第103話 芋の近く
朝、アルトはいつもより早く起きた。
眠れなかったわけではない。
眠った。
たぶん、少しは。
ただ、腹の底に何かが残っていた。
昨日の怒り。
声にならなかったものへの怒り。
届かなかったことへの怒り。
誰かが最後まで呼ぼうとして、それでも声にならなかったことへの怒り。
夜が明けても、それは消えていなかった。
でも、昨日ほど燃えてはいない。
赤い火ではない。
炭の奥に残った熱のようなものだった。
息を吹きかければ、また燃える。
水をかければ、煙が出る。
放っておけば、じわじわ残る。
アルトは階段を下りた。
厨房では、まだ誰も動いていない。
鍋は伏せてある。
水差しも空に近い。
芋の籠だけが、いつもの場所にあった。
布がかかっている。
その横に、ミアの紙が置かれていた。
急がないもの表。
丸。
線。
鍋。
水。
鈴。
芋。
そして、声じゃないやつ。
声じゃないやつは、芋の近くに描かれている。
遠くではない。
真ん中でもない。
芋の近く。
安全だから。
アルトはその紙を見た。
見ているうちに、腹の底の熱が少しだけ動いた。
怒りを、どこに置くか。
昨日は、外に出さなかった。
配信にも流さなかった。
神々の前で燃やさなかった。
では、どこに置くのか。
胸の中に閉じ込めるのか。
机の傷にぶつけるのか。
鈴に向けるのか。
違う。
アルトは芋の籠の横にしゃがんだ。
布の端を直す。
何の意味もない動作だった。
でも、手が動いた。
怒りが、少しだけ手の熱になった。
「何してるんだい」
背後から声がした。
マルタだった。
寝起きではない。
すでに起きていた顔だ。
たぶん、アルトより先に起きていた。
「布を直してる」
「見れば分かるよ」
「なら聞くな」
「聞きたい時もあるんだよ」
マルタは厨房へ入り、鍋を起こした。
かん。
朝の音がした。
「怒ってるね」
アルトは布から手を離した。
「収まってる」
「収まってる怒りと、なくなった怒りは違うよ」
「そうだな」
「で、どこに置くんだい」
アルトはミアの紙を見る。
マルタもそれを見る。
声じゃないやつ。
芋の近く。
アルトは言った。
「たぶん、ここだ」
マルタは少しだけ笑った。
「芋の近くかい」
「真ん中に置くと邪魔だ」
「遠くに置くと寒い」
「ミアの言い分だ」
「合ってるよ」
マルタは水を汲み、鍋に入れた。
ざあ、と音がする。
「怒りも、遠くに置くと冷えるだけじゃ済まない。硬くなる」
「真ん中だと」
「店がそれだけになる」
「じゃあ芋の近く」
「熱もあるし、匂いもある。腹も減る」
アルトは少し笑った。
「怒ってても腹は減るか」
「減るよ。減らなかったら危ない」
マルタは火を入れた。
かち。
小さな火が立つ。
昨日の怒りは、まだある。
けれど、今は鍋の火の横にある。
少なくとも、外に投げるよりはましだった。
◇
ミアが起きてきた時、最初に自分の紙を確認した。
芋より先だった。
それは少し珍しい。
「紙、ある」
「ある」
アルトが答える。
「声じゃないやつ、寒くない?」
「寒くないと思う」
「怒ってる?」
アルトは少し止まった。
ミアは紙の中の丸を見ている。
でも、その問いは丸だけに向けられていない気がした。
「分からない」
アルトは正直に答えた。
「俺は、少し怒ってる」
ミアは顔を上げた。
「アルトが?」
「ああ」
「誰に?」
「まだ分からない」
ミアは少し考えた。
「分からない怒りは、どこ?」
アルトは芋の籠を指さす。
「そこらへん」
「芋の近く?」
「そうだ」
ミアは真剣に頷いた。
「じゃあ大丈夫」
「大丈夫か」
「真ん中じゃない」
「そうだな」
「遠くでもない」
「ああ」
「芋、見張る」
「怒りをか」
「芋を」
アルトは笑った。
そうだ。
芋を見張る。
怒りを見張るのではなく。
怒りを置いた場所の近くにあるものを見る。
その方が、赤猫亭らしい。
ミアは手首を見せた。
「指は」
「覚えてる」
「怖さは」
「ちょっと」
「鈴は」
「今日はまだ見てない」
「見るか」
「あとで、ちょっと」
ちょっと。
昨日より、その言葉に力がある。
小さいから弱いのではない。
小さくする技術になっている。
アルトは頷いた。
「ちょっとでいい」
「うん」
ミアは紙を両手で持ち上げた。
「これ、今日も芋の近く?」
「ああ」
「でも、ちょっと動かす?」
アルトはミアを見る。
ミアは真剣だった。
「同じ場所だと固まる」
その言葉に、マルタが厨房で笑った。
「覚えてるね」
「覚えてる」
「じゃあ、少しだけ動かそう」
ミアは紙を芋の籠の右から、少し左へ移した。
ほんの少し。
芋の近くではある。
だが、同じ場所ではない。
ミアは満足した。
「固まらない」
「いいな」
「うん」
アルトはその小さな移動を見ていた。
怒りも、同じ場所に置きっぱなしにすると固まるのかもしれない。
少しずつ動かす。
でも、遠くにはやらない。
真ん中にも置かない。
芋の近くで。
◇
朝食の前、端末を開いた。
昨日の表示は残っている。
【最終呼称:未読】
【接近条件:非強制】
【残留核:安定】
【対象反応:低位安定】
そして、新しい一行。
【処理環境:保留】
ブルーノが眉を寄せる。
「処理環境」
アルトは画面を見る。
「また嫌な言い方だな」
「はい」
ブルーノはすぐ頷いた。
最近、嫌な言い方を嫌な言い方として認めるのが早くなった。
「何を処理する環境だ」
「最終呼称への接近に必要な状態、だと思います」
「環境」
マルタが鍋をかき混ぜる。
「店のことを、また変な名前で呼んでるね」
「向こう側の表記ですから」
「なら、こっちで言い直しな」
ブルーノは少し考える。
「接近場所」
「硬い」
「扱う場所」
「まだ硬い」
「……置き場所」
マルタは頷いた。
「それでいい」
ミアが紙を持ち上げる。
「芋の近く」
ブルーノはミアを見る。
そして端末を見る。
「処理環境、ではなく、置き場所」
紙に書こうとして、止まる。
ミアが見る。
「書く?」
「薄く」
「濃くない?」
「濃くありません」
ブルーノは紙の端に、小さく書いた。
【置き場所】
その横に、さらに小さく。
【芋の近く】
マルタが覗く。
「いいね」
「正式な記録としては曖昧ですが」
「曖昧でいい」
ガルドが言った。
起きてきたらしい。
壁に寄りかかりながら、まだ眠そうな顔をしている。
「曖昧じゃないと、近づきすぎる」
アルトは頷いた。
処理環境。
置き場所。
芋の近く。
向こうの言葉を、そのまま受け取らない。
こちらの言葉に置き直す。
それも、非強制の一部なのだろう。
力ずくで読まない。
力ずくで近づかない。
力ずくで名前をつけない。
けれど、向こうの言葉に従いもしない。
赤猫亭の言葉へ、少しずつ置き換える。
◇
ルナは、朝食の途中で降りてきた。
いつもより遅い。
顔色は悪くない。
ただ、少し考えていた顔だ。
水は持っていない。
その代わり、空のコップを持っていた。
アルトはそれを見る。
「空か」
「はい」
「水を入れ忘れたのか」
「いいえ」
ルナは店の中央へ歩き、そこに置かれた水差しから、自分で水を注いだ。
こと。
コップを置く音。
さらさらと水が入る音。
それから、飲む。
「今日は、空のまま持ってきました」
「なぜ」
「自分で入れるためです」
アルトは黙って続きを待った。
ルナは水を置かない。
持ったまま言う。
「昨日、私は『置いておくもの』と言いました」
「ああ」
「けれど、置くことと、放ることは違います」
マルタが鍋の火を弱めた。
かち。
ルナは続ける。
「置いておくには、置く場所を選ばなければいけません。遠すぎても、真ん中でもいけない。ミアさんの表のように」
ミアが少し胸を張った。
「芋の近く」
「はい」
ルナは頷く。
「でも、私にはまだ、その場所を誰かに決めてもらいたい気持ちがあります」
アルトはルナを見る。
その言葉は、かなり正直だった。
水をどこに置くか。
声をどう扱うか。
怒りをどうするか。
全部を誰かに決めてもらえれば、間違えずに済む。
だが、それではまた、返すか返さないかを他人に預けてしまう。
ルナはそれを分かっている。
「だから、今日は自分で水を入れました」
ルナはコップを見る。
「置く場所は、まだ決めません。でも、水は自分で入れました」
ミナが小さく頷く。
マルタも何も言わずに皿を出す。
アルトは言った。
「それも置き場所か」
ルナは少し考える。
「置き場所を探す前の、手です」
「手?」
「はい。まず、自分の手で持つ」
アルトは少しだけ笑った。
「増えたな」
「すみません」
「謝るなって言っただろ」
「はい」
ルナは少しだけ困ったように笑った。
だが、その手は震えていなかった。
◇
昼前、鈴が揺れた。
ほんの少し。
鳴らない。
昨日ほどではない。
気づいたのはガルムだった。
「揺れた」
アルトは入口を見る。
鈴はもう止まっている。
「来訪か」
「違う」
「見送りか」
「違う」
「呼んでいるか」
ガルムは少し黙った。
「置かれている」
その言い方に、アルトは眉を寄せた。
「何が」
「揺れが」
ガルムがそう言った時、ルナが水のコップを持って立ち上がった。
彼女は入口へは行かなかった。
傷の机にも行かなかった。
芋の籠の近くへ行った。
ミアの表の横。
そこに立つ。
コップは置かない。
持ったまま。
「返すものではありません」
ルナは言った。
「見送るものでもありません」
少し間。
「急がないものでも、少し違います」
アルトは黙って聞く。
ルナの判断を急かさない。
彼女は鈴を見ていない。
ミアの表を見ている。
声じゃないやつ。
芋の近く。
ルナは息を吸う。
「置いておくものです」
言い切った。
その瞬間、端末が震えた。
ブルーノが開く。
【鈴反応:非発音】
【揺動反応:微弱】
【接近条件:非強制】
【置き場所:仮成立】
ミアが目を丸くする。
「仮」
マルタが即座に言う。
「仮でいい」
「仮なら動かせる」
「そう」
ルナは水を見た。
「仮成立」
アルトは頷く。
「決まりすぎてない」
「はい」
「でも、置いた」
「はい」
ルナは初めて、コップを置いた。
ミアの表のすぐ横ではない。
少し離れたところ。
芋の籠には近い。
真ん中ではない。
遠くでもない。
こと。
水が置かれた。
その音で、鈴がもう一度だけ揺れた。
今度も鳴らない。
だが、揺れはすぐに止まった。
アルトは、その止まり方を見た。
無理に止められたのではない。
置かれたから、落ち着いた。
そう見えた。
◇
外部注視圧は、昼過ぎに少し上がった。
端末が震える。
神々の通知。
昨日何も出さなかったせいか、少しだけ数が増えている。
ブルーノが確認する。
【外部注視圧:微増】
【配信要求:通常範囲】
【境界宣言:有効】
アルトの腹の底の熱が、少し動いた。
昨日と似た熱。
神々に見せる怒りではない。
だが、今日は何も出さないと決めているわけではなかった。
怒りを完全に隠すのも違う。
外に投げるのも違う。
では、何を出すか。
アルトは入力欄を開いた。
手が少し熱い。
文が浮かぶ。
《今日は触れない》
違う。
それでは命令になる。
消す。
《赤猫亭は通常営業です》
嘘ではない。
でも、薄い。
消す。
ミアが覗き込む。
「文、味見?」
「そうだ」
「辛い?」
「少しな」
「芋、入れる?」
アルトは思わず笑った。
「文にか」
「うん」
「入れるか」
アルトは打った。
《赤猫亭、仕込み中》
そこで止まる。
続ける。
《今日は、鳴らないものも置いてあります》
送信する前に、マルタを見る。
マルタは鍋の前で腕を組んでいる。
「出すのかい」
「少しだけ」
「味見は」
「した」
「辛すぎない?」
「たぶん」
ミアが横から言う。
「芋入った」
マルタは笑った。
「ならいいか」
アルトは送信した。
コメント欄は開かない。
通知が跳ねる。
だが、外部注視圧は急上昇しなかった。
【外部注視圧:一時上昇】
【境界宣言:有効】
【配信反応:制御内】
アルトは息を吐いた。
怒りを全部出したわけではない。
隠したわけでもない。
鳴らないものも置いてある。
それだけを渡した。
ミアが満足そうに言う。
「以上は?」
「今日はない」
「なんで」
「仕込み中だから」
「なるほど」
分かったような顔だった。
たぶん、半分くらい分かっていない。
でも、それでよかった。
◇
午後、レオンから連絡が来た。
《腹が減りました》
アルトは端末を見る。
笑いそうになって、少し堪えた。
《考えるか》
既読。
間。
《考えます》
さらに間。
《まだ行く日は決めません》
《それでいい》
《でも、食べたことは覚えています》
アルトは画面を見た。
食べたこと。
味がしたこと。
水の音がしたこと。
次も食べに来ると言ったこと。
それはレオンの中に残っている。
予定ではなく、履歴として。
《忘れなくていい》
送る。
既読。
《はい》
さらに。
《怖さは、昨日より少しあります》
アルトは眉を寄せる。
《濃くなったか》
《少し》
すぐにもう一文。
《でも、味も少しあります》
アルトは、そこで少し息を吐いた。
怖さだけではない。
味もある。
両方。
《水は》
《飲みました》
《芋は》
《思い出しました》
アルトは笑った。
《それでいい》
送る。
既読。
少し間。
《その言葉は、今日は大丈夫です》
アルトは画面を見る。
それでいい。
以前、何度も使いすぎないようにしてきた言葉。
今日は、レオンが受け取った。
大丈夫かどうかを、レオンが自分で判断している。
アルトは返信する。
《聞いた》
それだけ。
◇
夕方、ブルーノが紙を見ていた。
ミアの急がないもの表。
その横に、自分が薄く書いた【置き場所】【芋の近く】。
さらに端末には【置き場所:仮成立】。
ブルーノは言った。
「向こう側が、こちらの曖昧さを許容し始めています」
アルトは眉を上げる。
「許容?」
「はい。以前なら、未定義、未成立、未照合として扱われた可能性が高いです。しかし今回は、仮成立と出ました」
マルタが言う。
「仮を許したわけだ」
「はい」
ガルドが短く言う。
「強制できないからだろ」
ブルーノは頷く。
「接近条件が非強制になった以上、完全な定義を要求すると矛盾します」
「向こうも、矛盾できないのか」
アルトが聞く。
ブルーノは少し考えた。
「矛盾はします。ただ、今は矛盾を避ける方向に再計算されているように見えます」
再計算。
第86話の再計算を思い出す。
止まれる者。
分類が変わった時も、そうだった。
こちらが止まったことで、向こうの扱いが変わった。
今度は、こちらが強制しなかったことで、向こうの条件が変わっている。
脅威が消えたわけではない。
でも、固定された壁ではない。
応答する。
それが怖くもあり、少しだけ希望でもあった。
ルナは水を持って言った。
「向こう側が、こちらに従っているわけではありません」
「ああ」
「でも、こちらがどう扱うかで、向こうの形が変わることはあります」
「なら、雑には扱えないな」
「はい」
アルトは芋の籠を見る。
ミアの表。
水のコップ。
置き場所。
仮成立。
「雑に扱わない。でも、怖がって触れないままにも、しない」
マルタが頷く。
「ちょうどいいところに置くんだよ」
「芋の近くか」
「そういうこと」
ミアが得意げに言った。
「安全だから」
誰も笑わなかった。
いや、少し笑った。
でも、馬鹿にした笑いではなかった。
その言葉は、今日も強かった。
◇
夜、アルトは厨房にいた。
マルタが芋を切っている。
アルトは手伝うと言った。
断られると思ったが、マルタは包丁を一本渡した。
「怒ってる手で切るなら、ゆっくり切りな」
「まだ怒ってるように見えるか」
「見えるよ」
「そうか」
「悪いことじゃない」
アルトは芋を手に取った。
丸い。
土が少し残っている。
洗っても残るものはある。
皮を剥く。
少し厚く剥きすぎた。
マルタが見る。
「もったいない」
「悪い」
「怒りで皮を剥くと、だいたい厚くなる」
「そんな決まりがあるのか」
「今できた」
アルトは少し笑った。
次は、ゆっくり剥いた。
怒りはまだある。
でも、手元を見ると、少し形が変わる。
切る。
置く。
鍋に入れる。
力を入れすぎると崩れる。
弱すぎると切れない。
ちょうどいいところを探す。
「怒りも、鍋に入れるのか」
アルトが言うと、マルタは笑った。
「入れすぎると苦いよ」
「少しなら」
「味になることもある」
アルトは芋を切った。
昨日の「ふざけるな」は、まだ腹にある。
だが、今は包丁を持つ手を急がせないために使っている。
雑に切らないために。
誰かが最後まで呼ぼうとして声にならなかったことを、雑に扱わないために。
怒りは消えていない。
消さなくていい。
ただ、置き場所を間違えない。
芋の近く。
鍋の横。
包丁の手元。
そのあたりなら、まだ扱える。
◇
店を閉める前、端末を確認した。
【最終呼称:未読】
【接近条件:非強制】
【置き場所:仮成立】
【残留核:安定】
【対象反応:低位安定】
【配信反応:制御内】
そして、新しい一行。
【次回接近:任意】
ブルーノが深く息を吐いた。
「任意」
アルトはその文字を見る。
任意。
こちらで決める。
強制ではない。
予定でもない。
待機でもない。
読み取り命令でもない。
任意。
マルタが言った。
「今日はもういいね」
アルトは頷く。
「ああ」
ルナが水を持っている。
「次に近づくかどうかは、こちらが決める」
「ひとりで決めるなよ」
「はい」
「水は」
「持っています」
「芋は」
ミアが答えた。
「近く!」
アルトは笑った。
ブルーノが紙を見て、小さく言う。
「条件が、かなり食堂的になってきました」
マルタが戸締まりへ向かいながら言う。
「最初からそうすればよかったんだよ」
「向こうには食堂がありませんでした」
ルナが静かに言った。
その一言で、店の音が少しだけ落ちた。
旧待機区画。
白い部屋。
待つ形だけがあった場所。
水の音も、鍋の音も、芋の匂いもない場所。
食堂がなかった。
アルトは真ん中の席を見る。
誰かが来れば、その人の席になる場所。
ミアの表を見る。
声じゃないやつが、芋の近くにある。
アルトは言った。
「なら、こっちでやる」
声は静かだった。
でも、熱は残っていた。
「食堂でやる」
マルタが戸口で振り返る。
「じゃあ、明日も仕込みだね」
「ああ」
「怒りは?」
アルトは少し考えた。
「芋の近く」
ミアが満足そうに頷いた。
「安全」
ルナも、少しだけ頷いた。
水を持ったまま。
ガルムが入口の横で伏せる。
ガルドが壁にもたれる。
ブルーノが紙を閉じる。
マルタが戸締まりをする。
かちゃり。
鈴が鳴る。
ちりん。
今日は、普通に鳴った。
それでも、朝の揺れがなかったことにはならない。
怒りが消えたわけでもない。
最終呼称を読んだわけでもない。
でも、置き場所はできた。
仮で。
芋の近くに。
赤猫亭は閉まった。
明日、また開く。
その時、声にならなかったものも、怒りも、まだそこにある。
遠くではなく。
真ん中でもなく。
芋の近くに。




