第四十五話
冬真は左手で小麦の根元を鷲掴みにした。鎌を持った右手を機械的に動かして、一気に根元から刈り取る。刈り取った小麦はそのままそこに放置して、別の小麦の根元に進んでは、鎌を振るう。
随従している領兵が、冬真の刈り取った小麦を拾い上げ、束ねては荷車に運んでいく。冬真から少し離れた横で、領兵が同じように小麦を刈り取っていた。冬真ほど手早い手つきではない。
「伯爵様は農夫だったのですか?」
思わずといったように零したのは、小麦を束ねている領兵だった。口にしてから、失礼なことを言ってしまったかと、慌てた顔になる。冬真は笑顔になる。
「小麦の収穫は初めてだよ」
ほっとしたように、領兵が肩の力を抜いた。
「というと、他のものは収穫したことが?」
「子どものころに、大根を一回だけ」
小学校の授業だった。持ち帰るのが重くて大変だったし、驚かせようと台所で取り出したら、泥が床に飛び散って、母親にひどく怒られた。もはや遠い記憶である。
「ははあ、それにしてはお上手ですな。俺はこれでも農夫の息子なんですが、面目が立ちません」
隣で小麦を刈り取っていた領兵――いまでは冬真の斜め後ろでずいぶん後れを取っている――が、首を振ってぼやく。
「ありがとう。領主をクビになったら、農夫にでもなるかな?」
「まさか、そんなもったいないことはやめてください」
「そうですよ」
冬真の冗談に、領兵たちが口を揃えた。
遠征先の、農村近郊の農地である。最低限の安全確保が終わった後は、冬真の仕事はない。ジャイアントボアを狩りすぎても、荷車に乗り切らない。
冬真は、安全確保ができたと判断された段階で、農作業が終わるまでお待ちください、と損傷の少ない村の建物に案内されたわけだが、そんなものは時間の無駄だ。
冬真も農作物を収穫したほうが早く作業が終わる。そう言い出すと、領兵たちは耳を疑う顔になったし、プレッタは頭痛を堪えるような顔になった。なんだったら解体をしてもいいけど、と言い出したら、領兵たちが青い顔で、予備の鎌を差し出してくれた。
「今日は野営かな。ここは小麦の損傷が少なくて本当に助かるよ。いっぱい採れそうだ」
「そうですね。終わりそうもありません」
プレッタが頷く。
既にジャイアントボアの死体は、分隊と共に、荷車に載せてゲルトルに送り出している。ジャイアントボアは今日中に処理しないと、モツが無駄になる。アールバルでもそうだったが、食糧供給がひっ迫している状態では、内臓は大事な栄養源だ。えり好みなどしていられない。
ここの建造物も、補修をするだけで使えそうなものが多い。まずはここを農村として復旧してしまうのがいいかもしれない。明日、荷車がゲルトルから戻ってきたら、追加でジャイアントボアを狩って、周辺を安全領域にしてしまおう。
* * * *
「農地回復の目途がそろそろつきそうです。街壁の補修の準備に取り掛かるべきかと」
キュロスがそう議題を上げたのは、最初の収穫まで一カ月を切った定例会議でのことだった。
「石切り場周辺のジャイアントボアは駆逐してあるけど……」
冬真はそこまでの経路を頭の中に思い浮かべる。
「ではまず、石切り場までの道の最低限の補修をしよう」
「補修ですか?」
疑問の声を上げたのは、派遣官僚の一人だ。
「うん。途中の道が整備されていなかった。石材は重い。長距離を運ぶのに道の質が悪ければ荷車が壊れる。事故率も上がる。外壁のあとは、住居も再建しないといけないし、人力で運ぶなんて非効率なことはしてられない」
領内の町村からの避難民と、家を失った住民は、臨時で建てた木造の建造物で集団生活を余儀なくされている。しかし、火炎系の魔法や魔物のいるこの世界で、そんなものを都市の中に残すわけにはいかないのだ。いずれは石造りの住居を建ててやらなければならない。
「しかし……、侵略に備えるために最優先で街壁を補修すると」
冬真は首を傾げた。
「最優先だろう?」
官僚は納得のいかない顔だ。冬真が方針を変えたと思っているのかもしれない。
「どのみち、街壁の補修が中途半端な状態で攻撃を受ければ全滅する。優先すべきは街壁の補修完了時期であって、作業順番ではない。石材を運ぶ人員が少なければ、瓦礫除去にも人を割ける」
そこまで説明すると、官僚がようやく頷いた。
「ではそのように」
「うん。人員の再配置を頼むよ」
「承知しました」
他の官僚たちも、特に異存はないようだ。キュロスは特に、目を輝かせて頷いている。現地官僚に納得してもらえたなら、作業もスムーズに進むだろう。
* * * *
ゲルトル街門前の開けた場所に、キャンプファイヤーが組まれていた。
キャンプファイヤーから少し離れた位置には、長テーブルと椅子。距離を置いて、テーブルを半円形に囲むように、おびただしい人々が立っている。絶え間ない騒めきが空気を揺らす。陽は西の稜線にかかり、茜色の空が天を覆っていた。
冬真はゲルトルの街門を出て、誘導されるまま、長テーブルの横に据えられた壇上に上がった。右手を上げると、ぴたりと、静寂が場を支配した。数千もの視線が、冬真をひたと見据えている。冬真は、わずかに上体を逸らした。――こんな場は、向いていないのに。
「みな、ご苦労だった。故郷を、家を、親を、子を、兄弟を。知っていた顔を喪って、それでもこの半年を、耐えて歩いてくれたおかげで、ゲルトルは今日の日を迎えられた」
声は震えていないだろうか? 民たちに、しっかり聞こえているだろうか? 冬真を見つめる視線は、ゆるぎもしない。
「数日前に、城壁の外の畑で最初の収穫があった。ささやかなものではあるが、それをみなと祝いたい。……そして」
冬真は言葉を切って、ゲルトルに視線をやった。門の中から、台車に載せられた、巨大な魔物の死骸が次々と運び出されてくる。
ざわり、と空気が揺らいだ。ここに立つ者たちには、それが何であるのかが分かったのだ。凶悪な牙と角。地球のイノシシに似た――ただし巨大なシルエット。
「過日に、甚大な被害を出したグレートボアを皆と分かち合うことで、ルキアの御許に旅立った者たちへの餞としたい」
そっと目元を抑える女性がいる。すすり泣く声が響く。
「まだまだやらねばならないことはたくさんある。ようやく最初の糧を得ることができただけだ。でも、今日だけは、失ったものを思い出して悼もうではないか。これからも前へ進むために。私はこの領の新しい領主として、前領主、フェルダー伯爵とその一族に敬意を捧げる!」
冬真は点火の魔法を唱えた。油をしみこませたキャンプファイヤーの炎が、美しく燃え上がる。
「以上だ」
冬真が締めくくると、うねるように音が、声が周囲に広がっていく。
「領主様!ありがとうございます!」
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
「新領主様がグレートボアを狩ってきてくださった。解体をこれより行う!全員にいきわたるよう、見苦しい真似は厳に慎め!」
領兵たちの声が辺りに響き渡る。
壇上を降りながら、冬真はそっと息を吐いた。逼迫していた食糧供給の目途がついて、やっと最初の山を越えた。
椅子に座っていると、運び込まれた大鍋からよそった最初の椀が、冬真の元に運ばれた。薄めた山羊の乳で煮込んだスープの上に、小さなジャガイモと、グレートボア肉の具が浮いている。
領民たちが、食い入るように冬真を見つめていた。冬真は、椀を一度掲げてから、中身を一息に口の中に流し込んだ。咀嚼して、飲み込む。塩とわずかな香草だけで味付けをした、素朴な味わいだ。でも、おいしい。冬真が最初に食べた獰猛ウサギの肉に比べれば、涙が出そうなほどだ。
冬真が笑顔で空の椀を掲げると、わっと領民たちが湧いた。
その後は、領民同士で賑やかな歓談だ。無礼講だが、領民たちは遠慮しているのか、はたまた近づきにくいのか、話しかけてはこない。冬真は座ったまま、笑顔でそれを見守る役である。
「素晴らしい手腕ですな」
横から話しかけられて、冬真は視線を上げた。王国から派遣された近接小隊の隊長、シュロスが立っている。領地を持たない法衣貴族、王国直轄の男爵家の次男だ。
「君たちのおかげだ」
お世辞でも謙遜でもない。王国が支援してくれた治安維持部隊がいてくれたおかげで、冬真は領兵を率いて身軽に領内を駆け回れたのである。
「領内では、伯爵がいつ休息しているのかと疑問が飛び交っていますよ。ルキア様の加護があると疲労しないらしい、などという噂まで出ているくらいです」
「大げさだよ」
「それにしても、驚きました。伯爵の強さは知っているつもりでしたが。……グレートボアの群れを、単独で討伐なさるとは。さすが、『ルキアの矛』ですな」
冬真は肩を竦めた。不快な呼び名にも、かなりの耐性がついた。なんせ、領兵たちはその二つ名が大好きだ。そんな名前一つで気持ちよく働いてくれるなら、いくらでも呼べばいい。
「運が良かったかな」
「ご謙遜を」
定例会議で、慰霊祭のためにグレートボアを狩ってくる、と言った時には、目を剥いて止められたものである。特に、グレートボアの危険を承知している武官の反対が強かった。シュロスは、最も強硬に反対した一人だ。
「どうやって狩ったのか、是非とも見せていただきたかったですよ。なぜ伯爵についていかなかったのか、深く悔やむ思いです」
「シャイだからね。誰かに見られてると気になって集中できないんだ」
狩りに出たのは冬真一人である。おかげで、メガ系の身体強化を含む高位魔法を存分に使えたし、問題なく狩ることができた。魔物のレベルとしては、ジャイアントベアと大して変わらない。群れではあるが、ボア系は攻撃が直線なので、そこまで倒しにくいわけでもない。
「国王陛下から預かっている貴官を、無駄に危険に晒すわけにもいかないし」
「残念ですが、仕方ありませんな」
シュロスは笑って引き下がる。続いて話しかけてきたのは、王国から派遣されてきた官僚たち、そのあとが魔法分隊の隊長だ。
話が終わるころには夜も更けて、楽器の心得のある領民が思い思いに音楽を奏で、歌ったり踊ったりしていた。羽目を外す者が出なかったのは、慰霊の場であったこと、武威を誇る領主同席の場であったこと、何より酒が振舞われなかったことが大きかったかもしれない。




