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第112話 皿のそばに

 第一文は、朝になっても残っていた。


【第一文:保持】


 端末の画面に、その表示がある。


 昨日、白い場所へ置いた言葉。


 ここに、皿がある。


 それは、消えていなかった。


 拒まれてもいない。


 大きく受け取られたわけでもない。


 ただ、保持されている。


 アルトはその文字を見て、少しだけ息を吐いた。


 保持。


 派手な言葉ではない。


 だが、今はそれが一番よかった。


 受け入れた。


 届いた。


 繋がった。


 そういう強い言葉ではない。


 保持。


 置かれた皿が、まだそこにある。


 それだけ。


 その下に、別の表示も残っている。


【第二文:保留】


【最終呼称:未読】


 まだだ。


 第二文も、最終呼称も、まだ出していない。


 アルトは端末から目を離し、厨房の台を見た。


 浅い皿がある。


 昨日と同じ位置ではない。


 少しだけ、ルナの普通の皿に近づいている。


 誰かが動かしたのだろう。


 たぶんミアだ。


 その横に、小さな紙。


【ここに、皿がある】


 その下に、少し離して。


【責めるための皿ではありません】


 第二文。


 今日は、その言葉と向き合う日になる。


 アルトはそう思った。


 思ったが、すぐに口には出さなかった。


 言葉は、言おうとした瞬間に熱を持つ。


 昨日、第一文は皿が言った。


 声は添えただけだ。


 今日も、たぶん同じだ。


 第二文は、第一文より重い。


 皿があることを知らせるだけではない。


 その皿が何のためではないかを、伝える。


 責めるためではない。


 これは、相手の傷に近い。


 マルタが厨房に入ってきた。


「見てるね」


「ああ」


「第二文かい」


「たぶんな」


「たぶん、でいいよ」


 マルタは小鍋を手に取った。


 まだ鳴らさない。


 布で軽く拭く。


「今日は、出す前に皿のそばを見る日だね」


「皿のそば」


「皿そのものじゃなくてね」


 アルトは浅い皿を見る。


 皿のそば。


 水差し。


 芋。


 紙。


 小鍋。


 何も変わっていないように見える。


 だが、端末が小さく震えた。


 ブルーノがまだ来ていないのに、画面が開く。


【第一文:保持】


【呼称残滓:微反応】


 アルトは目を細めた。


「反応したか」


 マルタは小鍋を置いた。


 音は立てない。


「来たね」


 派手な言い方ではなかった。


 ただ、そう言った。


 呼称残滓。


 ずっとそこにあったもの。


 呼び方の残り。


 最終呼称の手前に残った、ほどけない結び目。


 それが、第一文に反応している。


 皿がある。


 その一文のそばで。


 ◇


 朝食の前に、全員が表示を見た。


 ブルーノは紙を持ってきたが、開かなかった。


 ミアは深皿を抱えていた。


 ルナは半分の水を持っている。


 ガルムは芋の籠の近くで鼻を鳴らしていた。


 ガルドは壁際に立っている。


 端末の表示は変わらない。


【第一文:保持】


【呼称残滓:微反応】


【第二文:保留】


【最終呼称:未読】


 ミアが小さく聞いた。


「呼び方の残り、来た?」


「来た、というより」


 ブルーノが言いかける。


 少し迷う。


 硬い言葉を探していたのだろう。


 だが、マルタが先に言った。


「皿の匂いを嗅いだくらいだね」


 ミアが目を丸くした。


「呼び方、鼻ある?」


「ないよ」


「じゃあ、匂い?」


「言い方」


 ミアは少し考え、頷いた。


「近くに来た?」


「それくらい」


 アルトは表示を見る。


 微反応。


 大きく動いたわけではない。


 呼称残滓が解けたわけでもない。


 最終呼称が読めるようになったわけでもない。


 ただ、皿の存在に反応した。


 それは大きい。


 だが、大きく扱いすぎると壊れる。


 ルナは水を飲んだ。


 今日は一口が少し長い。


 でも、こぼさない。


「第二文を置くと、もっと反応するかもしれません」


 彼女は言った。


「ああ」


 アルトは頷く。


「でも、それを狙って出すのは違う」


「はい」


 ルナはすぐ頷いた。


「反応を増やすためではありません」


「何のためだ」


 アルトが聞く。


 ルナは皿を見る。


 浅い皿。


 そのそばに、自分の普通の皿。


「皿が責めるためのものではないと、皿のそばに置くためです」


 その答えは、昨日より少し落ち着いていた。


 呼ばれていた者へ言いたい。


 責める声ではなかったと伝えたい。


 その熱は、まだある。


 だが、今日は少し違う。


 相手にぶつけるのではなく、皿のそばに置く。


 誰かが皿を見る時、その言葉も一緒にあるように。


 アルトは頷いた。


「それなら、考えられる」


 マルタが言う。


「まず朝飯」


 ミアがすぐ頷いた。


「朝飯、大事」


 端末は閉じた。


 微反応は、微反応のまま置いておく。


 朝飯の前に、大きくしない。


 ◇


 朝食は、芋と豆のスープだった。


 少しだけ噛むものがある。


 昨日までより、腹に残る。


 ミアは嬉しそうだった。


「今日、もぐもぐ多い」


「そうだね」


 マルタが答える。


「なんで?」


「今日は第二文の前に、ちゃんと間がいるからね」


 ミアは真剣に頷いた。


「もぐもぐ、大事」


 ブルーノはペンを持たない。


 もう書かなくても覚えている。


 ルナはスープを飲み、豆を噛む。


 ゆっくり。


 アルトはそれを見る。


 昨日までは、飲み込むことを確認していた。


 今日は、噛むことを見ている。


 水。


 音。


 匂い。


 芋。


 第一文。


 間。


 第二文。


 その「間」は、ただ待つ時間ではない。


 噛む時間。


 飲み込む時間。


 自分の中に入ったものを、すぐ次で押し流さない時間。


 第二文は、そこに置く。


 早すぎれば、押しつけになる。


 遅すぎれば、皿だけが不安になる。


 難しい。


 でも、今日のスープはその練習になっている。


 ミアが豆を噛みながら言う。


「第二文、豆のあと?」


「豆?」


 アルトが聞く。


「芋だけより、もぐもぐ長い」


 マルタが笑う。


「今日は豆のあとでもいいかもね」


 ブルーノが少しだけ口を開きかけた。


 やめた。


 ミアが見る。


「書かない?」


「書かなくても、覚えました」


「えらい」


 ブルーノは静かに頷いた。


 ルナは豆を飲み込んだ後、水を飲んだ。


「間があると、言葉が追いかけてこない感じがします」


 マルタが頷く。


「それが大事」


 アルトも頷いた。


 言葉が追いかけない。


 第二文には、それが必要だった。


 ◇


 食後、手順を確認した。


 今日は、第一文はすでに保持されている。


 だから最初から出し直すのではなく、皿のそばにあるものとして扱う。


 ミナが水を置く。


 こと。


 マルタが小鍋を置く。


 かん。


 ガルムが匂いを確認する。


「ある」


 ミアが芋を一切れ置く。


 ふー。


 浅い皿。


 そのそばに、第一文。


 ここに、皿がある。


 今日は、声に出さなかった。


 すでにあるからだ。


 端末が震える。


【第一文:保持】


【提供順:水/音/匂い/芋/第一文】


【呼称残滓:微反応】


 ミアが芋を見て、口を閉じた。


 もぐもぐ、と声に出さない。


 ちゃんと間を置いている。


 その間、誰も急かさない。


 ルナは皿の横に立つ。


 昨日と同じではない。


 今日は、アルトより半歩後ろ。


 自分が前に出すぎない位置を、自分で選んでいる。


 アルトはそれに気づいた。


 だが、何も言わない。


 気づいたことを言いすぎると、そこも偉くなる。


 マルタが鍋の火を少し弱める。


 火の音が小さくなる。


 第二文。


 責めるための皿ではありません。


 紙にはそう書かれている。


 アルトは読む。


 声に出さない。


 まず、目で読む。


 そのあと、水を飲む。


 ルナも水を飲む。


 ブルーノは紙を閉じている。


 ミアは芋を見ている。


 ガルムは匂いの近くにいる。


 ガルドは壁にもたれたまま、目を閉じていた。


 マルタが言う。


「今日は、誰が言うんだい」


 その問いに、アルトは少し考えた。


 第一文は、皿が言った。


 第二文も、皿が言うのか。


 いや。


 第二文は、皿の役割を示す。


 皿が自分で「責めるためではない」と言うのは、少し不自然かもしれない。


 かといって、ルナひとりでは熱い。


 アルトひとりでも硬い。


 マルタなら、店の判断になりすぎる。


 ミアなら、軽くなりすぎる。


 ブルーノなら、記録になる。


 アルトは浅い皿を見る。


 皿のそば。


 第一文。


 芋。


 水。


 音。


 匂い。


 それらが、すでにある。


「店が言う」


 アルトは言った。


 マルタが眉を上げる。


「皿じゃなくて?」


「ああ。第一文は皿が言った。第二文は、皿だけじゃない」


 ルナが顔を上げる。


 アルトは続ける。


「水も、音も、匂いも、芋も、皿も。全部がそろって初めて、責めるためじゃないと言える」


 ブルーノが息を呑む。


「共同より、さらに広い」


「そうだな」


 マルタが小鍋を見る。


「店の声か」


「店の声にしすぎると偉くなるか」


「でも、今日はそれでいい」


 マルタは言った。


「店が出す皿なんだから」


 ルナは水を持つ手に力を込めた。


「私も、そこにいていいですか」


 アルトは頷いた。


「いる」


 ミアが言う。


「ミアも?」


「いる」


「芋も?」


「いる」


「小鍋も?」


「いる」


「ブルーノも?」


 ブルーノが少し驚いた。


 アルトは頷く。


「いる」


 ミアは満足した。


「店、いっぱいいる」


 マルタが笑った。


「そういうことだね」


 第二文は、誰か一人の声ではなく、店の声として出す。


 ただし、偉くならないように。


 皿のそばに。


 水と芋と音と匂いの中に。


 ◇


 昼前、端末に新しい表示が出た。


 誰も触れていない。


【第二文:設置可否判定】


【条件:第一文保持/受入側反応微弱/呼称残滓微反応】


【判定:可】


 店の中が静かになった。


 ミアが息を吸う。


 ルナは水を持ったまま止まる。


 アルトは表示を見る。


 可。


 出せる。


 また、その言葉が来た。


 出せるからといって、今出すとは違う。


 だが、今回は条件がそろっている。


 第一文が保持されている。


 受入側反応が微弱にある。


 呼称残滓も微反応している。


 強制接近は出ていない。


 追加要素要求もない。


 こちらが出したいからではなく、皿のそばに置ける状態になった。


 マルタが言う。


「昼前に出すかい」


「なぜ昼前」


 アルトが聞く。


「朝飯を食べて、少し落ち着いた時間だから」


 ミアが頷く。


「豆も、もうお腹」


 ルナは水を飲む。


「私は、大丈夫です」


 アルトは彼女を見る。


「熱くなってないか」


「なっています」


 正直だった。


「でも、私だけの熱ではありません」


 その答えに、アルトは頷いた。


 なら、できる。


 店が言うなら。


 店の声として、皿のそばに置くなら。


 アルトは端末を見た。


「最終呼称は」


 ブルーノが確認する。


【最終呼称:未読】


「未読です」


「触らない」


「はい」


 アルトは頷いた。


 今日は、第二文だけ。


 最終呼称は読まない。


 ◇


 準備は静かに始まった。


 ミナが水を置く。


 こと。


 マルタが小鍋を置く。


 かん。


 ガルムが匂いを確認する。


「ある」


 ミアが芋を一切れ置く。


 ふー。


 浅い皿のそばに、第一文がある。


 ここに、皿がある。


 声には出さない。


 すでに保持されている。


 間。


 豆のあとくらいの間。


 ミアは口を閉じて待つ。


 ブルーノは紙を閉じる。


 ガルドは壁から離れ、木の皿を台の横に置いた。


 とん。


 滑らない皿の音。


 ルナは、浅い皿の半歩後ろに立つ。


 アルトは、その隣ではなく、少し横に立った。


 真正面ではない。


 押さない位置。


 マルタは小鍋の近くにいる。


 ミナは水の近く。


 ミアは芋の近く。


 ガルムは匂いの近く。


 ブルーノは紙を閉じている。


 ガルドは木の皿に手を置いている。


 誰が言うか。


 店が言う。


 なら、声は一人で出しても、一人のものにしない。


 アルトは、短く息を吸った。


 ルナも同じタイミングで息を吸った。


 マルタの小鍋が、少しだけ鳴った。


 かん。


 それに重なるように、アルトが言った。


「責めるための皿ではありません」


 声は大きくなかった。


 だが、アルト一人の声にも聞こえなかった。


 水の音。


 小鍋の音。


 芋の匂い。


 ミアの息。


 ルナの沈黙。


 マルタの火加減。


 ブルーノが書かない手。


 ガルドの木の皿。


 ガルムの鼻。


 それらが、言葉の周りにあった。


 端末が震える。


【第二文:設置】


【提供方式:設置】


【話者条件:店】


【強制接近:なし】


 さらに。


【第二文:保持】


 ルナが息を吐いた。


 水はこぼれない。


 皿も落ちない。


 ミアが目を丸くする。


「持った」


「保持、だな」


 アルトが言う。


 ブルーノが頷く。


「保持です」


 端末の表示は続く。


【呼称残滓:反応】


【呼称残滓:薄化】


 店の中の空気が変わった。


 冷えたのではない。


 熱くなったのでもない。


 何かが、少し軽くなった。


 ルナが皿を見る。


「薄くなりました」


 声が震えている。


 だが、崩れてはいない。


 アルトは端末を見る。


 最終呼称の表示は、まだある。


【最終呼称:未読】


 未読。


 そこは変わっていない。


 だが、その隣に新しい行が浮かんだ。


【照合準備:進行】


 ブルーノが小さく息を呑む。


「照合準備」


「読む準備か」


 アルトが聞く。


「おそらく。ただし、まだ読めるという意味ではありません」


 マルタが言う。


「じゃあ、今日は読む日じゃないね」


「ああ」


 アルトはすぐ頷いた。


「今日は、第二文を置いた日だ」


 ルナも頷いた。


「はい」


 彼女は目元を拭かなかった。


 涙は少し浮かんでいたが、落ちていない。


 今は、落とす日ではないのだろう。


 ◇


 昼、普通の客が来た。


 鈴が鳴る。


 ちりん。


 客は二人。


 何も知らずに、席へ座る。


 水を飲む。


 芋のスープを頼む。


 小鍋が鳴る。


 かん。


 皿が置かれる。


 からん。


 会話が少しある。


 笑いもある。


 何も起きない。


 それがよかった。


 第二文が置かれても、赤猫亭は普通に開いている。


 ミアは少しそわそわしていたが、客に皿を出す時にはちゃんと両手で持った。


 こぼさない。


 急がない。


 客の一人が言った。


「今日のスープ、やさしい味ですね」


 マルタは普通に返した。


「薄いだけだよ」


「いや、ちょうどいいです」


 ミアが小さく呟いた。


「ちょうどいい、えらい」


 アルトはそれを聞いて、少しだけ笑った。


 ちょうどいい。


 今の赤猫亭には、それが一番難しい。


 熱すぎず。


 冷たすぎず。


 押しつけず。


 遠ざけず。


 第二文は、その温度で置けた。


 ◇


 午後、レオンから連絡が来た。


《今日は、夢を見ました》


 アルトは端末を見る。


 少しだけ体が固くなる。


《悪い夢か》


 既読。


 間。


《分かりません》


 さらに。


《でも、起きてから水を飲みました》


 アルトは息を吐いた。


《音は》


《コップの音がしました》


《嫌だったか》


《いいえ》


 少し間。


《夢の中では、何かを責められている気がしました》


 アルトは画面を見つめる。


《起きてからは》


《違うかもしれないと思いました》


 さらに。


《まだ分かりません》


 アルトは、すぐに返さなかった。


 第二文を置いた日に、この連絡。


 偶然だとしても、無視できない。


 ただし、意味をつけすぎるのも違う。


《分からないままで、水を飲めたなら十分だ》


 送る。


 既読。


 少しして。


《はい》


 もう一文。


《責められていると思った時は、喉が苦しくなりました》


 間。


《水の後は、少し違いました》


 アルトは端末を伏せた。


 第二文。


 責めるための皿ではありません。


 それは、レオンに送ったわけではない。


 だが、レオンもまた、自分の中で「責め」と「水」の違いを見始めている。


 赤猫亭だけの話ではない。


 この手順は、外にも届き始めているのかもしれない。


 ◇


 夕方、端末に追加表示が出た。


【第一文:保持】


【第二文:保持】


【呼称残滓:薄化】


【照合準備:進行】


【最終呼称:未読】


 アルトはそれを見る。


「呼称残滓は薄くなった。でも消えてはいない」


 ブルーノが頷く。


「はい」


「照合準備は進んでいる。でも読めない」


「はい」


「なら、次は」


 言いかけて、止めた。


 次は、最終呼称。


 そう言いそうになった。


 だが、口にすると早い。


 言葉にすると、皿が急ぎ始める。


 マルタが鍋をかき混ぜながら言った。


「次は、何を読むかじゃなくて、読む時に何を置くかだね」


 アルトはマルタを見る。


「読む時に、何を置く」


「そう。読んでから慌てて水を出すんじゃ遅い」


 ミアが頷く。


「水、先」


「芋も先」


「皿も先」


「音も先」


 マルタは続ける。


「それに、読むなら席もいる」


 アルトは真ん中の席を見る。


 誰も座っていない。


 空いている。


 でも、指定されていない。


 第二文は置けた。


 次は、確かに最終呼称が近い。


 だが、その前に、読む場所を整える必要がある。


 皿。


 水。


 音。


 芋。


 席。


 そして、読んだ後に置く沈黙。


 アルトは頷いた。


「読む準備は、提供準備とは別か」


 ブルーノが端末を見る。


 表示が増える。


【読取準備:未設定】


 ミアが首を傾げる。


「また準備?」


 マルタが答える。


「大事なものは、だいたい準備が多いよ」


 ミアは少し不満そうにした。


「でも、もう近い?」


 ルナが水を飲んでから言った。


「近いです」


 少し間。


「でも、急ぎません」


 アルトは頷いた。


「そうだな」


 ただし、今度の「急がない」は、引き延ばしではない。


 第二文は置かれた。


 呼称残滓は薄くなった。


 照合準備は進んだ。


 そして、読取準備という新しい段階が見えた。


 次は、最終呼称を読むための場所を作る。


 ◇


 夜、皿を拭いた。


 今日は浅い皿を、いつもより丁寧に拭いた。


 第二文を置いた皿。


 だが、偉くしない。


 ミアが見ている。


「皿、すごい?」


「今日は働いた」


 アルトが言う。


「じゃあ、えらい?」


「偉くしすぎない」


「でも、きゅっきゅっ」


「ああ」


 ミアは深皿も拭いた。


 ルナは普通の皿を拭く。


 その手は落ち着いている。


「今日は、言えました」


 ルナが言う。


「ああ」


「でも、私だけで言いませんでした」


「ああ」


「その方が、届いた気がします」


 アルトは頷いた。


「店が言ったからな」


「はい」


 ルナは皿を芋の近くに置く。


 今日は、浅い皿のさらに近く。


 ほとんど隣。


 だが、重なってはいない。


「最終呼称が近いです」


 ルナが言った。


 店の中が静かになる。


 アルトは端末を見る。


【最終呼称:未読】


 その表示は変わっていない。


 だが、もう遠くない。


「怖いか」


 アルトが聞く。


「はい」


 ルナは答える。


「でも、今は逃げたい怖さではありません」


「何だ」


「席を整えたい怖さです」


 その言い方に、アルトは少しだけ笑った。


 だいぶ食堂になった。


 マルタの言葉を思い出す。


「なら、明日は席だな」


 マルタが言った。


「読む場所を作るよ」


 ミアが聞く。


「席、誰の?」


 アルトは答えた。


「まだ、誰のでもない」


 ルナが続ける。


「でも、読むために空けておく席です」


 端末が淡く光る。


【読取準備:席設定待ち】


 ブルーノが表示を見る。


「席設定待ち」


 ガルドが壁を軽く叩いた。


 こつ。


「滑らんようにしろ」


 マルタが頷いた。


「そうするよ」


 赤猫亭は閉まる準備に入った。


 ◇


 店を閉める。


 鈴が鳴る。


 ちりん。


 小鍋が鳴る。


 かん。


 水差しが置かれる。


 こと。


 皿を重ねる。


 からん。


 布で拭く。


 きゅっ。


 きゅっ。


 ミアが小さく息を吹く。


 ふー。


 今日は、第二文も白い場所に置かれた。


 第一文のそばに。


 皿のそばに。


 責めるための皿ではありません。


 その言葉が置かれたことで、呼称残滓は少し薄くなった。


 だが、消えない。


 消えなくていい。


 まだ読むものがある。


 ただし、読む前に席がいる。


 誰かを座らせるためではない。


 読んだ後、倒れないために。


 言葉が落ちないために。


 皿が滑らないために。


 赤猫亭は閉まった。


 明日、また開く。


 最終呼称は、まだ未読。


 けれど、そのそばに、皿と言葉と席の支度が近づいていた。


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