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第110話 白い場所の音

 朝、小鍋はまだ鳴っていなかった。


 台の上に置かれている。


 洗われて、拭かれて、伏せられていた。


 昨日より少しだけ、金属の色が明るく見える。


 誰かが夜のうちに磨いたのかと思ったが、たぶん違う。


 毎日使うものは、少しずつ光る。


 毎日拭くものは、少しずつ手に馴染む。


 小鍋も、皿も、水差しも、そういうものなのだろう。


 アルトは厨房の台の前で足を止めた。


 浅い皿。


 ルナの普通の皿。


 ミアの深皿。


 ブルーノの灰色の皿。


 ガルドの木の皿。


 それぞれの皿が、芋の近くに置かれている。


 昨日より少しだけ、手の届きやすい位置だった。


 整列しているわけではない。


 だが、迷えばすぐ取れる。


 そのくらいの距離。


 紙もある。


【ここに、皿がある】


【責めるための皿ではありません】


 その横に、昨日の字。


【言葉も、きゅっきゅっ】


 ブルーノの字で、妙に丁寧に書かれている。


 アルトはそれを見るたび、少し笑いそうになる。


 だが、消そうとは思わない。


 赤猫亭の言葉として、もう少し置いておいてもいい。


 端末は台の端に伏せてある。


 まだ開いていない。


 見なくても、昨日の表示は覚えている。


【接近準備:完了前】


 完了ではない。


 だが、遠くはない。


 それが、昨夜の終わりだった。


 マルタが厨房に入ってきた。


「早いね」


「小鍋を見てた」


「小鍋は逃げないよ」


「芋みたいに言うな」


「逃げるものの方が少ないよ」


 マルタは小鍋を手に取った。


 伏せていた鍋を起こす。


 まだ鳴らない。


 マルタは中を覗き、布で軽く拭いた。


「今日は、鳴らす?」


 アルトが聞く。


「鳴るなら鳴るよ」


「意図的に鳴らすんじゃないのか」


「音って、鳴らそうとすると偉くなる」


 マルタは鍋を台に置く。


 こと。


 鍋の底が板に触れる音。


 まだ、あの音ではない。


 かん、ではない。


「必要な時に鳴る方がいい」


 アルトは頷いた。


 鳴らす。


 鳴る。


 その違いも、きっと大事なのだろう。


 ◇


 朝食の準備が始まった。


 水。


 芋。


 小鍋。


 皿。


 いつものように並ぶ。


 ミアは深皿を持ってきて、昨日より少しだけ浅い皿の近くに置いた。


 アルトが見ると、ミアはすぐ言った。


「近すぎない」


「分かってる」


「遠すぎない」


「分かってる」


「でも、昨日より近い」


「理由は」


「手が届く」


 それだけ言って、ミアは満足そうに頷いた。


 悪くない理由だった。


 ルナも降りてきた。


 今日のコップには、水が半分。


 持ちやすい量。


 彼女は台の上を見て、少しだけ目を伏せた。


「昨日より、近いですね」


「ああ」


「怖いです」


 アルトはルナを見る。


 ルナは続けた。


「でも、遠くに置きたい怖さではありません」


「そうか」


「はい」


 それは、昨日までとは少し違う怖さだった。


 近づくから怖い。


 でも、近づけないようにしたい怖さではない。


 手が届く位置にあるからこそ、慎重になる怖さ。


 アルトは浅い皿を見た。


 たしかに、近い。


 もう、どこか遠くに飾られた準備ではない。


 出そうと思えば、出せる。


 だからこそ、まだ出さない判断にも力がいる。


 ブルーノが端末を開いた。


 画面に表示が出る。


【提供形式:仮成立】


【提供相手:未照合】


【提供可否:保留】


【保留状態:安定】


【提供温度:中低】


【冷却工程:軽度】


【席状態:未指定】


【受入状態:可】


【接近準備:完了前】


 変化はない。


 ブルーノは少しだけ息を吐いた。


「変化なしです」


 マルタが鍋に水を入れながら言う。


「朝飯前に変わられても困るよ」


 ミアが頷く。


「朝飯、大事」


「そう」


 アルトは端末を伏せた。


「まず食うか」


 ルナが頷く。


「はい」


 今日も、そこから始める。


 食堂でやるなら、朝飯を飛ばしてはいけない。


 ◇


 朝食は、薄い芋のスープと黒パンだった。


 マルタは今日も味を強くしなかった。


 だが、昨日より少しだけ塩が効いている。


 アルトがそれに気づくと、マルタが先に言った。


「昨日より少し濃いよ」


「分かる」


「準備が近い時は、薄すぎても力が出ない」


「また今できた決まりか」


「今日は前からあったことにする」


 ミアが顔を上げる。


「ずるい」


「大人はたまにそういうことをする」


 マルタが平然と言う。


 ミアは少し考えてから頷いた。


「じゃあ、半分ずるい」


「それでいいよ」


 ブルーノが反応しかけた。


 ペンを持つ。


 ミアが見る。


「書く?」


 ブルーノはペンを置いた。


「書きません」


「えらい」


 今日もえらいらしい。


 ルナはスープを飲んだ。


 今日は一口目で少し目を開く。


「味が」


「濃い?」


 ミアが聞く。


「はい。でも、濃すぎません」


 マルタが頷く。


「今日はそれくらい」


 ルナはスープをもう一口飲んだ。


「力が出る味です」


 その言葉で、マルタの手が一瞬止まった。


 すぐに動いた。


「ならよかった」


 アルトはそのやり取りを聞きながら、端末の表示を思い出していた。


 提供温度、中低。


 冷却工程、軽度。


 冷ますばかりではない。


 少し温める必要もある。


 昨日、言葉は皿に馴染んだ。


 今日は、出す手が冷えすぎないようにする日なのかもしれない。


 ◇


 食後、手順の確認をした。


 出すためではない。


 出せるかを確かめるためでもない。


 ただ、準備がちゃんと赤猫亭の手に残っているかを確認するため。


 ミナが水を置く。


 こと。


 マルタが小鍋を持つ。


 鍋の底が、台に軽く触れた。


 かん。


 いつもの音だった。


 いや。


 いつもの音のはずだった。


 だが、その瞬間、端末が震えた。


 全員の動きが止まる。


 ミアの手から、芋は落ちなかった。


 ルナの水もこぼれない。


 マルタは小鍋を持ったまま、眉を寄せた。


「今のかい」


 ブルーノが端末を見る。


 画面が開いている。


【接近準備:再判定】


【音響要素:検出】


【提供順:水/音】


 アルトは端末を見た。


 水。


 音。


 まだ芋も匂いも言葉も出ていない。


 だが、端末は反応した。


 マルタが小鍋を台に置く。


 今度は音を立てないように。


 それでも、画面は変わり続ける。


【接近準備:完了前】


【完了条件:音響要素確認】


 ブルーノが息を呑む。


「音が、完了条件だった可能性があります」


「水じゃなく?」


 アルトが聞く。


「水は、すでに条件に含まれていました。ですが、食堂として認識されるためには、音が必要だったのかもしれません」


 ガルムが入口の横から顔を上げる。


「匂いもいる」


「分かってる」


 アルトが言う。


「でも、最初に返ったのは音か」


 ルナは水を持ったまま、小鍋を見ていた。


「向こうには、音がありませんでした」


 その一言で、店の空気が少しだけ重くなる。


 白い場所。


 旧待機区画。


 音がない場所。


 鍋の音がない場所。


 水の喉を通る音も、床を踏む音も、椅子を引く音も、なかった場所。


 そこに、今。


 かん。


 小鍋の音が立った。


 端末の画面に、さらに表示が出る。


【旧待機区画:参照反応】


【参照画面:未開放】


【検出要素:音】


 アルトは目を細めた。


「画面は開くな」


 ブルーノは頷く。


「開いていません。参照反応だけです」


 マルタが低く言う。


「見に行かないよ」


「ああ」


 アルトは頷いた。


 こちらから開かない。


 こちらから覗かない。


 ただ、向こうが反応した。


 小鍋の音に。


 ◇


 ミアは芋を持ったまま固まっていた。


「芋、置く?」


 声が少し小さい。


 アルトは彼女を見る。


 ミアの手の中の芋は、まだ温かい。


 ふーっとする前の芋。


 マルタが言った。


「置くよ」


「いいの?」


「音だけで止まると、音が偉くなる」


 その言い方に、アルトは少し笑いそうになった。


 確かに。


 皿も席も、空けすぎると偉くなる。


 音も、鳴っただけで止まると偉くなる。


 なら、続きをする。


 ただし、急がない。


 ミアは芋を浅い皿に置いた。


 ふー。


 息を吹く。


 いつもより短い。


 だが、ちゃんと冷ました。


 ガルムが鼻を鳴らす。


「匂い」


 マルタが鍋の蓋を少しずらした。


 芋の匂いが広がる。


 端末が震える。


【検出要素:音/匂い】


【提供順:水/音/匂い/芋】


【接近準備:完了前】


 まだ完了前。


 アルトは紙を見る。


 第一文。


 ここに、皿がある。


 言うか。


 言わないか。


 今日は確認だけのはずだった。


 しかし、音が届いた。


 匂いも検出された。


 このまま第一文まで進めば、完了するかもしれない。


 その考えが浮かんだ瞬間、アルトは自分で止めた。


 完了したいから言うのは違う。


 出したいから出すのと同じだ。


 アルトはルナを見る。


 ルナも同じことを考えていたらしい。


 だが、彼女は水を飲んでから言った。


「今日は、第一文は言いません」


 アルトは頷いた。


「理由は」


「音が届いたことを、先に扱うためです」


 ミアが芋を見て言う。


「芋もある」


「はい。でも、言葉はまだです」


 ルナは小鍋を見る。


「音だけでも、向こうは驚いているかもしれません」


 その言い方がよかった。


 向こうが驚いているかもしれない。


 脅威でも、命令でも、反応対象でもなく。


 驚くかもしれないものとして扱っている。


 マルタが頷いた。


「初めての客に、いきなり二皿出さないのと同じだね」


「はい」


 ブルーノが端末を見る。


「参照反応は継続しています。ただし、上昇はしていません」


「なら、今日はここで止める」


 アルトが言う。


 端末は、少し遅れて震えた。


【提供試行:中断】


【中断理由:音響反応確認】


【提供可否:保留】


【保留状態:有効】


 未完了ではなかった。


 中断。


 理由あり。


 有効。


 107話からの流れが、ちゃんと残っている。


 アルトは息を吐いた。


 今日は、音が届いた。


 それだけで十分だった。


 ◇


 昼前、普通の客が来た。


 鈴が鳴る。


 ちりん。


 いつもの音。


 小鍋の音とは違う。


 入口の音。


 来たことを知らせる音。


 客は二人。


 どちらも常連ではない。


 一人は席に座る前に、店の中を少し見回した。


「ここ、いいですか」


 マルタが頷く。


「いいよ」


 椅子を引く。


 ぎい。


 水を置く。


 こと。


 小鍋が鳴る。


 かん。


 客は何も気にしていない。


 普通の音として受け取っている。


 だが、アルトは反応した。


 ルナも、少しだけ小鍋を見た。


 ミアは芋の籠を両手で押さえている。


 ブルーノは端末を見ないようにしている。


 マルタだけが、いつも通りだった。


 いや、いつも通りにしている。


 客にスープを出しながら、言う。


「熱いから、少し置きな」


 客は笑う。


「ありがとうございます」


 それだけ。


 何も起きない。


 端末も震えない。


 神々の通知もない。


 普通の食堂の音として、小鍋は鳴った。


 その普通さが、今日はありがたかった。


 ミアが小さく言う。


「小鍋、普通」


 アルトは頷く。


「普通だ」


「でも、向こうにも行った?」


「たぶんな」


「じゃあ、小鍋、すごい?」


 マルタがすぐ言った。


「偉くしない」


 ミアは慌てて頷いた。


「普通。でも、すごい」


「まあ、それくらいならいい」


 普通で、少しすごい。


 赤猫亭の道具には、それくらいがちょうどいい。


 ◇


 昼過ぎ、レオンから連絡が来た。


《今日は、音が気になりました》


 アルトは端末を見る。


 タイミングがよすぎる。


 だが、レオンは赤猫亭の端末表示を見ていない。


《何の音だ》


《鍋ではありません》


 少し間。


《自分の部屋の、コップを置く音です》


 アルトは黙る。


《嫌だったか》


《いいえ》


 さらに。


《前は、音がすると身構えました》


 間。


《今日は、音がした、と思いました》


 それだけ。


 だが、大きい。


 音がした。


 ただ、それだけとして受け取れる。


 レオンの中でも、音が少し変わっている。


《それはいい》


 送る。


 少し考え、もう一文。


《音も、急がない》


 既読。


 しばらくして返事。


《はい》


 さらに。


《今日は、それが分かります》


 アルトは端末を伏せた。


 音も、急がない。


 小鍋の音も、白い場所へ行ったからといって、すぐ言葉にしない。


 レオンのコップの音も、何かを命じる音ではない。


 ただ、音がした。


 そこから始める。


 ◇


 午後、端末に新しい表示が出た。


 誰も触れていなかった。


 神々の通知でもない。


 画面が薄く光り、ゆっくり文字が浮かぶ。


【旧待機区画:参照反応継続】


【参照画面:未開放】


【検出要素:音】


【音響分類:不明】


 ブルーノが眉を寄せる。


「不明」


「小鍋だろ」


 アルトが言う。


「こちらでは小鍋です。しかし、旧待機区画側では分類できていないようです」


 ミアが首を傾げる。


「小鍋、知らない?」


 ルナが小さく答えた。


「知らないのだと思います」


 その言葉は静かだった。


 だが、重かった。


 向こうには食堂がなかった。


 小鍋もなかった。


 なら、小鍋の音を分類できなくても当然だ。


 マルタが小鍋を見た。


「名前を教えるかい」


 アルトはすぐ答えなかった。


 名前を教える。


 それは、少し危険に聞こえる。


 名前をつけると、神々は見つける。


 そんな言葉も、ずっと前にあった。


 だが、これは名前とは少し違う。


 音の分類。


 食堂の音。


 小鍋の音。


 どう扱うか。


 ルナが言った。


「音の名前ではなく、使い方なら」


 アルトは彼女を見る。


「使い方」


「はい」


 ルナは小鍋を見る。


「食べ物を温める音です」


 端末は反応しない。


 まだ。


 マルタが頷いた。


「悪くない」


 ミアが言う。


「芋を温める音」


 端末が震えた。


【音響分類候補:食事準備音】


 ブルーノが目を見開く。


「反応しました」


 ミアも驚いた。


「芋?」


 マルタが笑う。


「やっぱり芋は強いね」


 アルトは表示を見る。


 食事準備音。


 小鍋の名前ではない。


 鍋の音です、と決めつけてもいない。


 何のための音か。


 食事を準備する音。


 それなら、押しつけではない。


 ルナは小さく息を吐いた。


「名前ではなく、役割」


「そうだな」


 アルトは頷く。


 これは大事だ。


 最終呼称にも、同じことが言えるかもしれない。


 名前ではなく、役割。


 誰かを縛るためではなく、何のためにあった呼び方なのか。


 責めるためではない。


 戻れるように。


 それが、呼称残滓の役割だった。


 ◇


 夕方、端末の表示がまた変わった。


【旧待機区画:参照反応継続】


【音響分類候補:食事準備音】


【分類安定度:低】


【追加要素要求:なし】


 ブルーノが読む。


「追加要素要求、なし」


 アルトは目を細めた。


「もっと出せとは言っていない」


「はい」


「音だけで足りている?」


「足りているというより、これ以上は要求していない、ということだと思います」


 マルタが言う。


「初めての音なら、それで腹いっぱいかもしれないね」


 ミアが小鍋を見る。


「音でお腹いっぱい?」


「言い方だよ」


「でも、ちょっと分かる」


 ルナは水を飲んだ。


「今日は、音を置いておく日です」


 アルトは頷く。


「皿は?」


「まだ出しません」


「言葉は?」


「まだです」


「席は?」


「空けておきます」


 ルナは一つずつ答えた。


 迷いはある。


 だが、答えは崩れていない。


 端末が震える。


【接近準備:完了】


 店の中が静かになった。


 ミアが息を止める。


 ブルーノは端末を持ったまま固まる。


 マルタは小鍋に手を置いた。


 アルトは画面を見る。


 完了。


 完了前ではない。


 完了。


 だが、続く表示があった。


【提供待機:非強制】


【提供可否:保留】


【最終呼称:未読】


【旧待機区画:音響反応あり】


 アルトは、ゆっくり息を吐いた。


 完了した。


 でも、出せとは言われていない。


 読めとも言われていない。


 ただ、準備が完了した。


 向こう側は、音に反応した。


 それだけ。


 ルナが小さく言った。


「向こうにも、音が入りました」


 誰も、すぐには返事をしなかった。


 その静けさは、悪くなかった。


 白い場所に、音が入った。


 食堂のない場所に。


 食事準備音が。


 ◇


 夜、皿は出されなかった。


 言葉も出されなかった。


 最終呼称も読まれなかった。


 ただ、小鍋を洗った。


 マルタが湯で流す。


 からん。


 ミアが布を取る。


 きゅっ。


 ブルーノは端末の表示を紙に写そうとして、迷った。


 アルトが見る。


 ブルーノは、紙に一行だけ書いた。


【白い場所に、音が入った】


 それだけ。


 マルタが覗く。


「今日はそれでいい」


 ミアが横から言う。


「小鍋は?」


 ブルーノは少し考え、もう一行足した。


【小鍋は偉くしない】


 マルタが笑った。


「よし」


 ルナは自分の皿を拭いていた。


 今日は、手が少し震えている。


 怖いのだろう。


 嬉しいのかもしれない。


 分からない。


 でも、皿は落とさない。


 水もこぼさない。


「完了しました」


 ルナが言った。


「ああ」


 アルトは答える。


「でも、まだ出しませんでした」


「ああ」


「最終呼称も、まだ読みませんでした」


「ああ」


 ルナは皿を拭く。


 きゅっ。


「それなのに、向こうに音が入りました」


「ああ」


「なら」


 ルナは少しだけ言葉を探した。


「届くものは、言葉だけではないのですね」


 アルトは小鍋を見る。


 からん、と、洗い終えた鍋が台に置かれた。


「そうだな」


 水。


 音。


 匂い。


 芋。


 言葉。


 その順番には、意味がある。


 言葉は最後でいい。


 最後でなければいけない時もある。


 白い場所に最初に入ったのは、責める言葉ではなかった。


 呼ぶ声でもなかった。


 命令でもなかった。


 ただ、小鍋の音だった。


 食事を準備する音。


 赤猫亭の音。


 ◇


 店を閉める。


 鈴が鳴る。


 ちりん。


 入口の音。


 鍋が鳴る。


 かん。


 食事準備の音。


 水差しが置かれる。


 こと。


 喉を濡らすものの音。


 皿を重ねる。


 からん。


 まだ出さないものの音。


 布で拭く。


 きゅっ。


 手入れの音。


 ミアが小さく息を吹く。


 ふー。


 冷ましすぎないための音。


 全部、赤猫亭の音だった。


 アルトは端末を確認した。


【接近準備:完了】


【提供待機:非強制】


【提供可否:保留】


【旧待機区画:音響反応あり】


【音響分類候補:食事準備音】


【最終呼称:未読】


 最終呼称は、まだ未読。


 皿も、まだ出していない。


 席も、まだ指定しない。


 だが、白い場所には、初めて食堂の音が入った。


 赤猫亭は閉まった。


 明日、また開く。


 小鍋は、いつもの場所に戻された。


 偉くならないように。


 でも、すぐ手に取れるように。


 白い場所のどこかで、まだ分類しきれない音が一つ、消えずに残っている。


 かん。


 それは、誰かを呼ぶ音ではなかった。


 帰れと命じる音でもなかった。


 責める音でもなかった。


 食べる準備をする音だった。


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