後半
ミラはしばらく、坂口を見ていた。
その顔が、いつもと少し違った。事務的な表情の奥に、何か別のものがある気がした。
「坂口さん、もう一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「その顔を見るために仕事をしてきた、とおっしゃいました。ここに来てから、その顔を見ましたか」
坂口は少し考えた。
「見ました」
「誰の」
「全員の」
ミラは静かに待った。
「レオンさんが、両方やればいいんですかね、と言ったとき。グラークさんが、少し軽くなった気がした、と言ったとき。シルフィさんが、休んでいいと言ってもらったのが一番うれしかった、と言ったとき。ヴェルダさんが、届けることを諦めるのをやめたとき」
坂口は窓の外を見た。
「全員、あの顔をしていました」
「あの顔、というのは」
「何かが着地したときの顔です。言葉にするのが難しいんですけど、目の焦点が変わる。それまでぼんやりしていたものが、少し見えてきた、というときの顔」
「その顔を見るために、二十年間仕事をしてきた」
「そうだと思います。今日、初めて言葉にしましたが」
ミラはタブレットを持っていない手を、テーブルの上に置いた。
「坂口さん、一つだけ正直に話してもいいですか」
今度は、ミラが断りを入れた。
それが珍しくて、坂口は少し前のめりになった。
「どうぞ」
「あなたをここに呼んだのは、私です」
「知ってます。ミラさんがこの紹介所の管理者で」
「そうではなくて」ミラは少し間を置いた。「私が、あなたを選んだということです」
「選んだ」
「異世界人材紹介所は、私が作りました。クライアントも、私が集めました。そして担当するエージェントを、人間界から探しました」
坂口はミラを見た。
「なぜ、俺だったんですか」
「以前、あなたのクライアントだった人間がいます」
「俺の」
「人間界で、あなたが担当した転職者です。七年前、三十代の女性でした」
坂口は記憶を探った。
七年前。三十代の女性。
「……覚えていますか」
「少し、待ってください」
坂口は目を閉じた。
七年前は、まだ成約率が安定していた頃だ。担当したクライアントの数も多かった。三十代の女性、七年前——。
「IT企業から、福祉の仕事に転職した方ですか」
「はい」
「周囲に反対されていた。給料が下がる、もったいない、って。でも本人は、ずっとやりたかった仕事だと言っていて」
「その方が、私です」
坂口は目を開けた。
ミラを見た。
黒髪ボブ、額の小さな角、事務的な話し方。
「……ミラさんが」
「人間界では別の名前でした。あなたに担当してもらって、転職して、福祉の仕事をしていました。それから色々あって、今はここにいます」
「色々、というのは」
「それは今日の話ではないです」ミラは少し目を伏せた。「ただ、あなたに担当してもらったあの面談が、私の人生で一番、話を聞いてもらえた時間でした」
坂口はしばらく、何も言えなかった。
「だから、あなたを選びました。話を聞ける人間が必要だったので。あのとき、あなたがしてくれたことを、今度は異世界のクライアントたちに届けてほしかった」
「覚えていないですよ、俺は。そのときの面談を」
「覚えていなくていいです」
「でも、そんな大事な話を」
「覚えている側が、届いたと思えば、それで十分です」
坂口はその言葉を、静かに受け取った。
届いた言葉は、言った側が覚えていなくても届いている。
水無月透の話じゃないが、言葉はそういうものかもしれない、と坂口は思った。
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しばらく沈黙があった。
悪い沈黙じゃなかった。
「ミラさん、一つ聞いていいですか」
「はい」
「あの面談で、俺は何を言いましたか」
ミラは少し考えてから、答えた。
「給料が下がっても、やりたい仕事をした方がいいですか、と私が聞きました」
「そうしたら」
「あなたは、それは私が決めることじゃないですよ、と言いました」
坂口は少し笑った。
「それだけですか」
「それだけです。でもそのとき、初めて自分で決めていいんだと思えました。誰かに背中を押してもらいたかったわけじゃなかった。ただ、自分で決めることを許可してほしかった。あなたはそれをくれた」
自分で決めることを、許可してほしかった。
坂口は目の前のテーブルを見ながら、その言葉を反芻した。
レオンも、そうだった。勇者を辞めていいですか、と聞いてきたわけじゃなかった。両方やっていいんですか、と聞いてきた。許可を求めていた。
シルフィも、そうだった。休んでいいですか、と聞いてきた。
みんな、自分で決める力を持っていた。ただ、誰かに許可してもらうまで、動けなかった。
「坂口さん」
「はい」
「あなたは今、自分に何を許可していないと思いますか」
坂口は止まった。
鋭い質問だった。
「……娘と、ちゃんと話すことを、許可していないかもしれないです」
「なぜ許可していないんですか」
「怖いから」
「何が怖いですか」
「嫌われているかもしれない。向き合ったら、それが確定する気がして。曖昧なままの方が、楽だから」
「でも」
「でも、このままじゃいけないとも思っています」
ミラは静かに坂口を見ていた。
「他には」
「他に許可していないこと、ですか」
「はい」
坂口はしばらく考えた。
「この仕事を、好きだと言うことを、許可していなかったかもしれないです」
「今日、言えましたね」
「言えました。言ってみたら、別にどうってことなかったです」
「そういうものですよ」
ミラの口元が、少し動いた。
右の口角が、いつもの一ミリより、少しだけ大きく上がった気がした。
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「坂口さん、最後に一つだけ」
「はい」
「この仕事を、続けたいですか」
坂口は少し考えた。
人間界に戻れば、リストラされる。それは分かっている。ミラに言われた日から、ずっと分かっていた。
「続けたいです」
「人間界でも、ということですか」
「どこでも、というか——転職エージェントという形じゃなくても、人の話を聞いて、その人が自分の持っているものに気づいて、届く方向に向けてやることを、続けたいです」
「それが、あなたの天職だと思いますか」
天職、という言葉が、空気の中に置かれた。
坂口はその言葉を眺めた。
天職。
レオンも、グラークも、シルフィも、ヴェルダも、それぞれの天職を探しにきた。みんな、一つの答えを求めていた。
しかし面談を重ねるうちに分かってきたことがある。
「天職は、一つじゃないと思います」
「なぜそう思いますか」
「レオンさんは、勇者と料理人の間にいる。グラークさんは、魔王と普通の老人の間にいる。一つに決めなくても、両方持っていていい。そういうことが、だんだん見えてきました」
「あなた自身は」
「俺は——」
坂口は少し間を置いた。
「話を聞く人間でいたいです。転職エージェントでも、異世界のエージェントでも、どこかの父親でも。どこにいても、聞く人間でいたい」
言い終わってから、少し恥ずかしくなった。
こんなことを声に出して言ったのは、たぶん初めてだ。
「それが、坂口さんの答えですね」
「答えになってますか、これ」
「十分なっています」
ミラは立ち上がった。
面談が終わった、ということだろう。
「ミラさん」
「はい」
「七年前の面談、俺は覚えていないですけど」
「はい」
「でも、あなたが話してくれたことで、今日思い出したことがあります」
「何をですか」
「なんで転職エージェントになったか、です。なんとなく、って最初に言いましたよね」
「言っていましたね」
「なんとなくじゃなかったかもしれないです。新卒の会社を辞めるとき、俺も誰かに話を聞いてほしかった。でも聞いてもらえる場所がなかった。だから、そういう場所を作りたかったのかもしれない」
ミラはしばらく、坂口を見ていた。
「それが、二十五歳のときに言葉にできなかったことですね」
「そうかもしれないです。二十年かかりました」
「遅くないですよ」
「そうですか」
「気づいたときが、始まりです」
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面談室を出ると、レオンが廊下で待っていた。
今日の午後に訪問案件があるらしく、地図を広げて確認していた。
坂口の顔を見て、レオンが言った。
「お疲れ様です。なんか、顔が違いますね」
「そうですか」
「なんか、すっきりしてる、というか」
坂口は少し考えた。
「面談してきました」
「クライアントと、ですか」
「俺が、クライアントでした」
レオンは少し目を丸くした。
「坂口さんが」
「たまには、聞いてもらう側になるのも、悪くないですね」
レオンはその言葉を聞いて、少し笑った。
「それ、僕が最初に来たときに思ったことです」
「そうですね」
坂口はレオンの持っていた地図を覗いた。
「午後の訪問、どこですか」
「北の森の精霊区域です。シルフィさんの仲間に、相談したい方がいるらしくて」
「シルフィさんから紹介があったんですか」
「はい。昨日、連絡が来たみたいで」
坂口はミラを見た。
ミラはタブレットを操作しながら、右の口角を一ミリ上げた。
シルフィが、仲間に紹介した。
それは、シルフィが自分の外に向かって動き始めた、ということだ。
届く方向に、向き始めた。
坂口はコートを手に取った。
「行きましょう」




