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第115話 配置で読む

 鈴は、まだ鳴っていなかった。


 鳴っていないのに、ガルムは入口の下から動かない。黒い耳だけが時々ぴくりと揺れ、そのたびにミアが深皿を抱え直す。真ん中の机には、昨日残った白い筋が二本。浅い皿、水差し、小鍋、木の皿、深皿、小皿が、それぞれ近すぎず遠すぎない場所に置かれていた。


 赤猫亭はまだ開いていない。


 けれど、もう全員が働いていた。


 マルタは厨房で小鍋を拭いている。布で包むように、きゅっ、と拭く。音を鳴らすためではない。鳴ってもいいようにしている。


 ガルドは椅子の脚を確かめていた。


「滑らない?」


 ミアが聞く。


「滑らん」


「ほんと?」


「昨日よりは」


「今日も動く?」


「分からん」


「分からんから?」


「押さえる」


 ミアは大きく頷いた。


「分からんから、押さえる」


 ブルーノは紙を持っていた。


 閉じたまま。


 昨日と同じだが、今日は胸に抱えていない。腰の横に下げ、両手を空けている。記録より先に拾う。見る。押さえる。第115話の赤猫亭は、もうその順番を知っていた。


 ルナは階段を下りてきた。


 今日のコップは半分。


 昨日より少ない。


 アルトはそれを見た。


「半分か」


「はい」


「理由は」


「今日は、置くためです」


 ルナはコップを持ち上げる。


「飲むためだけではなく、必要なら机に置くために」


 アルトは頷いた。


 手を空ける。


 水を置く。


 逃げるためではない。


 読むために。


 その時、アルトの視界の端に薄い表示が浮かんだ。


【読取準備:維持】


【防衛配置:成立】


【最終呼称:読取条件一部充足】


【最終呼称:未読】


 アルトは視線だけを動かし、表示を確認する。


 いつもの神界配信UIだ。


 だが今日は、一人で見るものではない。


 アルトは指先で払うように、その表示を机の上へ落とした。浅い皿と水差しの間に、薄い文字が浮かぶ。白い光ではない。紙でもない。視界にあった文字を、赤猫亭の机に一時的に共有しただけのものだ。


 ブルーノが身を乗り出す。


「共有表示にしますか」


「ああ。今日は一人で見るものじゃない」


 ミアが文字をのぞき込み、すぐ眉を寄せた。


「これ、アルトの目のやつ?」


「そうだ」


「目、便利」


「俺の目を便利扱いするな」


「でも便利」


「便利ではない」


「じゃあ、すごい目」


「それもやめろ」


 マルタが小鍋を台に置いた。


 かん。


 今日は、最初から鳴った。


 わざとではない。


 でも、逃げてもいない。


「朝飯だよ」


 誰も反論しなかった。


 読む前に食べる。


 今日も、そこからだった。


 ◇


 朝食は、芋のスープと焼き芋だった。


 焼き芋は一切れではない。小さめだが、一人に一つずつある。ミアはそれを見て、目を丸くした。


「今日、多い」


「力がいるからね」


 マルタが答える。


「戦う?」


「支える」


 ミアは焼き芋を両手で持った。


「支える芋」


「そう」


「強そう」


「強いよ」


 アルトはスープを飲んだ。温かい。昨日より少し濃いが、強すぎない。喉を通り、腹に落ち、冷えていた手の内側までゆっくり戻していく。こういう熱がないまま読めば、言葉の方が強くなりすぎる。


 ルナも食べる。


 一口。


 水。


 もう一口。


 水。


 急がない。


 だが、迷ってはいない。


「怖いか」


 アルトが聞く。


「はい」


「逃げたい怖さか」


「少しあります」


 ルナは正直に言った。


 店の中が少しだけ静かになる。


 彼女は続ける。


「でも、それだけではありません」


「何がある」


「読みたい怖さです」


 アルトはルナを見る。


 読みたい怖さ。


 逃げたいではない。座れてしまうでもない。守らないといけないでもない。読みたい。だが、読みたいと思った瞬間に、誰かを呼びすぎるかもしれない。その怖さ。


「読まされてるわけじゃないな」


「はい」


「言いたいから読むのとも違うな」


「はい」


 ルナは焼き芋を両手で持ったまま、机の上の共有表示を見た。


「皿があります。水があります。音があります。席があります。守る配置があります」


 少し間。


「だから、読めるかもしれません」


 マルタが言う。


「読めるかもしれない、でいい」


 ルナは頷いた。


「はい」


 ガルドはスープを飲み終えて、椅子の脚をもう一度見た。


「読めるなら、滑るな」


 ミアが真剣に頷く。


「全部、滑るな」


 ブルーノは紙を開きかけて、閉じた。


「私は、読んだものをすぐ記録しない方がいいですね」


 アルトは頷いた。


「まず見る」


「はい」


「拾う」


「はい」


「記録は後」


「分かりました」


 ミナは水差しを確認する。


「水は、こぼれてもいい量ではなく、こぼさない量にします」


 マルタが頷く。


「いいね」


 ガルムが鈴の下で低く鳴いた。


「入口は、戻す」


「戻す?」


 アルトが聞く。


「消えたら、戻す」


「ああ」


 昨日、鈴は一度止まった。


 今日は、最初からそれを見ている。


 朝食が終わっても、誰もすぐ立たなかった。食べたものが体に落ちるまで、少し待つ。読み急がないための、何でもない時間だった。


 ミアが焼き芋の最後を飲み込んでから言った。


「もぐもぐ、終わり」


 マルタが頷いた。


「じゃあ、始めようか」


 その声で、赤猫亭が動いた。


 ◇


 配置につく。


 ミナが水差しを机の右へ置く。


 こと。


 マルタが小鍋を厨房側の台に置く。


 かん。


 ミアが深皿を浅い皿の手前に置く。


 こぼれた時に受ける位置。


 ガルドが木の皿を机の脚の下へ滑らせる。


 とん。


 ブルーノは紙を腰の横へ下げ、両手を空ける。


 ガルムは鈴の下。


 入口の音を守る位置。


 ルナは机の左側。


 白い筋の正面ではなく、半歩ずれた位置。


 アルトは浅い皿の横。


 皿を押さえられる位置。


 誰も真正面に立たない。


 誰も一人で背負わない。


 店が言う。


 店が守る。


 そして今日は、店が読む。


 アルトの視界に、表示が開いた。


【防衛配置:確認】


【読取準備:確認】


【最終呼称:読取可能】


 アルトはそれを机上へ共有する。


 薄い文字が、皿と水の間に浮かぶ。


 ミアが息を止めた。


 ブルーノの手が一瞬だけ震える。


 ルナは水を机に置いた。


 こと。


 半分の水。


 置いた。


 両手を空ける。


 その瞬間、白い筋が淡く光った。


 昨日より早い。


 だが、昨日ほど広がらない。


 まるで、こちらが準備していることを分かっているように、机の端で止まっている。


 視界UIに新しい行が浮かぶ。


【最終呼称:展開準備】


【注意:読取後反応予測不能】


【防衛配置:維持推奨】


 アルトは共有表示へ回した。


 ブルーノが読む。


「読取後反応、予測不能」


 アルトは浅い皿に手を置いた。


「読む」


 口にした。


 表示は反応しない。


 それでいい。


 これはシステムへの命令ではない。


 赤猫亭への合図だ。


 ルナが頷く。


「読みます」


 マルタが小鍋に手を置く。


「熱くなりすぎたら、止めるよ」


 ミアが深皿を抱える。


「こぼれたら、受ける」


 ガルドが椅子の脚を押さえる。


「滑るな」


 ガルムが鈴を見上げる。


「消えたら、戻す」


 ミナが水差しを見る。


「水は、ここです」


 ブルーノが息を吸う。


「記録は、後です」


 アルトは、全員の声を聞いた。


 それぞれ違う。


 でも、同じ方向を向いている。


 視界の文字がゆっくり変わる。


【呼称残滓:展開】


 机の白い筋の上に、黒い小さな点が浮いた。


 黒い傷ではない。


 文字でもない。


 点。


 それが、細い線になりかける。


 ルナの顔が強張る。


 アルトは皿を押さえる手に力を入れた。


「焦るな」


「はい」


 ルナは息を吸う。


 水は、机の上。


 手は空いている。


 震えているが、空いている。


【最終呼称:表示準備】


【読取方式:配置】


 配置。


 声ではない。


 誰か一人ではない。


 配置で読む。


 アルトは胸の奥が熱くなるのを感じた。熱い。だが、熱くなりすぎるな。皿がある。水がある。音がある。芋がある。席がある。皆がいる。ここで読めるなら、白い場所ではなく、赤猫亭で読める。


 黒い点が、文字の形に近づく。


 その瞬間、鈴が消えた。


 鳴らないのではない。


 そこにあるのに、音だけが消えた。


 ガルムが即座に吠えた。


 短く。


 低く。


 入口の空気が震える。


 だが、鈴は戻らない。


 白い筋が机の中央へ伸びる。


 椅子が後ろへ引かれる。


 ぎ。


 ガルドが脚を踏み込む。


「滑るな」


 椅子が止まる。


 水差しが傾く。


 ミナが支える。


 水面が大きく揺れる。


 こぼれない。


 浅い皿が机の上を滑りかける。


 アルトが押さえる。


 指先に痛みが走る。


 皿の縁が手のひらに食い込む。


 ミアが深皿を前へ出した。


「こっち!」


 芋の一切れが浅い皿から転がり、深皿の中へ落ちた。


 とん。


 受けた。


 ブルーノが机の下で木の皿がずれたのを見る。


 飛び込む。


 今度は迷わない。


 両手で押さえる。


「押さえています!」


 マルタが小鍋を置く。


 かん。


 白い筋が一瞬止まる。


 だが、次の瞬間、机の上に白い面が広がった。


 昨日より広い。


 白い場所が、机の上に薄く重なっている。


 共有表示が揺らぐ。


【境界接触:拡大】


【同化傾向:上昇】


【読取中断:非推奨】


【防衛配置:維持】


 中断非推奨。


 アルトは奥歯を噛んだ。


 今やめると、何かが歪む。


 だが進めば、白い場所が広がる。


 守りながら読む。


 昨日、そう決めた。


「配置を崩すな!」


 アルトが言う。


 命令に近い。


 だが、これは店への合図だ。


 誰も反発しない。


 ルナが机に両手を置いた。


 白い面のすぐ横。


 手の下の木が、かすかに白くなる。


 アルトが叫びそうになる。


 ルナが先に言った。


「これは、命令ではありません!」


 白い面が揺れる。


「責めでもありません!」


 第二文の熱が、店の声として戻る。


「急かすものでもありません!」


 ミアが深皿を抱えたまま叫ぶ。


「芋、ある!」


 場違いなようで、必要だった。


 芋がある。


 食べるものがある。


 ここは白い場所ではない。


 マルタが小鍋を叩くように置いた。


 かん。


「飯の前で、勝手に白くなるんじゃないよ」


 ガルドが椅子を押さえたまま低く笑った。


「それは命令だろ」


「店の決まりだよ」


 マルタが言い返す。


 白い面がさらに揺れた。


【食事準備音:強化】


【第一文:保持】


【第二文:保持】


【防衛配置:有効】


【同化傾向:抑制】


 ガルムがもう一度吠える。


 今度は高く。


 鈴がかすかに震える。


 ち。


 戻りかける。


 だが、白い面が入口側へ細い筋を伸ばした。


 鈴へ。


 ガルムがその前に飛び出す。


 噛むのではない。


 体を置く。


 入口と白い筋の間に、黒い体を置く。


 ガルムの毛が白くなりかけた。


「ガルム!」


 ミアが叫ぶ。


 ガルムは唸る。


「戻す」


 短く言った。


 マルタが小鍋を鳴らす。


 かん。


 アルトが皿を押さえながら、もう片方の手で机を叩いた。


 どん。


 赤猫亭の木の音。


 ガルドが椅子を押さえた足に力を込める。


 ぎし。


 椅子が鳴る。


 ミナが水差しを机に置き直す。


 こと。


 ミアが深皿の中の芋に息を吹く。


 ふー。


 ブルーノが叫んだ。


「全部、音があります!」


 その声が、店に通った。


「白い場所には、音がありません!」


 ブルーノは紙を持っていない。


 記録ではない。


 叫んでいる。


「ここには、あります!」


 鈴が鳴った。


 ちりん。


 小さく。


 だが、確かに。


 ガルムの毛から、白さが引く。


 アルトの視界が強く光る。


【音響要素:復帰】


【同化傾向:低下】


【最終呼称:表示】


 机の上の黒い点が、形になった。


 文字ではない。


 名前でもない。


 だが、読むものとしてそこにある。


 アルトは表示を共有に回す。


 机上に、変換された文字が浮かぶ。


【最終呼称:――おいていかないで】


 店の中が止まった。


 音が、消えそうになった。


 アルトの手が皿から離れかける。


 だが、皿の縁が手に食い込んでいる。


 痛みが戻した。


 おいていかないで。


 それは、命令ではなかった。


 責めでもなかった。


 急かしでもなかった。


 ただ、声になろうとして、声になれなかった呼び方。


 誰かを呼ぶ、最後の形。


 ルナの口が震えた。


「私は」


 声が割れる。


「それを」


 言葉が続かない。


 白い面が、再び広がろうとする。


【読取後反応:発生】


【呼称残滓:崩壊開始】


【同化傾向:再上昇】


 読んだ後が、本番だった。


「置いていかない」


 アルトの喉まで、その言葉が上がった。


 だが、飲み込んだ。


 それは、今ここでアルトが約束していい言葉ではない。誰に向けるのかも、誰が待っているのかも、まだ分からない。分からないまま抱きしめると、また誰かの席を奪う。


 だから、アルトは皿を押さえる手に力を込めた。


「返すな」


 ルナが目を開く。


「返すな。まだ」


 マルタが小鍋を押さえる。


「熱い」


 アルトはルナを見た。


「皿を見ろ」


 ルナは皿を見る。


 浅い皿。


 深皿。


 芋。


 水。


 白い筋。


 木の皿。


 全員の手。


 皿がある。


 責めるための皿ではない。


 ルナは唇を噛む。


 ガルムが入口で唸る。


 鈴は鳴っている。


 小さく震え続けている。


 ちりん、ちりん。


 ブルーノが机の下から叫ぶ。


「呼称残滓、崩壊中!」


「崩れるのは悪いのか!」


 アルトが聞く。


「分かりません!」


 ブルーノの声が返る。


「でも、同化が上がっています!」


 ガルドが椅子を押さえたまま言う。


「なら、崩れ方を支えろ」


「どうやって!」


「拾え」


 ブルーノは目を見開いた。


 落ちるものを拾う役。


 それは、ここだった。


 呼称残滓が崩れる。


 何が落ちるか分からない。


 でも拾う。


 ブルーノは紙を開かない。


 両手を机の下から出し、白い面の端に落ちた黒い小さな欠片を見つけた。


 触れるのを一瞬ためらう。


 アルトが言った。


「紙じゃない。手で見ろ」


 ブルーノは頷いた。


 黒い欠片を、直接つまんだ。


 熱くも冷たくもない。


 ただ、重かった。


「拾いました!」


【呼称残滓:破片保持】


【同化傾向:低下】


 ガルドが短く笑う。


「拾えたな」


 ブルーノの目に涙が浮かぶ。


「はい!」


 マルタが小鍋を鳴らす。


 かん。


 ミアが息を吹く。


 ふー。


 ミナが水差しを置く。


 こと。


 ガルムが鈴の下で吠える。


 鈴が鳴る。


 ちりん。


 アルトは皿を押さえながら、ルナを見た。


「今だ」


 ルナは泣いている。


 でも、崩れていない。


 皿がある。


 水がある。


 音がある。


 席がある。


 店がある。


「返すな」


 アルトは言った。


「出せ」


 ルナの目が震える。


 返すのではない。


 出す。


 皿に乗せて。


 店で。


 ルナは水をもう一口飲んだ。


 芋を見た。


 そして、机に手を置いたまま、言った。


「ここに、皿があります」


 第一文。


 だが、今はルナの声だけではない。


 水が鳴る。


 小鍋が鳴る。


 鈴が鳴る。


 皆が支える。


 ルナは続けた。


「責めるための皿ではありません」


 第二文。


 店の声。


 白い面が、止まる。


【第一文:再保持】


【第二文:再保持】


【同化傾向:停止】


 ルナは息を吸う。


 ここから先。


 誰も止めなかった。


 アルトも止めない。


 マルタも小鍋を押さえたまま、頷いた。


 ミアは深皿を抱えている。


 ブルーノは黒い破片を手に持っている。


 ガルドは椅子を押さえている。


 ガルムは鈴を守っている。


 ミナは水を支えている。


 ルナは言った。


「あなたを、おいていくための皿ではありません」


 白い面が、震えた。


 店全体が軋む。


 椅子が鳴る。


 水が揺れる。


 鈴が鳴る。


 小鍋が鳴る。


 深皿の中で芋が転がる。


 アルトは皿を押さえたまま叫んだ。


「ここは赤猫亭だ!」


 白い面が机から浮き上がるように広がる。


「白い場所じゃない!」


 ガルドが椅子を踏み込む。


「滑るな!」


 ブルーノが黒い破片を両手で包む。


「落としません!」


 ミアが深皿を前へ出す。


「こぼれても受ける!」


 マルタが小鍋を叩きつけるように置く。


 かん!


「飯の支度中だよ!」


 ガルムが吠える。


 鈴が激しく鳴る。


 ちりん、ちりん、ちりん。


 ミナが水差しを机に押さえる。


「水は、ここです!」


 ルナは泣きながら、それでも声を保った。


「ここに、皿があります」


「責めるための皿ではありません」


「あなたを、おいていくための皿ではありません」


 白い面が、弾けた。


 音はしなかった。


 だが、店の全ての音が一瞬だけ大きくなった。


 水。


 鍋。


 鈴。


 椅子。


 皿。


 息。


 全部が、戻ってきたように。


【最終呼称:読取完了】


【呼称残滓:崩壊停止】


【破片保持:成立】


【同化傾向:停止】


【防衛配置:維持】


【旧待機区画:反応低下】


 白い面は消えた。


 完全には。


 机には、三本目の白い筋が残っている。


 だが、机は机だった。


 椅子は椅子だった。


 皿は皿だった。


 水はこぼれていない。


 鈴は鳴っている。


 小鍋は、台の上にある。


 誰も倒れていない。


 ルナは机に手を置いたまま、泣いていた。


 アルトは皿を押さえる手を、ゆっくり緩めた。


 手のひらに、皿の跡が赤く残っていた。


 痛い。


 その痛さが、ありがたかった。


 戻ってきた証拠のようだった。


 ◇


 しばらく、誰も動けなかった。


 最初に動いたのは、ミアだった。


 深皿の中の芋を見て、泣きそうな顔で言った。


「芋、受けた」


 マルタが息を吐くように笑った。


「偉いね」


 ミアは頷く。


「深皿、えらい」


「偉くしすぎない」


「でも、今日はちょっと」


「今日はちょっと」


 ガルドが椅子から足を離す。


 椅子は動かない。


「滑らなかった」


 それだけ言った。


 ブルーノは両手を開いた。


 黒い小さな破片が、手のひらに乗っている。


 文字ではない。


 名前でもない。


 炭の欠片のように見える。


 だが、触れていると、胸の奥に声にならない重さが来る。


「これは」


 アルトの視界に表示が浮かぶ。


【呼称残滓破片】


【状態:保持】


【照合:未完了】


 アルトは表示を机上へ落とした。


 ブルーノが読み、息を呑む。


 アルトは破片を見る。


「落とすな」


「はい」


「でも、閉じ込めるな」


 ブルーノは頷く。


「はい」


 マルタが浅い小皿を持ってきた。


「一度、皿に置きな」


 ブルーノは慎重に破片を置く。


 こと。


 小さな音がした。


 重い音だった。


 ルナはその破片を見る。


「おいていかないで」


 小さく言った。


 もう、先ほどのようには崩れない。


 泣いているが、声は落ち着いている。


「これは、呼ばれていた者の声ですか」


 ブルーノが共有表示を見る。


 すぐに答えは出ない。


 代わりに、別の行が浮かんだ。


【発信側:未照合】


【受信側:未照合】


【関係性:分離不能】


 アルトは眉を寄せる。


「分離不能」


 ブルーノが読む。


「呼んだ者と呼ばれていた者が、まだ分けられない、という意味かもしれません」


 マルタが低く言う。


「置いていかないで、ってのは、どっちでもあるからね」


 誰かを呼ぶ声。


 誰かに届かなかった声。


 置いていった者の痛み。


 置いていかれた者の痛み。


 その境目が、白い場所で混ざったのかもしれない。


 ルナは破片を見る。


「私は、それを聞いていました」


「ああ」


「返せませんでした」


「ああ」


「でも、今日は」


 ルナは皿を見る。


「皿に置けました」


 アルトは頷いた。


「ああ」


 できた。


 読めた。


 守れた。


 だが、終わってはいない。


 呼んだ者と呼ばれていた者は、まだ分からない。


 破片は残っている。


 白い筋も残っている。


 それでも、最終呼称は読めた。


 そして、白い場所に同化されずに済んだ。


 ◇


 午後、赤猫亭は開けなかった。


 マルタが決めた。


「今日は休み」


 ミアが聞く。


「なんで?」


「机が働きすぎた」


「皿も?」


「皿も」


「小鍋も?」


「小鍋も」


「ガルムも?」


「ガルムも」


 ガルムは入口の下で目を閉じている。


 だが、耳は動いている。


 鈴は普通に鳴る。


 誰も入ってこないが、風で少し揺れた。


 ちりん。


 全員が一瞬そちらを見る。


 ガルムが片目を開ける。


「普通」


 短く言った。


 マルタが頷く。


「普通ならいい」


 ブルーノは破片を置いた小皿を見ている。


 紙は開かない。


 さすがに記録したそうだったが、まだ我慢している。


「書いていいぞ」


 アルトが言うと、ブルーノは驚いた。


「いいのですか」


「今なら」


「濃く書きすぎないようにします」


「薄く書け」


「はい」


 ブルーノは紙を開いた。


 ペンを持つ。


 少しだけ震えている。


 書いた。


【最終呼称:おいていかないで】


【読取完了】


【皿に置いた】


【破片あり】


 それだけ。


 マルタが覗く。


「今日はそれでいい」


 ブルーノは頷いた。


 それ以上は書かなかった。


 ルナは水を飲んだ。


 泣きすぎて喉が痛そうだった。


 ミナがそっと水を足す。


 ルナは礼を言う代わりに、コップを両手で持った。


「私は、返したかったのだと思います」


 誰もすぐに答えない。


 ルナは続ける。


「ずっと」


 水面が少し揺れる。


「でも、返すと、私の言葉になりすぎる」


 アルトは頷く。


「だから出した」


「はい」


「皿に」


「はい」


 ルナは小皿の破片を見る。


「まだ、誰に出したのか分かりません」


「そうだな」


「でも、責めるためではありませんでした」


「ああ」


「おいていくためでもありませんでした」


「ああ」


 ミアが小さく言う。


「じゃあ、何の皿?」


 ルナは少し考えた。


 アルトも答えを探した。


 マルタが鍋を拭きながら言う。


「食べるためだよ」


 ミアが顔を上げる。


「そうか」


「皿だからね」


 ルナはその答えに、少しだけ笑った。


 泣いた後の、薄い笑いだった。


「はい」


 皿は、食べるため。


 責めるためではない。


 おいていくためでもない。


 食べるため。


 それが、いちばん赤猫亭らしい答えだった。


 ◇


 夕方、レオンから通信端末に連絡が来た。


《今日は、夢を見ませんでした》


 アルトは通信端末を見る。


《そうか》


《でも、起きてから泣いていました》


 アルトの指が止まる。


《理由は》


《分かりません》


 間。


《ただ、置いていかないで、と思いました》


 店の中の空気が止まったように感じた。


 アルトは通信端末を持ったまま、真ん中の机を見る。


 ルナも気づく。


 ブルーノも顔を上げる。


 レオンは何も知らない。


 今日、赤猫亭で最終呼称を読んだことを知らない。


 それでも、同じ言葉が届いている。


 アルトはすぐに意味づけしない。


 だが、無視もしない。


《今はどこにいる》


《自分の部屋です》


《水は》


《飲みました》


《机は》


《手を置いています》


 アルトは息を吐いた。


《皿はあるか》


 少し間。


《ありません》


 アルトは周囲を見る。


 マルタがすぐ、小さな皿を持ってきた。


「持っていけないけどね」


 アルトは返信する。


《皿を一枚、出しておけ》


 既読。


 間。


《出しました》


《何も乗せなくていい》


《はい》


《それは、責めるための皿じゃない》


 送った後、アルトは少しだけ目を閉じた。


 第二文を、外へ出した。


 だが、必要だった。


 レオンから返事が来る。


《少し、息がしやすいです》


 アルトは通信端末を伏せた。


 白い場所だけではない。


 最終呼称は、まだ外にも響いている。


 だが、皿を出せる。


 水を飲める。


 机に手を置ける。


 それなら、まだ大丈夫だ。


 ◇


 夜、店を閉める前に、全員で真ん中の机を見た。


 三本の白い筋。


 小皿の上の黒い破片。


 浅い皿。


 深皿。


 水差し。


 小鍋。


 木の皿。


 鈴。


 全部、残っている。


 壊れていない。


 同化していない。


 だが、変わった。


 読む前の赤猫亭には戻れない。


 それでも、赤猫亭のままだ。


 アルトの視界の端に、最後の表示が浮かぶ。


 彼はそれを机の上へ落とした。


【最終呼称:読取完了】


【呼称残滓破片:保持】


【発信側:未照合】


【受信側:未照合】


【関係性:分離不能】


【旧待機区画:反応低下】


【防衛配置:維持】


【次段階:照合】


 ブルーノが読む。


「次段階、照合」


 アルトは頷く。


 読んだ。


 守った。


 次は、誰の声だったのか。


 誰が呼び、誰が呼ばれていたのか。


 そこへ進む。


 ミアが小皿を見る。


「破片、食べる?」


「食べない」


 全員がほぼ同時に言った。


 ミアはびくっとした。


「聞いただけ」


 マルタが笑った。


「それは食べ物じゃないね」


「皿にあるのに?」


「皿にあるものが全部食べ物とは限らない」


「難しい」


「難しいね」


 ガルドが木の皿を拾う。


「今日は使った」


 ミアがすぐ言う。


「えらい?」


「偉くするな」


「今日はちょっと?」


 ガルドは少しだけ考えた。


「少し」


 ミアは満足した。


 ルナは机に手を置く。


 白い筋の横。


 今朝より、手が落ち着いている。


「読めました」


「ああ」


「守れました」


「ああ」


「でも、終わっていません」


「ああ」


 ルナは破片を見る。


「なら、明日も皿を置きます」


 アルトは頷く。


「明日も店を開ける」


 マルタが小鍋を持ち上げる。


「その前に、今日は閉めるよ」


 鈴が鳴る。


 ちりん。


 戻った音。


 小鍋が鳴る。


 かん。


 守った音。


 水差しが置かれる。


 こと。


 皿を重ねる。


 からん。


 破片の乗った小皿だけは、重ねない。


 布で机を拭く。


 きゅっ。


 白い筋は消えない。


 でも、広がらない。


 ミアが小さく息を吹く。


 ふー。


 冷ましすぎない音。


 アルトは灯りを落とす前に、もう一度机を見た。


 おいていかないで。


 その言葉は、読まれた。


 だが、赤猫亭は誰も置いていかなかった。


 皿を押さえた。


 水を支えた。


 音を戻した。


 席を守った。


 破片を拾った。


 そして、言葉を皿に置いた。


 赤猫亭は閉まった。


 明日、また開く。


 次は、照合だ。


 誰が呼んだのか。


 誰が呼ばれていたのか。


 その問いに向かうために。


 皿は、まだそこにある。


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