入園戦争ー開門ー
オルディス学園幼稚舎に入園するまでの試練は、聞きしに勝るものだった。
身分に関係なく、高度な教育を受けられることで知られるこの幼稚舎。
卒園生には各界の著名人が名を連ね、我が子により良い教育を受けさせたいと願う保護者にとって、憧れの幼稚舎である。
授業料は、世帯収入のおよそ一割。
決して安くはない。
それでも、子どもの教育に力を入れたいと願う家庭なら、庶民でも手が届く。
だからこそ――。
入園児募集の日。
オルディス学園の正門前には、夜明けより遥か前から人がいた。
人。
人。
人。
吐き出される白い息が、夜の闇にいくつも浮かんでは消えていく。
「最後尾はこちらではありませーん!」
暗闇の向こうから声が飛んだ。
「入園応募整理券待機列、最後尾は赤い札が目印でーす!」
見れば、遥か先に大きな札が揺れている。
新たに到着した保護者たちが、ぞろぞろとそちらへ向かう。
だが。
「最後尾、移動しまーす!」
札が動いた。
「こちらでーす!」
また動く。
「ここからお並びになる方は、次の待機列へお願いしまーす!」
列が伸びる。
折れる。
また伸びる。
「こちらの列、締めまーす!」
係員が縄を張る。
「次の方から隣へお願いしまーす!」
「通路を空けてくださーい!」
「そこでは立ち止まらないでください!」
「前の方、あとお一人分ずつ詰めてくださーい!」
数百人の人間が、職員の声ひとつで動く。
列が縮み。
空いた場所に新たな列が作られ、さらに人が流し込まれる。
それでも、混乱はない。
毎年のことである。
オルディス学園側は、恐ろしく慣れていた。
問題は、寒さだった。
真冬。
夜。
吹きさらし。
ただ立っているだけで、足元から冷気が這い上がってくる。
厚手の外套。
毛布。
膝掛け。
敷物。
温かい飲み物。
それぞれが思いつく限りの防寒具を持ち込んでいる。
「気温が下がっております! 体調管理には十分お気をつけくださーい!」
「温かい飲み物は少しずつ取ってください!」
「気分が悪くなった方は、無理をせず近くの係員へ!」
「救護所は正門東側でーす!」
「列を離れる場合は、必ず係員にお声がけくださーい!」
そんな中。
明らかに違う者たちがいた。
上の子をすでにオルディスへ通わせている保護者たち。
古参である。
防寒は厚い。
だが、軽い。
敷物は小さい。
毛布は薄手を重ね、すぐ畳める。
荷物はすべて背負える量。
温かい飲み物。
携帯食。
予備の手袋。
そして入園パンフレットは、鞄の奥ではなく、すぐ取り出せる場所。
彼らは知っている。
夜を越えるだけでは駄目なのだ。
開門した瞬間。
今度は、そのすべてを持って移動しなくてはならない。
やがて、東の空が白み始めた。
「まもなく開門しまーす!」
その一声で空気が変わった。
「お荷物をまとめてくださーい!」
「敷物を片付けてください!」
「椅子を畳んでくださーい!」
「毛布を広げたまま移動しないでください!」
数百人が一斉に動き出す。
敷物が消える。
椅子が畳まれる。
毛布が鞄へ押し込まれる。
飲み物がしまわれる。
慌てる初参加者たちの横で、古参はすでに立っていた。
荷物は背中。
両手は空いている。
そして――。
「入園パンフレットをご用意くださーい!」
すでに手に持っている。
「門を通過する際には、入園パンフレットを頭上に掲げてくださーい!」
バサバサバサッ!
一斉に紙が開かれる。
「表紙を係員側へ!」
「頭より高く掲げてください!」
「お父さん! それ裏です!」
「あっ、はい!」
「お母さん! 鞄まだ開けない! 一度列を止めます!」
「す、すみません!」
「慌てなくて大丈夫でーす!」
次々とパンフレットが頭上へ上がっていく。
「前へ詰めすぎないでくださーい!」
「押さない!」
「列を崩さない!」
そして。
「開門後も――走らないでくださーい!」
ざわり。
「走らないでくださーい!」
誰も返事をしない。
全員が門を見る。
「受付会場までは係員が誘導しまーす!」
わずかに前傾する者が増えた。
「走らないでください!!」
古参だけが動かない。
知っている。
ここで体力を使う者は、素人だ。
ゴォン――。
鐘が鳴った。
「開門しまーす!!」
巨大な門が開いていく。
人の密度が、一気に高まった。
「押さないでくださーい!」
「前の方から順番に!」
「パンフレットを掲げてください!」
一斉に腕が上がる。
「高く!」
「表紙を見せて!」
「止まらないでくださーい!」
「はい、確認しました! そのまま進んで!」
「次の方!」
「はい、確認!」
「そのまま!」
「止まらない!」
王侯貴族も。
大商人も。
騎士も。
職人も。
入園パンフレットを頭上に掲げ、巨大な門へ吸い込まれていく。
「門を通過した方はパンフレットを下ろしてくださーい!」
「受付会場はこちら!」
「直進でーす!」
門を抜ける。
保護者たちが歩き始める。
速い。
少しずつ速くなる。
前の者についていく。
その前も速くなる。
後ろからも押し寄せる。
歩幅が広がる。
さらに広がる。
そして――。
「走らないでくださーーーーい!!」
絶叫が響いた。
「お父さん! 走らない!」
「はい!」
「そこのお母さんも走らない!」
「走ってません!」
「走ってました!」
「早歩きです!」
「両足浮いてましたよ!」
「はい!!」
「走らないでくださーい!」
十歩先から別の声。
「走らないでくださーい!」
さらに先から。
「お父さん! 走らない!」
「横から抜かさない!」
「三列です!」
「三列で進んでくださーい!」
「そこ四列になってます!」
「列を増やさない!」
「はい!」
「芝生へ入らない!」
「受付はそっちじゃありません!」
「近道しないでくださーい!」
右にもいる。
左にもいる。
角を曲がってもいる。
「こちらでーす!」
「受付会場はこちら!」
「走らない!」
坂の上にもいる。
「足元気をつけてくださーい!」
「走らない!」
建物の前にもいる。
「間もなく受付会場でーす!」
「走らないでくださーい!」
どこまで行っても――。
「走らない!!」
いる。
大の大人たちが、幼稚舎の職員に叱られながら、ものすごい速度で歩いていく。
その人波を。
古参の保護者たちは淡々と進む。
走らない。
抜かさない。
止まらない。
流れから外れない。
荷物は背中にあり、両手は空いている。
そして――なぜか速い。
「受付会場到着でーす!」
「ここから列を分けます!」
「係員の指示に従ってくださーい!」
「一番から五番窓口はこちら!」
「六番から十番、右へ!」
「立ち止まらない!」
「空いている窓口へ順番に!」
「整理券を受け取った方は、そのまま出口へお進みくださーい!」
数百人の塊が、職員たちの誘導によって瞬く間に複数の列へ分解されていく。
流れる。
受け取る。
出る。
次。
流れる。
受け取る。
出る。
次。
そしてようやく、保護者たちは一枚の紙を手にした。
オルディス学園幼稚舎・入園応募整理券。
真冬の夜を越え。
寒さに耐え。
人波に揉まれ。
パンフレットを掲げ。
職員から何度も何度も、
「走らないでくださーい!」
と叱られ。
ようやく手にした、その一枚。
だが――。
これは、合格通知ではない。
入園許可証でもない。
試験を突破した証ですらない。
ただの応募するためだけの整理券である。
オルディス学園幼稚舎への入園まで――。
まだ、何ひとつ始まっていない。




