが深皿を持ってくる。
「皿も?」
「まだ」
マルタが止める。
「皿を置くと、提供が始まる」
「じゃあ何置く?」
ミアが聞く。
ガルムが鼻を鳴らした。
「匂い」
マルタが芋の籠を少し近づける。
机の上には置かない。
でも、匂いが届く場所。
アルトは水差しを机の右側に置いた。
こと。
ミナが小さく頷く。
「水は、手が届く方がいいです」
ルナは机の左端に自分のコップを置こうとして、止めた。
持ったままにする。
「私の水は、まだ自分で持ちます」
「それでいい」
アルトが言う。
ブルーノは紙を持っている。
どこに置くか迷っている。
アルトが見た。
「紙は?」
「置くと、読むものに見えます」
「今日は、最終呼称の紙じゃない」
「はい」
ブルーノは紙を畳み、机の上ではなく自分の膝に置いた。
「記録は、机に置きません」
マルタが頷く。
「いいね」
ガルドは椅子の脚をもう一度見る。
滑らない。
がたつかない。
木の皿を机の下、足元の近くに置いた。
アルトが眉を寄せる。
「そこか」
「落ちた時に受ける」
「何を」
「分からん」
ガルドは短く言った。
「分からんから置く」
それは、かなり正しい。
何が落ちるか分からない。
皿か。
言葉か。
手か。
意識か。
それでも、滑らないものを下に置く。
ミアはその木の皿を見て、神妙に頷いた。
「下にも皿」
「出す皿じゃない」
ガルドが言う。
「受ける皿」
アルトはそれを聞いて、少しだけ背筋が伸びた。
読むための席。
その下に、受ける皿。
いよいよ、本当に読むための場所になってきた。
◇
昼前、普通の客が来た。
鈴が鳴る。
ちりん。
いつもの音。
客は二人。
真ん中の机を見て、少しだけ足を止めた。
水差しが置かれ、机の位置がいつもと少し違うからだろう。
アルトは一瞬、説明しようとした。
だが、マルタが先に言った。
「今日はこっちが空いてるよ」
窓際の席を示す。
客は何も気にせず座った。
真ん中の机は、空いたまま残る。
指定していない。
だが、今日は普通の客には使わせない。
それは、押しつけではなく、準備だった。
ミアが小さく聞く。
「真ん中、今日はお休み?」
マルタが答える。
「仕事中」
「座ってないのに?」
「座ってない仕事もある」
ミアは考え込んだ。
「席、忙しい」
「忙しいね」
アルトは真ん中の机を見る。
仕事中。
その言い方で、少し楽になった。
特別な席。
聖域。
そんなものではない。
今日は仕事中の机。
それなら、偉くなりすぎない。
端末が震える。
【読取準備:席設定待ち】
【机状態:作業中】
ブルーノが表示を見る。
「作業中」
マルタが笑った。
「いいじゃないか」
ミアが得意げになる。
「席、仕事」
ガルドは木の皿を足元に置いたまま、腕を組んでいた。
「仕事なら滑るな」
その声は低い。
だが、妙に安心した。
◇
午後、レオンから連絡が来た。
《今日は、椅子に座りました》
アルトは端末を見る。
《どこの》
《自分の部屋です》
少し間。
《前は、座ると立てなくなる気がしました》
アルトは真ん中の机を見る。
座る。
固定される。
動けなくなる。
ガルドが朝に言ったことと近い。
《今日はどうだった》
《手を机に置きました》
アルトは息を止めた。
《それから、水を飲みました》
また少し間。
《立てました》
アルトは、すぐ返信しなかった。
レオンは赤猫亭の今日の準備を知らない。
だが、同じところに触れている。
座ることではなく、手を置くこと。
机に触れること。
水を飲むこと。
そこから立てること。
《いい手順だ》
送る。
既読。
《手順だったんですね》
《たぶんな》
《なら、覚えます》
アルトは少し笑った。
《濃く書くなよ》
既読。
少し間。
《薄く覚えます》
アルトは端末を伏せた。
レオンも、だいぶ赤猫亭に染まってきている。
悪くない。
◇
夕方、読取準備の確認をした。
読むわけではない。
最終呼称には触れない。
席と机が、支えられるかを見るだけ。
ミナが水差しを机の右へ置く。
こと。
マルタが小鍋を鳴らす。
かん。
ガルムが芋の匂いを確認する。
「ある」
ミアが浅い皿を机の中央には置かず、少し手前に置いた。
「真ん中じゃない」
アルトが言う。
「真ん中だと怖い」
「そうだな」
「手が届くところ」
「いい」
ルナは机の端に手を置いた。
今日は、朝より長く。
指先だけではなく、手のひらを少し。
水は、もう片方の手に持っている。
アルトはその横に立つ。
真正面ではない。
押さない位置。
ブルーノは紙を膝に置いている。
マルタは小鍋の近く。
ミアは芋と皿の近く。
ガルドは足元の木の皿の近く。
ガルムは匂いの近く。
全員が、それぞれの位置にいる。
店が言うための配置。
そして、読むための配置。
端末が淡く光る。
【読取準備:席設定中】
【机状態:作業中】
【支点確認:進行】
支点。
ブルーノが少しだけ口を開く。
マルタが見る。
ブルーノは閉じる。
ミアが小声で言う。
「支えるところ」
ブルーノは頷いた。
「はい」
ルナが手のひらに少し力を入れた。
机は動かない。
椅子もがたつかない。
水もこぼれない。
皿も滑らない。
その時、鈴が鳴らなかった。
鳴らないのに、戸口の金具だけが小さく震えた。
ちりん、になれなかった音が、店の入口で止まっている。
次の瞬間、真ん中の机の表面が、ほんの少し白くなった。
塗料ではない。
光でもない。
白い場所の床に似た、音のない色が、机の木目の隙間に細く走った。
白い筋は、木目をなぞるように伸びた。
まるで机の中から色を抜き取っていくように、茶色い木肌が一瞬だけ音を失った。
ミアが息を呑む。
「白い」
ガルムが低く唸った。
アルトは反射的に浅い皿を押さえた。
ルナの手が机から離れかける。
「離すな」
ガルドが低く言った。
その声に、ルナの手が止まる。
ガルドは足元の木の皿を蹴り上げるように動かし、机の脚の下へ滑らせた。
とん。
木の皿が脚を受ける。
机が一瞬だけ揺れた。
アルトは浅い皿を押さえたまま、反対の手で水差しを支える。
ミアが芋の皿に両手を添える。
マルタは小鍋を持ち上げ、白い筋の上へ音を置くように、台へ戻した。
かん。
音が鳴る。
白い筋が、そこで止まった。
端末が震える。
【旧待機区画:境界接触】
【侵入深度:表層】
【強制接近:なし】
【机状態:保持】
ブルーノが叫びかけて、口を押さえた。
叫びは要らない。
だが、目は開いている。
白い筋は、机の中央までは来ていない。
端に触れただけ。
木目の隙間で止まっている。
ガルムが唸り続ける。
「来ていない」
アルトが聞く。
「触れた」
「何が」
「白い場所」
ルナは手を机に置いたまま、息を震わせている。
それでも、手は離さない。
「これは」
彼女が言いかける。
アルトは皿を押さえたまま言った。
「命令か」
ルナは目を閉じる。
水を飲めない。
手が机にあるからだ。
それでも、ゆっくり答えた。
「違います」
「責めか」
「違います」
「急かしか」
ルナは息を吐いた。
「違います」
端末が震える。
【境界接触:非攻撃】
【反応分類:確認不能】
【読取準備:席設定継続】
非攻撃。
だが、安全とも出ない。
アルトは白い筋を見た。
白い場所が、机に触れた。
こちらを壊すためではない。
だが、何のためかは分からない。
ガルドが木の皿を足で押さえている。
「滑るな」
誰に言ったのか分からない。
机にか。
皿にか。
白い筋にか。
ルナにか。
アルトにか。
全部かもしれない。
ミアが震える声で言った。
「皿、いる?」
「いる」
アルトは即答した。
「芋も?」
「いる」
「音も?」
「いる」
マルタが小鍋をもう一度、軽く置く。
かん。
白い筋は、それ以上広がらない。
端末に新しい表示。
【食事準備音:有効】
【机状態:保持】
【支点確認:成立】
ブルーノが震える声で言った。
「支点確認、成立」
ルナの手が机の上で小さく震えた。
だが、離れない。
白い筋のすぐそばに、彼女の手がある。
アルトは言った。
「手を置け」
「置いています」
ルナが答える。
声は震えている。
でも、折れていない。
「逃げたいか」
「はい」
「でも?」
「席を整えます」
アルトは頷いた。
白い筋は、少しずつ薄くなった。
完全には消えない。
机の木目の奥に、細い白さが残る。
傷に似ている。
だが、黒い傷ではない。
白い、浅い筋。
端末が最後に光った。
【読取準備:席設定完了】
【最終呼称:未読】
【境界接触履歴:あり】
誰もすぐには動かなかった。
それでよかった。
動くと、何かがこぼれそうだった。
◇
夜、真ん中の机を拭いた。
白い筋は、拭いても消えなかった。
だが、広がりもしない。
マルタが布巾を絞る。
「傷が増えたね」
ミアが不安そうに聞く。
「悪い傷?」
マルタは少し考えた。
「まだ分からない傷」
「じゃあ、拭く?」
「拭く」
ミアも深皿を抱えたまま頷いた。
「分からなくても拭く」
「そう」
ルナは机に触れていた。
もう震えていない。
手のひらを置く。
白い筋の少し横。
「触れられました」
小さく言う。
「ああ」
アルトは答える。
「でも、呑まれませんでした」
「ああ」
「机が、残りました」
「ああ」
ルナは息を吐いた。
「読むための席が、できました」
端末には表示が残っている。
【読取準備:席設定完了】
【最終呼称:未読】
【境界接触履歴:あり】
ガルドは木の皿を拾い上げ、ひびが入っていないか確認した。
「使える」
「よかった」
ミアが言う。
「木の皿、えらい」
「偉くするな」
ガルドは言った。
だが、少しだけ口元が緩んだ。
ガルムは入口ではなく、真ん中の机の近くに伏せている。
匂いを守るように。
マルタが小鍋を拭く。
かん、と今日は鳴らさない。
もう十分鳴った。
アルトは浅い皿を芋の近くに戻した。
少し手が重かった。
今日、白い場所は触れた。
攻撃ではなかった。
だが、触れた。
これから先、読むということは、あの白さにもう一度近づくことになる。
戦うためではない。
でも、守る必要はある。
皿を。
水を。
音を。
席を。
手を置く場所を。
◇
店を閉める。
鈴が鳴る。
ちりん。
小鍋は鳴らさない。
今日は、静かに置く。
水差しが置かれる。
こと。
皿を重ねる。
からん。
布で拭く。
きゅっ。
ミアが息を吹く。
ふー。
真ん中の机には、細い白い筋が残った。
黒い傷とは違う。
白い場所が、赤猫亭の机に一度だけ触れた跡。
アルトはそれを見て、拳を軽く握った。
戦いではない。
まだ、そう言える。
だが、守るものは見えた。
端末の表示を最後に確認する。
【読取準備:席設定完了】
【境界接触履歴:あり】
【強制接近:なし】
【最終呼称:未読】
強制接近はない。
だが、境界は触れた。
読むための席はできた。
最終呼称は、まだ未読。
赤猫亭は閉まった。
明日、また開く。
机の白い筋は、暗がりの中でも少しだけ見えた。
それは、呼ぶ声ではなかった。
責める声でもなかった。
けれど、もう向こう側が、こちらの席を知っている。




