第八十五話
アイザー侯爵邸の執務室には、午後ののどかな陽光が差し込んでいる。今日は社交の休養日だ。午後だけとはいえ、愛想笑いも社交辞令も不要、どこにも出て行かないで、ただ部屋の中にいられるというのは心が洗われる心地のするものである。
「王女殿下が奇跡を起こしたと教団に喧伝しないように牽制されたよ」
冬真が告げると、執務机の向こうに立っているフェルティスが眉を上げる。
「意外と遅かったですね」
冬真が教団に枢機卿への面談依頼を出してから、既に一週間が経っている。最高位の聖職者であるから、王国の侯爵であろうが、『ルキアの矛』という二つ名があろうが、面談は順番待ちだ。あと一週間ほどは待つように言われている。
「あと、余計な争いに巻き込まれないように気を付けろ、だそうだ。……王太子殿下が、自分から立場が揺らぐ可能性を口にするのは意外だったな」
すると、フェルティスが表情を曇らせる。
「王太子殿下は、主君の反応に焦れてきているのかもしれません。立場については、どのみち、対立が激化すれば隠せるものでもありませんから。情報の渡るタイミングをコントロールして、主君の反応を見ているのかと」
「俺が、王女殿下を支援に動くかって?」
「王太子殿下の立場が揺らぐ可能性を知って、王太子殿下の支持を打ち出すかどうか、です。王太子殿下がカードを明らかにしたということは、支持する気があるかどうかの暗黙の問いかけです」
「難しすぎる……」
争いに巻き込まれることを望まないとか言っておいて、踏み込んで助けるのが正解とか、一体どういうトラップだ。大いに文句を言いたい。たとえ冬真が王太子派になろうと思っていたって、正しく動ける気がしない。
「主君はここからは、社交はしばらく休んで、王太子殿下の忠告を額面通りに受け取る、素直な扱いやすい男と侮られた方がよろしいかと」
ええ、侮られるもなにも、本当に額面通りに受け取ろうとした、素直な扱いやすい男です。
しかし、そんなことはどうでもいい。冬真は顔を輝かせた。王太子もたまにはいいことをするじゃないか。フェルティス公認で、社交がしばらく休み!
視線を感じて、冬真は咳払いした。
「ええと、他に報告はあるかな?」
「グルドハイム公爵領から、公子が王都に来たそうです」
「ブラーフェル殿が?」
冬真は散々世話になった公爵家嫡子のことを思い出す。挨拶もなく、ひどい不義理を返すことになってしまった。
「公爵閣下に面会に応じていただけなかったのは、ブラーフェル殿を待っていたからかもしれないね」
一週間前に公爵家にも面会依頼を出したが、こちらもまだ実現していない。
婚約解消について、さんざん脅迫した後だ。冬真の情に訴える目的で、ブラーフェルが面会に出てきても不思議はない。
「その可能性はあります。……本当によろしいのですか?」
「なにが?」
「この局面です。婚約解消の申し出を撤回されたほうが、主君も主君の領地も安全かと」
冬真は考え込む。すっかり婚約解消前提で考えていたが、撤回という道もあるわけか。
「主君とグルドハイム公爵家の勢力が王女殿下にお味方すれば、相当の助けになると思いますが」
「それって、俺の目的のために公爵家の戦力を利用するってことだろう?」
フェルティスが表情に困惑をにじませた。
「何か問題が?」
冬真は顔をしかめた。
「そうしたら、俺は公爵家の目的のために俺を利用させることを許さないとフェアじゃなくなる」
フェルティスが首を傾げる。
「公爵家も、この騒ぎの間主君が同盟状態にあることは心強いかと。それ以上に譲歩なさる必要はありません」
冬真はきょとんとしてフェルティスを見上げた。
「俺の要請で王女の味方をしたら、見返りとして俺の戦力を提供しないとならないのでは?」
「なぜ主君が提供せねばならないのです? そもそも公爵家の戦力を利用するのは王女殿下なのですから、見返りを用意するのも王女殿下です」
冬真は首を傾げた。そういうことになる、のだろうか?
「いずれは公爵家と婚約解消に動かねば、別の騒乱が起きる可能性は高いですが、ひとまずこの騒ぎの間は保留なさるのも一案かと思います」
「でも、後で解消するつもりだけど、今はそのままでよろしく、ってすごく都合が良くない?」
フェルティスが困った顔になる。
「主君は、ご自分の影響力を軽視されすぎです。主君と婚約関係を維持している間、公爵家は、王国領外を単独踏破して資源を持ち帰ることのできる、『ルキアの矛』という英雄を娘婿として確保していると示すことができます。他勢力に対する牽制です」
もしかして、核の傘みたいな扱いだろうか。解せないけれど。
「将来的な婚約解消が確定していれば、主君が心配なさるような、積極的な簒奪行為に走る心配もありません。婚約解消したあとに破綻いたしますので」
「つまり、婚約解消の期限と条件だけ詰めて、今は現状維持にしたほうがいいって?」
「そのように推察いたします。主君のご意向次第ですが」
少し考えてから、冬真は頷く。
「そうだね。公爵閣下が納得くださるかはわからないけど、交渉はしてみようか」
「さらに言えば、相手が先に持ち出すのを待ってから交渉なさるのもよろしいかと」
冬真は目を瞬かせた。
「言い出すかな?」
「この不安定化した局面で主君との婚約解消を受け入れるのは、公爵家にとっては相当の失態となります。公子が主君と交流があった上で交渉しようとしないなら、相当の無能ですが……公子の悪い噂は聞いたことがありません」
「分かった。頑張ってみる」
交渉の間、フェルティスが後ろに張り付いて、どう動けばいいか教えてくれれば楽なのに。
冬真の視線に、フェルティスが眉をひそめる。
「何ですか?」
「変身魔法がないのが本当に残念だと思って」
「お諦めください」
グルドハイム公爵家から招待状が届いたのは、その翌日のことだった。




