エピローグ
ある朝、デスクの上に予約票がなかった。
訪問案件のカードも、なかった。
ミラも、受付カウンターにいなかった。
坂口はコーヒーを持って、オフィスを見回した。
静かだった。
最初にここに来た朝と、同じ静けさだった。あのとき、この静けさが不気味だった。でも今は、ただ静かだと思うだけだ。
デスクに座って、コーヒーを飲んだ。
窓の外の景色が、いつもより澄んでいる気がした。
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しばらくして、ミラが入ってきた。
タブレットを持っていない。今日二度目だ、と思ってから、最初のときと同じだ、と気づいた。
「おはようございます」
「おはようございます」坂口はミラを見た。「今日は予約票がないですね」
「今日は、予約がないんです」
「初めてですね」
「はい」
ミラはいつもの受付カウンターではなく、坂口のデスクの前に立った。
「坂口さん、少し話せますか」
「どうぞ」
ミラは向かいの椅子に座った。
「この紹介所を、始めたとき」ミラは静かに言った。「どのくらいで終わるか、分からなかったんです」
「終わる、というのは」
「クライアントの問題が、それぞれ動き始めたとき、終わりが来ます。全員が、自分の方向に向き始めた。だから——」
「今日が、最後ですか」
ミラは少し間を置いた。
「はい」
坂口はコーヒーカップを持ったまま、少し黙った。
最後、という言葉を受け取るのに、少し時間がかかった。
「人間界に、戻るということですか」
「はい。リストラの話は、なくなっています。少し時間が経ちましたから」
「そうですか」
「戻ったあとのことは、坂口さんが決めることです」
また、その言葉だった。
坂口は少し笑った。
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レオンが来たのは、その一時間後だった。
今日は訪問案件がないことを、どこかで知ったらしい。手に、包みを持っていた。
「最後の日だと聞いて」
「知っていたんですか」
「ミラさんから、昨日聞きました」
レオンは包みをデスクの上に置いた。開けると、焼き菓子が入っていた。旅先で手に入れた食材で作ったらしく、見たことのない木の実が入っている。
「作ってきました。お礼、というか」
「お礼、というか」
「なんというか」レオンは少し笑った。「なんか、言葉にすると薄くなる気がして」
「十分伝わっています」
坂口は焼き菓子を一つ食べた。
甘くて、木の実の香りが深かった。
「レオンさん、これからも旅を続けるんですか」
「はい。パーティーに戻って、また魔王を倒しに行きます」
「料理も続けながら」
「もちろんです」
レオンはデスクの前に立ったまま、少し考えてから言った。
「坂口さん、最初に来たとき、俺、ちゃんと話せるか不安で」
「そうでしたね。眉が下がっていました」
「あのとき、坂口さんが待っていてくれたじゃないですか。最初の沈黙のとき」
「はい」
「あれがなかったら、たぶん本音が出てこなかったと思います。急かされたら、当たり障りのないことしか言えなかった」
坂口はその言葉を、静かに受け取った。
「沈黙を待てるのが、坂口さんの一番すごいところだと思います」
「すごいというより、性格ですよ」
「それが天職ってことじゃないですか」
レオンはそう言って、少し照れたように笑った。
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昼過ぎに、グラークが来た。
先週末、村に行ってきたらしかった。
「どうでしたか」
坂口は聞いた。
「最初、子供が泣いた」
「それは」
「仕方ない」グラークはそう言って、少し間を置いた。「しかし、老人は泣かなかった。お茶を出してくれて、座って、天気の話をした」
「天気の話を」
「一時間ほど。他愛のない話だった。帰り際に、また来てくれと言われた」
坂口は頷いた。
「よかったですね」
「子供は、また泣くかもしれない」
「かもしれないですね」
「しかし、老人は待っている」
「はい」
グラークはしばらく、坂口を見ていた。
「坂口、今日が最後だと聞いた」
「はい」
「残念だ」
その二文字が、面談室に静かに置かれた。
六百年間、弱音を吐けなかった魔王の「残念だ」は、短いけれど重かった。
「また来てもいいか」
「ここには、もういないですけど」
「人間界に来てもいいか、という話だ」
坂口は少し驚いた。
「魔王が、人間界に」
「悪いか」
「悪くないですよ」坂口は笑った。「ただ、少し目立ちますね」
「それは仕方ない」
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夕方、シルフィが来た。
髪が、少し浮いていた。
完全ではないが、最初に来たときのように重力に従って垂れていなかった。
「少し、戻ってきましたね」
「少しだけ」シルフィは自分の髪を触った。「まだ、ちゃんと浮かないんですけど」
「十分ですよ」
シルフィは椅子に座った。目の下のクマが、薄くなっていた。
「先週、三回断れました」
「三回も」
「一回目は、断った後すごく不安になって。でも、二回目は少し楽で。三回目は——なんか、普通でした」
「普通になってきた」
「はい。すごく不思議な感覚でした。ずっとできないと思っていたことが、普通になる、という」
坂口はメモ帳に書こうとして、止めた。
書かなくていい。覚えている。
「フォロさんも、来てくれて」シルフィは続けた。「フォロが変わり始めると、他の仲間も変わり始めて。なんか、少しずつ、みんなが休める雰囲気になってきました」
「シルフィさんが、最初に動いたからですよ」
「私が動いたというより、動けるようになった、という感じです」
「それで十分ですよ」
シルフィは少し間を置いた。
「坂口さんが今日で最後だと聞いて、何か言いたくて来たんですけど」
「はい」
「うまく言えないんですけど」
「うまくなくていいですよ」
シルフィは少し考えてから、言った。
「ここに来てよかったです」
それだけだった。
短い言葉だったが、最初に来たときのシルフィが言える言葉ではなかった。
自分が感じたことを、言えるようになっていた。
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ヴェルダからは、夕方にミラを通して言葉が届いた。
ミラが坂口にタブレットを差し出した。画面に、短い文章があった。
*洞窟に、今日五人来た。全員、逃げなかった。我は奥にいた。絵を見る顔を、五つ見た。届いた。——ヴェルダ*
坂口はその文章を、何度か読んだ。
五人。全員、逃げなかった。
三百年間、誰にも見せなかった絵が、今日五人に届いた。
「ヴェルダさん、直接来なかったんですね」
「洞窟から離れたくなかったそうです」ミラが言った。「見に来る人間がいるかもしれないから、と」
坂口は少し笑った。
洞窟を離れたくない。それは、待っているということだ。
三百年間、誰も来ないと思っていた龍が、今は人間が来るのを待っている。
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夜になった。
レオンは旅に戻った。グラークも、村への道を歩いていった。シルフィは風の中に溶けた。ヴェルダは洞窟で、また誰かを待っている。
坂口はデスクの前に座って、空のコーヒーカップを持っていた。
ミラが近づいてきた。
「そろそろ、時間です」
「はい」
「戻ったら、どうするか決まっていますか」
坂口は少し考えた。
「転職エージェントを、続けます。ただ、少し変わるかもしれないです」
「何が変わりますか」
「聞くことを、もう一回、一番大事なことにします。売ることより、聞くことを前に置く。それだけです」
「それだけ、ですね」
「あと——」坂口は少し間を置いた。「娘に、電話しようと思っています」
「何を話すんですか」
「まだ決めていないです。でも、まず電話して、話せることから話します」
ミラは右の口角を、いつもより少し大きく上げた。
「それで十分ですよ」
「ミラさん、ありがとうございました」
「こちらこそ」
坂口は立ち上がった。
コートを手に取った。
引き出しを開けた。赤いボールペンが入っていた。持って帰ることにした。
ミラがドアを開けた。
向こう側は、いつものオフィスだった。キーボードの音、電話の音、同僚たちの声。コーヒーメーカーとプリンターのトナーの匂い。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
坂口は一歩、踏み出した。
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翌朝、坂口は最寄り駅から会社まで、いつもの道を歩いた。
徒歩八分。この八分が、一日の中で一番頭の回る時間だ。
今日のクライアントのことを考えた。
昨日の電話で、娘が短く笑った。たいした話じゃなかった。でも、笑った。
それで十分だ、と坂口は思った。
ビルの入口に手をかけた。
引いた。
自動ドアが、軽く開いた。
坂口は中に入った。




