第115話 配置で読む
鈴は、まだ鳴っていなかった。
鳴っていないのに、ガルムは入口の下から動かない。黒い耳だけが時々ぴくりと揺れ、そのたびにミアが深皿を抱え直す。真ん中の机には、昨日残った白い筋が二本。浅い皿、水差し、小鍋、木の皿、深皿、小皿が、それぞれ近すぎず遠すぎない場所に置かれていた。
赤猫亭はまだ開いていない。
けれど、もう全員が働いていた。
マルタは厨房で小鍋を拭いている。布で包むように、きゅっ、と拭く。音を鳴らすためではない。鳴ってもいいようにしている。
ガルドは椅子の脚を確かめていた。
「滑らない?」
ミアが聞く。
「滑らん」
「ほんと?」
「昨日よりは」
「今日も動く?」
「分からん」
「分からんから?」
「押さえる」
ミアは大きく頷いた。
「分からんから、押さえる」
ブルーノは紙を持っていた。
閉じたまま。
昨日と同じだが、今日は胸に抱えていない。腰の横に下げ、両手を空けている。記録より先に拾う。見る。押さえる。第115話の赤猫亭は、もうその順番を知っていた。
ルナは階段を下りてきた。
今日のコップは半分。
昨日より少ない。
アルトはそれを見た。
「半分か」
「はい」
「理由は」
「今日は、置くためです」
ルナはコップを持ち上げる。
「飲むためだけではなく、必要なら机に置くために」
アルトは頷いた。
手を空ける。
水を置く。
逃げるためではない。
読むために。
その時、アルトの視界の端に薄い表示が浮かんだ。
【読取準備:維持】
【防衛配置:成立】
【最終呼称:読取条件一部充足】
【最終呼称:未読】
アルトは視線だけを動かし、表示を確認する。
いつもの神界配信UIだ。
だが今日は、一人で見るものではない。
アルトは指先で払うように、その表示を机の上へ落とした。浅い皿と水差しの間に、薄い文字が浮かぶ。白い光ではない。紙でもない。視界にあった文字を、赤猫亭の机に一時的に共有しただけのものだ。
ブルーノが身を乗り出す。
「共有表示にしますか」
「ああ。今日は一人で見るものじゃない」
ミアが文字をのぞき込み、すぐ眉を寄せた。
「これ、アルトの目のやつ?」
「そうだ」
「目、便利」
「俺の目を便利扱いするな」
「でも便利」
「便利ではない」
「じゃあ、すごい目」
「それもやめろ」
マルタが小鍋を台に置いた。
かん。
今日は、最初から鳴った。
わざとではない。
でも、逃げてもいない。
「朝飯だよ」
誰も反論しなかった。
読む前に食べる。
今日も、そこからだった。
◇
朝食は、芋のスープと焼き芋だった。
焼き芋は一切れではない。小さめだが、一人に一つずつある。ミアはそれを見て、目を丸くした。
「今日、多い」
「力がいるからね」
マルタが答える。
「戦う?」
「支える」
ミアは焼き芋を両手で持った。
「支える芋」
「そう」
「強そう」
「強いよ」
アルトはスープを飲んだ。温かい。昨日より少し濃いが、強すぎない。喉を通り、腹に落ち、冷えていた手の内側までゆっくり戻していく。こういう熱がないまま読めば、言葉の方が強くなりすぎる。
ルナも食べる。
一口。
水。
もう一口。
水。
急がない。
だが、迷ってはいない。
「怖いか」
アルトが聞く。
「はい」
「逃げたい怖さか」
「少しあります」
ルナは正直に言った。
店の中が少しだけ静かになる。
彼女は続ける。
「でも、それだけではありません」
「何がある」
「読みたい怖さです」
アルトはルナを見る。
読みたい怖さ。
逃げたいではない。座れてしまうでもない。守らないといけないでもない。読みたい。だが、読みたいと思った瞬間に、誰かを呼びすぎるかもしれない。その怖さ。
「読まされてるわけじゃないな」
「はい」
「言いたいから読むのとも違うな」
「はい」
ルナは焼き芋を両手で持ったまま、机の上の共有表示を見た。
「皿があります。水があります。音があります。席があります。守る配置があります」
少し間。
「だから、読めるかもしれません」
マルタが言う。
「読めるかもしれない、でいい」
ルナは頷いた。
「はい」
ガルドはスープを飲み終えて、椅子の脚をもう一度見た。
「読めるなら、滑るな」
ミアが真剣に頷く。
「全部、滑るな」
ブルーノは紙を開きかけて、閉じた。
「私は、読んだものをすぐ記録しない方がいいですね」
アルトは頷いた。
「まず見る」
「はい」
「拾う」
「はい」
「記録は後」
「分かりました」
ミナは水差しを確認する。
「水は、こぼれてもいい量ではなく、こぼさない量にします」
マルタが頷く。
「いいね」
ガルムが鈴の下で低く鳴いた。
「入口は、戻す」
「戻す?」
アルトが聞く。
「消えたら、戻す」
「ああ」
昨日、鈴は一度止まった。
今日は、最初からそれを見ている。
朝食が終わっても、誰もすぐ立たなかった。食べたものが体に落ちるまで、少し待つ。読み急がないための、何でもない時間だった。
ミアが焼き芋の最後を飲み込んでから言った。
「もぐもぐ、終わり」
マルタが頷いた。
「じゃあ、始めようか」
その声で、赤猫亭が動いた。
◇
配置につく。
ミナが水差しを机の右へ置く。
こと。
マルタが小鍋を厨房側の台に置く。
かん。
ミアが深皿を浅い皿の手前に置く。
こぼれた時に受ける位置。
ガルドが木の皿を机の脚の下へ滑らせる。
とん。
ブルーノは紙を腰の横へ下げ、両手を空ける。
ガルムは鈴の下。
入口の音を守る位置。
ルナは机の左側。
白い筋の正面ではなく、半歩ずれた位置。
アルトは浅い皿の横。
皿を押さえられる位置。
誰も真正面に立たない。
誰も一人で背負わない。
店が言う。
店が守る。
そして今日は、店が読む。
アルトの視界に、表示が開いた。
【防衛配置:確認】
【読取準備:確認】
【最終呼称:読取可能】
アルトはそれを机上へ共有する。
薄い文字が、皿と水の間に浮かぶ。
ミアが息を止めた。
ブルーノの手が一瞬だけ震える。
ルナは水を机に置いた。
こと。
半分の水。
置いた。
両手を空ける。
その瞬間、白い筋が淡く光った。
昨日より早い。
だが、昨日ほど広がらない。
まるで、こちらが準備していることを分かっているように、机の端で止まっている。
視界UIに新しい行が浮かぶ。
【最終呼称:展開準備】
【注意:読取後反応予測不能】
【防衛配置:維持推奨】
アルトは共有表示へ回した。
ブルーノが読む。
「読取後反応、予測不能」
アルトは浅い皿に手を置いた。
「読む」
口にした。
表示は反応しない。
それでいい。
これはシステムへの命令ではない。
赤猫亭への合図だ。
ルナが頷く。
「読みます」
マルタが小鍋に手を置く。
「熱くなりすぎたら、止めるよ」
ミアが深皿を抱える。
「こぼれたら、受ける」
ガルドが椅子の脚を押さえる。
「滑るな」
ガルムが鈴を見上げる。
「消えたら、戻す」
ミナが水差しを見る。
「水は、ここです」
ブルーノが息を吸う。
「記録は、後です」
アルトは、全員の声を聞いた。
それぞれ違う。
でも、同じ方向を向いている。
視界の文字がゆっくり変わる。
【呼称残滓:展開】
机の白い筋の上に、黒い小さな点が浮いた。
黒い傷ではない。
文字でもない。
点。
それが、細い線になりかける。
ルナの顔が強張る。
アルトは皿を押さえる手に力を入れた。
「焦るな」
「はい」
ルナは息を吸う。
水は、机の上。
手は空いている。
震えているが、空いている。
【最終呼称:表示準備】
【読取方式:配置】
配置。
声ではない。
誰か一人ではない。
配置で読む。
アルトは胸の奥が熱くなるのを感じた。熱い。だが、熱くなりすぎるな。皿がある。水がある。音がある。芋がある。席がある。皆がいる。ここで読めるなら、白い場所ではなく、赤猫亭で読める。
黒い点が、文字の形に近づく。
その瞬間、鈴が消えた。
鳴らないのではない。
そこにあるのに、音だけが消えた。
ガルムが即座に吠えた。
短く。
低く。
入口の空気が震える。
だが、鈴は戻らない。
白い筋が机の中央へ伸びる。
椅子が後ろへ引かれる。
ぎ。
ガルドが脚を踏み込む。
「滑るな」
椅子が止まる。
水差しが傾く。
ミナが支える。
水面が大きく揺れる。
こぼれない。
浅い皿が机の上を滑りかける。
アルトが押さえる。
指先に痛みが走る。
皿の縁が手のひらに食い込む。
ミアが深皿を前へ出した。
「こっち!」
芋の一切れが浅い皿から転がり、深皿の中へ落ちた。
とん。
受けた。
ブルーノが机の下で木の皿がずれたのを見る。
飛び込む。
今度は迷わない。
両手で押さえる。
「押さえています!」
マルタが小鍋を置く。
かん。
白い筋が一瞬止まる。
だが、次の瞬間、机の上に白い面が広がった。
昨日より広い。
白い場所が、机の上に薄く重なっている。
共有表示が揺らぐ。
【境界接触:拡大】
【同化傾向:上昇】
【読取中断:非推奨】
【防衛配置:維持】
中断非推奨。
アルトは奥歯を噛んだ。
今やめると、何かが歪む。
だが進めば、白い場所が広がる。
守りながら読む。
昨日、そう決めた。
「配置を崩すな!」
アルトが言う。
命令に近い。
だが、これは店への合図だ。
誰も反発しない。
ルナが机に両手を置いた。
白い面のすぐ横。
手の下の木が、かすかに白くなる。
アルトが叫びそうになる。
ルナが先に言った。
「これは、命令ではありません!」
白い面が揺れる。
「責めでもありません!」
第二文の熱が、店の声として戻る。
「急かすものでもありません!」
ミアが深皿を抱えたまま叫ぶ。
「芋、ある!」
場違いなようで、必要だった。
芋がある。
食べるものがある。
ここは白い場所ではない。
マルタが小鍋を叩くように置いた。
かん。
「飯の前で、勝手に白くなるんじゃないよ」
ガルドが椅子を押さえたまま低く笑った。
「それは命令だろ」
「店の決まりだよ」
マルタが言い返す。
白い面がさらに揺れた。
【食事準備音:強化】
【第一文:保持】
【第二文:保持】
【防衛配置:有効】
【同化傾向:抑制】
ガルムがもう一度吠える。
今度は高く。
鈴がかすかに震える。
ち。
戻りかける。
だが、白い面が入口側へ細い筋を伸ばした。
鈴へ。
ガルムがその前に飛び出す。
噛むのではない。
体を置く。
入口と白い筋の間に、黒い体を置く。
ガルムの毛が白くなりかけた。
「ガルム!」
ミアが叫ぶ。
ガルムは唸る。
「戻す」
短く言った。
マルタが小鍋を鳴らす。
かん。
アルトが皿を押さえながら、もう片方の手で机を叩いた。
どん。
赤猫亭の木の音。
ガルドが椅子を押さえた足に力を込める。
ぎし。
椅子が鳴る。
ミナが水差しを机に置き直す。
こと。
ミアが深皿の中の芋に息を吹く。
ふー。
ブルーノが叫んだ。
「全部、音があります!」
その声が、店に通った。
「白い場所には、音がありません!」
ブルーノは紙を持っていない。
記録ではない。
叫んでいる。
「ここには、あります!」
鈴が鳴った。
ちりん。
小さく。
だが、確かに。
ガルムの毛から、白さが引く。
アルトの視界が強く光る。
【音響要素:復帰】
【同化傾向:低下】
【最終呼称:表示】
机の上の黒い点が、形になった。
文字ではない。
名前でもない。
だが、読むものとしてそこにある。
アルトは表示を共有に回す。
机上に、変換された文字が浮かぶ。
【最終呼称:――おいていかないで】
店の中が止まった。
音が、消えそうになった。
アルトの手が皿から離れかける。
だが、皿の縁が手に食い込んでいる。
痛みが戻した。
おいていかないで。
それは、命令ではなかった。
責めでもなかった。
急かしでもなかった。
ただ、声になろうとして、声になれなかった呼び方。
誰かを呼ぶ、最後の形。
ルナの口が震えた。
「私は」
声が割れる。
「それを」
言葉が続かない。
白い面が、再び広がろうとする。
【読取後反応:発生】
【呼称残滓:崩壊開始】
【同化傾向:再上昇】
読んだ後が、本番だった。
「置いていかない」
アルトの喉まで、その言葉が上がった。
だが、飲み込んだ。
それは、今ここでアルトが約束していい言葉ではない。誰に向けるのかも、誰が待っているのかも、まだ分からない。分からないまま抱きしめると、また誰かの席を奪う。
だから、アルトは皿を押さえる手に力を込めた。
「返すな」
ルナが目を開く。
「返すな。まだ」
マルタが小鍋を押さえる。
「熱い」
アルトはルナを見た。
「皿を見ろ」
ルナは皿を見る。
浅い皿。
深皿。
芋。
水。
白い筋。
木の皿。
全員の手。
皿がある。
責めるための皿ではない。
ルナは唇を噛む。
ガルムが入口で唸る。
鈴は鳴っている。
小さく震え続けている。
ちりん、ちりん。
ブルーノが机の下から叫ぶ。
「呼称残滓、崩壊中!」
「崩れるのは悪いのか!」
アルトが聞く。
「分かりません!」
ブルーノの声が返る。
「でも、同化が上がっています!」
ガルドが椅子を押さえたまま言う。
「なら、崩れ方を支えろ」
「どうやって!」
「拾え」
ブルーノは目を見開いた。
落ちるものを拾う役。
それは、ここだった。
呼称残滓が崩れる。
何が落ちるか分からない。
でも拾う。
ブルーノは紙を開かない。
両手を机の下から出し、白い面の端に落ちた黒い小さな欠片を見つけた。
触れるのを一瞬ためらう。
アルトが言った。
「紙じゃない。手で見ろ」
ブルーノは頷いた。
黒い欠片を、直接つまんだ。
熱くも冷たくもない。
ただ、重かった。
「拾いました!」
【呼称残滓:破片保持】
【同化傾向:低下】
ガルドが短く笑う。
「拾えたな」
ブルーノの目に涙が浮かぶ。
「はい!」
マルタが小鍋を鳴らす。
かん。
ミアが息を吹く。
ふー。
ミナが水差しを置く。
こと。
ガルムが鈴の下で吠える。
鈴が鳴る。
ちりん。
アルトは皿を押さえながら、ルナを見た。
「今だ」
ルナは泣いている。
でも、崩れていない。
皿がある。
水がある。
音がある。
席がある。
店がある。
「返すな」
アルトは言った。
「出せ」
ルナの目が震える。
返すのではない。
出す。
皿に乗せて。
店で。
ルナは水をもう一口飲んだ。
芋を見た。
そして、机に手を置いたまま、言った。
「ここに、皿があります」
第一文。
だが、今はルナの声だけではない。
水が鳴る。
小鍋が鳴る。
鈴が鳴る。
皆が支える。
ルナは続けた。
「責めるための皿ではありません」
第二文。
店の声。
白い面が、止まる。
【第一文:再保持】
【第二文:再保持】
【同化傾向:停止】
ルナは息を吸う。
ここから先。
誰も止めなかった。
アルトも止めない。
マルタも小鍋を押さえたまま、頷いた。
ミアは深皿を抱えている。
ブルーノは黒い破片を手に持っている。
ガルドは椅子を押さえている。
ガルムは鈴を守っている。
ミナは水を支えている。
ルナは言った。
「あなたを、おいていくための皿ではありません」
白い面が、震えた。
店全体が軋む。
椅子が鳴る。
水が揺れる。
鈴が鳴る。
小鍋が鳴る。
深皿の中で芋が転がる。
アルトは皿を押さえたまま叫んだ。
「ここは赤猫亭だ!」
白い面が机から浮き上がるように広がる。
「白い場所じゃない!」
ガルドが椅子を踏み込む。
「滑るな!」
ブルーノが黒い破片を両手で包む。
「落としません!」
ミアが深皿を前へ出す。
「こぼれても受ける!」
マルタが小鍋を叩きつけるように置く。
かん!
「飯の支度中だよ!」
ガルムが吠える。
鈴が激しく鳴る。
ちりん、ちりん、ちりん。
ミナが水差しを机に押さえる。
「水は、ここです!」
ルナは泣きながら、それでも声を保った。
「ここに、皿があります」
「責めるための皿ではありません」
「あなたを、おいていくための皿ではありません」
白い面が、弾けた。
音はしなかった。
だが、店の全ての音が一瞬だけ大きくなった。
水。
鍋。
鈴。
椅子。
皿。
息。
全部が、戻ってきたように。
【最終呼称:読取完了】
【呼称残滓:崩壊停止】
【破片保持:成立】
【同化傾向:停止】
【防衛配置:維持】
【旧待機区画:反応低下】
白い面は消えた。
完全には。
机には、三本目の白い筋が残っている。
だが、机は机だった。
椅子は椅子だった。
皿は皿だった。
水はこぼれていない。
鈴は鳴っている。
小鍋は、台の上にある。
誰も倒れていない。
ルナは机に手を置いたまま、泣いていた。
アルトは皿を押さえる手を、ゆっくり緩めた。
手のひらに、皿の跡が赤く残っていた。
痛い。
その痛さが、ありがたかった。
戻ってきた証拠のようだった。
◇
しばらく、誰も動けなかった。
最初に動いたのは、ミアだった。
深皿の中の芋を見て、泣きそうな顔で言った。
「芋、受けた」
マルタが息を吐くように笑った。
「偉いね」
ミアは頷く。
「深皿、えらい」
「偉くしすぎない」
「でも、今日はちょっと」
「今日はちょっと」
ガルドが椅子から足を離す。
椅子は動かない。
「滑らなかった」
それだけ言った。
ブルーノは両手を開いた。
黒い小さな破片が、手のひらに乗っている。
文字ではない。
名前でもない。
炭の欠片のように見える。
だが、触れていると、胸の奥に声にならない重さが来る。
「これは」
アルトの視界に表示が浮かぶ。
【呼称残滓破片】
【状態:保持】
【照合:未完了】
アルトは表示を机上へ落とした。
ブルーノが読み、息を呑む。
アルトは破片を見る。
「落とすな」
「はい」
「でも、閉じ込めるな」
ブルーノは頷く。
「はい」
マルタが浅い小皿を持ってきた。
「一度、皿に置きな」
ブルーノは慎重に破片を置く。
こと。
小さな音がした。
重い音だった。
ルナはその破片を見る。
「おいていかないで」
小さく言った。
もう、先ほどのようには崩れない。
泣いているが、声は落ち着いている。
「これは、呼ばれていた者の声ですか」
ブルーノが共有表示を見る。
すぐに答えは出ない。
代わりに、別の行が浮かんだ。
【発信側:未照合】
【受信側:未照合】
【関係性:分離不能】
アルトは眉を寄せる。
「分離不能」
ブルーノが読む。
「呼んだ者と呼ばれていた者が、まだ分けられない、という意味かもしれません」
マルタが低く言う。
「置いていかないで、ってのは、どっちでもあるからね」
誰かを呼ぶ声。
誰かに届かなかった声。
置いていった者の痛み。
置いていかれた者の痛み。
その境目が、白い場所で混ざったのかもしれない。
ルナは破片を見る。
「私は、それを聞いていました」
「ああ」
「返せませんでした」
「ああ」
「でも、今日は」
ルナは皿を見る。
「皿に置けました」
アルトは頷いた。
「ああ」
できた。
読めた。
守れた。
だが、終わってはいない。
呼んだ者と呼ばれていた者は、まだ分からない。
破片は残っている。
白い筋も残っている。
それでも、最終呼称は読めた。
そして、白い場所に同化されずに済んだ。
◇
午後、赤猫亭は開けなかった。
マルタが決めた。
「今日は休み」
ミアが聞く。
「なんで?」
「机が働きすぎた」
「皿も?」
「皿も」
「小鍋も?」
「小鍋も」
「ガルムも?」
「ガルムも」
ガルムは入口の下で目を閉じている。
だが、耳は動いている。
鈴は普通に鳴る。
誰も入ってこないが、風で少し揺れた。
ちりん。
全員が一瞬そちらを見る。
ガルムが片目を開ける。
「普通」
短く言った。
マルタが頷く。
「普通ならいい」
ブルーノは破片を置いた小皿を見ている。
紙は開かない。
さすがに記録したそうだったが、まだ我慢している。
「書いていいぞ」
アルトが言うと、ブルーノは驚いた。
「いいのですか」
「今なら」
「濃く書きすぎないようにします」
「薄く書け」
「はい」
ブルーノは紙を開いた。
ペンを持つ。
少しだけ震えている。
書いた。
【最終呼称:おいていかないで】
【読取完了】
【皿に置いた】
【破片あり】
それだけ。
マルタが覗く。
「今日はそれでいい」
ブルーノは頷いた。
それ以上は書かなかった。
ルナは水を飲んだ。
泣きすぎて喉が痛そうだった。
ミナがそっと水を足す。
ルナは礼を言う代わりに、コップを両手で持った。
「私は、返したかったのだと思います」
誰もすぐに答えない。
ルナは続ける。
「ずっと」
水面が少し揺れる。
「でも、返すと、私の言葉になりすぎる」
アルトは頷く。
「だから出した」
「はい」
「皿に」
「はい」
ルナは小皿の破片を見る。
「まだ、誰に出したのか分かりません」
「そうだな」
「でも、責めるためではありませんでした」
「ああ」
「おいていくためでもありませんでした」
「ああ」
ミアが小さく言う。
「じゃあ、何の皿?」
ルナは少し考えた。
アルトも答えを探した。
マルタが鍋を拭きながら言う。
「食べるためだよ」
ミアが顔を上げる。
「そうか」
「皿だからね」
ルナはその答えに、少しだけ笑った。
泣いた後の、薄い笑いだった。
「はい」
皿は、食べるため。
責めるためではない。
おいていくためでもない。
食べるため。
それが、いちばん赤猫亭らしい答えだった。
◇
夕方、レオンから通信端末に連絡が来た。
《今日は、夢を見ませんでした》
アルトは通信端末を見る。
《そうか》
《でも、起きてから泣いていました》
アルトの指が止まる。
《理由は》
《分かりません》
間。
《ただ、置いていかないで、と思いました》
店の中の空気が止まったように感じた。
アルトは通信端末を持ったまま、真ん中の机を見る。
ルナも気づく。
ブルーノも顔を上げる。
レオンは何も知らない。
今日、赤猫亭で最終呼称を読んだことを知らない。
それでも、同じ言葉が届いている。
アルトはすぐに意味づけしない。
だが、無視もしない。
《今はどこにいる》
《自分の部屋です》
《水は》
《飲みました》
《机は》
《手を置いています》
アルトは息を吐いた。
《皿はあるか》
少し間。
《ありません》
アルトは周囲を見る。
マルタがすぐ、小さな皿を持ってきた。
「持っていけないけどね」
アルトは返信する。
《皿を一枚、出しておけ》
既読。
間。
《出しました》
《何も乗せなくていい》
《はい》
《それは、責めるための皿じゃない》
送った後、アルトは少しだけ目を閉じた。
第二文を、外へ出した。
だが、必要だった。
レオンから返事が来る。
《少し、息がしやすいです》
アルトは通信端末を伏せた。
白い場所だけではない。
最終呼称は、まだ外にも響いている。
だが、皿を出せる。
水を飲める。
机に手を置ける。
それなら、まだ大丈夫だ。
◇
夜、店を閉める前に、全員で真ん中の机を見た。
三本の白い筋。
小皿の上の黒い破片。
浅い皿。
深皿。
水差し。
小鍋。
木の皿。
鈴。
全部、残っている。
壊れていない。
同化していない。
だが、変わった。
読む前の赤猫亭には戻れない。
それでも、赤猫亭のままだ。
アルトの視界の端に、最後の表示が浮かぶ。
彼はそれを机の上へ落とした。
【最終呼称:読取完了】
【呼称残滓破片:保持】
【発信側:未照合】
【受信側:未照合】
【関係性:分離不能】
【旧待機区画:反応低下】
【防衛配置:維持】
【次段階:照合】
ブルーノが読む。
「次段階、照合」
アルトは頷く。
読んだ。
守った。
次は、誰の声だったのか。
誰が呼び、誰が呼ばれていたのか。
そこへ進む。
ミアが小皿を見る。
「破片、食べる?」
「食べない」
全員がほぼ同時に言った。
ミアはびくっとした。
「聞いただけ」
マルタが笑った。
「それは食べ物じゃないね」
「皿にあるのに?」
「皿にあるものが全部食べ物とは限らない」
「難しい」
「難しいね」
ガルドが木の皿を拾う。
「今日は使った」
ミアがすぐ言う。
「えらい?」
「偉くするな」
「今日はちょっと?」
ガルドは少しだけ考えた。
「少し」
ミアは満足した。
ルナは机に手を置く。
白い筋の横。
今朝より、手が落ち着いている。
「読めました」
「ああ」
「守れました」
「ああ」
「でも、終わっていません」
「ああ」
ルナは破片を見る。
「なら、明日も皿を置きます」
アルトは頷く。
「明日も店を開ける」
マルタが小鍋を持ち上げる。
「その前に、今日は閉めるよ」
鈴が鳴る。
ちりん。
戻った音。
小鍋が鳴る。
かん。
守った音。
水差しが置かれる。
こと。
皿を重ねる。
からん。
破片の乗った小皿だけは、重ねない。
布で机を拭く。
きゅっ。
白い筋は消えない。
でも、広がらない。
ミアが小さく息を吹く。
ふー。
冷ましすぎない音。
アルトは灯りを落とす前に、もう一度机を見た。
おいていかないで。
その言葉は、読まれた。
だが、赤猫亭は誰も置いていかなかった。
皿を押さえた。
水を支えた。
音を戻した。
席を守った。
破片を拾った。
そして、言葉を皿に置いた。
赤猫亭は閉まった。
明日、また開く。
次は、照合だ。
誰が呼んだのか。
誰が呼ばれていたのか。
その問いに向かうために。
皿は、まだそこにある。




