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今日どうだった、と聞いてくれる人  作者: ジェミラン
第六章「天職とは何か」

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後半

 オフィスに戻ると、ミラが受付カウンターの前に立っていた。


 今日はタブレットを持っていた。いつも通りの姿だ。


「お帰りなさい」


「ただいまです」


 坂口はコートを脱ぎながら、ミラを見た。


「今日、グラークさんから連絡はありましたか」


「はい。今週末、村に下りると」


「村に」


「はい。近くの村に、週に一度だけ下りることにしたそうです。普通の老人として」


 坂口は少し考えた。


 グラークが、村に下りる。魔王が、普通の老人として村人と話す。


「村の人たちは、どう思うんでしょうね」


「最初は怖がるかもしれません」


「かもしれないですね」


「ただ」ミラは少し間を置いた。「グラーク様は昨日、村に手紙を送ったそうです」


「手紙を」


「私は魔王だが、話がしたい。怖ければ断ってくれていい、という内容で」


 坂口は少し笑った。


「律儀ですね」


「律儀な魔王です」


「返事は来ましたか」


「一通だけ、来たそうです。村の老人から、お茶を用意して待っている、と」


 坂口はデスクに座った。


 一通だけ。しかし一通は、ゼロじゃない。


 グラークが六百年間求めていた「今日どうだった」という会話が、今週末、始まるかもしれない。


「ヴェルダさんの方は、何か動きがありましたか」


「洞窟の入口に、看板を立てたそうです」


「看板を」


「絵があります、と書いただけの、小さな看板です。ヴェルダさんが爪で岩に彫りました」


 坂口はしばらく、その光景を想像した。


 全長二十メートルの古龍が、岩に小さな文字を彫っている。


「見に来た人間は」


「まだいないそうです」


「そうですか」


「ただ、看板の前で立ち止まって、中を覗こうとした人間が一人いたそうです。ヴェルダさんの気配を感じて、逃げましたが」


「逃げましたか」


「はい。ただ、ヴェルダさんはそれを、以前と違う目で見ていたと言っていました」


「どう違うんですか」


「以前は逃げられたら終わりだと思っていた。今回は、覗こうとした、という部分が見えた、と」


 坂口はその言葉を、しばらく眺めた。


 覗こうとした。


 それは、興味があった、ということだ。逃げたのは怖かったからで、絵に興味がなかったからじゃない。ヴェルダは今回、そこを見た。


 期待することをやめていた龍が、小さな可能性を見た。


---


 夕方近くに、面談室のドアがノックされた。


 予約票にない訪問だった。


「どうぞ」


 入ってきたのは、グラークだった。


 相変わらずの黒い甲冑と二本角だが、今日は来るときの足音が、少し軽かった気がした。


「突然すみません。予約をせずに来てしまいました」


「大丈夫ですよ。どうぞ、座ってください」


 グラークは椅子に座った。みしり、と音がした。


 坂口は向かいに座った。


「今日は、どんなご用件ですか」


「用件というほどのことではないのだが」


 グラークはしばらく黙った。


「……今週末のことが、少し不安で」


「村に行くことですか」


「返事が来たのは、一通だった。他の村人は、来ることを嫌だと思っているかもしれない。行って、白い目で見られたら」


 坂口はグラークを見た。


 六百年間、魔王として君臨してきた存在が、村人の目線を気にして、不安で誰かに話しに来た。


「グラークさん、不安を誰かに話しに来たんですよね」


「……そうなるか」


「それ、すごいことだと思いますよ」


「すごいことか」


「以前なら、不安があっても誰にも言えなかったはずです。今日、ここに来た」


 グラークは少し黙った。


「……来ても、いいと思えたから、来た」


「それで十分です」


 坂口はそう言ってから、続けた。


「白い目で見られるかもしれないです。怖がられるかもしれない。でも、お茶を用意して待っている老人が、一人いる」


「一人だ」


「一人は、ゼロじゃないです」


 グラークはしばらく、テーブルを見ていた。


「……坂口、お前はいつも、そういう言い方をするな」


「そういう言い方、というのは」


「少ししかない、ではなく、一つはある、という言い方をする」


 坂口は少し考えた。


「それがこの仕事の基本なので。ないものを数えるより、あるものを見る方が、次が見えやすいので」


「なるほど」


 グラークは立ち上がった。


「話せてよかった」


 短い言葉だったが、六百年分の重みがあった。


「行ってきてください」


「ああ」


 ドアが閉まった。


 ずん、ずん、ずん、と足音が遠ざかっていった。


 今日の足音は、来たときより少し軽かった気がした。


---


 夜、坂口はデスクで一人、メモ帳を開いていた。


 レオン、グラーク、シルフィ、ヴェルダ。


 四人それぞれの、今の状態を書き出した。


 レオンは、勇者と料理人を両立している。戦いの重さを料理が和らげて、料理の惰性を戦いが締める。二つが支え合っている。


 グラークは、週一回村に下りることを決めた。魔王をやめるのではなく、魔王でありながら、別の場所に居場所を作ろうとしている。


 シルフィは、断る練習を続けている。先週、初めて小さな断りができた。仲間のフォロをここに繋いでくれた。自分の外に向かって、動き始めた。


 ヴェルダは、洞窟の入口に看板を立てた。三百年間、誰にも見せなかった絵に、初めて入口を作った。


 四人とも、大きく変わったわけじゃない。


 でも、向き始めた。


 坂口はメモ帳の余白に、一行書いた。


 *天職は、見つけるものじゃなくて、向かっていくものかもしれない。*


 書いてから、少し眺めた。


 見つけた瞬間に完成するものじゃない。向かいながら、少しずつ形になっていく。それが天職だとしたら、四人ともすでに自分の天職の上にいる。


---


 ミラが、デスクに近づいてきた。


「お疲れ様です」


「お疲れ様です」


「一つ、報告があります」


「なんですか」


「ヴェルダさんの洞窟に、さきほど二人目が訪れました」


 坂口は顔を上げた。


「見に来たんですか」


「はい。今度は逃げなかったそうです」


「逃げなかった」


「入口付近の絵を、しばらく見ていたそうです。ヴェルダさんは洞窟の奥にいて、気配を消していました。見ている人間の顔を、遠くから見ていたそうです」


「どんな顔をしていましたか」


「ヴェルダさんが言うには——」ミラは少し間を置いた。「さっきのフォロさんと同じ顔だった、と」


「さっきの、フォロさんと」


「農家の人に、ありがとうと言ってもらえたときの顔、と言っていました」


 坂口はしばらく、その言葉を受け取っていた。


 ヴェルダが、届いた顔を、初めて見た。


 三百年間、誰にも見せずに描き続けた絵が、今日、一人の人間の顔を変えた。


「ヴェルダさん、なんて言っていましたか」


「一言だけ」ミラは答えた。「届いた、と」


---


 その夜、坂口はオフィスの窓から外を見ていた。


 異世界の夜は、星が多い。人間界より空気が澄んでいるのか、星の数が桁違いだ。


 レオンが、隣に来た。


 今日の訪問案件が終わって、報告に来たついでに残っていたらしい。


「坂口さん、一つ聞いていいですか」


「はい」


「天職って、何だと思いますか」


 坂口は窓の外を見たまま、少し考えた。


「一つに決まらないと思います」


「それは知っています。そうじゃなくて」レオンは少し言葉を探した。「何のためにある、と思いますか。天職って」


 坂口はしばらく、星を見ていた。


「自分が持っているものを、誰かに届けるため、じゃないですかね」


「届けるため」


「レオンさんの料理は、ガルドさんを三杯おかわりさせた。グラークさんの話を聞く力は、村の老人を待たせた。シルフィさんの雨は、農家の人にありがとうと言わせた。ヴェルダさんの絵は、今日、一人の人間の顔を変えた」


「全員、誰かに届けていますね」


「届けているから、続けられる。続けるから、深くなる。深くなるから、また届く」


 レオンはその言葉を、静かに受け取っていた。


「坂口さんは、届けていますか」


「届いているかどうかは、分からないです」


「でも」


「続けようと思っています」


 レオンは少し笑った。


「それが答えですね」


「そうかもしれないです」


 坂口は窓から離れた。


 メモ帳を手に取って、今日最後の一行を書いた。


 *天職は、自分のためにあるのではなく、届けるためにある。届けようとするとき、人間は一番、自分らしくいられる。*


 ボールペンをテーブルに置いた。


 異世界に来てから、どのくらい経ったんだろう、と思った。


 時間の感覚が、人間界とは違う。でも確かなことが一つある。


 ここに来る前より、毎日が充実している。


 それが、答えの一つだ、と坂口は思った。

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