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幼稚園戦争  作者: あぐり りょう


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先輩と後輩

「昨日は私も緊張していた。子どもたちとの接し方を間違えたのかもしれない」


 アンナは、そう結論づけた。


 昨夜、自室へ戻ってから、高等学校時代に使っていた教育学の教科書を引っ張り出した。


 発達心理学。

 幼児教育論。

 教育原理。

 児童心理。


 講義で書き込んだノートまで机の上に積み上げて、学生時代の記憶をひとつずつ掘り起こした。


 さらに、教師を志したきっかけとなった教育思想家たちの原典にも目を通した。


 子どもは、未完成な大人ではない。

 子どもには、子ども自身の世界がある。


 教師が一方的に知識や価値観を与えるのではなく、自ら考え、自ら経験する過程を尊重すること。


 遊びは、ただの遊びではない。


 子どもは遊びを通して他者と関わり、社会を知り、自分自身で世界を広げていく。


 そして――。

 子どもには、一人ひとり違った個性がある。


 教師の価値観を一方的に押しつけるのではなく、まず相手を知ること。


 その言葉に、アンナは何度も線を引いた。


 昨日の自分は、どうだっただろう。

 先生なのだから。

 子どもなのだから。


 そう決めつけて、最初から彼らを自分の考える『園児』の枠へ押し込もうとしてはいなかっただろうか。


 まだ、彼らがどんな子どもなのかも知らないのに。


 アンナは反省した。

 高等学校で何を学んできたのだ。

 教師になった途端、それを忘れてどうする。


 子どもの主体性を尊重する。

 個性を認める。


 まず話を聞く。

 そして、信頼関係を築く。


 教えることより、理解すること。

 導く前に、寄り添うこと。


 よし。


 アンナはノートを閉じた。


 明日は、大丈夫。

 私は教師なのだから。


 そして――翌朝。

 春の柔らかな日差しが、白亜の校舎を照らしていた。


 遠くから、馬車の車輪が石畳を叩く音が聞こえてきた。


 定刻。

 重厚な正門が開く。


 オルディス学園幼稚舎の紋章を掲げた八頭立ての馬車が、一台、また一台と正門をくぐってくる。


 園児たちを各地区から乗せてくる、幼稚舎専用の乗合馬車だ。


 公爵家の子も。

 商家の子も。

 役人の子も。

 農家の子も。

 この門をくぐれば、同じオルディスの園児。


 家柄によって馬車が分けられることもなければ、座る場所が決められることもない。


 馬車が園舎の玄関前へ静かに横づけされた。


 迎えを担当する職員が扉を開け、そっと手を差し伸べる。


「おはようございます、先生」

「おはようございます」


 一人目の園児が、用意された足踏み台へ小さな革靴を下ろす。


 背筋を伸ばして職員へ軽く会釈すると、そのまま玄関へ向かう。


 その後ろから、また小さな顔が覗いた。


「ごきげんよう」

「ごきげんよう」


 差し出された手を取り、スカートの裾をふわりと整えて降りる。


 次は少年。

 その次は少女。


 一台の馬車から、次々と園児たちが降りてくる。


「またあとでね」

「うん。お庭でね」


 先に降りた少女が、後から降りてきた少年を待っている。


 別の馬車では、小さな少年が先に地面へ降りると、振り返って後ろの少女へ手を差し出した。


「どうぞ」

「ありがとう」


 少女がその手を取る。


 春風が吹いた。

 髪がさらりと揺れ、胸元のフリルがふわりと踊る。

 朝日に照らされた金色の髪。

 揺れるリボン。

 楽しげな笑い声。


 次々と到着する馬車から、千鳥格子の制服を着た園児たちが降りてくる。

 誰がどこの家の子なのか。

 その光景だけでは、アンナにも分からない。


 それが――オルディスだった。


 家の門を出れば、公爵令息も商家の娘も同じ学生。

 同じ馬車に揺られ。

 同じ門をくぐり。

 同じ教室へ向かう。


 ――なんて、素敵なの。

 アンナは思わず見惚れていた。


 これこそ、私が憧れていたオルディス学園。


 歴史ある学び舎。

 礼節を身につけた子どもたち。

 品格ある教育。

 未来を担う若者たちが、ここで学び、育っていく。


「先生、おはようございます」

「あ……おはようございます!」


 慌てて挨拶を返す。

 少年はにこりと微笑み、そのまま校舎へ入っていった。

 昨日のことが、まるで悪い夢だったように思えてくる。


 そう。


 昨日は新年度初日だった。

 私にとっては、教師としての初日。


 彼らだって、久しぶりに友人たちと顔を合わせて、少し気持ちが昂っていたのかもしれない。


 それなのに私は――。


『子どもでしょう!?』


 なんて。

 教師として、あまりにも未熟だった。


 アンナは小さく息を吸った。


 大丈夫。

 今日は違う。


 理論も確認した。

 自分の問題点も整理した。


 何より、昨日より彼らを理解しようとしている。

 今日から、本当の教師と園児の関係を築けばいい。


「おはよう、レオン君」

「おはようございます、アンナ先生」


 レオンが足を止め、完璧な笑顔で挨拶を返す。


「今日もよろしくお願いします」

「ええ。こちらこそ」


 ほら。

 やっぱり。


「おはよう、アルベルト君」

「おはようございます、先生」


「カイル君も、おはよう」

「おはようございます」


 みんな、いい子じゃない。

 昨日の私は、何をあんなに構えていたのだろう。

 アンナの胸に、小さな自信が芽生えた。


 そして、朝の登園時間が終わる。


 スミレ組の教室。


 昨日と同じように、三方の壁に沿って置かれた椅子へ、園児たちが腰を下ろしていく。


 アンナは名簿を手に、教室を見渡した。


 焦らない。

 一人ひとりの顔を見る。

 名前を呼ぶ。

 返事を聞く。


 そこから始めよう。


 昨夜読み返した教育書の言葉が頭をよぎる。

 子どもの人格を尊重すること。

 教師と子どもの間に、信頼関係を築くこと。


 よし。


「それでは、出欠を取りますね」


 笑顔。

 声の高さも柔らかく。

 威圧的にならないように。


「アーロン君」

「はい」


 返事があった。

 アンナの顔が明るくなる。


「アルベルト君」

「はい」


 いい。


「カイル君」

「はい」


 ほら。

 できるじゃない。


「レオン君」

「はい」


 昨日のことが嘘みたい。

 やっぱり、接し方だったのだ。


 子どもを変えようとする前に、教師である自分が変わる。

 昨夜読み返した教育書は正しかった。


 アンナは名簿へ印をつけ、次の名前を呼ぼうとした。


「せんせぃ」

「はい?」


 レオンが手を挙げていた。


「どうしました?」

「昨日も言ったけどさ……」


 ――昨日も。

 アンナの笑顔が、ほんの少し固まった。


「僕たち、ここ三年目だから」

「……はい?」


「せんせぃは?」

「私は……昨日着任したので、二日目ですけど?」


「……だよな」


 レオンがアルベルトを見る。

 アルベルトが静かに頷く。

 カイルは腕を組んだ。


 なんだろう。

 この感じ。


「お前、まだ分かってないな」

 アーロンがじっとアンナを見つめる。


「な、何がですか?」


 アーロンは、仕方がないな、とでも言いたげに小さく息を吐いた。


「俺は四年目、レオンたち三年目」


 指を三本立てる。


「先生、二日目」

「……そうですね」


「じゃあ俺たちの方が、ずっとセンパイだろ?」

「…………」


 待って。

 その理屈はおかしい。


 アンナの頭の中で、昨夜読み返した教育理論が一斉に立ち上がった。


 今日は反論できる。

 アンナが口を開こうとした、その瞬間。


「センパイには、『けいい』を持てよ」


「だから!」


 全部、吹き飛んだ。


「私は先生! あなたたちは園児でしょう!?」


「それは役割の話だろ?」


「――っ!」


 アルベルトが静かに手を挙げる。


「アンナ先生が教師で、僕たちが園児であることに異論はありません」


「だったら!」


「しかし、オルディス学園における在籍期間については、僕たちが三年、先生が二日です」


「それとこれとは話が違います!」


「どの部分が違うのでしょう?」


「どの部分って……!」


「新しく入ってきた人が、以前からいる人の経験を尊重する。それは一般的な社会でも必要な態度ではありませんか?」


「…………」


 アンナの頭の中に積み上げられていた教育学。

 発達心理学。

 幼児教育論。

 教育原理。

 児童心理。


 そして昨夜読み返した偉大な教育思想家たち。


 誰も……。

 誰ひとりとして。


 勤続二日目の教師が、在園三年目の五歳児から先輩風を吹かされた場合の対処法を書いていなかった。


「五歳児に新人扱いされてる……」


 アンナは両手で顔を覆った。


 二日目。


 昨日よりは、うまくやれると思っていた。

 どうやら――。

 大学で学んだことだけでは、スミレ組には足りないらしい。

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