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今日どうだった、と聞いてくれる人  作者: ジェミラン
エピローグ

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13/13

エピローグ

 ある朝、デスクの上に予約票がなかった。


 訪問案件のカードも、なかった。


 ミラも、受付カウンターにいなかった。


 坂口はコーヒーを持って、オフィスを見回した。


 静かだった。


 最初にここに来た朝と、同じ静けさだった。あのとき、この静けさが不気味だった。でも今は、ただ静かだと思うだけだ。


 デスクに座って、コーヒーを飲んだ。


 窓の外の景色が、いつもより澄んでいる気がした。


---


 しばらくして、ミラが入ってきた。


 タブレットを持っていない。今日二度目だ、と思ってから、最初のときと同じだ、と気づいた。


「おはようございます」


「おはようございます」坂口はミラを見た。「今日は予約票がないですね」


「今日は、予約がないんです」


「初めてですね」


「はい」


 ミラはいつもの受付カウンターではなく、坂口のデスクの前に立った。


「坂口さん、少し話せますか」


「どうぞ」


 ミラは向かいの椅子に座った。


「この紹介所を、始めたとき」ミラは静かに言った。「どのくらいで終わるか、分からなかったんです」


「終わる、というのは」


「クライアントの問題が、それぞれ動き始めたとき、終わりが来ます。全員が、自分の方向に向き始めた。だから——」


「今日が、最後ですか」


 ミラは少し間を置いた。


「はい」


 坂口はコーヒーカップを持ったまま、少し黙った。


 最後、という言葉を受け取るのに、少し時間がかかった。


「人間界に、戻るということですか」


「はい。リストラの話は、なくなっています。少し時間が経ちましたから」


「そうですか」


「戻ったあとのことは、坂口さんが決めることです」


 また、その言葉だった。


 坂口は少し笑った。


---


 レオンが来たのは、その一時間後だった。


 今日は訪問案件がないことを、どこかで知ったらしい。手に、包みを持っていた。


「最後の日だと聞いて」


「知っていたんですか」


「ミラさんから、昨日聞きました」


 レオンは包みをデスクの上に置いた。開けると、焼き菓子が入っていた。旅先で手に入れた食材で作ったらしく、見たことのない木の実が入っている。


「作ってきました。お礼、というか」


「お礼、というか」


「なんというか」レオンは少し笑った。「なんか、言葉にすると薄くなる気がして」


「十分伝わっています」


 坂口は焼き菓子を一つ食べた。


 甘くて、木の実の香りが深かった。


「レオンさん、これからも旅を続けるんですか」


「はい。パーティーに戻って、また魔王を倒しに行きます」


「料理も続けながら」


「もちろんです」


 レオンはデスクの前に立ったまま、少し考えてから言った。


「坂口さん、最初に来たとき、俺、ちゃんと話せるか不安で」


「そうでしたね。眉が下がっていました」


「あのとき、坂口さんが待っていてくれたじゃないですか。最初の沈黙のとき」


「はい」


「あれがなかったら、たぶん本音が出てこなかったと思います。急かされたら、当たり障りのないことしか言えなかった」


 坂口はその言葉を、静かに受け取った。


「沈黙を待てるのが、坂口さんの一番すごいところだと思います」


「すごいというより、性格ですよ」


「それが天職ってことじゃないですか」


 レオンはそう言って、少し照れたように笑った。


---


 昼過ぎに、グラークが来た。


 先週末、村に行ってきたらしかった。


「どうでしたか」


 坂口は聞いた。


「最初、子供が泣いた」


「それは」


「仕方ない」グラークはそう言って、少し間を置いた。「しかし、老人は泣かなかった。お茶を出してくれて、座って、天気の話をした」


「天気の話を」


「一時間ほど。他愛のない話だった。帰り際に、また来てくれと言われた」


 坂口は頷いた。


「よかったですね」


「子供は、また泣くかもしれない」


「かもしれないですね」


「しかし、老人は待っている」


「はい」


 グラークはしばらく、坂口を見ていた。


「坂口、今日が最後だと聞いた」


「はい」


「残念だ」


 その二文字が、面談室に静かに置かれた。


 六百年間、弱音を吐けなかった魔王の「残念だ」は、短いけれど重かった。


「また来てもいいか」


「ここには、もういないですけど」


「人間界に来てもいいか、という話だ」


 坂口は少し驚いた。


「魔王が、人間界に」


「悪いか」


「悪くないですよ」坂口は笑った。「ただ、少し目立ちますね」


「それは仕方ない」


---


 夕方、シルフィが来た。


 髪が、少し浮いていた。


 完全ではないが、最初に来たときのように重力に従って垂れていなかった。


「少し、戻ってきましたね」


「少しだけ」シルフィは自分の髪を触った。「まだ、ちゃんと浮かないんですけど」


「十分ですよ」


 シルフィは椅子に座った。目の下のクマが、薄くなっていた。


「先週、三回断れました」


「三回も」


「一回目は、断った後すごく不安になって。でも、二回目は少し楽で。三回目は——なんか、普通でした」


「普通になってきた」


「はい。すごく不思議な感覚でした。ずっとできないと思っていたことが、普通になる、という」


 坂口はメモ帳に書こうとして、止めた。


 書かなくていい。覚えている。


「フォロさんも、来てくれて」シルフィは続けた。「フォロが変わり始めると、他の仲間も変わり始めて。なんか、少しずつ、みんなが休める雰囲気になってきました」


「シルフィさんが、最初に動いたからですよ」


「私が動いたというより、動けるようになった、という感じです」


「それで十分ですよ」


 シルフィは少し間を置いた。


「坂口さんが今日で最後だと聞いて、何か言いたくて来たんですけど」


「はい」


「うまく言えないんですけど」


「うまくなくていいですよ」


 シルフィは少し考えてから、言った。


「ここに来てよかったです」


 それだけだった。


 短い言葉だったが、最初に来たときのシルフィが言える言葉ではなかった。


 自分が感じたことを、言えるようになっていた。


---


 ヴェルダからは、夕方にミラを通して言葉が届いた。


 ミラが坂口にタブレットを差し出した。画面に、短い文章があった。


*洞窟に、今日五人来た。全員、逃げなかった。我は奥にいた。絵を見る顔を、五つ見た。届いた。——ヴェルダ*


 坂口はその文章を、何度か読んだ。


 五人。全員、逃げなかった。


 三百年間、誰にも見せなかった絵が、今日五人に届いた。


「ヴェルダさん、直接来なかったんですね」


「洞窟から離れたくなかったそうです」ミラが言った。「見に来る人間がいるかもしれないから、と」


 坂口は少し笑った。


 洞窟を離れたくない。それは、待っているということだ。


 三百年間、誰も来ないと思っていた龍が、今は人間が来るのを待っている。


---


 夜になった。


 レオンは旅に戻った。グラークも、村への道を歩いていった。シルフィは風の中に溶けた。ヴェルダは洞窟で、また誰かを待っている。


 坂口はデスクの前に座って、空のコーヒーカップを持っていた。


 ミラが近づいてきた。


「そろそろ、時間です」


「はい」


「戻ったら、どうするか決まっていますか」


 坂口は少し考えた。


「転職エージェントを、続けます。ただ、少し変わるかもしれないです」


「何が変わりますか」


「聞くことを、もう一回、一番大事なことにします。売ることより、聞くことを前に置く。それだけです」


「それだけ、ですね」


「あと——」坂口は少し間を置いた。「娘に、電話しようと思っています」


「何を話すんですか」


「まだ決めていないです。でも、まず電話して、話せることから話します」


 ミラは右の口角を、いつもより少し大きく上げた。


「それで十分ですよ」


「ミラさん、ありがとうございました」


「こちらこそ」


 坂口は立ち上がった。


 コートを手に取った。


 引き出しを開けた。赤いボールペンが入っていた。持って帰ることにした。


 ミラがドアを開けた。


 向こう側は、いつものオフィスだった。キーボードの音、電話の音、同僚たちの声。コーヒーメーカーとプリンターのトナーの匂い。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 坂口は一歩、踏み出した。


---


 翌朝、坂口は最寄り駅から会社まで、いつもの道を歩いた。


 徒歩八分。この八分が、一日の中で一番頭の回る時間だ。


 今日のクライアントのことを考えた。


 昨日の電話で、娘が短く笑った。たいした話じゃなかった。でも、笑った。


 それで十分だ、と坂口は思った。


 ビルの入口に手をかけた。


 引いた。


 自動ドアが、軽く開いた。


 坂口は中に入った。

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