前半
北の森の精霊区域は、光の色が違った。
木々の間から差し込む光が、緑がかっていて、空気ごと染まっているみたいだった。足元の草が柔らかくて、踏むたびに少し沈む。どこかから水の音がする。
レオンが先を歩きながら、振り返った。
「坂口さん、精霊区域に来たのは初めてですか」
「初めてです」
「独特でしょう。空気が違うんですよね」
「なんか、呼吸が深くなる気がします」
「精霊の力が、空気に混じってるからだと思います。昔、旅でここを通ったとき、すごく回復した記憶があって」
坂口は周囲を見ながら歩いた。
木の幹に、小さな光が宿っている。虫ではなくて、精霊の気配らしい。レオンが「あれは若い精霊です、まだ形になれないんですよ」と教えてくれた。
形になれない精霊が、木の幹で光っている。
なんとなく、新入社員みたいだな、と思った。
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シルフィの仲間は、区域の中心にある大きな木の根元にいた。
名前はフォロ、と聞いていた。風ではなく、雨を司る精霊だ。外見はシルフィに似ていて、薄い青の髪が肩まであった。ただ、シルフィより少し小柄で、目の色が深い灰色だった。
坂口たちが近づくと、フォロは立ち上がった。
「坂口さんですか。シルフィから聞いています」
「はい。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。こういうところに相談に来るのが初めてで、緊張しています」
「大丈夫ですよ。シルフィさんも、最初は緊張していました」
フォロはそれを聞いて、少し表情が和らいだ。
木の根元に、平らな岩が二つあった。そこに向かい合って座った。レオンは少し離れた場所で、持参した食材を取り出し始めた。訪問案件のとき、レオンはいつも少し離れた場所で何かを作りながら待っている。帰りに必ず、何か食べるものができている。
「今日は、どんなご相談ですか」
坂口は聞いた。
「シルフィから聞いたかもしれませんが、雨を降らせることに、疑問を感じ始めていて」
「疑問、というのは」
「嫌いじゃないんです。雨が大地を潤して、作物が育って、川が満ちていく。その結果を見るのは、好きです。でも、雨を嫌がる人たちを見るのが、つらくて」
「嫌がる、というのは」
「雨が降ると、洗濯物が乾かないとか、遠足が中止になるとか、傘を持ってくるのを忘れたとか。小さなことなんですけど、そういう顔を見るたびに、私が降らせているせいで、と思って」
「フォロさんが降らせているせいで、という感覚があるんですね」
「はい。雨は必要なものだと分かっています。でも、嫌がられるたびに、少しずつ消耗していきます」
坂口はメモ帳に書いた。
*必要な仕事をしているのに、嫌がられる。貢献の実感と、他者の反応のズレ。*
「フォロさん、少し聞いてもいいですか」
「はい」
「雨を降らせたあとで、よかったと言われたことはありますか」
「あります。農家の方が、ありがとうと言ってくれることが、たまにあって。そのときは、やってよかったと思います」
「たまに、ということは、毎回じゃない」
「毎回ではないです。ほとんどは、何も言われないか、嫌な顔をされるか」
「その割合は、どのくらいですか」
フォロは少し考えた。
「ありがとうと言ってもらえるのは、十回に一回くらいかもしれないです」
「残りの九回は、嫌な顔か、無反応か」
「だいたいそうです」
「その一回を、覚えていますか」
「……はい。よく覚えています」
「九回より、一回の方が記憶に残っている」
「そうかもしれないです」
坂口はペンを置いた。
「フォロさんにとって、その一回がある限り、続けられると思いますか」
フォロはしばらく考えた。
「……続けられると思います。ただ、九回が積み重なってくると、一回が霞んでくる気がして」
「その九回を、少し軽くする方法を一緒に考えましょうか」
「軽くする方法、ですか」
「嫌な顔を見なくて済む方法は、たぶんないです。でも、嫌な顔を見たときに、引きずらないための方法はあるかもしれない」
フォロは少し目を丸くした。
「引きずらない、というのは、どういうことですか」
「シルフィさんは今、三秒間を置く練習をしています。すぐに反応しないで、少し間を置く。フォロさんの場合は、嫌な顔を見たときに、すぐに落ち込まないで、少し間を置けるかもしれない」
「間を置く、というのは」
「あの人は今、傘を忘れてきてイライラしているんだな、それだけだ。私が降らせた雨のせいで、あの人の一日がひどいものになったわけじゃない。そう考える余地を、三秒で作る」
フォロは黙って聞いていた。
「雨は必要です。フォロさんがいなければ、大地は干上がる。その事実は、嫌な顔をした人間の数で変わらない」
「でも、嫌な顔を見ると」
「見ます。これからも見続けると思います。ただ、それはフォロさんの仕事が間違っているということじゃない。そこだけ、切り離して考える練習です」
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面談が一時間ほど続いた。
帰り際、フォロが言った。
「シルフィが、ここに来てよかったと言っていました。来てみて、分かりました」
「どういう意味ですか」
「話を聞いてもらえる、というのが、こういうことか、と」
坂口はその言葉を聞いて、少し間を置いた。
「シルフィさん、最近どうですか」
「変わりました」フォロはそう言って、少し笑った。「先週、初めて願いを断っていました」
「断れたんですか」
「はい。小さな願いでしたけど。断った後、すごく複雑な顔をしていましたが、でも、やれた、という顔もしていました」
坂口はメモ帳を閉じた。
シルフィが、断れた。
練習を続けていた。一人で、続けていた。
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木の根元を離れて、レオンのところに向かった。
レオンは小さな火を起こして、鍋で何かを作っていた。森の中で採れたものと、持参した食材を合わせたらしく、いい匂いがしていた。
「お疲れ様でした。もうすぐできますよ」
「何を作ったんですか」
「森のきのこと、ハーブのスープです。精霊区域はいい食材が多くて」
レオンはスープを木の器に注ぎながら、聞いた。
「どうでしたか、今日のクライアント」
「シルフィさんの紹介だけあって、似たような問題を抱えていました」
「シルフィさん、変わりましたよね」
「フォロさんから聞きました。断れたらしいですよ、先週」
レオンは少し目を細めた。
「それはすごい」
「すごいですよ」
坂口はスープを一口飲んだ。
温かくて、きのこの香りが深かった。
「レオンさん、料理うまくなりましたね」
「そうですか」レオンは少し照れた。「毎日作っているので」
「毎日作っているのは、楽しいからですか」
「楽しいです。あと——」レオンは少し間を置いた。「誰かが食べてくれるのが、うれしくて」
「それ、最初に言っていたことと同じですね」
「同じですか」
「パーティーの剣士のガルドさんが、三杯おかわりしてくれた話」
レオンは少し驚いた顔をした。
「覚えてくれていたんですね」
「印象的だったので」
レオンはスープをかき混ぜながら、少し考えていた。
「あのときは、料理が好きだということを、誰かに話したことがなかったんです。言ったら失望されると思っていたから。でも坂口さんに話して——なんか、それだけで、少し楽になった気がしました」
「話すだけで楽になることがある」
「はい。話す前は、ずっと自分の中で抱えていたので。出したら、軽くなりました」
坂口はその言葉を聞きながら、昨日の自分の面談を思い出した。
この仕事が好きです、と言った。
言ったら、別にどうってことなかった。むしろ、軽くなった。
「レオンさん、今、勇者の仕事はどうですか」
「続けています。パーティーに戻って、また旅をしています」
「料理も続けていますか」
「はい。旅先で作るようになりました。村に着くたびに、その土地の食材で何か作って。最初は戸惑っていた村人も、だんだん楽しみにしてくれるようになってきて」
「両方、やっていますね」
「やっています」レオンは少し笑った。「最初は、どっちかにしなきゃいけないと思っていたんですけど。両方やってみたら、どっちかだけのときより、なんかうまくいっている気がします」
「なぜだと思いますか」
「料理があるから、戦いが重くなりすぎない。戦いがあるから、料理が惰性にならない。なんか、バランスが取れている気がします」
坂口はメモ帳に書いた。
*天職は、一つじゃなくていい。二つが支え合うとき、どちらもより深くなる。*




