第106話 一切れの言葉
短い言葉ほど、置き場所に困る。
朝、アルトはそう思った。
長い説明なら、まだ逃げ場がある。
あれもこれも並べて、理由を足して、補足をつけて、最後に少しだけ本当のことを混ぜればいい。
だが、短い言葉は違う。
短ければ短いほど、逃げ場がない。
置いた瞬間、その言葉だけが皿の上に残る。
強すぎれば喉につかえる。
弱すぎれば、味がしない。
熱すぎれば火傷する。
冷ましすぎれば、何のために出したのか分からなくなる。
厨房の台の上には、昨日選んだ皿が並んでいた。
ミアの深皿。
ブルーノの灰色の皿。
ガルドの木の皿。
ルナの普通の皿。
アルトの浅い皿。
その横に、小さな鍋。
水差し。
芋の籠。
鈴は静かだった。
傷も、今朝は動いていない。
端末の表示は、昨夜のままだ。
【提供形式:仮成立】
【構成要素:水/芋/音/短文】
【提供温度:要調整】
【接近可否:準備中】
要調整。
アルトはその文字を見た。
温度を調整する。
言葉の温度を。
そのために、今日は短文を考える。
ブルーノは紙を前に座っていた。
ペンは持っている。
だが、まだ書いていない。
「書かないのか」
アルトが聞く。
「書くと、固まりそうで」
「でも書かないと、試せない」
「はい」
ブルーノは困った顔をする。
マルタが厨房から言った。
「言葉も一度、下書きの鍋に入れりゃいいんだよ」
「下書きの鍋」
ブルーノが真面目に繰り返す。
「記録上は存在しませんが」
「今できた」
マルタは昨日と同じようなことを言った。
アルトは少し笑った。
ブルーノも、少しだけ肩の力を抜く。
紙の端に、小さく書いた。
【下書きの鍋】
ミアが覗き込む。
「鍋、紙にある」
「今日は言葉を入れます」
「煮る?」
「冷ます、かもしれません」
「ふーってする?」
「たぶん」
ミアは大きく頷いた。
「ミア、できる」
「必要になったらお願いします」
ブルーノが真顔で言う。
ミアは胸を張った。
アルトはそのやり取りを聞きながら、昨日自分が口にした言葉を思い出していた。
帰れなかったことを、責めていない。
あれは、本心だった。
だが、そのまま出していいのかは分からない。
皿の上に置くには、まだ熱い気がした。
◇
朝食は、いつもより静かに始まった。
芋のスープ。
黒パン。
水。
少しだけ焼き芋。
ミアは焼き芋を見て嬉しそうにしたが、すぐにふーっと息を吹いた。
いつもより念入りに。
「今日の芋、言葉用?」
アルトが聞く。
「うん」
「芋は食べるものだろ」
「言葉も食べるかもしれない」
ミアは真剣だった。
「喉につまるから」
その言い方に、ルナが少しだけ目を伏せた。
水を飲む。
今日は泣いていない。
泣いた後の目は、少し赤い。
だが、その赤さは弱さではなかった。
眠れなかった赤さでもない。
泣いたことを、朝まで持ってきた赤さだった。
マルタが皿を置きながら言った。
「今日は、言葉をそのまま飲ませないよ」
「どうする」
アルトが聞く。
「水を先に出す」
「水」
「喉を濡らしてからじゃないと、どんな言葉も引っかかる」
ミナが水差しを持って頷いた。
「水、多めですね」
「多め」
マルタは続ける。
「次に音」
「鍋か」
「鍋でもいいし、皿でもいい。ここが食堂だと分かる音」
ガルムが入口の横から顔を上げた。
「匂いも先だ」
「そうだね」
「匂いがないと、食べ物がどこにあるか分からない」
ミアが芋を持ち上げる。
「芋の匂い」
「それもいる」
マルタは頷いた。
「それから芋を一切れ」
「言葉は」
ブルーノが聞く。
「最後」
マルタは即答した。
「最初から言葉を出すと、相手が皿を見る前に身構える」
ルナはその言葉を聞いて、静かに頷いた。
「私は、最初に言葉を出そうとしていました」
「だろうね」
マルタはあっさり言う。
「でも、それだと熱い」
「はい」
「だから、先に水。次に音。匂い。芋。それから言葉」
ミアが指を折って数える。
「水、音、匂い、芋、言葉」
アルトが言う。
「多いな」
「でも、全部ちょっと」
ミアは得意げに言った。
「一気にいっぱいだと、お腹びっくりする」
それも正しかった。
言葉も、きっとそうなのだろう。
◇
食後、最初の言葉を試すことになった。
ブルーノが紙を前に置く。
今度はペンを持った。
ただし、濃くは書かない。
薄く。
小さく。
最初にルナが言った。
「責めていません」
紙の上に、その言葉が置かれる。
ブルーノが書く。
【責めていません】
店の中が、少しだけ冷えた。
悪い言葉ではない。
必要な言葉だ。
だが、皿に置くと、妙に硬い。
アルトは紙を見る。
「冷たいな」
ルナは顔を上げる。
「冷たい、ですか」
「間違ってはいない。でも、誰かに突きつける文みたいに見える」
ブルーノも頷いた。
「否定形なので、先に責めを想起させます」
「硬い」
マルタが一言で切った。
ミアが紙を見て言う。
「これ、芋ない」
「芋がない文か」
「うん」
ルナは少しだけ俯いた。
だが、崩れない。
水を飲む。
「では」
次に言った。
「戻ってきてください」
ブルーノが書こうとして、止まった。
アルトも止めた。
「それはだめだ」
ルナはすぐ頷いた。
「はい」
自分でも分かっていたのだろう。
「命令に近いです」
「ああ」
「戻るかどうかを、こちらが決めています」
ミアが言う。
「食べろって言ってる」
「そうだな」
「食べてもいい、じゃない」
「そう」
ルナは水を飲む。
三つ目。
「ここに来てもいいです」
今度は、少しだけ店の空気が柔らかくなった。
だが、まだ何かが引っかかる。
マルタが言う。
「悪くないけど、入口に立たせるね」
「入口」
「来るか来ないかを、いきなり決めさせる言葉だよ」
ガルドが壁にもたれたまま言った。
「足が痛い時に、入口の話をされるとつらい」
アルトは頷いた。
呼ばれていた者が、足を持っているかも分からない。
だが、進むかどうかをすぐに迫る言葉は、急かしに近い。
ルナは紙を見る。
言葉はどれも、少し違う。
間違ってはいない。
でも、皿に乗せると、重い。
ブルーノが言った。
「短文は、短いほど誤解の余地が減ると思っていました」
「違ったか」
「はい。短いほど、逃げ場が減ります」
アルトは自分の浅い皿を見る。
そこには、まだ何も乗っていない。
短い言葉も、芋一切れと同じではない。
切り方を間違えると、喉につかえる。
◇
昼前、普通の客が来た。
鈴が鳴る。
ちりん。
中年の女が一人。
昨日も来た客ではない。
店に入るなり、少し寒そうに手を擦った。
「今日のおすすめは?」
マルタが鍋を見た。
「芋のスープ」
「じゃあ、それ」
女は真ん中の席ではなく、窓際に座った。
水を飲む。
息を吐く。
マルタはスープを出す時、何気なく言った。
「熱いから、少し置きな」
女は頷いた。
「ありがと」
それだけ。
ただそれだけのやり取りだった。
だが、アルトは聞いていた。
熱いから、少し置きな。
命令に聞こえない。
責めてもいない。
急かしてもいない。
相手が火傷しないように、必要なことだけを渡している。
ミアも聞いていたらしい。
厨房の端から、そっと言った。
「あれ、いい」
「何が」
アルトが聞く。
「熱いから、少し置きな」
マルタが振り返る。
「普通のことだよ」
「普通、えらい」
ミアは真剣だ。
ルナも、その言葉を聞いていた。
水を持つ手が少し緩む。
「少し置く」
ルナが小さく言った。
「置いておくもの」
アルトは頷いた。
短文は、相手を動かすためではなく、相手が火傷しないために出すものかもしれない。
最初の言葉は、真実を全部言う必要がない。
まず、熱いから少し置けるようにする。
それは、提供形式の一部だった。
◇
午後、レオンから連絡が来た。
《今日は、普通です》
アルトは端末を見る。
普通。
悪くない。
《腹は》
《普通です》
《怖さは》
《少しあります》
《味は》
少し間。
《あります》
アルトは頷いた。
怖さもある。
味もある。
普通もある。
レオンの中に、いくつかのものが同時に置かれている。
《今日は、短い言葉を考えている》
送ってから、少し説明しすぎたかと思った。
既読。
間。
《短い言葉は、苦手です》
アルトは少し驚いた。
《なぜ》
《逃げ場がないからです》
アルトは画面を見る。
同じことを、レオンも言った。
《長い言葉は》
《途中で休めます》
さらに。
《短い言葉は、そのまま来ます》
アルトは深く息を吐いた。
これは大事だ。
《なら、どう出す》
少し間。
《水の後がいいです》
また間。
《あと、食べ物の後》
アルトは少し笑った。
レオンは、もう知っている。
体で知っている。
水の後。
食べ物の後。
それから言葉。
《分かった》
既読。
《言葉が先だと、怖いです》
アルトは返信する。
《先に出さない》
既読。
《それなら、少し大丈夫です》
少し大丈夫。
いい言い方だった。
完全な安心ではない。
でも、皿に乗せられるくらいの安心。
アルトは端末を伏せた。
レオンは、ここにいなくても手順の一部になっている。
◇
夕方、もう一度、言葉を試した。
今度は、順番も含めて。
ミナが水を置く。
こと。
マルタが小鍋を鳴らす。
かん。
ガルムが芋の籠の布を少し持ち上げる。
匂いが出る。
ミアが芋を一切れ、皿に置く。
ふーっと息を吹く。
それから、言葉。
ブルーノが紙を見る。
アルトが言った。
「ここに、皿がある」
店の中に、その言葉が置かれた。
誰もすぐには喋らない。
短い。
だが、命令ではない。
責めてもいない。
急かしてもいない。
来い、とも言っていない。
戻れ、とも言っていない。
ただ、皿がある。
ミアが皿を見る。
「ある」
「あるな」
「食べろって言ってない」
「ああ」
「でも、食べられる」
「ああ」
ブルーノが紙に書いた。
【ここに、皿がある】
少しだけ、端末が震えた。
【短文候補:検出】
ルナの手が止まる。
アルトは続けなかった。
そこで止める。
間を置く。
水を飲む。
その間が必要だった。
ブルーノが端末を見る。
【提供順:水/音/匂い/芋/短文】
【短文候補:第一文】
第一文。
アルトはその表示を見る。
「第一文、か」
ブルーノは頷く。
「一文では足りない、ということではなく、最初の言葉として認識されたのだと思います」
マルタが言う。
「まず皿を見せる」
「そうだな」
ルナは、小さく言った。
「その後で」
全員が彼女を見る。
ルナは水を飲む。
「その後で、責める声ではなかったことを」
アルトは頷く。
「二つに分けるか」
ブルーノが端末を見る。
「可能性はあります」
アルトは紙を見る。
帰れなかったことを、責めていない。
熱い。
でも、皿を見た後なら。
水を飲んだ後なら。
芋を一切れ食べた後なら。
少し冷めるかもしれない。
ルナが言った。
「すぐには言いません」
「間を置くか」
「はい」
「どれくらい」
ミアが手を上げる。
「芋を飲み込むまで」
マルタが頷いた。
「いいね」
ブルーノが真剣に言う。
「提供間隔として妥当です」
「硬い」
マルタが言う。
ブルーノは言い直した。
「芋を飲み込むまで」
「そっち」
端末が震える。
【提供間隔:咀嚼後】
ミアが首を傾げる。
「そしゃく」
「噛んだ後」
アルトが言う。
「じゃあ、芋をもぐもぐした後」
ミアが言う。
ブルーノが少しだけ悩む。
そして紙に書いた。
【芋をもぐもぐした後】
マルタが笑った。
「それでいい」
ブルーノは、少し困った顔で頷いた。
◇
夜になる前、第二文を試した。
水。
音。
匂い。
芋。
第一文。
ここに、皿がある。
間。
芋をもぐもぐした後。
それから、第二文。
誰が言うかで少し揉めた。
ルナが言うと言った。
アルトは止めなかったが、すぐには頷かなかった。
「熱くなる」
「はい」
ルナは認めた。
「でも、私が言いたいです」
その言葉に、アルトは少し黙った。
言いたい。
義務ではなく。
罰でもなく。
償いだけでもなく。
呼ばれていた者へ、出したい。
それなら、完全には止められない。
ただ、出し方を考える必要がある。
マルタが言った。
「ルナが言う。でも、ひとりでは出さない」
「どうする」
アルトが聞く。
「水はミナ。音は鍋。芋はミア。皿はルナ。言葉の前に、あんたが一度頷く」
「俺が?」
「熱すぎたら止める係」
ミアが言う。
「ふー係?」
「そうだね」
マルタが笑う。
「アルトはふー係」
「嫌な係名だな」
「大事だよ」
アルトはため息をついた。
「分かった」
ルナは皿を持つ。
普通の皿。
ミナが水を置く。
こと。
マルタが小鍋を鳴らす。
かん。
ガルムが芋の匂いを確認する。
ミアが芋を一切れ置く。
ふー。
ブルーノが紙を見る。
アルトが言う。
「ここに、皿がある」
間。
誰も急がない。
ミアが小さく、もぐもぐ、と言った。
「声に出すな」
アルトが言う。
「間」
「分かってる」
少し笑いが出る。
その笑いで、熱が少し下がった。
アルトはルナを見る。
ルナの目は赤い。
だが、昨日のように涙は落ちていない。
皿を持つ手も、震えていない。
アルトは一度だけ頷いた。
ルナは息を吸った。
そして言った。
「帰れなかったことを、責めていません」
言葉が置かれた。
静かだった。
熱かった。
だが、焼けるほどではなかった。
冷たくもない。
誰もすぐには喋らなかった。
ルナは自分で水を飲んだ。
ミアが小さく息を吹いた。
ふー。
もう言葉は出た後なのに。
それでも、少し冷ますように。
端末が震えた。
【第二文候補:検出】
【提供温度:高】
【冷却工程:必要】
ミアが胸を張る。
「ふーってする!」
アルトは少し笑った。
「するか」
マルタが言う。
「高、ならまだ出せないね」
ルナは頷いた。
「はい」
落ち込んではいない。
高い。
でも、検出された。
それは失敗ではない。
まだ熱いだけだ。
ブルーノが紙を見る。
「第二文は、内容としては成立しています。ただし提供温度が高い」
「どう冷ます」
アルトが聞く。
マルタが答える。
「言う前に、誰が責めていないのかをはっきりさせすぎない方がいい」
「どういうことだ」
「『私たちは責めていない』だと、こっちの話になる。『呼んだ声は責めていなかった』だと、向こうの記録になる。どっちも熱い」
ルナは皿を見る。
「では」
マルタは小鍋を見た。
「皿に乗せるなら、こうだね」
少し間を置いて、言った。
「責めるための皿ではありません」
店の中が、静かになる。
アルトはその言葉を噛んだ。
責めていない、より少し遠い。
責める声ではなかった、より少し皿に近い。
直接、呼ばれていた者の傷に触れない。
でも、逃げていない。
ルナがゆっくり頷いた。
「責めるための皿ではありません」
端末が震える。
【第二文候補:再検出】
【提供温度:中】
【冷却工程:継続】
ミアが言う。
「中」
「中なら」
アルトが聞く。
「ふーってしたら食べられる」
マルタが答える。
ルナは小さく息を吐いた。
「それにします」
アルトは頷く。
「まだ仮だ」
「はい」
「でも、皿には乗る」
「はい」
ルナは皿を抱えた。
今度は泣かなかった。
泣きそうでもなかった。
ただ、少しだけ息を長く吐いた。
◇
夜、端末の表示は整理されていた。
【提供形式:仮成立】
【提供対象:呼ばれていた者】
【提供順:水/音/匂い/芋/第一文/間/第二文】
【第一文:ここに、皿がある】
【提供間隔:咀嚼後】
【第二文候補:責めるための皿ではありません】
【提供温度:中】
【冷却工程:継続】
【接近可否:準備中】
アルトは一つずつ読む。
ここに、皿がある。
芋をもぐもぐした後。
責めるための皿ではありません。
まだ完全ではない。
だが、昨日より皿に乗っている。
ブルーノが紙を閉じた。
「短文が二つに分かれました」
「一口で飲ませないためだな」
アルトが言う。
「はい」
マルタが皿を片づける。
「いい出し方になってきたよ」
ミアが深皿を布で包む。
「ふーってまだいる?」
「いる」
ルナが答えた。
「お願いします」
ミアは胸を張った。
「まかせて」
アルトはルナを見る。
「言えそうか」
「はい」
少し間。
「でも、ひとりでは言いません」
「それでいい」
今度の「それでいい」は、自然に出た。
ルナも、レオンのように言わなかった。
だが、ちゃんと受け取った顔をした。
◇
店を閉める時間。
鈴が鳴る。
ちりん。
鍋が鳴る。
かん。
水差しが置かれる。
こと。
皿が重なる。
からん。
ミアが小さく息を吹く。
ふー。
何も熱いものは手に持っていない。
ただ、練習しているのだろう。
アルトは浅い皿を見る。
そこには、まだ何も乗っていない。
だが、言葉を置く場所は見えた。
第一文。
第二文。
間。
芋を飲み込むまで。
責めるための皿ではありません。
それはまだ、最終呼称ではない。
だが、最終呼称へ近づくための皿だった。
赤猫亭は閉まる。
明日、また開く。
言葉はまだ熱い。
でも、もう鍋の外には出ていない。
水と、音と、芋と、皿の上にある。
あとは、ふーっとするだけだった。




