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第105話 誰のための皿

 朝、マルタは皿を並べていた。


 まだ火は入っていない。


 鍋も鳴っていない。


 水差しも中央には出ていない。


 戸口の鈴も静かだった。


 ただ、厨房の台の上に、皿だけが並んでいる。


 大きな皿。


 深い皿。


 浅い皿。


 欠けた皿。


 古い皿。


 新しい皿。


 普段は奥にしまわれている、白い皿まで出ていた。


 アルトは階段を下りて、その光景を見た。


「店でも開くのか」


「開くよ」


 マルタは普通に答えた。


「そういう意味じゃない」


「じゃあ、どういう意味だい」


「皿が多い」


「多いね」


「誰に出す」


 マルタは一枚の皿を手に取った。


 白い皿。


 きれいすぎる皿だった。


 赤猫亭の皿にしては、傷が少ない。


 その分、少し落ち着かない。


「それを考える日なんだろ」


 アルトは端末を思い出す。


【提供形式:未定】


 誰に。


 何を。


 どう出すか。


 昨日、マルタは言った。


 誰に食べさせたいかを考えな。


 その問いが、朝の台所に皿の形で置かれている。


 アルトは白い皿を見る。


「きれいすぎるな」


「そうだね」


「使うのか」


「まだ」


 マルタは白い皿を台に戻した。


 かすかな音。


 からん。


「きれいな皿は、出す相手によっては怖い」


「皿が怖いのか」


「怖い皿はあるよ」


 ミアが階段から顔を出した。


「皿、怖い?」


「ある」


 マルタが答える。


「大きすぎる皿、小さすぎる皿、何も乗ってないのに偉そうな皿」


 ミアは目を丸くする。


「偉そうな皿」


「あるんだよ」


 ブルーノが店の奥から言った。


「形式が内容を圧迫する、ということでしょうか」


 マルタは皿を持ったまま、少しだけ顔をしかめた。


「朝から硬いね」


「すみません」


 ミアが白い皿をじっと見る。


「これ、偉そう?」


「少しね」


「芋、乗せたら?」


 マルタは一瞬黙った。


 それから笑った。


「少し偉そうじゃなくなるかもね」


 アルトも少し笑った。


 白い皿に芋。


 たしかに、それは少しだけ赤猫亭に近づく。


 ミアは満足げに頷いた。


「芋、皿にも効く」


「万能にするな」


「でも効く」


 効くかもしれない。


 少なくとも、皿だけで怖くなるよりはいい。


 ◇


 朝食の前に、端末を確認した。


 昨日の表示は残っている。


【次回接近:任意】


【選択状態:保留】


【保留理由:仕込み】


【接近理由候補:呼ばれていた者へ】


【提供形式:未定】


 ブルーノはその最後の行を見た。


「提供形式」


 言ってから、自分で首を振る。


「出し方、ですね」


 マルタが頷く。


「そっちの方がいい」


 アルトは皿を見る。


「出す相手は、呼ばれていた者」


 ルナは水を持っていた。


 今日は、最初から自分で水を入れてきている。


 空ではない。


 置いてもいない。


 手に持っている。


「はい」


「でも、誰かはまだ分からない」


「はい」


「皿を出せるのか」


 ルナはすぐには答えなかった。


 水面を見る。


 今日は揺れていない。


「分からない相手にも、皿は用意できます」


 マルタが言った。


 ルナではない。


 マルタだった。


「来るかどうか分からない客の分を、完全に作っておくわけじゃない。でも、来たら出せるようにしておくことはできる」


「仕込みか」


「そう」


 マルタは深い皿を一枚取った。


「ただし、出す相手が分からない時は、味を強くしすぎない」


「なぜ」


「食べられない人がいる」


 アルトは頷いた。


「熱すぎてもだめか」


「だめだね。思いも同じだよ」


 マルタは皿を置く。


「熱すぎる思いは、相手の口を火傷させる」


 その言葉で、ルナの手が少しだけ止まった。


 水はこぼれない。


 アルトは彼女を見る。


 ルナは何かを飲み込むようにしてから、言った。


「私は、熱くしすぎるかもしれません」


「だろうね」


 マルタはあっさり言った。


 ルナが少し目を見開く。


 マルタは続ける。


「あんたの中にあるものは、ずっと煮えっぱなしだった。火を止める場所も、蓋を開ける場所もなかったんだろ」


 ルナは何も言えない。


「だから、ひとりで出すと熱すぎる」


 マルタは皿を並べ直す。


「でも、冷ましすぎても味がなくなる」


 ミアが手を上げた。


「ふーってする?」


「そう」


 マルタは頷く。


「ふーってする」


 ミアは真剣に頷いた。


「ミア、できる」


「頼むかもしれないね」


 ルナはミアを見る。


 ミアは胸を張った。


「熱すぎたら、ふーってする」


 その言葉に、ルナの目元が少し緩んだ。


 笑ったのではない。


 泣きそうになったのでもない。


 その間だった。


 ◇


 朝食は、芋入り粥と小さな焼き芋だった。


 昨日、昼に回された焼き芋が、今朝は少しだけ出た。


 ミアはそれを見て、かなり満足した顔になった。


「任意、来た」


「朝に合う量だけだよ」


 マルタが言う。


「半分任意?」


「少量任意」


「新しい」


 ブルーノが反応しかけた。


 アルトが見た。


 ブルーノは口を閉じた。


 マルタが笑う。


「学んだね」


「かなり」


 朝食の間、皿の話は続いた。


 誰に出すか。


 何を出すか。


 どう出すか。


 重い話のはずなのに、台の上に皿があるせいで、完全には沈まなかった。


 ミアは焼き芋をふーっと冷ましながら言った。


「さみしいのには、熱いのだめ?」


 ルナが答える前に、ミアは続ける。


「でも、冷たいのもだめ」


 アルトは聞く。


「じゃあ何だ」


「ふーってした芋」


 ミアは当然のように言った。


「熱かったけど、食べられる芋」


 マルタが頷いた。


「いいね」


 ブルーノが少しだけ身を乗り出す。


「つまり、提供形式は温度調整を含む」


「硬い」


 マルタが即座に言う。


 ミアが言い直す。


「ふーってする」


「そっち」


 ブルーノは小さく頷いた。


「ふーってする」


 真面目に言った。


 アルトは少し笑った。


 ブルーノが「ふーってする」と言う日が来るとは思わなかった。


 ルナは、焼き芋を見ていた。


 自分の皿にも、小さな一切れがある。


 手を伸ばす。


 持つ。


 熱い。


 彼女は少し息を吹きかけた。


 ふー。


 それだけの音が、店の中に小さく広がった。


 鈴は鳴らない。


 端末も震えない。


 でも、その音は、確かにあった。


 ◇


 食後、ひとりずつ皿を選ぶことになった。


 マルタが言い出した。


「誰に出したいかを考えるなら、皿を一枚選びな」


「全員か」


 アルトが聞く。


「全員」


「なぜ」


「ルナだけに背負わせると、また熱くなりすぎる」


 その言い方で、ルナが俯いた。


 マルタはそれ以上は言わない。


 ただ、皿を並べる。


 最初に選んだのはミアだった。


 迷わなかった。


 小さな深皿。


 少し欠けているが、手に収まりやすい皿。


「これ」


「理由は」


 マルタが聞く。


「こぼれにくい」


「誰に出す」


 ミアは少し考える。


「呼ばれていた人」


「何を」


「ふーってした芋。あと水」


「どうして」


「さみしいの、こぼれると困る」


 誰も笑わなかった。


 ミアは皿を抱える。


「深いと、少しこぼれても大丈夫」


 アルトはその皿を見た。


 小さい。


 欠けている。


 でも、深い。


 ミアらしい皿だった。


 次にブルーノが選んだ。


 彼はかなり迷った。


 白い皿に手を伸ばし、戻す。


 深皿を見る。


 浅皿を見る。


 最後に、薄い灰色の皿を選んだ。


 縁に小さな線が入っている。


「これにします」


 マルタが聞く。


「理由は」


「主張が強すぎません。でも、境界があります」


「境界」


「はい。何を置いたか分かる程度には縁がある。けれど、置いたものを囲い込みすぎない」


 アルトは少し感心した。


「誰に出す」


 ブルーノは言った。


「呼ばれていた者へ。ただし、記録としてではなく、受け取るかどうかを選べるものとして」


「何を出す」


 ブルーノは少しだけ迷う。


「短い言葉を」


 ルナの手が止まった。


 ブルーノは続ける。


「長い記録ではありません。説明でもありません。責める声ではなかった、ということだけを、飲み込める長さにします」


 マルタが頷く。


「いいね」


 ブルーノは少しほっとした顔をした。


 ペンは持っていない。


 それがよかった。


 次はガルドだった。


 彼は皿を見ない。


 壁を見ている。


「選べ」


 アルトが言う。


「皿は苦手だ」


「なぜ」


「割れる」


 ミアがすぐ言う。


「割れないのもある」


「だいたい割れる」


 マルタが木の皿を出した。


「じゃあ、これ」


 ガルドはその皿を見た。


 木の皿。


 厚みがある。


 少し重い。


 落としても、たぶん割れにくい。


「これでいい」


「理由は」


 マルタが聞く。


「滑りにくい」


「誰に出す」


 ガルドは少し間を置く。


「立ち止まれなかった者にも」


 店の音が少しだけ沈む。


 ガルドは淡々と言った。


「皿が滑ると、手が焦る。手が焦ると、落とす。落とすと、割れる。割れると、もう食えん」


 木の皿を置く。


 とん。


「止まれなかった者に出すなら、滑らん皿がいい」


 アルトは頷いた。


 それは、ガルドらしい答えだった。


 次にガルムが皿の匂いを嗅いだ。


 皿を選ぶのかと思ったら、芋の籠へ行った。


 鼻先で布を押す。


「皿じゃないのか」


 アルトが聞く。


「匂い」


「何の」


「食べ物の匂い」


 ガルムは皿を見ない。


「白い場所には、匂いがなかった」


 ルナが目を伏せる。


「匂いのないものは、近づき方が分からない」


 ガルムは芋の籠の横に伏せた。


「だから、匂いを先に出す」


 マルタが頷く。


「皿の前に匂いか」


「そうだ」


 ミアが真剣に言う。


「ガルム、皿じゃなくて鼻」


「鼻だ」


 ガルムは普通に答えた。


 ミアは納得した。


「鼻も出すもの」


「出さない」


「でも使う」


「使う」


 アルトは笑った。


 皿を選ばない答えもある。


 それも、赤猫亭らしかった。


 ◇


 ルナの番になった。


 皿はまだ何枚も残っている。


 白い皿。


 深皿。


 古い皿。


 小さな皿。


 大きな皿。


 ルナは白い皿を見た。


 手を伸ばしかける。


 止まる。


 次に、深い皿を見る。


 それにも触れない。


 古い皿を見る。


 欠けた皿を見る。


 少し迷う。


 水を飲む。


 コップを持つ手は震えていない。


 けれど、指先に力が入っている。


「私は」


 ルナは言った。


「皿を選ぶ資格があるのか、分かりません」


 アルトは何も言わなかった。


 マルタも黙っている。


 ルナは続ける。


「私は、聞いていた側です。呼んだ者でも、呼ばれていた者でもありません。返せなかった者です。返さないことを選んだ者でもあります」


 水面がわずかに揺れる。


「そんな私が、呼ばれていた者へ皿を出すことは、許されるのでしょうか」


 ミアが皿を抱えたまま言った。


「お腹すいてたら?」


 ルナがミアを見る。


「え?」


「お腹すいてたら、皿いる」


 ミアは真剣だった。


「誰が出しても、芋いる」


 ルナの顔が歪んだ。


 ミアは続ける。


「でも、熱すぎたら、ふーってする」


 その言葉で、ルナの目に涙が浮かんだ。


 今度は、止まらなかった。


 ぽろ、と落ちた。


 水のコップを持ったまま、ルナは泣いた。


 声は出ない。


 泣こうとして泣いたのではない。


 こぼれた。


 ずっと持っていたものが、少しだけ外へ出た。


 アルトは動かなかった。


 マルタも皿を持ったまま待った。


 ミナが布を出そうとして、マルタに目で止められる。


 ルナは自分で水を置いた。


 こと。


 それから、自分の袖ではなく、マルタが置いていた布を取った。


 自分で拭いた。


 涙を。


 水ではなく。


 自分で。


「すみません」


 小さく言う。


 マルタがすぐ返した。


「謝る涙じゃないよ」


 ルナはまた泣きそうになった。


 でも、今度は少し笑った。


 泣きながら、笑った。


 それから皿を選んだ。


 白い皿ではない。


 深皿でもない。


 欠けた皿でもない。


 少し厚みのある、何度も使われた普通の皿だった。


 縁に小さな傷がある。


 洗われて、拭かれて、しまわれて、また出されてきた皿。


「これにします」


 声は震えていた。


 けれど、弱くはなかった。


 マルタが聞く。


「理由は」


 ルナは皿を見る。


「特別すぎないからです」


 少し間。


「でも、何度も使われています」


 アルトはその皿を見る。


 赤猫亭らしい皿だった。


「誰に出す」


 マルタが聞く。


 ルナは息を吸った。


「呼ばれていた者へ」


「何を出す」


「責める声ではなかった、ということを」


 水を飲む。


「でも、言葉だけでは熱すぎるかもしれません」


 ミアが皿を抱えたまま、ふーっと息を吹いた。


 ルナはそれを見て、また少し泣いた。


「だから、水と、芋と、音と、一緒に」


 マルタが頷いた。


「どう出す」


 ルナはしばらく黙った。


 そして言った。


「こちらへ来い、とは言いません」


 アルトは目を細める。


「戻れ、とも言いません」


 ルナは続ける。


「ただ、ここに皿があります、と」


 店の音が、そこだけ温かくなった気がした。


「食べるかどうかは、選べるように」


 それが、ルナの皿だった。


 ◇


 最後にアルトが皿を選んだ。


 正直、選ぶつもりはなかった。


 だが、全員の視線がこちらに来た。


 逃げられない。


「俺もか」


「当然だろ」


 マルタが言う。


「食堂でやるって言ったのは、あんただよ」


 アルトは皿を見る。


 白い皿。


 深皿。


 木の皿。


 普通の皿。


 どれも、誰かの答えになっている。


 自分の皿。


 誰に出すか。


 呼ばれていた者へ。


 それはルナと同じだ。


 でも、自分が出したいものは何か。


 責める声ではなかったと伝える。


 それも同じ。


 だが、それだけではない。


 アルトは少し迷い、浅い皿を選んだ。


 縁が低い。


 何かを深く溜めるには向かない。


 その代わり、置いたものが隠れない。


「それ?」


 ミアが聞く。


「ああ」


「こぼれる」


「汁物はな」


「じゃあ何乗せる?」


 アルトは皿を見る。


「言葉を少し」


 ブルーノが反応する。


 アルトは続ける。


「あと、芋を一切れ」


 ミアは満足そうに頷いた。


「一切れ」


「多すぎると押しつけになる」


 マルタが頷く。


「いいね」


「誰に出す」


 マルタが聞く。


 アルトは答えた。


「呼ばれていた者へ」


「何を出す」


「選べるものを」


「どう出す」


 アルトは少し考える。


 端末を見ない。


 傷も見ない。


 皿を見る。


「食べてもいい。食べなくてもいい。持っていってもいい。置いていってもいい」


 ルナが息を止める。


 アルトは続けた。


「ただし、命令も、責める声も、急かす声も乗せない」


「言葉は?」


 ブルーノが聞く。


 アルトは皿の縁を指でなぞった。


「短くする」


「内容は」


 アルトは息を吐いた。


 まだ分からない。


 でも、形だけは見えた。


「責めていない」


 それだけ言って、少し違うと思った。


 否定だけでは足りない。


 責めていない。


 命じていない。


 急かしていない。


 でも、それだけでは冷たい。


 アルトは、昨日の怒りの熱を思い出した。


 鍋に少し入れるなら。


 味になる程度に。


「帰れなかったことを、責めていない」


 口にした瞬間、ルナの涙がまた落ちた。


 今度は静かだった。


 マルタが鍋の火を弱める。


 ミアが自分の皿をぎゅっと抱く。


 ブルーノはペンを持たない。


 ガルドは壁から離れない。


 ガルムは芋の匂いを嗅いでいる。


 アルトは皿を見る。


 浅い皿。


 芋を一切れ置くには、十分だった。


 ◇


 端末が震えた。


 ブルーノが開く。


 表示が変わっている。


【提供形式:再計算中】


【提供対象:呼ばれていた者】


【除外条件:命令/責める声/急かす声】


【構成要素:水/芋/音/短文】


 ミアが身を乗り出す。


「芋、入った」


「入ったな」


 アルトが言う。


 さらに表示が増える。


【提供温度:要調整】


 ミアが胸を張った。


「ふーってする!」


 ブルーノが真面目に頷く。


「必要な工程として記録されています」


「ふーって工程」


 マルタが笑う。


「いい工程だ」


 ルナは皿を持ったまま、まだ涙の跡を拭ききれていない。


 けれど、水を飲んだ。


 自分で。


 そして言った。


「熱すぎたら、冷まします」


 アルトが頷く。


「ああ」


「冷ましすぎたら」


 マルタが言う。


「温め直す」


 ミアが追加する。


「芋は逃げない」


 レオンの言葉のように、店の中に馴染んだ。


 端末にはさらに一行。


【提供形式:仮成立】


 仮。


 今度も仮。


 でも、成立。


 ブルーノが息を吐いた。


「仮成立です」


 マルタが言う。


「仮でいい」


 ミアが頷く。


「動かせる」


 ルナも頷いた。


「はい」


 アルトは皿を見る。


 まだ何も乗っていない。


 だが、何を乗せるかは見えた。


 水。


 芋。


 音。


 短い言葉。


 熱すぎないように。


 冷たすぎないように。


 命じず。


 責めず。


 急かさず。


 食べるかどうかを選べるように。


 ◇


 昼、神々の通知は少し増えた。


 何かが進んでいることは、向こうにも分かるのだろう。


 だが、今日は騒ぎが大きくならなかった。


 ブルーノが確認する。


【外部注視圧:微増】


【配信要求:通常範囲】


【境界宣言:有効】


 アルトは入力欄を開いた。


 今日は、何を出すか。


 ミアが近づく。


「味見?」


「ああ」


「今日は何味?」


「薄い」


「いい薄い?」


「たぶん」


「芋いる?」


「いる」


 アルトは少し笑った。


 そして打った。


《赤猫亭、皿を選んでいます》


 少し止まる。


 続ける。


《急ぐ注文は、今日も受けません》


 さらに。


《芋は一切れから》


 送信。


 コメント欄は開かない。


 通知が跳ねる。


 外部注視圧が少しだけ上がり、すぐに落ちる。


【配信反応:制御内】


 ミアが頷く。


「一切れ、大事」


「多すぎると押しつけになるからな」


「でも少なすぎると、さみしい」


「難しいな」


「だから、ふーってする」


「そこにつながるのか」


「つながる」


 アルトは笑った。


 たぶん、つながっている。


 ◇


 午後、レオンから連絡が来た。


《今日は、少し眠れました》


 アルトは端末を見る。


《いいことだ》


 既読。


《腹は》


《普通です》


 アルトは少し笑った。


《普通も大事だ》


《はい》


 少し間。


《食べたことは、まだあります》


 アルトはその文を見て、少しだけ胸が温かくなる。


 昨日までは、怖さの濃さや薄さを言っていた。


 今日は、食べたことがまだある、と言う。


 記憶ではなく、体に残っているものとして。


《それはいい》


 送る。


 少し考えて、続ける。


《次は腹が決める》


 既読。


《はい》


 さらに。


《でも、次を決めなくても、前に食べたことは消えません》


 アルトは端末を見た。


 それは、レオン自身が言ったことだった。


 次の予定が未設定でも、来たことは消えない。


 食べたことは消えない。


 席がただの席に戻っても、座ったことは消えない。


《そうだ》


 送る。


 既読。


《それが、少し安心です》


 アルトは頷いた。


 レオンの線は、急がなくていい。


 だが、確かに進んでいる。


 ◇


 夕方、マルタは小さな鍋を出した。


 普段使う大きな鍋ではない。


 一人分を温めるための小鍋だ。


「それを使うのか」


 アルトが聞く。


「まだ使わない」


「じゃあなぜ出す」


「出し方を考えるんだろ」


 マルタは小鍋を台に置く。


「大鍋で作ると、みんなのものになる。小鍋で温めると、誰かひとりのものになる」


 ルナがその小鍋を見る。


 呼ばれていた者へ。


 まだ誰かは分からない。


 でも、ひとり分。


「ひとり分は、怖いです」


 ルナが言った。


「なぜ」


 アルトが聞く。


「逃げ場がない気がします」


 マルタが頷く。


「だから皿は普通の皿。量は少し。芋は一切れ。水は多め」


「水は多め?」


 ミアが聞く。


「喉につかえたら困るだろ」


 ブルーノが静かに言った。


「短文でも、つかえることがあります」


 マルタが頷く。


「そういうこと」


 アルトは小鍋を見る。


 ひとり分。


 水多め。


 芋は一切れ。


 短い言葉。


 鈴ではなく、鍋の音。


 かん、と鳴る音。


 食堂の音。


 提供形式は、少しずつ具体的になっている。


 ◇


 夜、端末の表示はさらに変わった。


【提供形式:仮成立】


【提供対象:呼ばれていた者】


【構成要素:水/芋/音/短文】


【提供温度:要調整】


【除外条件:命令/責める声/急かす声】


【次回接近:任意】


【接近可否:準備中】


 準備中。


 未定ではない。


 未成立でもない。


 準備中。


 アルトはその文字を見た。


 悪くない。


 まだ近づかない。


 でも、皿は選ばれた。


 何を出すかも見えた。


 誰に出すかも見えた。


 どう出すかは、まだ仮だ。


 それでいい。


 マルタが皿を片づける。


 白い皿は奥に戻した。


 ミアの深皿は台の横へ。


 ブルーノの灰色の皿もそこへ。


 ガルドの木の皿。


 ルナの普通の皿。


 アルトの浅い皿。


 全部を一列に並べるのではなく、少しずつずらして置く。


 同じ形に固まらないように。


 ミアが満足そうに言った。


「皿も固まらない」


「そうだね」


 マルタは答える。


 ルナは自分の皿に触れた。


「今日は、泣きました」


 小さく言った。


 アルトは彼女を見る。


「そうだな」


「でも、皿は落としませんでした」


「ああ」


「水も、こぼしませんでした」


「ああ」


「泣いても、出すことを考えられました」


 その言葉に、アルトは少しだけ息を吐いた。


「なら、今日はそれを覚えろ」


 ルナは頷いた。


「はい」


 ミアが近づいて、ルナの皿を見た。


「ルナの皿、普通」


「はい」


「普通、えらい」


「はい」


 ルナは少し笑った。


 涙の跡が、まだ目元に残っている。


 でも、その笑いは弱くなかった。


 ◇


 店を閉める時間。


 マルタが戸締まりをする。


 かちゃり。


 鈴が鳴る。


 ちりん。


 今日は、普通に鳴った。


 鍋が小さく鳴る。


 かん。


 水差しが置かれる。


 こと。


 ミアが深皿を布で包む。


 ふわり。


 ブルーノが紙を閉じる。


 ぱたん。


 ガルドが木の皿を一度だけ指で叩く。


 とん。


 ガルムが芋の籠の横で伏せる。


 匂いを守るように。


 ルナは水を飲む。


 そして、自分の選んだ皿を、芋の近くに置いた。


 真ん中ではない。


 遠くでもない。


 でも、昨日より少しだけ、近い。


 アルトは浅い皿を見る。


 そこにはまだ何も乗っていない。


 だが、一切れの芋を置く場所は見える。


 短い言葉を置く余白もある。


 帰れなかったことを、責めていない。


 その言葉は、まだ出さない。


 熱いままでは出さない。


 冷ましすぎても出さない。


 ふーっとしてから。


 水と一緒に。


 芋と一緒に。


 音と一緒に。


 赤猫亭は閉まった。


 明日、また開く。


 誰のための皿かは、まだ分からない。


 それでも皿は、用意され始めている。


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