ヤン、深淵を覗く
ヤンは知らなかった。
この世界の不思議を……。
登園二日目。
朝から上級生がやってきた。
「連帯責任」を持ち出して、行軍を強いる。
どこの軍隊かと思った。
前世の体育祭の行進を思い出した。
列の乱れや足の角度など、細かく注意されて、炎天下の中ひたすら何時間も行進した。
それが伝統だと強要された。
十年後には熱中症になるから、行進自体廃止になった。
理不尽だと思った。
また、繰り返されるのかと辟易しながらも、「連帯責任」の原因になりたくないので参加した。
歌も覚えた。
大きな声を出して、肩を組んで揺れるのはちょっと楽しかった。
だが、ここで大きな問題が発生した。
それは、便所だ。
この盛り上がっている空気の中で「お便所」と言って良いのだろうか……。
いや、しかし刻々と限界は近い。
出るものは時と場所を選ばないのだ。
「しぇんしぇい!おべんじょ!」
「あらあら!それは大変。他に行きたい人!?」
「はぁーい!」
複数人が手を挙げた。
良かった。
自分だけではない。
「じゃあ、せっかくなのでお便所まで縄汽車でいきましょう!」
「はーい!!」
お便所隊が縄を持つ。
「ないふ!ふぉーく!ないふ!ふぉーく!」
先生の後をついていく。
教室から離れた建物があった。
「はい、到着。急いで行ってくださーい!」
「はーい」
それぞれが個室に向かう。
俺は一番奥の部屋へ入った。
中に入ると、家の設備との違いに驚く。
家は白い陶器のようなイスに座って用を足す。
なのに、ここにはイスはない。
代わりにあるのは大きく深い穴のあいた場所とその周りを囲むように置かれた板。
「……」
とてもシンプルな作りだが、どうすれば良いかわからない。
前世の知識から検索すると一番近いのは昔、小さい頃にあった曾祖母の家の『ぼっとん便所』だ。
という事は、この板を足場にしてこの穴に向かってしゃがむのか?
いや、でもこの身体で穴の中に落ちないだろうか?
穴を覗く。
深い。
そして、奥で蠢くようなものが見えた気がする。
……どうしよう。
もう一度覗く。
「怪物と闘う者は、自らも怪物とならぬよう心せよ。深淵を長く覗き込むならば、深淵もまた、こちらを覗き込む……」
「ヤンくん!なにかいった?」
「なんでもなーい」
身体からは早く出せとせっついてくる。
このままでは、早晩漏らしてしまう。
それは俺の矜持が許さない。
恐々と足を板に乗せて、ズボンとパンツを下ろす。
どちらを向くのが正解かわからない。
とりあえず、溢さない事を正解とする。
「こわい、こわい……」
気持ちとは裏腹に出すものを出せば、スッキリと爽快になった。
そこで、一つの事に気づいた。
この便所。
紙がない!!
「あばばば」
焦る。
「出た!!」
「終わった!!」
次々と一緒に来た子どもたちの声が聞こえてくる。
「か、かみちょうだい!!」
「……いいよー!」
その声は思ったより近くで聞こえた。
「……」
ドアの下から差し込まれるのを待っていたが、それはなかった。
「か、かみ!ちょうだいな!」
「うん、いいよー!どれがいい?」
「……?」
声はするのに、ドアの下に変化はない。
「今日の君の気分はどれかな?」
「え?」
それは唐突に穴の中から現れた。
手。
「……赤いかみ?」
「……青いかみ?」
待て。
まって。まって!まっで!!ま゛っ゛て゛!!!
それって、前世で超有名な!!
『アナタの知らない世界……』
いや、この世界もしらないが……。
俺の頭が高速に回転する。
どれが、正解だった?
一度は聞いた話だ。
どれが、セーフだった??
「それとも……」
新たな声に穴の中を覗いてしまった。
複数の手が伸びてきて色とりどりの紙を振る。
「……ぁ、ぁ、あ……」
「じゃあ今日は特別に拭いてあげるね……」
ペロンと尻に紙を当てられた感触がした。
それ以降の記憶は……。
ない。
翌朝
「よ゛う゛ち゛し゛ゃ゛、い゛か゛な゛い゛!!」
母に抱きついて、訴える。
「どうして?おともだちいないの?」
「……」
「きっと行けば楽しいわよ?」
「よ゛う゛ち゛し゛ゃ゛、い゛か゛な゛い゛!!」
「昨日のパンツはもう洗ったわよ?」
母の困った顔は無視する。
「よ゛う゛ち゛し゛ゃ゛、い゛か゛な゛い゛!!」
「大丈夫だから、行ってらっしゃい?」
「ぼく、オムツはく!!」
「ぜったい!オムツがいい!!」
「あらあら、赤ちゃんパンツはイヤだって卒業したじゃない……。もう小さいサイズしかないわよ?」
「いーやー!!」
「あかちゃんパンツはく!!」
「おとなパンツ、イヤ!!」
「あらあら、イヤイヤ期かしら……困ったわね」
「オムツ、ないなら、きょうはいかない!!」
「でも、もうお迎えの時間よ?」
ガラガラガラ……
馬車の音が段々と近づいてくる。
「い゛か゛な゛い゛!!」
「ヒィッーク、ゔわーーーん!!」
母に張り付いていたから夜着のままのはずが、いつのまにか制服に着替えさせられている。
母が移動する。
引き摺られるように外へ出る。
馬車が止まった。
扉が開き、昨日のおじちゃんが降りてくる。
辺りを見回してから先生が降りてきた。
「では、お母さん、行ってきますね!!」
「よ゛う゛ち゛し゛ゃ゛、い゛か゛な゛い゛!!」
「はい、ヤン君!お母さんにバイバーイは?」
「い゛か゛な゛い゛ぃぃぃーーー!!!」
「……今日も人魚の格好だねぇ」
そして馬車が動き出して、母が小さくなっていく。
ヤンが窓に張りついている。
「お゛が゛あ゛ざぁぁぁぁん!!」
今日はお便所、行かない。




