第九十六話
「国王陛下には、先ほど内諾をいただいた。明朝、王女殿下と共に、ゲルトルへ発つことになる。フェルティスには夜勤明けで、強行軍になってしまうけれど」
机の前に立ったフェルティスが、硬い表情で首を振った。
「それほど軟弱ではないつもりです」
フェルティスとの警護の引継ぎ時間である。
「エルネラ様についてはいかがなさいますか」
「ブラーフェルが預かっていてくれると申し出てくれた」
フェルティスの表情が少しだけ緩む。
「それはよろしゅうございました」
正直、冬真もフェルティスもいないアイザー侯爵邸より、グルドハイム公爵邸のほうが遥かに安心だ。
「ヴィルキアではすでに、ゲルトルに私兵を貸してくれるつもりで準備してくれていると聞いた。援軍もくれるそうだ。ディルナク伯爵とベルシュフォール侯爵も支援してくれると約束はしたけれど、距離を考えると直接の支援は厳しい。私兵をおおっぴらに集めて、王太子派閥の領地が領軍を動かさないように、後背から牽制するのがメインになる」
ディルナク伯爵領とベルシュフォール侯爵領は、ゲルトルから見て、バルフラウ伯爵領を越えたさらにその先なのだ。途中経路にある領地の領主が王女に好意的でなければ、まず私兵の通行権を得られない。
「戻るのが間に合うといいんだけど」
焦りでおかしくなりそうだ。
「軍を動かすのはそこまで簡単なものではありません。ましてや諸侯の私兵の寄せ集めであればなおさらです。主君が領地に戻るくらいの猶予はあるかと」
「うん、ありがとう」
冬真は小さく息を吐く。
「フェルティスがいてくれて心強いよ。実を言うと、俺は兵をまともに指揮した経験がないんだ。スタンピードも、一兵卒として参加しただけだしね」
「お任せください」
頷くフェルティスを見ながら、冬真は、何かが心にひっかかるのを感じた。何だ? 何か、見落としてはいけないことを忘れている気がする。今、自分は何を言ったっけ。
「主君?」
フェルティスがいてくれて心強い……?違う、これじゃない。
俺は兵を指揮した経験がない……?これでもない。
スタンピードも……スタンピード。
冬真は、がたりと音を立てて立ち上がった。
「スタンピードだ……!」
フェルティスの表情は怪訝そうだ。
「まずい。スタンピードが起きる可能性がある」
冬真はキャルカル以来、直接人を殺していない。殺さなくていいように振舞ってきた。しかし、今回はそうもいかない。領地を守るために、先頭に立って敵軍を魔法で虐殺することになる。それに迷いはないが、もしも人間を殺すと経験値が大量に入るという仮説が当たっているなら、レベルアップの制御は不可能だ。
冬真の現在のレベルは、73。次にスタンピードが発生すると予想しているレベル75まで、マージンはもうほとんどない。
「スタンピードの兆候は報告されておりません。ブラーフェル殿からも報告はなかったのでは?」
落ち着いたフェルティスの声が、さらに絶望を煽る。
「ごめん。どうしてなのか、説明はできない。でも、俺は起きる可能性が結構高いんじゃないかと思ってる」
フェルティスは、冬真が真剣な顔で返事を待っているのを見て、ようやく冗談を言っているわけではないと悟ったようだ。一気に表情が強張る。
「対策が必要だ。この状況で、ないことに賭けるなんて博打はできない」
「承知しました。……スタンピードが起きるなら、侵攻は思い止まるのではありませんか?」
「侵攻が引き金になるんだ」
フェルティスが眉をひそめる。
「領地戦でスタンピードが誘発されたという話は聞いたことがありません」
「正しくは、スタンピードを誘発するのは領地戦じゃない。俺だ」
冬真は苦々しく言った。
「たぶん、俺が人間を大量に殺したら……、スタンピードが起きる」
フェルティスは不可解そうな顔だ。
「女神の試練みたいなものなんだ」
冬真の追加に、フェルティスが表情を改める。
「主君が仰るなら、信じないわけには参りません。……そのような条件では、スタンピード到来を早めることはできそうにありませんね」
フェルティスが言いたいのは、侵攻とスタンピードを両方受けるよりは、到来を早めてスタンピードだけにしたほうがよい、ということだろう。
冬真は肩を竦めた。
「そもそも、本当に起きるかも分からないし」
そんな理由で人間の大量虐殺なんて、嫌すぎる。いっそ、冬真がレベル74で、もうあとちょっとで75、という状態なら、魔物を倒して試してみる、という手もあったのだが。すでに相当レベルが上がりにくくなっているので、侵攻までに73から75に持って行くのは間に合わないだろう。
「ただ、ブラーフェルには知らせないといけないと思ってる」
万が一公爵領に戦禍が拡大していた場合、魔物の出現圧で領軍が撤退困難になったら、壊滅的な被害を受けることになるだろう。
「どのようにお伝えするかが問題ですが」
「女神のお告げがあった、とでも言ってみる?」
フェルティスが真面目な顔で頷いた。
「主君が仰れば、冗談とは思いませんね」
「ええ?」
冗談のつもりだったのだが。
「念のため、起きるかもしれないと警告を受けた、というくらいにぼやかしておけばよろしいかと」
戸惑う冬真を他所に、フェルティスがさらに内容を詰めてくる。
「そ、そうかな、そう……。じゃあ、その方向で。王女殿下にもお知らせするべきだろうね。危険だし」
「国王陛下にも奏上なさるべきです」
「外れたら、領地惜しさにデタラメを言ったホラ吹き、って言われそうだなあ」
「そのかわり、本当に起きれば、侵攻を起こした諸侯は女神の警告を無視して女神の矛を攻撃しようとした、というそしりを免れ得ません。……くだらない蔑称など、主君が目的を果たされたら吹き飛びます。気になさる必要はありません」
目的――ベルダーンの右手回復。
「そうだね。そうだった」
そのために選んだ道だ。それを邪魔するというのなら、たとえ相手が生きた人間の集団だとしても。……叩き潰す。
* * * *
冬真が準備を整えて王女の私室に入ると、既に旅装を終えたルシュラが立っていた。その隣に立つ人物に、冬真は目を瞬かせる。
「国王陛下のご命令で、王女殿下の護衛として、領地までご同行させていただきます。よろしくお願いします、侯爵閣下」
そう優雅に一礼するのは、同じく旅装を整えているカティアだ。
「……よろしいのですか?」
「これはベルシュフォール家としての判断でもあります。王女殿下とアイザー侯爵閣下を失うわけには参りませんので」
カティアは宮廷魔法士首席だ。百の私兵よりも頼りになる、最大の援軍である。
「相当の危険が伴うかと思いますが」
昨夜のうちに、王女と国王の双方にスタンピードの可能性を共有している。フェルティスと同じく、ひどく不可解そうな顔はされたものの、「女神のお告げ」「使命に関わることなので、詳しく言うことはできない」で押し切った。
ただ、ベルシュフォール侯爵は、さすがにスタンピードの可能性まではまだ知らないはずだ。
「侯爵閣下が前面に立って危険を引き受けてくださっているのです。王女殿下の後見たるベルシュフォールが黙って見ていては、誰も当家の立ち位置に納得いたしません。……ベルシュフォールの長女として、これは私の当然の責務です」
凛として言い切るカティアに、迷いはなかった。




