第五十五話
冬真が領主になって、二年目を目前に控えた、ある日のことだった。
昼の日差しが差し込んだゲルトル大教会の面会室には、痩せた男が立っていた。襟の高いローブの上に、トーガを纏っている。
「ようこそおいでくださいました、アイザー伯」
冬真は頭を下げる。
「ご無沙汰しております、ルトー大司教」
ゲルトルは伯爵領の領都だけあって、ヴィルキアや王都ほどではないが、それなりに大きな教会がある。城館とは少し離れた、こちらも小高い場所に建設されている。
責任者のルトー大司教も、危機に陥ったゲルトルを見捨てずに残った一人だ。領民たちにも非常に慕われている。冬真の身元引受を教会が請け負ってくれている以上、冬真は毎月教会に顔を出すようにしている。
冬真の中では、宗教と言えば寄付が付き物だ。さまざまな冠婚葬祭でお布施を払うのが定番だと思っている。
だから領地に到着早々、もっとも困っているであろう食糧の一部を寄付しようとしたのだが、ルトーには教会付近でだけ配れば不平が出る、と断られてしまった。教会は街で福祉を担ってくれているため、関係者の労役は免除で無条件の配給を行っている。今は大変な時なのでそれで十分です、と言ってくれた奇特な人である。
「本日はいかがなされました?」
「実は、教会に是非寄付させていただきたいものがございます」
ルトーの表情が微かに動いた。少しだけ困った顔になっているようにも見える。冬真がこれまでに持ち込んだ、グレートボアの角だのブラッドベア革だの、教会に置いておくには血なまぐさい品の数々を思い出したのかもしれない。
「こちらなのです」
冬真が合図をすると、後ろに控えていたプレッタが歩み出る。両腕に、一抱えほどのツボを抱えていた。
「それは?」
怪訝そうな顔のルトーの前のテーブルに、許可を得てツボを置く。蓋を開けると、ねっとりした液体が満たされている。
「この領で採れた、蜂蜜なのです」
「蜂蜜ですって!?この量が!?」
大司教が驚きの声を上げた。
「どうぞ、召し上がってみてください」
冬真の声を合図に、プレッタが銀の匙を差し出す。
ルトーは恐々とした手つきで、一掬い取って、口に含んだ。恍惚とした表情になる。
「ああ……。なんという……」
ルトー大司教は、どうやら甘党のようである。
「お気に召していただけたようで良かった」
冬真が言うと、ルトーは咳払いして居住まいをただした。
「し、失礼。しかし、これだけ集めるのは大変なことだったでしょう。領主様が蜂の巣を探させていたとは伺いましたが」
冬真は微笑んだ。
領地の大工による巣箱の複製を試みてから、最初に成功するまでに二カ月。そこから領内で大々的に蜂の巣を捜索させて、数を確保した。ゲルトルの領内は、現在は一時的に野生の蜂の巣が激減していると思われる。
「実は、蜂蜜をこの領の産業にしたいと考えて、いろいろと試行していたのですよ」
「産業、ですか」
大司教がツボと冬真の顔をまじまじと見比べた。
「目途が立ちましたので、これまでのお礼を兼ねて、こうして最初に出来上がった蜂蜜の一部をお持ちした次第です。受け取っていただけますか?」
冬真の言葉に、ルトーが感じ入ったように目を伏せた。
「なんと……。ありがたいことです。ええ、お受け取りいたします。この甘露を味わえば、苦難の時を越えた意味があったのだと、皆実感することでしょう」
「恐縮です。それと、図々しいことですが、お願いがあるのです」
冬真が続けて言うと、ルトーの目が細められた。警戒が表情に浮かぶ。
「何事でしょうか?」
「来月に、私は王都に参ります。そのタイミングで、枢機卿猊下に拝謁させていただきたいのです」
「枢機卿猊下に?」
怪訝そうな顔で尋ね返す大司教に、冬真は頷いた。
「はい。ご存じの通り、この領の経済状態はいまだ安定しておりません。取引量が制限されるようなことがあれば、復興の芽が摘まれてしまいます。領民のために、産業の保護を願い出たいのです」
領主となってから二年が経ち、貨幣も少しずつ回るようになってきた。税収も見込めるようになってきたが、国に対しても半額とはいえ税金を納めなければならないので、まだまだ赤字領政だ。万が一、蜂蜜の流通まで嫌がらせを受ければ、王国に対してはっきり敵対しなければならなくなる。
「なるほど……」
ルトーが、ツボを見下ろした。やがて、頷く。瞳には強い光がある。
「ルキア様の教えでは、日々の糧となるものは、皆で分かち合うものです。まして、ルキア様が遣わされた伯爵閣下がもたらされたものです。広く行き渡らせることには、枢機卿猊下も理解を示されるかもしれません」
「感謝いたします」
冬真は頭を下げた。
* * * *
冬真がルトーの元を訪れてから、およそ一カ月後。
王都ヒャルタの聖堂を訪れて通されたのは、叙爵直後に訪れたのと同じ部屋だった。
そこに立って微笑んでいる人物も同じだ。
冬真は深く頭を垂れた。
「拝謁できて光栄です。枢機卿猊下」
頭上から、穏やかな声が降ってくる。品の良い、あきらかに高級な布地をふんだんに使った光沢のあるトーガ。まるで月桂冠のような額飾り。一見して、好好爺のような親切そうな微笑みを浮かべるのが、教団に三人いる枢機卿の一人だ。
「お久しぶりですね。『ルキアの矛』の活躍は王都の我々の元まで鳴り響いておりますよ。女神様の名を高める素晴らしき行いです」
「至らない身で女神様の名を冠するなど、畏れ多きことです」
「何を仰る。『ルキア様の思し召し』でこの国にいらしたのです。伯以外にそう名乗るのが相応しい人間などおりません」
枢機卿が、視線で椅子に座るように促す。
「今日は、何事かご相談があるとか?」
「はい。――これなのです」
冬真の合図に合わせて、領兵が進み出てツボを机の上に置く。先月にルトー大司教を前にしたのと同じやり取りだ。
「ふむ」
既にルトーから聞いているのだろう。枢機卿は軽くツボを一瞥しただけだ。
「領民が生産した蜂蜜です。こちらを新たな領の産業としたいのです。王国には規制も多く、立ちゆくかどうか、民も不安に思っております。なにとぞ、貧苦にあえぐ民に慈悲を賜りますよう」
領兵がツボの蓋を開けて、銀の匙を布に載せて恭しく差し出す。
枢機卿が、銀の匙を手に取って、一掬いを口に運ぶ。目を細める。
「ほう……」
ルトーとは違って、その反応からは、気に入ったのかどうかは分からない。少しの間、枢機卿はじっと冬真を見つめ、それから頷く。
「なるほど、お話は分かりました。私も、ゲルトルの民が味わった耐えがたき困難を思うと、胸が塞がれる心地がしたものです。スタンピード被害を受けた領が、『ルキアの矛』によって見事に立ち直る……。それこそ、ルキア様の思し召しでしょう」
「ありがとうございます。まだ採り始めたばかりですので、僅少ではございますが、いくつかお持ちいたしました。どうかお納めください」
枢機卿が微笑みを浮かべる。
「敬虔なる信心、まことに貴きものですね」
「それと、もう一つ、献上したきものがございます」
皺に埋もれた目が、意外そうに開かれる。
「これを、神の奇跡として、『ルキアの矛』たる私が、教団に献上いたしましょう」
冬真がもう一度合図を出すと、今度はプレッタが、木箱を恭しく差し出した。
それを取って、テーブルの上に置く。蓋を開けた。
「お、おお……!」
枢機卿の目がいっぱいに見開かれた。




