後半
オフィスに戻ると、ミラが受付カウンターの前に立っていた。
今日はタブレットを持っていた。いつも通りの姿だ。
「お帰りなさい」
「ただいまです」
坂口はコートを脱ぎながら、ミラを見た。
「今日、グラークさんから連絡はありましたか」
「はい。今週末、村に下りると」
「村に」
「はい。近くの村に、週に一度だけ下りることにしたそうです。普通の老人として」
坂口は少し考えた。
グラークが、村に下りる。魔王が、普通の老人として村人と話す。
「村の人たちは、どう思うんでしょうね」
「最初は怖がるかもしれません」
「かもしれないですね」
「ただ」ミラは少し間を置いた。「グラーク様は昨日、村に手紙を送ったそうです」
「手紙を」
「私は魔王だが、話がしたい。怖ければ断ってくれていい、という内容で」
坂口は少し笑った。
「律儀ですね」
「律儀な魔王です」
「返事は来ましたか」
「一通だけ、来たそうです。村の老人から、お茶を用意して待っている、と」
坂口はデスクに座った。
一通だけ。しかし一通は、ゼロじゃない。
グラークが六百年間求めていた「今日どうだった」という会話が、今週末、始まるかもしれない。
「ヴェルダさんの方は、何か動きがありましたか」
「洞窟の入口に、看板を立てたそうです」
「看板を」
「絵があります、と書いただけの、小さな看板です。ヴェルダさんが爪で岩に彫りました」
坂口はしばらく、その光景を想像した。
全長二十メートルの古龍が、岩に小さな文字を彫っている。
「見に来た人間は」
「まだいないそうです」
「そうですか」
「ただ、看板の前で立ち止まって、中を覗こうとした人間が一人いたそうです。ヴェルダさんの気配を感じて、逃げましたが」
「逃げましたか」
「はい。ただ、ヴェルダさんはそれを、以前と違う目で見ていたと言っていました」
「どう違うんですか」
「以前は逃げられたら終わりだと思っていた。今回は、覗こうとした、という部分が見えた、と」
坂口はその言葉を、しばらく眺めた。
覗こうとした。
それは、興味があった、ということだ。逃げたのは怖かったからで、絵に興味がなかったからじゃない。ヴェルダは今回、そこを見た。
期待することをやめていた龍が、小さな可能性を見た。
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夕方近くに、面談室のドアがノックされた。
予約票にない訪問だった。
「どうぞ」
入ってきたのは、グラークだった。
相変わらずの黒い甲冑と二本角だが、今日は来るときの足音が、少し軽かった気がした。
「突然すみません。予約をせずに来てしまいました」
「大丈夫ですよ。どうぞ、座ってください」
グラークは椅子に座った。みしり、と音がした。
坂口は向かいに座った。
「今日は、どんなご用件ですか」
「用件というほどのことではないのだが」
グラークはしばらく黙った。
「……今週末のことが、少し不安で」
「村に行くことですか」
「返事が来たのは、一通だった。他の村人は、来ることを嫌だと思っているかもしれない。行って、白い目で見られたら」
坂口はグラークを見た。
六百年間、魔王として君臨してきた存在が、村人の目線を気にして、不安で誰かに話しに来た。
「グラークさん、不安を誰かに話しに来たんですよね」
「……そうなるか」
「それ、すごいことだと思いますよ」
「すごいことか」
「以前なら、不安があっても誰にも言えなかったはずです。今日、ここに来た」
グラークは少し黙った。
「……来ても、いいと思えたから、来た」
「それで十分です」
坂口はそう言ってから、続けた。
「白い目で見られるかもしれないです。怖がられるかもしれない。でも、お茶を用意して待っている老人が、一人いる」
「一人だ」
「一人は、ゼロじゃないです」
グラークはしばらく、テーブルを見ていた。
「……坂口、お前はいつも、そういう言い方をするな」
「そういう言い方、というのは」
「少ししかない、ではなく、一つはある、という言い方をする」
坂口は少し考えた。
「それがこの仕事の基本なので。ないものを数えるより、あるものを見る方が、次が見えやすいので」
「なるほど」
グラークは立ち上がった。
「話せてよかった」
短い言葉だったが、六百年分の重みがあった。
「行ってきてください」
「ああ」
ドアが閉まった。
ずん、ずん、ずん、と足音が遠ざかっていった。
今日の足音は、来たときより少し軽かった気がした。
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夜、坂口はデスクで一人、メモ帳を開いていた。
レオン、グラーク、シルフィ、ヴェルダ。
四人それぞれの、今の状態を書き出した。
レオンは、勇者と料理人を両立している。戦いの重さを料理が和らげて、料理の惰性を戦いが締める。二つが支え合っている。
グラークは、週一回村に下りることを決めた。魔王をやめるのではなく、魔王でありながら、別の場所に居場所を作ろうとしている。
シルフィは、断る練習を続けている。先週、初めて小さな断りができた。仲間のフォロをここに繋いでくれた。自分の外に向かって、動き始めた。
ヴェルダは、洞窟の入口に看板を立てた。三百年間、誰にも見せなかった絵に、初めて入口を作った。
四人とも、大きく変わったわけじゃない。
でも、向き始めた。
坂口はメモ帳の余白に、一行書いた。
*天職は、見つけるものじゃなくて、向かっていくものかもしれない。*
書いてから、少し眺めた。
見つけた瞬間に完成するものじゃない。向かいながら、少しずつ形になっていく。それが天職だとしたら、四人ともすでに自分の天職の上にいる。
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ミラが、デスクに近づいてきた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「一つ、報告があります」
「なんですか」
「ヴェルダさんの洞窟に、さきほど二人目が訪れました」
坂口は顔を上げた。
「見に来たんですか」
「はい。今度は逃げなかったそうです」
「逃げなかった」
「入口付近の絵を、しばらく見ていたそうです。ヴェルダさんは洞窟の奥にいて、気配を消していました。見ている人間の顔を、遠くから見ていたそうです」
「どんな顔をしていましたか」
「ヴェルダさんが言うには——」ミラは少し間を置いた。「さっきのフォロさんと同じ顔だった、と」
「さっきの、フォロさんと」
「農家の人に、ありがとうと言ってもらえたときの顔、と言っていました」
坂口はしばらく、その言葉を受け取っていた。
ヴェルダが、届いた顔を、初めて見た。
三百年間、誰にも見せずに描き続けた絵が、今日、一人の人間の顔を変えた。
「ヴェルダさん、なんて言っていましたか」
「一言だけ」ミラは答えた。「届いた、と」
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その夜、坂口はオフィスの窓から外を見ていた。
異世界の夜は、星が多い。人間界より空気が澄んでいるのか、星の数が桁違いだ。
レオンが、隣に来た。
今日の訪問案件が終わって、報告に来たついでに残っていたらしい。
「坂口さん、一つ聞いていいですか」
「はい」
「天職って、何だと思いますか」
坂口は窓の外を見たまま、少し考えた。
「一つに決まらないと思います」
「それは知っています。そうじゃなくて」レオンは少し言葉を探した。「何のためにある、と思いますか。天職って」
坂口はしばらく、星を見ていた。
「自分が持っているものを、誰かに届けるため、じゃないですかね」
「届けるため」
「レオンさんの料理は、ガルドさんを三杯おかわりさせた。グラークさんの話を聞く力は、村の老人を待たせた。シルフィさんの雨は、農家の人にありがとうと言わせた。ヴェルダさんの絵は、今日、一人の人間の顔を変えた」
「全員、誰かに届けていますね」
「届けているから、続けられる。続けるから、深くなる。深くなるから、また届く」
レオンはその言葉を、静かに受け取っていた。
「坂口さんは、届けていますか」
「届いているかどうかは、分からないです」
「でも」
「続けようと思っています」
レオンは少し笑った。
「それが答えですね」
「そうかもしれないです」
坂口は窓から離れた。
メモ帳を手に取って、今日最後の一行を書いた。
*天職は、自分のためにあるのではなく、届けるためにある。届けようとするとき、人間は一番、自分らしくいられる。*
ボールペンをテーブルに置いた。
異世界に来てから、どのくらい経ったんだろう、と思った。
時間の感覚が、人間界とは違う。でも確かなことが一つある。
ここに来る前より、毎日が充実している。
それが、答えの一つだ、と坂口は思った。




