第九十話
グルドハイム公爵領の領都、要塞都市ヴィルキア。公爵家の本邸に足を踏み入れるのも、久しぶりのことだった。
「王都ぶりであるな」
応接室で出迎えたのは、グルドハイム公爵ムルファスだ。冬真は一礼する。
「この度は大変なことだったようだな」
席に落ち着いて、まず話を切り出したのはムルファスである。
「私の統治が行き届かず、公爵閣下には合わせる顔もございません」
「家宰の子爵殿が腕を落とされたと。気の毒なことだ。子爵殿の父にあたる当領のブレーダル子爵もひどく動揺していた。戦時でもなく、このような卑怯な振る舞いを、当家としては許すわけにはいかぬ。トーマ殿は、どのようにお考えか」
「むろん」
冬真は言葉を切って、ムルファスを見つめた。
「このようなことを企んだ輩をそのままにしてはおけません。判明次第、徹底的に報復を行う所存でおります」
公爵が頷く。
「うむ。当家も協力を惜しまぬ」
「つきましては、いくつか公爵閣下に相談したき腹案がございます」
「ほう?」
「これはまだ、先方の同意も得てはおりません。しかし、実現に向けて、当然、同盟たる公爵閣下に最初に相談すべきことかと判断しました」
ムルファスが顔をしかめている。
「……また難問を突き付けてくるのではあるまいな?」
冬真は微笑む。
「さすが、公爵閣下はご慧眼であられる」
「まさか貴公がヴィルキアまで追いかけて来ようとはな。王権争いについて、ブラーフェルからは簡単な報告を受けているが、その話か?」
「はい」
そうして冬真が自分の考えを述べていく。怪訝そうだったムルファスは、目を見開き、ときに難しい顔をして唸り、質問を口にして。そして、最後に頷いた。
「よかろう。それならば当家としても、トーマ殿の策に乗るのに異論はない」
公爵邸を訪れたときには明るく午後の陽が差していた窓の外は、話が終わるころには、とっぷりと暗くなっていた。
「フューリアを呼ぼう。貴公は婚約者だからな。帰る前に、話をするがいい」
最後にムルファスが言った言葉に、冬真は腰を浮かせた。
公爵が意地の悪い笑いを浮かべる。
「何だ、ひるんでおるのか? 貴公が自分で蒔いた種だ。自分で刈り取るがいい」
冬真は顔をしかめた。断固として言いたいのは、冬真は種なんて蒔いていない、ということだ。どちらかというと蒔かれた側である。冬真は引き抜く決断をしただけだ。
「婚約解消については、もう話をされたのですか?」
「まだだ。今度の社交シーズンで、貴公が直接話したかろうと思ってな」
公爵が笑いを堪えるような顔になっている。
冬真は観念した。腰を元通りに落ち着かせる。
「……分かりました。こちらで、令嬢をお待ちいたします」
「ドラゴンの誘引すら可能だと言ってのけるトーマ殿が、そのような表情をするとはな。良いものを見せてもらったぞ」
* * * *
公爵が立ち去って少しして、軽やかな足取りで現れたのは、赤い髪の美少女だった。
首には、冬真が贈った血の色の革のチョーカーをつけて、頬が上気している。
冬真は女性の支度には詳しくないが、母親が出かける際の支度の長さはよく覚えている。もしかしたら、支度をして呼ばれるのを待っていたのかもしれない。
ちりちりと罪悪感が胸を刺した。
自分はこれから、この少女にとっての残酷な決断を告げるのだ。
「トーマ様! お久しぶりです。お会いできて嬉し……」
フューリアが、冬真の表情を見て、さっと顔色を変えた。
「申し訳ありません。ゲルトルで大変なことがあったとお聞きしております。トーマ様にとっては、喜べるような再会ではございませんでしたね」
そう言って、申し訳なさそうに俯く。
やめてくれ、気を遣うのは。
「今日は、フューリアに話があるんだ」
緊張のせいで、声が出にくい。自分でもどんな表情をしているかが分からない。
フューリアが、冬真の顔を見て、忙しなく瞬いている。
「ま、まあ。何でしょうか?」
声は明らかに不安そうだ。
「俺は公爵閣下に、婚約解消を申し出た」
翡翠の瞳が、いっぱいに見開かれた。
やがて、再び、忙しなく瞬く。
「ご、ご理由を、お伺いしても?」
どう答えるべきだろう。王になる気がないから? 道具になるのが嫌だから? それとも王女を助けたいから。どれも冬真にとっては真実だが、フューリアにとってはそう聞こえないかもしれない。
「俺が、そうしたいからだ」
だから冬真は、ただ一つのゆるぎない真実だけを差し出すことにした。かつて、この目の前の少女が、誠実さという名の盆の上に、真心を載せて差し出してきてくれたように。冬真も同じものを返す。
「俺が、俺だけのために、そうしたい」
王になりたくないのも、道具になりたくないのも、王女を助けたいのも。全部、冬真の、冬真だけの都合だ。そこに言い訳なんていらない。
しばらく、凍り付いたように、少女は動かなかった。唇が、ぱくぱくと言葉を探すように動いて。やがて、くしゃりと顔が歪んだ。
「それなら、仕方がありません。……私も、私だけのために、トーマ様に、求婚、したのですもの……」
言っている間に、透明な雫が瞳から零れて頬を伝った。
「申し訳ありませんが……、私、お見送りは、できそうもありません。失礼、いたします……」
立ち上がって礼をして、赤い髪の少女が応接室を去っていく。
残された冬真は、しばらく、閉ざされた扉を見つめていた。




