第104話 選べる日
任意。
その文字は、朝になっても消えていなかった。
【次回接近:任意】
端末の画面に、静かに残っている。
命令ではない。
警告でもない。
参照要求でもない。
確認窓でもない。
強制接近でもない。
任意。
こちらで選べる。
それだけのはずなのに、アルトはその文字を見て、しばらく黙った。
選べる。
それは自由のはずだった。
だが、自由になった途端、妙に重い。
誰かに押されて進む方が、言い訳はできる。
引きずられたと言える。
止まれなかったと言える。
でも、任意なら。
選んだのは、こちらになる。
アルトは端末を閉じた。
「気に入らないな」
ブルーノが紙を持ちかけて、止めた。
「任意という表記が、ですか」
「ああ」
「自由度は高いです」
「自由度って言うな。急に責任が増えたみたいに聞こえる」
「実際、増えています」
「言うな」
マルタが厨房から声を飛ばした。
「朝から難しい顔してるね」
「任意だ」
「何が」
「次に近づくかどうか」
「じゃあ、今日は近づかなくてもいいんだろ」
「ああ」
「なら、朝飯を選びな」
アルトは眉を上げた。
「何でそうなる」
「選べる日なんだろ」
マルタは戸棚を開けた。
「煮芋か、焼き芋か、芋入り粥」
ミアが階段から駆け下りてきた。
「焼き芋!」
「まだ聞いただけだよ」
「選べる日!」
「そうだけど、朝から焼き芋だけはだめ」
「任意なのに?」
「任意にも腹の都合がある」
アルトは思わず笑った。
任意にも腹の都合がある。
かなり正しい。
ブルーノが少しだけ考え込む。
「記録してもよいでしょうか」
「それはやめとけ」
アルトが言う。
「かなり重要な気がしますが」
「重要でも書くな」
ミアが胸を張る。
「任意は、焼き芋だけじゃだめ」
「そういう話ではない」
「でも合ってる?」
マルタが鍋を出しながら言った。
「だいたい合ってる」
ミアは満足した。
アルトは端末を見る。
任意。
それは、焼き芋だけを選ぶことではない。
腹を壊さない選び方をすること。
今日の朝飯から、それを突きつけられている気がした。
◇
結局、朝食は芋入り粥になった。
焼き芋は昼に回された。
ミアは不満そうだったが、粥に芋が多めに入っているのを見て、少し許した顔になった。
「任意、半分」
「半分じゃないよ」
マルタが椀を置く。
「朝に合う形にしただけ」
「焼き芋は?」
「昼」
「じゃあ任意、あとで」
「そういうこと」
アルトは粥を食べる。
温かい。
体の中にゆっくり入る。
昨日の怒りは、まだ少し残っている。
でも、粥の熱とは違う。
怒りは固い。
粥は柔らかい。
同じ熱でも、形が違う。
マルタはそれを知っているのだろう。
朝から焼き芋にしなかったのは、たぶん正しい。
ルナは自分で水を入れ、席に座っていた。
今日は空のコップではなく、水の入ったコップを持っている。
昨日、自分で水を入れた。
今日は最初から自分で入れてきた。
小さな違いだが、アルトには分かった。
「ルナ」
「はい」
「任意だ」
ルナは頷く。
「はい」
「近づくかどうか、選べるらしい」
「はい」
「どう思う」
ルナはすぐ答えなかった。
水を飲む。
ゆっくり。
「怖いです」
正直な答えだった。
「選べることが?」
「はい」
「強制よりか」
「はい」
ルナはコップを両手で持つ。
「強制なら、止められたか、止められなかったかになります。けれど、任意なら、選んだか、選ばなかったかになります」
アルトは粥を食べる手を止めた。
マルタも鍋の前で少しだけ動きを止める。
ルナは続ける。
「選ばないことは、逃げることではありません。でも、選ばない理由を失うと、逃げたことに近づきます」
「難しいな」
「はい」
ミアが粥を食べながら言う。
「焼き芋、今食べないのは逃げ?」
ルナは少し驚いた顔をした。
マルタが笑う。
「いい質問だね」
ミアは得意げになる。
「任意だから」
ルナは少し考え、答えた。
「朝に焼き芋を食べない理由があります」
「腹?」
「はい。腹の都合です」
ミアは大きく頷いた。
「腹、大事」
「だから、それは逃げではありません」
「昼に食べる」
「はい」
ミアは満足した。
アルトも、少しだけ分かった。
選ばないことは逃げではない。
理由があるなら。
体に合う時間を選ぶなら。
腹の都合を見ているなら。
ただ怖いから見ないのではなく、今ではない理由を持つなら。
それは、逃げではない。
◇
朝食の後、ブルーノが端末を確認した。
【次回接近:任意】
【選択状態:未選択】
【接近条件:非強制】
【置き場所:仮成立】
【対象反応:低位安定】
未選択。
アルトはその文字を見る。
「未選択か」
ブルーノは頷く。
「未実行ではなく、未選択です」
「違うのか」
「はい。選ぶ機会があり、まだ選んでいない状態です」
マルタが椀を片づけながら言う。
「朝の焼き芋みたいなもんだね」
「全部芋で説明するな」
「分かりやすいだろ」
ミアが元気に頷く。
「分かりやすい」
ブルーノは少し困った顔をした。
「たしかに、分かりやすいです」
アルトは画面を見る。
未選択。
それは悪い表示ではない。
だが、放っておけば、未選択は別のものになるかもしれない。
未定。
未成立。
未完了。
そういう嫌な言葉に近づく。
「今日は選ばない、という選択はあるか」
アルトが言う。
ブルーノは端末を見る。
「理論上はあります」
「理論上って言うな」
「では、あります」
ルナが言った。
「選ばないことを選ぶには、理由が必要です」
「ああ」
「怖いから、だけでは足りません」
アルトはルナを見る。
ルナは少し目を伏せる。
「私は、怖いです。でも、それだけで選ばないなら、後で自分を責めます」
「じゃあ何が必要だ」
ルナは答えた。
「仕込みです」
マルタが、そこで笑った。
「いいね」
ルナは少し恥ずかしそうにした。
「言葉として合っているかは分かりません」
「合ってるよ」
マルタは椀を重ねる。
「仕込みが足りない時は、出さない。客に出さない。自分たちも食べない。焦って出したものは、あとで腹にくる」
ミアが自分の腹を押さえた。
「腹にくる」
「そう」
アルトは頷いた。
「今日は、仕込みが足りない」
ブルーノが端末を見る。
「そのように記録しますか」
「いや」
アルトは考える。
「今日は、仕込みの日」
その言葉を出した瞬間、端末が震えた。
【選択状態:保留】
【保留理由:仕込み】
ミアが目を丸くした。
「仕込み、出た」
ブルーノも驚いている。
「向こう側が、こちらの表現を拾いました」
マルタが少しだけ口元を上げる。
「食堂に寄ってきたね」
ルナは水を飲んだ。
コップを置かない。
持ったまま、少しだけ息を吐いた。
「選ばないことが、逃げではなくなりました」
アルトは画面を見る。
保留理由、仕込み。
今日は近づかない。
でも、逃げない。
仕込む。
それだけで、未選択は少し形を変えた。
◇
昼前、普通の客が二人来た。
鈴が鳴る。
ちりん。
普通の音。
普通の客。
普通の注文。
だが、ミアは一人目に聞いた。
「煮芋と焼き芋、どっち?」
客は困った顔をした。
「今日は選べるの?」
ミアは胸を張った。
「選べる日」
マルタがすぐ後ろから言う。
「勝手に増やさない」
「でも選べる」
「今日は選べるけど、全部じゃない」
「全部じゃない任意」
「そう」
客は笑った。
「じゃあ煮芋」
もう一人は言った。
「俺は焼き芋」
ミアは真剣に頷いた。
「任意、分かれた」
「注文だよ」
アルトが言う。
「注文も任意?」
「そうだな」
「でも、店にないものはだめ?」
「だめだ」
「じゃあ、任意にも店の都合」
「ある」
ミアはまた一つ理解した顔をした。
「任意、忙しい」
「忙しいな」
マルタは焼き芋を火に近づける。
煮芋は鍋から出す。
二つの注文が、二つの形で用意される。
同じ芋。
違う食べ方。
どちらも正しい。
ただし、店にあるものの中で。
アルトはそれを見ながら、任意という言葉が少しだけ軽くなるのを感じた。
自由は、何でもできることではない。
ここにあるものから、自分で選ぶこと。
今日は、それを客が教えてくれた。
◇
昼過ぎ、レオンから連絡が来た。
《腹が減りました》
アルトは端末を見る。
昨日と同じ言葉。
でも、今日は少し違って見える。
《考えるか》
既読。
少し間。
《考えました》
アルトの指が止まる。
《いつ》
また間。
《まだ決めません》
アルトは少し笑った。
《それも考えた結果か》
《はい》
さらに。
《今日は、行かない理由があります》
《何だ》
《少し疲れています》
正直な返事だった。
《怖いからではなく》
間。
《疲れているからです》
アルトは深く頷いた。
これは大事だ。
怖いから行かない。
疲れているから今日は行かない。
似ているようで違う。
そして、その違いをレオン自身が言えている。
《それなら今日は仕込みだ》
既読。
《仕込み》
《水を飲め。飯を食え。寝ろ》
《はい》
少しして。
《芋は》
アルトは笑った。
《逃げない》
返事は早い。
《安心しました》
いつもの速さ。
悪くない。
アルトは端末を伏せた。
レオンも、選べる日を始めている。
来るか、来ないかだけではない。
来ない理由を、自分で持てるようになっている。
◇
午後、ルナは水を持って、ミアの表の前に立った。
今日の表は、朝より少し動かされている。
芋の近く。
でも、昨日と同じ場所ではない。
声じゃないやつ。
鈴。
水。
鍋。
芋。
ルナはそれを見ながら言った。
「今日は、接近しません」
アルトは頷く。
「ああ」
「でも、何もしないのではありません」
「ああ」
「置き場所を確認します」
「どうやって」
ルナは少し考える。
「ここに置いてよいものと、置いてはいけないものを分けます」
ミアが反応した。
「置いてはいけないもの?」
「はい」
「なに?」
ルナは言う。
「命令」
店の中が少し静かになる。
「責める声」
もう一つ。
「急かす声」
ミアは真剣に頷く。
「それは芋の近く、だめ?」
「はい」
「寒いところ?」
ルナは首を横に振った。
「いいえ。店の中に入れないものです」
その言葉は、思ったより強かった。
アルトはルナを見る。
ルナは水を持っている。
震えていない。
「置いておくものは、何でも置いてよいわけではありません」
彼女は言った。
「置くことで、他のものを壊すものは、置き場所を与えません」
マルタが厨房から頷く。
「腐った芋を籠に戻さないのと同じだね」
ミアが顔をしかめる。
「腐った芋、だめ」
「だめだね」
ルナは少しだけ苦笑した。
「そうです。腐った芋は、芋の近くに置いてはいけません」
アルトは少し笑った。
だが、言っていることは重い。
非強制。
置いておく。
芋の近く。
それは優しさだ。
だが、何でも受け入れるという意味ではない。
命令。
責める声。
急かす声。
それらは、食堂の中に入れない。
置き場所を与えない。
ルナは端末を見る。
ブルーノが確認する。
【置き場所:仮成立】
【除外条件:命令/責める声/急かす声】
【接近条件:非強制】
ブルーノが息を呑む。
「除外条件が出ました」
アルトは画面を見る。
除外条件。
これは守るための線だ。
ただ受け入れるのではない。
何を入れないかを決める。
それも、選べる日の一部だった。
◇
外部注視圧は、夕方に少し上がった。
今日は選べる日だという話が、神々に届いているわけではない。
ただ、昨日の《鳴らないものも置いてあります》に対する反応が続いているのだろう。
ブルーノが端末を見る。
【外部注視圧:微増】
【配信要求:通常範囲】
【境界宣言:有効】
アルトは入力欄を開いた。
今日は、文を出すかどうかも選べる。
出す。
出さない。
どちらも選択になる。
アルトは考える。
今日は近づかない。
仕込みの日。
それを外に出すか。
出さないか。
ミアが横から言った。
「味見?」
「ああ」
「今日は辛い?」
「少し」
「芋いる?」
「いる」
マルタが笑う。
「じゃあ、入れな」
アルトは打った。
《赤猫亭、本日は仕込みの日です》
少し考える。
《急かす声は、店の中に入れません》
そのままだと硬い。
消す。
考える。
もう一度打つ。
《急ぐ注文は、今日は受けません》
ミアが見る。
「注文?」
「神々にも分かりやすいだろ」
「芋ある?」
「ある」
アルトは続ける。
《芋は逃げません》
送信。
コメント欄は開かない。
通知が跳ねる。
外部注視圧が一瞬上がり、すぐに下がる。
【配信反応:制御内】
【境界宣言:有効】
ミアが満足そうに言う。
「芋、強い」
「強いな」
アルトは画面を閉じた。
急かす声は、店の中に入れない。
ただし、それを怒鳴る必要はない。
急ぐ注文は今日は受けない。
それで十分だった。
◇
夜、端末の表示は増えていた。
【次回接近:任意】
【選択状態:保留】
【保留理由:仕込み】
【置き場所:仮成立】
【除外条件:命令/責める声/急かす声】
【接近理由:未設定】
最後の行。
接近理由。
未設定。
アルトはそれを見る。
「理由が要るんだな」
ブルーノは頷く。
「任意である以上、理由が必要です。強制ではないので」
「怖いから近づく、は違う」
「はい」
「気になるから、もたぶん違う」
「不十分です」
「解析したいから、は」
ブルーノは少し嫌そうな顔をした。
「かなり危険です」
アルトは頷く。
なら、何ならいい。
食堂でやる。
昨日そう言った。
向こうには食堂がなかった。
だから、こっちでやる。
でも、それはまだ理由になっていないのか。
マルタが鍋の蓋を閉めた。
「明日、誰に食べさせたいかを考えな」
アルトはマルタを見る。
「誰に?」
「食堂でやるんだろ」
「ああ」
「なら、誰かに出すんだよ」
その一言は、単純だった。
食堂でやる。
なら、出す相手がいる。
最終呼称に近づくことは、ただ読むことではない。
誰かに何かを出すこと。
戻れるように呼んだ声の最後に近づくなら。
それを、誰に出すのか。
ルナが水を持つ手を強くした。
「呼ばれていた者」
小さく言った。
アルトはルナを見る。
「まだ分からない相手に?」
「はい」
「食べるかも分からない」
「はい」
「ここに来るかも分からない」
「はい」
ルナは、それでも言った。
「でも、呼ばれていた者に、責める声ではなかったと伝えたい」
店の中が静かになる。
マルタは何も言わない。
ブルーノもペンを持たない。
ミアは芋の籠の布を握っている。
アルトは端末を見る。
接近理由、未設定。
アルトは言った。
「それは、理由になるか」
端末はすぐには震えなかった。
少し間があった。
まるで、向こう側が考えているような間。
そして、表示が増えた。
【接近理由候補:呼ばれていた者へ】
さらに。
【提供形式:未定】
ミアが首を傾げる。
「提供?」
マルタが静かに言った。
「出し方だよ」
アルトは画面を見る。
呼ばれていた者へ。
提供形式、未定。
食堂でやるなら、出し方がいる。
何を出すか。
どう出すか。
誰に出すか。
それを決めないまま、最終呼称には近づかない。
アルトは深く息を吐いた。
「明日は、出し方を考える」
マルタが頷く。
「そうしな」
ルナは水を飲んだ。
置かなかった。
持ったまま、少しだけ泣きそうな顔をした。
でも、泣かなかった。
「呼ばれていた者へ」
彼女は小さく繰り返した。
「責める声ではなかったと」
アルトは頷く。
「まだ出さない」
「はい」
「でも、出す相手は見えた」
「はい」
その返事は、弱くなかった。
◇
店を閉める時間になった。
鈴は普通に鳴った。
客が帰る。
また鳴る。
普通の音。
普通の日。
でも、今日は選べる日だった。
近づかないことを選んだ日。
逃げなかった日。
仕込みの日。
除外条件を決めた日。
そして、接近理由の候補が初めて見えた日。
マルタが戸締まりをする。
かちゃり。
アルトは端末を最後に確認した。
【次回接近:任意】
【選択状態:保留】
【保留理由:仕込み】
【置き場所:仮成立】
【除外条件:命令/責める声/急かす声】
【接近理由候補:呼ばれていた者へ】
【提供形式:未定】
まだ近づかない。
でも、止まってはいない。
明日は、出し方を考える。
それは、献立を考えることに似ていた。
誰に。
何を。
どう出すか。
赤猫亭の一番基本的なこと。
アルトは灯りを落とす。
ミアの表は、今日も芋の近くにある。
昨日と同じ場所ではない。
少しだけ動いている。
怒りも、まだそこにある。
熱も残っている。
ルナは水を持っている。
ブルーノは紙を閉じた。
ガルムは入口の横で伏せた。
ガルドは壁を一度だけ叩いた。
こつ。
何の合図でもない。
ただ、壁がそこにある音だった。
赤猫亭は閉まった。
明日、また開く。
選べることの重さを、腹に入れたまま。
芋は、昼まで焼かれなかった。
でも、逃げなかった。




