第107話 まだ出さない皿
皿は、そこにあった。
朝、アルトが一階へ下りると、厨房の台の端に浅い皿が置かれていた。
昨日、アルトが選んだ皿だ。
縁が低い。
何かを深く溜めるには向かない。
けれど、置いたものが隠れない。
その皿の横に、小さな紙が一枚ある。
ブルーノの字で、薄く書かれていた。
【ここに、皿がある】
その下に、少し間を空けて。
【責めるための皿ではありません】
アルトは、しばらくそれを見た。
文字は薄い。
濃く書かれていない。
だが、薄くても言葉は言葉だった。
皿の上には、まだ何も乗っていない。
芋もない。
水もない。
音もない。
ただ、皿と、言葉だけがある。
それだけで、少し息が詰まりそうになる。
「早いね」
マルタの声がした。
アルトは振り返る。
「起こしたか」
「起きてたよ」
マルタは厨房に入り、皿と紙を見た。
「見てたのかい」
「見てた」
「出したくなった?」
アルトは少しだけ黙った。
答えは、すぐには出なかった。
出したい。
出してしまいたい。
ここまで形になったのだから。
水も決まった。
音も決まった。
芋も決まった。
第一文も、第二文も見えた。
なら、出せばいい。
そう思う自分がいる。
だが、別の自分が、皿の縁を見ていた。
縁が低い。
急いで乗せたものは、こぼれる。
「出せる気はする」
アルトは言った。
「でも、出したい気とは違う」
マルタは小さく頷いた。
「いいね」
「何が」
「違いが分かってる」
マルタは皿を少しだけ動かした。
台の真ん中から、芋の籠の近くへ。
近すぎない。
遠すぎない。
「出せるものは、すぐ出したくなる」
「ああ」
「でも、出せることと、今出すことは違う」
「任意にも腹の都合がある、か」
「そう」
マルタは鍋を起こした。
かん。
朝の音がした。
「皿にも腹の都合がある」
「皿に腹はない」
「出される方にはあるだろ」
アルトは黙った。
その通りだった。
皿ができたから出すのではない。
受け取る側が、飲み込めるかどうか。
そこを見なければ、またこちらの都合になる。
アルトは紙を見る。
ここに、皿がある。
責めるための皿ではありません。
良い言葉だ。
だが、まだ誰の前にも置かれていない。
◇
ミアは、朝から深皿を抱えていた。
寝ぼけているのかと思ったが、違った。
かなり起きている顔だ。
「それ、持って寝たのか」
アルトが聞く。
「寝てない」
「皿を?」
「うん。皿は台」
「じゃあ何で朝から持ってる」
「練習」
「何の」
「こぼさない練習」
ミアは深皿を両手で持ち、少し歩く。
一歩。
二歩。
止まる。
皿の中には何も入っていない。
それでも、こぼさないように歩いている。
マルタが見る。
「いい歩き方だね」
「ほんと?」
「急いでない」
「こぼすと困る」
「そう」
ミアは深皿を台に置いた。
こと。
それから、アルトの浅い皿を見る。
「それ、こぼれる」
「汁物はな」
「言葉も?」
アルトは少し考えた。
「こぼれるかもしれない」
「じゃあ、ゆっくり」
「ああ」
ミアは自分の深皿を見た。
「ミアのは、少しこぼれても大丈夫」
「そうだったな」
「でも、こぼしたくない」
その言葉に、アルトは少しだけ胸を突かれた。
受け止められる皿を選ぶことと、こぼしていいと思うことは違う。
深い皿でも、こぼさないように持つ。
それが、ミアの練習だった。
「今日は出す?」
ミアが聞く。
アルトは首を横に振った。
「まだ分からない」
「まだ出さない?」
「たぶん」
ミアは深皿を抱え直した。
「じゃあ練習」
「飽きないのか」
「本番でこぼすよりいい」
マルタが横で笑った。
「それは正しい」
アルトはミアを見る。
子どもが言うから軽く聞こえる。
でも、今の赤猫亭には必要な言葉だった。
本番でこぼすよりいい。
まだ出さない皿には、そのための時間がいる。
◇
朝食の間、ルナはあまり話さなかった。
水を飲む。
芋入り粥を食べる。
小さな焼き芋を、いつもより長く冷ます。
ふー。
ふー。
ミアが横から言う。
「ルナ、ふー長い」
「長すぎますか」
「冷めすぎる」
ルナは少し驚いた顔をした。
マルタが鍋をかき混ぜながら言う。
「冷ましすぎても味がなくなるよ」
「はい」
ルナは焼き芋を見る。
息を吹きかけるのをやめる。
少し待ってから、口に入れた。
「どう?」
ミアが聞く。
「温かいです」
「よかった」
ミアは満足した。
アルトはそのやり取りを見ていた。
熱すぎてもだめ。
冷たすぎてもだめ。
それは分かっている。
だが、熱いものを怖がるあまり、冷ましすぎることもある。
ルナは今、そちらに傾きかけている。
第二文の温度は中。
冷却工程は継続。
だが、冷やしすぎれば、何も残らない。
マルタはルナの皿に、焼き芋をもう一切れ置いた。
「これは、あんた用」
「私にですか」
「そう。出す練習の前に、自分も食べな」
ルナは皿を見る。
自分の普通の皿。
何度も使われた皿。
その上に、焼き芋が一切れ。
ルナはそれを持ち、少しだけ息を吹きかける。
今度は一度だけ。
そして食べた。
水を飲む。
小さく頷く。
「食べられます」
マルタが頷く。
「なら、その温度を覚えな」
ルナは焼き芋の皿を見る。
それは、言葉ではない。
だが、言葉の温度を覚えるためのものだった。
◇
食後、端末を確認した。
ブルーノが布を敷く。
端末を置く。
画面に表示が出る。
【提供形式:仮成立】
【提供順:水/音/匂い/芋/第一文/間/第二文】
【第一文:ここに、皿がある】
【第二文候補:責めるための皿ではありません】
【提供温度:中】
【冷却工程:継続】
【提供相手:未照合】
アルトは最後の行を見た。
「提供相手、未照合」
ブルーノが頷く。
「呼ばれていた者、という候補はあります。しかし、照合はできていません」
「皿はあるのに、相手が分からない」
「はい」
ミアが深皿を抱えて言う。
「席、空いてる?」
アルトは真ん中の席を見る。
空いている。
誰も座っていない。
ただの席。
レオンが座ったことがある席。
昨日は別の客が座った席。
今日はまだ誰も座っていない。
「空いてる」
「でも、誰の席?」
「まだ誰のでもない」
「じゃあ、皿も?」
「ああ」
ミアは少し考えた。
「まだ誰のでもない皿」
ブルーノが紙を取りかける。
アルトが見る。
ブルーノは少し迷って、ペンを置いた。
「今は書きません」
マルタが頷く。
「いい判断だね」
ルナは水を持ったまま、真ん中の席を見ていた。
「誰のでもない皿を出すのは、怖いです」
「なぜ」
アルトが聞く。
「誰かを勝手に座らせることになるかもしれません」
その言葉で、店の音が少し細くなる。
誰に出すか分からない皿。
呼ばれていた者へ。
だが、呼ばれていた者がまだ分からない。
その状態で皿を出せば、こちらが相手を決めてしまうことになる。
それは、命令に近い。
あるいは、照合の押しつけに近い。
アルトは端末を見る。
「まだ出せないな」
ブルーノが頷く。
「はい」
端末が震える。
【提供可否:保留】
【保留理由:提供相手未照合】
マルタが言う。
「今日は、皿を温める日だね」
「出さないのに?」
ミアが聞く。
「出さないから」
マルタは答えた。
「冷たい皿に乗せると、せっかくのものが冷める」
アルトは皿を見る。
まだ出さない。
でも、冷たくしない。
保留は、放置ではない。
◇
昼前、普通の客が来た。
鈴が鳴る。
ちりん。
昨日も来た男だった。
今日は腹が減っているらしい。
「何かある?」
マルタが鍋を見る。
「芋のスープ」
「じゃあ、それ」
「熱いよ」
「少し置く」
男は自分で言った。
マルタが少し笑った。
「学んだね」
「前に熱かったからな」
その何気ない会話に、アルトは反応した。
前に熱かったから。
少し置く。
相手が、一度経験している。
だから、自分で温度を扱える。
呼ばれていた者には、その経験がない。
少なくとも、こちらの皿については。
だから、最初はもっと慎重でなければならない。
ミアも聞いていた。
「前に熱いと、今度は少し置く」
「そうだな」
「じゃあ、初めての人は?」
マルタがスープを置く。
「こっちが言う」
「熱いから、少し置きな」
「そう」
ミアは頷いた。
「第一文の前に、それいる?」
店の中が少し静かになる。
アルトは紙を見る。
ここに、皿がある。
それより前。
皿を出す前に、熱いことを知らせる言葉。
ブルーノが端末を見る。
「前置き、でしょうか」
マルタが言う。
「注意書きじゃない。気遣いだよ」
アルトは頷く。
注意書きにすると硬い。
気遣いなら、皿の横に置ける。
「熱いから、少し置きな」は、そのままでは相手を限定しすぎる。
でも、役割は必要だ。
ルナが小さく言った。
「急がなくていい、でしょうか」
アルトは彼女を見る。
ルナは水を持っている。
「急かす声ではない、と先に示すために」
ブルーノが紙に薄く書く。
【急がなくていい】
ミアが紙を見る。
「いいけど、ちょっと遠い」
「遠い?」
「皿じゃない」
マルタも頷く。
「少し広すぎるね」
アルトは考える。
熱いから、少し置きな。
それは良い。
だが、そのままではマルタの声だ。
赤猫亭の客への声。
呼ばれていた者へ出す皿には、少し形を変える必要がある。
アルトは言った。
「まだ、置いておける」
ブルーノが顔を上げる。
「それは」
「皿も、言葉も、急がなくていい。まだ置いておける」
ルナが静かに繰り返す。
「まだ、置いておける」
端末が震えた。
【前置き候補:検出】
【提供温度:低】
【役割:急かし回避】
ミアが首を傾げる。
「低い?」
マルタが言う。
「低いね」
「だめ?」
「だめじゃない。でも最初に出すには、少し冷たいかもしれない」
アルトは頷いた。
たしかに。
まだ、置いておける。
悪くはない。
だが、少しだけ距離がある。
相手に触れないようにしすぎている。
ルナが言った。
「冷ましすぎました」
「そうだな」
アルトは答えた。
今日は、熱いだけではない。
冷たいものも出てくる。
それを見られたことは、悪くなかった。
◇
午後、レオンから連絡が来た。
《今日は、少し眠れませんでした》
アルトは端末を見る。
昨日は少し眠れた。
今日は少し眠れない。
回復はまっすぐではない。
《怖さか》
既読。
間。
《いいえ》
さらに。
《考えすぎました》
アルトは少しだけ息を吐いた。
《何を》
《次に行く日です》
未設定のままの次。
腹が決めると言った次。
それを考えすぎたのだろう。
《決めなくていい》
打って、止める。
それは前にも言った。
今日は少し違う言葉が必要だ。
アルトは打ち直した。
《まだ、皿は置いてある》
送る。
既読。
しばらく返事がない。
それから。
《置いてあるなら、急がなくていいですか》
《ああ》
少し考え、もう一文。
《冷めたら温める》
既読。
今度は早かった。
《それは、安心です》
アルトは頷いた。
レオンの次の来訪も、まだ出さない皿と同じだった。
置いてある。
急がなくていい。
冷めたら温める。
これは、前置きに近いのかもしれない。
ブルーノがそのやり取りを見ていた。
「今の文は、少し温度があります」
「そうか」
「はい。冷たすぎません」
アルトは紙を見る。
まだ、皿は置いてある。
冷めたら温める。
どちらも、レオンには届く。
だが、呼ばれていた者へ出すには、もう少し形が必要だ。
それでも、手がかりにはなった。
◇
夕方、もう一度、提供の手順を試した。
ただし、今日は出さない。
試すだけ。
ミナが水を置く。
こと。
マルタが小鍋を鳴らす。
かん。
ガルムが芋の匂いを確認する。
「弱い」
マルタが芋を少し温め直す。
匂いが戻る。
ガルムが頷く。
「いい」
ミアが芋を一切れ置く。
ふー。
アルトが言う。
「ここに、皿がある」
間。
ミアが今度は「もぐもぐ」と声に出さない。
ただ、自分の口を閉じて、少し待つ。
その待ち方が昨日より上手くなっていた。
ルナが皿を持つ。
アルトが見る。
ルナも見る。
互いに頷くには、まだ少し早い。
ルナは言わない。
アルトも頷かない。
第二文は、出されなかった。
店の中に、少しだけ宙ぶらりんな時間が残る。
ミアが小さく聞く。
「言わないの?」
ルナは頷いた。
「今日は、言いません」
「なんで?」
「まだ、誰の皿か分からないからです」
ミアは深皿を抱えた。
「でも、皿ある」
「はい」
「芋もある」
「はい」
「言葉もある」
「はい」
「じゃあ、置いとく」
「はい」
ルナは少しだけ笑った。
「置いておきます」
端末が震える。
【提供試行:未完了】
【中断理由:提供相手未照合】
【提供可否:保留】
【保留状態:有効】
未完了。
以前なら、嫌な言葉だった。
だが、今日は違う。
中断理由がある。
保留状態は有効。
逃げではない。
失敗でもない。
まだ出さない、という選択だ。
アルトは息を吐いた。
「今日は、ここまでだな」
マルタが頷く。
「いい止め方だよ」
ガルドが木の皿を指で一度叩いた。
とん。
「こぼしてから止めるよりいい」
ミアが頷く。
「本番でこぼすよりいい」
その通りだった。
◇
夜、端末の表示は整理されていた。
【提供形式:仮成立】
【提供対象:呼ばれていた者】
【提供相手:未照合】
【提供順:水/音/匂い/芋/第一文/間/第二文】
【第一文:ここに、皿がある】
【第二文候補:責めるための皿ではありません】
【提供温度:中】
【冷却工程:継続】
【提供可否:保留】
【保留理由:提供相手未照合】
【保留状態:有効】
アルトは、最後の行を見た。
保留状態、有効。
まだ出さないことが、ちゃんと形になっている。
ミアは深皿を芋の近くに置いた。
昨日より少し右。
同じ場所にしない。
ルナは自分の普通の皿を持っている。
今日は泣かなかった。
ただ、何度か息を長く吐いた。
水も飲んだ。
自分で入れた水だ。
アルトは聞く。
「出したかったか」
ルナはすぐには答えない。
少し考えてから言った。
「はい」
「そうか」
「でも、出さなくてよかったと思います」
「なぜ」
「誰の前に置くのか、まだ分からないからです」
「ああ」
「それに」
ルナは皿を見る。
「私が言いたいから出すのでは、また熱くなります」
アルトは頷いた。
それが分かっているなら、今日はかなり進んだ。
言いたいことがある。
でも、相手が受け取れるかどうかを先に見る。
それは、簡単ではない。
ルナは続けた。
「出せる形になったからこそ、出さないことが怖かったです」
「だろうな」
「でも、怖いから出すのは違います」
「そうだ」
ルナは皿を芋の近くに置いた。
こと。
普通の皿の音。
「今日は、まだ出さない皿です」
アルトは頷いた。
「覚えておこう」
「はい」
◇
店を閉める。
鈴が鳴る。
ちりん。
鍋が鳴る。
かん。
水差しが置かれる。
こと。
皿が重なる。
からん。
今日は、第二文は出されなかった。
それでも、皿は片づけられなかった。
芋の近くに置かれている。
出すために。
まだ出さないために。
アルトは灯りを落とす前に、真ん中の席を見た。
誰も座っていない。
誰の席でもない。
でも、席はある。
浅い皿もある。
深皿もある。
普通の皿もある。
小鍋も、水差しも、芋もある。
言葉もある。
ただ、相手がまだ見えていない。
見えていない相手に、皿を押しつけない。
それが今日の結論だった。
端末は静かだった。
最後に一度だけ、画面が淡く光る。
【提供待機:非強制】
アルトはその表示を見て、少しだけ笑った。
待機。
危ない言葉だ。
だが、今日は少し違って見えた。
非強制。
出す準備はある。
出さない自由もある。
赤猫亭は閉まった。
明日、また開く。
まだ出さない皿を、芋の近くに置いたまま。




