第109話 言葉も、きゅっきゅっ
朝、ブルーノは紙を拭いていた。
正確には、紙ではない。
紙の下に敷いた板を、布で拭いていた。
きゅっ。
きゅっ。
かなり真面目な顔だった。
アルトは階段を下りて、それを見た。
「何してる」
「手入れです」
「紙の?」
「紙を直接拭くと破れます」
「そうだろうな」
「なので、下の板を」
きゅっ。
また拭く。
アルトは台の上を見る。
昨日の紙がある。
【ここに、皿がある】
【責めるための皿ではありません】
その横に、ミアの字ではないが、ブルーノの真面目な字で書かれた一行。
【言葉も、きゅっきゅっ】
アルトはその文字を見て、少し笑いそうになった。
昨日の終わりにはちょうどよかった。
朝に見ると、少し変だった。
でも、消す気にはならない。
「それ、残すのか」
「はい」
「正式に?」
「正式ではありません」
「じゃあ何だ」
「赤猫亭内運用語です」
アルトは少し黙った。
「それも硬い」
「……店の言葉です」
「それでいい」
ブルーノは頷いた。
きゅっ。
また板を拭いた。
マルタが厨房へ入ってくる。
手には布巾。
板を拭いているブルーノを見て、少し目を細めた。
「今度は板かい」
「言葉を手入れする前に、置き場所を整えています」
「いいね」
マルタは鍋を起こす。
かん。
朝の音がする。
「でも、拭きすぎると板が乾きすぎるよ」
ブルーノの手が止まった。
「乾きすぎる」
「何でもそうだよ。汚れを落とすのと、味まで落とすのは違う」
ブルーノは布を見る。
それから板を見る。
少しだけ、布を畳んだ。
「今日はここまでにします」
「うん」
ミアが階段から顔を出した。
「きゅっきゅっ、終わり?」
「一旦」
ブルーノが答える。
「言葉、きれい?」
「きれいにしすぎないようにしています」
ミアは難しい顔をした。
「ちょっと汚れてる?」
「汚れではなく」
ブルーノが言葉を探す。
マルタが助けた。
「使った感じ」
ミアは納得した。
「使った皿、えらい」
「そう」
「言葉も?」
アルトは紙を見る。
ここに、皿がある。
責めるための皿ではありません。
まだ使っていない言葉だ。
でも、何度も見て、直して、冷まして、温めている。
もう完全な新品ではない。
「少し、使った感じが出てきたな」
アルトが言うと、ミアは満足そうに頷いた。
「言葉、えらい」
ブルーノは真剣に紙へ向かって、小さく書き足そうとした。
アルトが見る。
ブルーノは止めた。
「書き足しません」
「えらい」
ミアが言った。
ブルーノは少しだけ胸を張った。
◇
朝食は、芋入りの薄いスープだった。
粥より軽い。
焼き芋よりも柔らかい。
昨日、皿も席も拭いたからか、今日は食堂全体が少しだけ整って見えた。
整いすぎているわけではない。
テーブルの端に小さな傷がある。
椅子の脚が少し鳴る。
水差しの取っ手には、昔ついた欠けがある。
きれいだが、完璧ではない。
そのくらいが、今はよかった。
ルナは自分で水を入れてきた。
今日は、コップに水を半分だけ入れている。
「半分か」
アルトが聞く。
「はい」
「なぜ」
「持ちやすいので」
ルナはそう言って、少しだけ照れたように目を伏せた。
以前なら、意味のありそうな答えを探していたかもしれない。
水の量にも、何か役割を与えようとしていたかもしれない。
だが今日は、持ちやすいから半分。
それだけだった。
マルタが頷く。
「いい理由だね」
ミアも頷く。
「こぼれにくい」
「はい」
ルナは水を飲む。
半分の水が、さらに少し減る。
その音は小さい。
でも聞こえた。
アルトはスープを飲む。
温かい。
薄い。
でも、味はある。
マルタが言った。
「今日は薄めだよ」
「分かる」
「言葉を直す日は、濃いものを食べすぎない方がいい」
「また今できた決まりか」
「半分くらいね」
ミアが手を上げる。
「半分決まり」
「そう」
ブルーノが反応しかけた。
アルトとマルタが同時に見る。
ブルーノはペンを置いた。
「書きません」
「えらい」
ミアが言う。
今日もブルーノはえらいらしい。
◇
食後、言葉の手入れが始まった。
水差し。
小鍋。
芋の匂い。
浅い皿。
紙。
全部を並べる。
ただし、昨日より少し間を空けた。
近すぎると、言葉が皿にくっつきすぎる。
遠すぎると、別々のものになる。
マルタが皿を少し動かす。
「ここ」
アルトが見る。
「昨日より遠いな」
「少しだけね」
「理由は」
「言葉を見る日だから。皿に隠れすぎないように」
ブルーノが頷いた。
「言葉と皿の距離」
「書くなよ」
「書きません」
言いながら、少し悔しそうだった。
最初に見るのは第一文。
【ここに、皿がある】
アルトは声に出して読んだ。
「ここに、皿がある」
店の中に置かれる。
昨日よりは馴染んでいる。
だが、少しだけ硬い。
ブルーノが言う。
「『ここに』が少し強いかもしれません」
「強い?」
「位置を指定しています」
「皿がある、だけだと?」
アルトは言ってみる。
「皿がある」
今度は、少し遠い。
皿がどこにあるのか分からない。
ミアが首を傾げる。
「どこの皿?」
「そうなるか」
「うん」
マルタが台を拭く。
「『ここ』はいる。でも、強いなら、少し柔らかくする」
「どうやって」
マルタは少し考えた。
「ここに、皿を置いてあります」
ブルーノが紙を見る。
アルトも口の中で繰り返す。
ここに、皿を置いてあります。
少し丁寧。
だが、少し店の張り紙に近い。
ミアが言った。
「張り紙」
「そうだな」
アルトは頷く。
ブルーノが小さく書く。
【ここに、皿を置いてあります】
その横に、小さく。
【張り紙寄り】
マルタが見る。
「それは書くんだ」
「判断材料として」
ミアが真剣に言う。
「張り紙、だめ?」
「だめじゃない」
アルトは考える。
「でも、呼ばれていた者へ最初に出す言葉としては、少し店の外っぽい」
「店の外?」
「入口の注意書きみたいだ」
ルナが水を持ったまま、静かに言った。
「皿が、少し遠くなります」
アルトは頷く。
第一文は、近すぎてもだめ。
遠すぎてもだめ。
ここに、皿がある。
やはり、それが一番近い気がする。
しかし、少しだけ磨きたい。
ガルドが壁から言った。
「『ある』でいい」
全員が見る。
ガルドは短く続ける。
「置いた、だと置いた側が出る。ある、なら皿がある」
ブルーノが目を細める。
「たしかに」
マルタが頷く。
「それだね」
アルトは紙を見る。
【ここに、皿がある】
置いた者を出さない。
皿の存在だけを出す。
それでいい。
第一文は、そのまま残った。
だが、手入れした後の「そのまま」だった。
最初から何もしなかったのとは違う。
◇
次は第二文だった。
【責めるための皿ではありません】
アルトはこれを読む前に、水を飲んだ。
無意識だった。
喉を湿らせる。
言葉がつかえないように。
「責めるための皿ではありません」
声に出す。
まだ少し硬い。
昨日よりは皿に乗っている。
だが、少しだけ遠い。
ブルーノが言う。
「『ありません』が形式的です」
「じゃあ、どうする」
「責めるための皿ではない」
言ってみる。
少し強い。
断定が前に出る。
ミアが顔をしかめる。
「かたい」
「そうだな」
ルナが小さく言う。
「責めるための皿では、ありません」
間を入れた。
少し柔らかい。
だが、熱が残る。
ルナ自身の熱が、そこに入る。
マルタが鍋の火を少し弱めた。
かち。
「言う人で温度が変わるね」
ブルーノが頷く。
「同じ文でも、話者によって提供温度が変動します」
「硬いけど合ってる」
マルタが認めた。
アルトはルナを見る。
「言いたいか」
ルナはすぐに頷きかけた。
止まる。
水を飲む。
「言いたいです」
正直に言った。
「でも、私が言うと熱くなります」
「ああ」
「それでも、私が言わなければいけないと思っていました」
「今は?」
ルナは少し黙る。
「言わなければいけない、ではありません」
その言葉は、ゆっくり出てきた。
「出すなら、私もそこにいたいです」
アルトは頷いた。
違う。
かなり違う。
言わなければいけない。
ではなく。
そこにいたい。
第二文の温度が、少し下がった気がした。
端末が震える。
【第二文候補:維持】
【提供温度:中低】
【話者条件:共同】
ブルーノが表示を見る。
「中低」
ミアが反応する。
「中より下?」
「そうだな」
アルトが答える。
「食べられる?」
「たぶん、ふーって少し」
ミアは真剣に言った。
ルナは、少しだけ笑った。
「お願いします」
「まかせて」
第二文は、変わらなかった。
だが、誰が言うかが変わった。
ルナひとりが言うのではない。
ルナもそこにいる。
共同で出す。
それだけで、温度が下がった。
◇
昼前、普通の客が来た。
今日は親子連れだった。
母親と、小さな男の子。
男の子は入口で少し立ち止まった。
店の中を見ている。
初めてなのかもしれない。
マルタが声をかける。
「空いてるよ」
男の子は母親の後ろに隠れる。
ミアが見ていた。
アルトも見ていた。
マルタはすぐに続けない。
来いとも言わない。
早く座れとも言わない。
ただ、近くの席を少し引いた。
ぎい。
座れるくらい。
でも、引きすぎないくらい。
母親が男の子に言う。
「ここにしようか」
男の子は少し迷い、頷いた。
座る。
水が出る。
男の子は水を見て、少し安心したようだった。
マルタが言う。
「熱いのは、あとで出すよ」
男の子は小さく頷く。
それだけ。
アルトはその流れを見ていた。
空いてるよ。
席を少し引く。
水を出す。
熱いものはあと。
これも、提供形式に近い。
言葉より先に、席と水。
ブルーノが見ている。
ペンは持っていない。
ミアが小さく言う。
「今の、皿の前」
「そうだな」
ルナは水を持っている。
目が少し潤んでいるが、泣いてはいない。
彼女は小さく言った。
「急かさないと、入れることがあります」
アルトは頷いた。
「そうだな」
男の子は、芋のスープを少しずつ食べた。
熱すぎないように、母親がふーっとしている。
ミアがそれを見て、満足そうに頷いた。
ふー係は、店の外にもいるらしい。
◇
午後、レオンから連絡が来た。
《今日は、少し外に出ました》
アルトは端末を見る。
《どこまで》
《近所までです》
《赤猫亭ではないな》
《はい》
少し間。
《でも、戻ってから水を飲みました》
アルトは頷く。
《音は》
《しました》
《何の》
《扉の音です》
さらに。
《自分で開けて、自分で閉めました》
アルトはその文を見る。
自分で開けて、自分で閉める。
レオンの回復は、赤猫亭に来ることだけではない。
自分の場所で、扉の音を聞くこと。
それも戻る音なのだろう。
《いい音か》
既読。
少し間。
《まだ分かりません》
さらに。
《でも、嫌ではありませんでした》
アルトは少し笑った。
《それでいい》
送ってから、少しだけ待つ。
レオンから返事。
《今日は、大丈夫です》
この言葉も、レオンが選んで受け取っている。
アルトは端末を伏せた。
今日は、レオンを赤猫亭に引き戻す日ではない。
レオンの扉が、レオンの場所で鳴る日だ。
それも、皿を押しつけないことに近い気がした。
◇
夕方、手順をもう一度試した。
今日は、第一文も第二文も言う。
ただし、相手はいない。
提供ではなく、手入れ。
ミナが水を置く。
こと。
マルタが小鍋を鳴らす。
かん。
ガルムが匂いを確認する。
「いい」
ミアが芋を一切れ置く。
ふー。
アルトが第一文を言う。
「ここに、皿がある」
間。
ミアが黙って、指で小さく丸を作る。
もぐもぐの代わりらしい。
アルトは笑いそうになるが、耐える。
ルナが皿の横に立つ。
ひとりではない。
ミナが水の横にいる。
マルタが小鍋の近くにいる。
ミアが芋の前にいる。
ブルーノは紙を閉じている。
ガルドは木の皿を見ている。
ガルムは匂いの近く。
アルトはルナを見る。
頷く。
ルナは言った。
「責めるための皿ではありません」
昨日より、熱が下がっていた。
冷たくなったわけではない。
ただ、ルナひとりの熱ではなかった。
店の温度に混ざっていた。
端末が震える。
【第二文候補:維持】
【提供温度:中低】
【冷却工程:軽度】
【話者条件:共同】
ミアが胸を張る。
「軽いふー」
マルタが頷く。
「軽いふーだね」
ルナは少し笑った。
今度は、涙は出なかった。
ただ、息を吐いた。
「言えました」
アルトは頷く。
「ああ」
「でも、まだ出してはいません」
「ああ」
「それで」
ルナは少し考えた。
「安心しました」
アルトは彼女を見る。
それは大きい。
言えたことよりも、出していないことに安心できる。
昨日とは違う。
出したいから出すのではなく、出せる形にして、まだ置いておける。
それができるようになっている。
端末がもう一度震えた。
【提供可否:保留】
【保留状態:安定】
安定。
アルトはその文字を見て、ゆっくり息を吐いた。
◇
夜、皿を拭いた。
出していない皿。
使っていない皿。
でも、今日も練習で触れた皿。
水の近くにあった皿。
芋の匂いを受けた皿。
言葉を乗せる予定の皿。
拭く。
きゅっ。
ミアが深皿を拭く。
きゅっ。
ブルーノは紙ではなく、ペン先を拭く。
きゅっ。
マルタは小鍋を洗う。
からん。
ガルドは木の皿を布で拭いた。
とん、とは鳴らさなかった。
ガルムは芋の籠の横で伏せている。
匂いを守るように。
ルナは自分の普通の皿を拭いた。
昨日より手つきが落ち着いている。
「今日は」
アルトが聞く。
「はい」
「どうだった」
ルナは皿を見た。
「言葉が、少し皿のものになりました」
「皿のもの」
「はい。私の中だけにあった時より、少し軽くなりました」
アルトは頷く。
「出してないのにか」
「はい」
ルナは布を皿の縁に沿わせる。
「出す前に、皿に預けられるのだと思います」
その言葉は、静かだった。
でも、強かった。
アルトは浅い皿を見る。
ここに、皿がある。
責めるための皿ではありません。
その二文は、まだ誰にも出されていない。
でも、もうアルトやルナの胸の中だけにはない。
水と、音と、匂いと、芋と、皿の近くにある。
それだけで、少し重さが変わる。
ブルーノが端末を確認する。
【提供形式:仮成立】
【提供相手:未照合】
【提供可否:保留】
【保留状態:安定】
【提供温度:中低】
【冷却工程:軽度】
【席状態:未指定】
【受入状態:可】
そして、新しい一行。
【接近準備:完了前】
アルトはそれを見る。
「完了前」
ブルーノが頷く。
「完了ではありません。しかし、準備段階の終盤に入った、ということだと思います」
ミアが聞く。
「もうすぐ?」
マルタがすぐ答えない。
アルトも答えない。
ルナが水を飲む。
そして言った。
「急ぎません」
少し間。
「でも、近いです」
その言葉で、店の中に静かな熱が戻った。
遠くない。
でも、急がない。
皿はまだ出さない。
席はまだ指定しない。
でも、準備は終わりに近づいている。
◇
店を閉める。
鈴が鳴る。
ちりん。
鍋が鳴る。
かん。
水差しが置かれる。
こと。
皿を重ねる。
からん。
布で拭く。
きゅっ。
きゅっ。
ミアが小さく言う。
「言葉も、きゅっきゅっ」
ブルーノが頷く。
「今日は、少しきれいになりました」
「きれいすぎない?」
「はい。使った感じは残っています」
ミアは満足した。
ルナは自分の皿を芋の近くに置く。
昨日より少しだけ、浅い皿の近く。
アルトはそれを見た。
皿が少しずつ集まり始めている。
整列ではない。
配置図でもない。
ただ、出す時に手が届く距離に。
赤猫亭は閉まった。
明日、また開く。
誰も座っていない席は、今日も誰かのものにはならなかった。
まだ出さない皿は、今日も出されなかった。
それでも、言葉は少しだけ皿に馴染んだ。
最終呼称は、まだ未読。
けれど、遠くはなかった。
急がない。
でも、近い。




